地味スキル? いいえ、『法則操作』です。 ~落ちこぼれ探索者が現代科学でダンジョンをハックする話~

夏見ナイ

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第三十七話:方程式の書き換え

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「対『法則ハッカー』用、特殊プロトコルを起動します」

模倣者の感情のない声と共に、周囲の空間が激しく歪み始めた。それは、『グラビティ・ケイブ』で経験した重力異常とも、『幻影都市バビロン』の空間歪曲とも異なる、もっと根源的で、悪意に満ちた揺らぎだった。

『現象観測』が警報を発する。

(なんだ、これは…!? 空間座標だけでなく、時間の流れまでが不規則に変動している!? プランク定数や光速といった、物理学の根幹を成すはずの定数が、この限定された空間内で、僅かに、しかし確実に書き換えられようとしている…!?)

これは、俺の『法則操作』の延長線上にある技術ではない。もっと異質で、危険な領域への干渉。もし、物理定数が書き換えられてしまえば、俺たちが知る全ての物理法則、化学反応、そしてスキルや魔術までもが、予測不能な挙動を起こすだろう。それは、存在そのものの基盤を揺るがす、究極的な攻撃と言えた。

「セバスチャン! 何が起こっている!?」
「…分かりません! ですが、これは極めて危険な兆候です! この空間から、一刻も早く離脱しなければ…!」

セバスチャンも、本能的な危機感からか、あるいは彼の知識からか、事態の深刻さを理解していた。彼は風の力を最大まで解放し、俺たちを包む防御フィールドを強化しようとする。

だが、模倣者はそれを許さなかった。歪む空間の中から、黒いローブの腕が再び伸びる。今度は、空間断裂でも、反魔力針でもない。その指先から放たれたのは、まるで墨を流したかのような、黒い靄(もや)だった。

その靄が、セバスチャンの風の盾に触れた瞬間。

**シュゥゥゥ……**

風の盾が、まるで酸に侵されたかのように、急速にその力を失い、霧散してしまったのだ。

「なっ…私の風が…!?」

セバスチャンが愕然とする。彼の得意とする風操作能力が、あの黒い靄によって無効化された?

(法則の…無効化? いや、違う。これは…『概念消去』に近い何かか? 風という『概念』そのものを、限定的に打ち消している?)

もしそうなら、これはもはや物理法則や魔力法則を超えた、さらに上位の法則への干渉だ。そんなことが可能なのか? 古代文明の技術か? それとも、未知のスキルか?

黒い靄は、セバスチャンを無力化した後、俺に向かって伸びてくる。これに触れれば、俺の『法則操作』も、あるいは俺自身という『概念』すらも消去されかねない。

(…まずい! これを防ぐ手段は…!?)

MPはほぼゼロ。スキルは使えない。物理的な防御も、おそらく無意味だろう。

絶体絶命。思考が停止しかける。

その時、俺の脳裏に、研究工房で解析していた『グラビティ・コード』のパターンが閃いた。あのコードは、重力だけでなく、空間そのものの性質に影響を与えていた。もし、あのコードの一部を、俺自身の精神エネルギーだけで、ほんの僅かでも再現できれば…?

(…空間の『曲率』を、局所的に変化させる! あの黒い靄が到達する直前の空間を、極端に『曲げる』ことで、その進行ベクトルを逸らす!)

それは、MPを使わない、純粋な理論と精神力による『法則操作』の試み。成功する保証はない。失敗すれば、即座に消滅だ。

俺は残された全ての精神力を集中させ、意識を黒い靄が迫る空間の一点に向ける。そして、頭の中で『グラビティ・コード』の特定のパターンを思い描き、その情報――空間を曲げるという『指示』――を、精神エネルギーに乗せて空間に「書き込む」イメージを持つ。

瞬間、俺の目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。それは、模倣者が引き起こしている大局的な歪みとは異なる、局所的で、しかし極めて強い歪みだった。

黒い靄は、その歪んだ空間に差し掛かった途端、まるでレンズを通る光のようにその軌道を大きく曲げられ、俺を逸れて壁へと激突した。壁の一部が、靄に触れた瞬間に、音もなく「消滅」したが、俺自身への直撃は避けられた。

