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第39話:守るべきもの
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丘の上の我が家へと続く道を、俺は一心不乱に登っていた。
背後で聞こえる村の喧騒もリリアの心配そうな声も、もはや俺の耳には届いていなかった。頭の中は先程見たマルコの無残な姿と、手の中の羊皮紙に記されていた侮辱の言葉で満たされていた。
家に着くと、俺は玄関の扉を乱暴に開け、土足のまま中へと上がり込んだ。
綺麗に掃除したはずの床が畑の泥で汚れるのも構わなかった。そんな些細なことを気にしている余裕は今の俺にはなかった。
俺は真っ直ぐに、家の最も奥にある物置部屋へと向かった。
そこは普段は農具や薪を置いているだけの薄暗い空間だ。だが、その床板の一枚は巧妙に隠された蓋になっていた。
俺は床板に指をかけ、音もなくそれを持ち上げる。
現れたのは地下へと続く暗い穴だった。
ひんやりとした黴臭い空気が流れ出してくる。
ここにはこの家に越してきた初日に、俺が掘った隠し倉庫がある。
万が一の事態に備えて。過去の亡霊が俺をここまで追いかけてきた時のために。
その「万が一」がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。
俺は躊躇なく、その暗闇の中へと降りていった。
地下の空間は人が一人ようやく横になれるほどの広さしかない。その壁際に一つの古びた木箱が静かに置かれていた。
俺は木箱の前に屈み込むと、その蓋に手をかけた。
ずしりと重い蓋を持ち上げると、中から十年という歳月の匂いがした。
箱の中身は二つだけ。
一つは丁寧に折り畳まれた、一揃いの黒い衣服。
夜の闇に溶け込むために特殊な染料で染められた暗殺者の装束だ。軽量でありながら頑丈で、音を吸収する素材で作られている。
そしてもう一つは、一本のナイフ。
鞘に収められ鈍い光を放つ、あの黒いナイフ。
俺が“神の影”として生きてきた過去の象徴。
俺は、その二つをただ黙って見つめていた。
これを再び手に取るということは、どういうことか。
それは俺が捨てたはずの過去に再び戻ることを意味する。
アラン・スミスという農夫を殺し、“神の影”という人殺しを再びこの世に呼び覚ますということだ。
(本当にそれでいいのか?)
俺の心の中で、もう一人の俺が問いかけてくる。
(平穏な生活はどうした? 畑を耕し静かに死んでいくという誓いはどうしたんだ?)
俺の脳裏に、この村で過ごした日々の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
初めて自分の家を手に入れた時の、あの高揚感。
イーニッドさんが差し入れてくれたスープの温かい味。
村人たちと交わした他愛もない会話。
俺を「師匠」と慕い、真っ直ぐな目で追いかけてくるリリアの姿。
俺の過去を知りながらもその平穏を尊重しようと苦悩する、セレスティアの横顔。
俺を伝説の英雄だと勘違いし、尊敬の眼差しを向けてくるガレスやマーカス。
それら全てが今の俺を形作る、かけがえのないものだった。
面倒だ、と口では言いながらも、俺はこの騒がしくも温かい日常を心の底から愛していたのだ。
黄昏の蛇はそれを壊そうとしている。
マルコへの襲撃はその始まりに過ぎない。
奴らは俺を嬲るために、この村を、この村に住む人々を平気で犠牲にするだろう。
面倒だ。
関わりたくない。
それは今も変わらない俺の本心だ。
しかし、この平穏が目の前で無残に踏みにじられるのは、それ以上に我慢ならなかった。
俺が初めて手に入れた人間らしい暮らし。
俺が初めて守りたいと思ったもの。
それはもはや俺一人の平穏ではなかった。
この村に住む全ての人々の平穏だ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
迷いはもうなかった。
俺は箱の中から黒い装束とナイフを手に取った。
十年の時を経て、それらは再び俺の手に戻ってきた。
まるで最初からこうなることが決まっていたかのように、しっくりと馴染む。
俺は農夫アラン・スミスとしてこの村を守ることはできない。
この村を襲う悪意はあまりにも深く、邪悪すぎる。
素朴な農夫ではそれに立ち向かうことはできない。
ならば、やるべきことは一つだ。
悪意には悪意を。
闇にはより深い闇を。
俺は十年ぶりに“神の影”に戻る。
ただし、昔とは違う。
かつては金と命令のために人を殺した。
だが、今は違う。
守るべきもののために、俺は戦う。
俺は木箱の蓋を閉めると、静かに立ち上がった。
地下の暗闇の中で俺の瞳は、かつての暗殺者の冷たい光を取り戻していた。
だが、その光の最も深い場所には今まで決して存在しなかった、温かい炎が確かに宿っていた。
これは復讐ではない。
これはただの殺戮でもない。
これは俺が手に入れた平穏な日常を守るための聖戦だ。
俺は黒い装束を脇に抱え、地下から地上へと戻った。
