偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第四十三話 守るための牙

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医療室での一夜が明けた後、私とゼノン公爵の間の空気は、どこかぎこちないものに変わっていた。
廊下ですれ違っても、互いに視線を合わせることができず、交わす言葉も必要最低限のものだけ。あの夜の、息が詰まるほどの親密な沈黙が、見えない壁となって私たちの間に横たわっているかのようだった。
彼の腕の傷は、幸いにも順調に回復に向かっているようだった。私が巻いた不格好な包帯は、翌朝には侍医によって巻き直されていたが、彼はそれについて何も言わなかった。
ただ、私を見る彼の金色の瞳の奥に、以前にはなかった戸惑いの色が、時折、微かに揺らめくのを、私は感じ取っていた。
一方、襲撃者たちの尋問は、ギルバートの指揮の下、地下牢で苛烈に行われているらしかった。邸内には、時折、男たちの苦悶の叫び声が、壁を隔てて微かに響いてくることがあった。その音を聞くたびに、私の胸は冷たく痛んだ。
そして、事件から三日後の朝。
朝食を終えた私のもとに、ギルバートからの呼び出しが来た。
「閣下が、訓練場でお待ちです」
訓練場。
その言葉に、私は首を傾げた。騎士たちの訓練を見学するのだろうか。
私が困惑しながら訓練場へ向かうと、そこにはいつもの猛々しい訓練の光景はなかった。広い土のグラウンドの中央に、ゼノン公爵が一人、腕を組んで立っているだけ。その隣には、一本の木剣が地面に突き立てられていた。
彼の左腕には、まだ白い包帯が巻かれている。しかし、その佇まいは、傷など微塵も感じさせない、揺るぎないものだった。
「来たか」
彼は、私の姿を認めると、静かに言った。
「今日から、お前に護身術を教える」
「…え?」
予想だにしない言葉に、私は呆然と立ち尽くした。
護身術?私が?
「先日のようなことが、二度とないとは限らん。俺やレオンハルトが、常にお前のそばにいられるとも限らない。最低限、自分の身を守る術を、お前は身につけるべきだ」
彼の言葉は、合理的で、正論だった。
しかし、その声には、あの夜の事件に対する、彼の深い後悔と、私を二度と危険な目に遭わせたくないという、強い意志が滲んでいるのを、私は感じ取っていた。
これは、彼なりの償いの形なのだ。
そして、私をただ守られるだけの存在ではなく、共に戦うパートナーとして、さらに強くしようという、彼の決意の表れでもあった。
「…ですが、私に、そのようなことが…」
「やる前から、諦めるな」
彼は、私の弱音を、きっぱりと切り捨てた。
「お前の耳は、常人には捉えられない敵の気配を察知することができる。それは、戦闘において、何よりも強力な武器になる。あとは、その情報を元に、体を動かす術を学ぶだけだ」
彼は、地面に突き立てられた木剣を引き抜くと、それを私に差し出した。
「持て」
その木剣は、私が思っていたよりもずっと重く、ずっしりとした感触が手のひらに伝わってきた。
「まずは、構えからだ。脚を肩幅に開き、重心を落とす。剣は、体の中心で、両手でしっかりと握れ」
彼の指導は、簡潔で、一切の無駄がなかった。
私は、彼の言う通りに、ぎこちない動きで剣を構える。しかし、慣れない姿勢に、体はぐらぐらと揺れた。
「違う。腰が入っていない」
彼は、私の背後に回ると、私の腰に、そっと手を添えた。
「…!」
彼の大きな手が、薄い訓練用の服越しに、私の体に直接触れる。その瞬間、医療室での記憶が、鮮明に蘇った。
彼の、肌の温かさ。
「重心は、もっと低く。足の裏で、大地を掴むように」
彼の低い声が、すぐ耳元で響く。吐息が、私の首筋にかかり、ぞくりとした悪寒のようなものが背筋を駆け上がった。
心臓が、大きく脈打つ。
彼の手に意識が集中してしまい、体の力がうまく入らない。
「力を抜け。無駄な力みは、動きを鈍らせるだけだ」
彼は、私の体の硬直に気づいているのかいないのか。淡々とした口調で、指導を続ける。
彼は、私の両肩に手を置くと、その姿勢を正すように、ゆっくりと私の体を動かした。
「剣を振る時は、腕の力だけではない。体全体の回転を、力に変えるんだ。こうだ」
彼は、私の腕を取り、正しい剣の振り方を、私の体に教え込むように、ゆっくりと導いた。
彼の体が、私の背中に、ぴったりと密着する。
彼の胸の硬さ、腕の筋肉の感触、そして、彼の静かな呼吸。その全てが、私の五感を支配した。
もう、護身術の訓練どころではなかった。
頭が、真っ白になる。
これは、訓練なのだ。そう、自分に言い聞かせようとする。しかし、意識すればするほど、彼の存在を、一人の「男性」として、強烈に感じてしまう。
そのぎこちない空気は、彼にも伝わっていたのかもしれない。
彼の動きもまた、どこか硬く、不自然だった。
「…今日は、ここまでだ」
しばらくして、彼は不意にそう言うと、私からぱっと体を離した。
その声は、いつもと同じ平坦な響きを装っていたが、ほんの少しだけ、乱れていたのを、私の耳は捉えていた。
私は、彼から離れたことで、ようやくまともに呼吸ができるようになった気がした。
「…ありがとう、ございました」
かろうじてそれだけを言うと、私は彼に背を向け、逃げるように訓練場を後にした。
背後で、彼が深いため息をつくのが、微かに聞こえた気がした。

部屋に戻り、一人になると、私はその場にへたり込んだ。
顔が、火照って熱い。心臓は、まだ激しく鼓動を続けている。
手のひらには、木剣を握りしめていた感触と、彼の体に触れた時の感触が、生々しく残っていた。
あれは、ただの訓練だ。
彼は、私を守るために、牙を与えようとしてくれている。
ただ、それだけのこと。
それなのに、どうして、私の心はこんなにも乱れるのだろう。
私は、自分の両腕を、ぎゅっと抱きしめた。
そこに残る、彼の感触を確かめるように。
彼に触れられるたびに、私の心は、コントロールできないほどに揺さぶられる。
この感情は、一体何なのだろう。
この、甘く、そして息苦しいほどの痛みは。
その答えを、私はまだ、知らなかった。
ただ、彼との距離が、物理的にも、そして精神的にも、近づけば近づくほど、私たち二人の運命が、予期せぬ方向へと大きく動き始めていることだけは、確かな予感として、私の胸に迫ってきていた。
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