「ぐ……はぁ……はぁ……」

精神力の完全な枯渇。意識が飛びかけるほどの虚脱感。だが、俺は確かに、あの『概念消去』の攻撃を回避したのだ。

「…な…に…?」

模倣者から、初めて困惑ともとれる声が漏れた。彼の計算外の事態が起こったのだろう。俺がMPゼロの状態から、未知の方法で攻撃を回避したことに。

そして、その僅かな動揺が、致命的な隙となった。

俺が黒い靄を回避したことで、ほんの一瞬だけ、模倣者の注意が俺から逸れた。その瞬間を、セバスチャンは見逃さなかった。風の力を無効化されても、彼はまだ戦う術を持っていた。

「――秘剣…『凪』」

セバスチャンは、魔力を失ったはずの魔法剣を、まるで居合抜きのように、しかし音もなく抜き放った。その剣閃は、物理的な速度を超えた、何か別の次元の動きに見えた。

剣は、再生した模倣者のローブを切り裂き、その下にあるコア――機械的な心臓部のようなパーツ――を、正確に貫いていた。

**ガ……ギ……**

模倣者の動きが、完全に停止した。フードの奥の紅い光が、急速に失われていく。

「…やった…のか…?」

俺は、掠れた声で呟いた。セバスチャンの最後の攻撃は、風の力ではなく、純粋な剣技、あるいは別の特殊な能力だったのだろうか。

セバスチャンは、剣をゆっくりと鞘に戻し、静かに息をついた。

「…どうやら、コアの破壊には成功したようです。ですが、油断はできません。いつ、自己修復が再開するとも限りませんし、あるいは…これが最後の罠という可能性も…」

彼の言う通りだった。模倣者が完全に沈黙したのを確認しつつも、俺たちは警戒を解かなかった。周囲の空間の歪みも、模倣者の停止と共に、ゆっくりと収まりつつあった。

俺は、消耗しきった体を引きずるようにして、動かなくなった模倣者に近づいた。ローブを剥ぎ取り、その内部構造を『現象観測』(MPゼロでも可能な、視覚と知識による分析)で観察する。

(…やはり、高度なサイバネティクス技術と、未知の生体組織が融合したハイブリッド体だ。動力源は、小型の魔力炉か? コア部分には、プライマル・コードに似た、しかしより人工的な制御コードが埋め込まれている…)

これは、アトラス社が開発した生体兵器なのか? それとも、もっと別の、世界の裏で暗躍する組織が関わっているのか?

(…いずれにせよ、こいつの残骸は、貴重な情報源だ。持ち帰って分析しなければ)

セバスチャンも同意し、模倣者の残骸を回収するための準備を始めた。

その時、俺は広間の中央にそびえ立つ、巨大な水晶柱に再び目を向けた。模倣者との戦闘の影響か、あるいは内部エネルギーの変動か、柱の輝きが以前よりも増しているように見える。そして、その内部で明滅する高密度のエネルギー反応――『時空結晶』。

「…セバスチャン、あれを回収するぞ」

俺は、まだ完全に回復していない体で、水晶柱へと歩み寄った。

「お待ちください、神崎様! まだ危険です! 柱のエネルギー状態は不安定なままですぞ!」

セバスチャンの制止を振り切り、俺は水晶柱に手を伸ばす。

(この結晶には、時間と空間に関する『法則』が凝縮されているはずだ。これを解析できれば、俺の『法則操作』は、次の次元へと進化できるかもしれない!)

好奇心と探求心が、危険への恐怖を上回る。俺は、意を決して水晶柱に触れた。

瞬間、俺の意識は、眩い光と、膨大な情報奔流の中に飲み込まれた。過去、現在、未来。異なる空間、異なる次元。様々な可能性の断片が、脳内を駆け巡る。

これが、『時空結晶』の力なのか?

意識が遠のいていく。だが、その寸前、俺は確かに、一つのビジョンを見た。

それは、崩壊した研究室の風景。そして、そこに立つ、見覚えのある人物の姿。

(…相沢…!?)

親友だったはずの相沢が、なぜ、あそこに…? そして、彼の瞳に宿る、冷たい光は…?

そこで、俺の意識は完全に途切れた。

後に残されたのは、静寂を取り戻した広間と、心配そうに俺の名を呼ぶセバスチャンの声、そして、回収された模倣者の残骸と、依然として輝き続ける巨大な水晶柱だけだった。

揺らぐ現実の中で、俺は、新たな謎と、過去の幻影に囚われようとしていた。方程式は、さらに複雑な変数を取り込み、予測不能な未来へと向かっていく。
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