偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第四十五話 傷跡と呪いの影

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訓練場に響き渡ったレオンハルトの緊迫した声は、私とゼノン公爵の間に芽生え始めていた穏やかな空気を、一瞬にして切り裂いた。
「閣下!緊急の報告です!」
レオンハルトは、息を切らしながら駆け寄ってくると、その場で深く一礼した。その顔には、疲労と、そしてある種の達成感が浮かんでいる。
「地下の者たちが、ようやく口を割りました」
地下の者たち。市場で私を襲った、あの襲撃者たちのことだ。
ゼノン公爵の纏う空気が、瞬時に変わった。穏やかな指導者の顔から、冷徹な城主の顔へ。その金色の瞳が、鋭い光を宿してレオンハルトを見据える。
「…執務室で聞く」
彼は短くそれだけ言うと、私の方へ向き直った。
「お前も来い」
「え…ですが、私は」
「お前は、当事者だ。聞く権利がある。そして、知っておく義務がある」
その言葉に、有無を言わせぬ響きがあった。
彼は、私をただ守られるだけの存在として扱うつもりはないのだ。この戦いの現実を、その目と耳で確かめろと、そう言っている。
私は、ごくりと喉を鳴らし、静かに頷いた。

執務室に戻ると、そこにはギルバートも控えていた。部屋の空気は、訓練場とは比べ物にならないほど、張り詰めている。
レオンハルトは、主人の前に直立すると、淀みない口調で報告を始めた。
「襲撃者たちの正体は、隣国の紛争地帯で活動していた、傭兵崩れの集団でした。金さえ貰えれば、どんな汚れ仕事も請け負う連中です」
「黒幕は誰だ」
ゼノン公爵が、単刀直入に尋ねた。
レオンハルトは、一瞬だけ口ごもった。そして、悔しさを滲ませた声で告げる。
「…直接の依頼主は、王都の武器商人を通じて接触してきた、正体不明の代理人とのこと。しかし、連中が隠していた暗号化された指令書を解読した結果、資金の出所が判明いたしました」
彼は、一枚の羊皮紙をゼノン公爵に差し出した。
「…ベイル男爵家。そして、その背後には、第二王子アルフォンス殿下の影が」
やはり、アルフォンス王子。
その名を聞いただけで、私の胸は冷たくなる。
しかし、ゼノン公爵は眉一つ動かさなかった。
「それで?」
「はっ。すぐにベイル男爵の屋敷を包囲、拘束に向かわせましたが…」
レオンハルトの声が、苦々しく歪んだ。
「…男爵は、自室で自害しておりました。全ての罪を一人で被るという内容の、遺書を残して」
トカゲの尻尾切り。
ゼノン公爵が、以前口にしていた言葉そのものだった。敵は、自分たちの正体に繋がる糸を、実に巧妙に断ち切ってきたのだ。
「奴らの目的は、アリーシャ様の誘拐、あるいは殺害。それによって、閣下に精神的な打撃を与え、公の場での判断力を鈍らせることが、最終的な狙いであったようです」
その言葉が、重い現実となって私にのしかかる。
敵の狙いは、私だ。
私が、彼の「弱点」として、明確に狙われている。
私の存在が、彼を危険に晒している。
その事実が、氷の刃のように、私の心を貫いた。
報告を終えたレオンハルトとギルバートは、新たな指示を待って、主人の顔をじっと見つめている。
ゼノン公爵は、しばらくの間、黙して目を閉じていた。
やがて、彼は静かに目を開くと、私に向かって言った。
「アリーシャ。もう、下がっていい」
「ですが…!」
「下がれ」
その声には、拒絶を許さない、絶対的な響きがあった。
私は、唇を噛み締め、何も言えずに部屋を後にした。扉が閉まる直前、レオンハルトとギルバートに、さらなる調査を命じる彼の低い声が、微かに聞こえた気がした。

一人、自室に戻る。
部屋の中は、いつもと変わらず静かだった。しかし、その静寂は、もはや私の心を癒してはくれなかった。
私は、彼の弱点。
その言葉が、頭の中で何度も何度もこだまする。
彼に守られていると思っていた。彼の役に立てると思っていた。
だが、現実は違った。私は、彼にとって最大のリスクであり、お荷物でしかないのかもしれない。
この城に来てから、初めて感じる、深い無力感。
私は、ベッドの端に腰掛け、ただ呆然と、自分の無力さを噛み締めていた。

その頃、ゼノン・エルヴァインは、部下を全員下がらせた執務室で、一人、窓の外の闇を見つめていた。
彼の表情は、相変わらずの氷の仮面。
しかし、その内側では、今まで感じたことのないほどの、激しい嵐が吹き荒れていた。
アリーシャが、弱点。
敵は、そう認識している。そして、その認識は、悲しいほどに正しかった。
市場での襲撃。もし、自分が間に合わなければ、彼女は今頃どうなっていただのだろう。そう考えただけで、彼の体の奥底から、凍てつくような怒りと、そして得体の知れない恐怖が込み上げてくる。
彼は、自らの左腕に巻かれた、白い包帯に目を落とした。
傷は、もうほとんど塞がっている。しかし、その下にある傷跡は、一生消えることはないだろう。
この傷を見るたびに、思い出す。
自分の血を見て、絶望に震えていた、彼女の顔。
涙を流しながら、不器用な手つきで、必死に自分の傷を手当てしようとしていた、彼女の姿。
そして、訓練の果てに、心からの笑顔を見せた、彼女の無垢な光。
いつの間にか、彼女は、彼の凍てついた世界の中で、唯一無二の光となっていた。
失うことなど、考えられない。考えたくもない。
だが、自分のそばにいれば、彼女はこれからも、命を狙われ続けるだろう。
彼は、彼女を救うために、あの処刑台から彼女を奪った。
しかし、結果として、彼女をさらに危険で、根深い闇の中へと引きずり込んでしまったのではないか。
彼女に、穏やかな日々を与えたい。普通の少女のように、笑っていてほしい。
そう願う一方で、彼女の「耳」という類稀なる力は、この国の腐敗を断ち切るために、どうしても必要だった。
この矛盾。この葛藤。
それは、呪いで失ったはずの、人間らしい感情そのものだった。
彼は、ゆっくりと窓辺から離れ、自室へと向かった。
そして、鏡の前に立ち、自らの姿を映し出す。
漆黒の髪。冷たい輝きを放つ、金色の瞳。感情の抜け落ちた、氷の仮面。
その姿に、エルヴァイン家に古くから伝わる、呪いの伝承が重なる。
『エルヴァインの血を引く者は、愛する者を、その手で不幸にする』
馬鹿げた迷信だ。そう、今まで彼は一蹴してきた。
だが、今、その呪いの言葉が、現実の重みをもって、彼の心にのしかかってくる。
アリーシャへの、この守りたいと願う強い思い。
これが、もし「愛」なのだとすれば。
自分は、まさにその呪いを、体現しようとしているのではないか。
彼は、己の左腕に残る傷跡を、右手で、そっと撫でた。
そこに、彼女の指先の温もりが、まだ残っているような気がした。

「彼女を不幸にするのは、俺自身か…」

静かな自室に、彼の、誰に聞かせるともない、苦渋に満ちた独白が、重く、そして静かに響き渡った。
それは、孤独な城主が初めて抱いた、愛ゆえの、絶望的な問いかけだった。
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