窓の外は既に完全な夜の闇に包まれていた。
今夜、けじめをつけよう。
この村に忍び寄る本当の影に。
俺という存在がどういうものなのかを、骨の髄まで教えてやる。
背後で聞こえる村の喧騒もリリアの心配そうな声も、もはや俺の耳には届いていなかった。頭の中は先程見たマルコの無残な姿と、手の中の羊皮紙に記されていた侮辱の言葉で満たされていた。
家に着くと、俺は玄関の扉を乱暴に開け、土足のまま中へと上がり込んだ。
綺麗に掃除したはずの床が畑の泥で汚れるのも構わなかった。そんな些細なことを気にしている余裕は今の俺にはなかった。
俺は真っ直ぐに、家の最も奥にある物置部屋へと向かった。
そこは普段は農具や薪を置いているだけの薄暗い空間だ。だが、その床板の一枚は巧妙に隠された蓋になっていた。
俺は床板に指をかけ、音もなくそれを持ち上げる。
現れたのは地下へと続く暗い穴だった。
ひんやりとした黴臭い空気が流れ出してくる。
ここにはこの家に越してきた初日に、俺が掘った隠し倉庫がある。
万が一の事態に備えて。過去の亡霊が俺をここまで追いかけてきた時のために。
その「万が一」がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。
俺は躊躇なく、その暗闇の中へと降りていった。
地下の空間は人が一人ようやく横になれるほどの広さしかない。その壁際に一つの古びた木箱が静かに置かれていた。
俺は木箱の前に屈み込むと、その蓋に手をかけた。
ずしりと重い蓋を持ち上げると、中から十年という歳月の匂いがした。
箱の中身は二つだけ。
一つは丁寧に折り畳まれた、一揃いの黒い衣服。
夜の闇に溶け込むために特殊な染料で染められた暗殺者の装束だ。軽量でありながら頑丈で、音を吸収する素材で作られている。
そしてもう一つは、一本のナイフ。
鞘に収められ鈍い光を放つ、あの黒いナイフ。
俺が“神の影”として生きてきた過去の象徴。
俺は、その二つをただ黙って見つめていた。
これを再び手に取るということは、どういうことか。
それは俺が捨てたはずの過去に再び戻ることを意味する。
アラン・スミスという農夫を殺し、“神の影”という人殺しを再びこの世に呼び覚ますということだ。
(本当にそれでいいのか?)
俺の心の中で、もう一人の俺が問いかけてくる。
(平穏な生活はどうした? 畑を耕し静かに死んでいくという誓いはどうしたんだ?)
俺の脳裏に、この村で過ごした日々の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
初めて自分の家を手に入れた時の、あの高揚感。
イーニッドさんが差し入れてくれたスープの温かい味。
村人たちと交わした他愛もない会話。
俺を「師匠」と慕い、真っ直ぐな目で追いかけてくるリリアの姿。
俺の過去を知りながらもその平穏を尊重しようと苦悩する、セレスティアの横顔。
俺を伝説の英雄だと勘違いし、尊敬の眼差しを向けてくるガレスやマーカス。
それら全てが今の俺を形作る、かけがえのないものだった。
面倒だ、と口では言いながらも、俺はこの騒がしくも温かい日常を心の底から愛していたのだ。
黄昏の蛇はそれを壊そうとしている。
マルコへの襲撃はその始まりに過ぎない。
奴らは俺を嬲るために、この村を、この村に住む人々を平気で犠牲にするだろう。
面倒だ。
関わりたくない。
それは今も変わらない俺の本心だ。
しかし、この平穏が目の前で無残に踏みにじられるのは、それ以上に我慢ならなかった。
俺が初めて手に入れた人間らしい暮らし。
俺が初めて守りたいと思ったもの。
それはもはや俺一人の平穏ではなかった。
この村に住む全ての人々の平穏だ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
迷いはもうなかった。
俺は箱の中から黒い装束とナイフを手に取った。
十年の時を経て、それらは再び俺の手に戻ってきた。
まるで最初からこうなることが決まっていたかのように、しっくりと馴染む。
俺は農夫アラン・スミスとしてこの村を守ることはできない。
この村を襲う悪意はあまりにも深く、邪悪すぎる。
素朴な農夫ではそれに立ち向かうことはできない。
ならば、やるべきことは一つだ。
悪意には悪意を。
闇にはより深い闇を。
俺は十年ぶりに“神の影”に戻る。
ただし、昔とは違う。
かつては金と命令のために人を殺した。
だが、今は違う。
守るべきもののために、俺は戦う。
俺は木箱の蓋を閉めると、静かに立ち上がった。
地下の暗闇の中で俺の瞳は、かつての暗殺者の冷たい光を取り戻していた。
だが、その光の最も深い場所には今まで決して存在しなかった、温かい炎が確かに宿っていた。
これは復讐ではない。
これはただの殺戮でもない。
これは俺が手に入れた平穏な日常を守るための聖戦だ。
俺は黒い装束を脇に抱え、地下から地上へと戻った。
窓の外は既に完全な夜の闇に包まれていた。
今夜、けじめをつけよう。
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