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第四十六話 彼の心の不協和音
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襲撃事件が残した傷跡は、私の心に深く、そして静かに刻み込まれていた。
私は、彼の弱点。
その言葉が、呪いのように私の思考にまとわりつく。彼が鍛えてくれた護身術も、彼の隣で戦うという決意も、この圧倒的な無力感の前では、まるで砂の城のように脆く崩れ去っていった。
そして、あの日を境に、ゼノン公爵の態度は明らかに変わった。
彼は、私を避けるようになった。
廊下ですれ違っても、以前のように立ち止まることはない。ただ、氷のような一瞥をくれるだけで、足早に通り過ぎていく。食事も、再び別々になった。私が執務室を訪ねても、ギルバートが丁重に、しかし断固としてそれを阻んだ。「閣下はご多忙ですので」という、嘘の音を奏でない、冷たい事実だけを突きつけて。
彼は、私を遠ざけようとしている。
その理由は、痛いほど分かっていた。私は、彼の計画における最大のリスクなのだ。私をそばに置くこと自体が、彼の命を危険に晒す。
頭では理解している。これは、彼なりの合理的な判断なのだと。
しかし、私の心は、その冷たい現実に静かに悲鳴を上げていた。
やっと見つけた、私の居場所。彼が与えてくれた、温かい静寂。それが、少しずつ、しかし確実に、私から奪い去られていくようだった。
ある日の午後、図書室へ向かう途中、私は作戦司令室の前で、彼と鉢合わせになった。
部屋から出てきた彼は、私の姿を認めると、一瞬だけその足を止めた。その金色の瞳が、私を捉える。
その瞬間、私の耳に、今まで聞いたことのない音が響いた。
それは、嘘の不協和音ではなかった。
彼の心の奥底、静寂のさらに深い場所から漏れ出してくる、微かで、しかし確かな音の歪み。
まるで、完璧に調律された楽器の弦が、極度の緊張によって、切れそうに軋んでいるかのような、苦しげな音。
彼の心は、苦しんでいる。
私を遠ざけるという、その行為自体が、彼自身を苛んでいる。
その事実に気づいた瞬間、私の胸は締め付けられるように痛んだ。
彼は、私に何も告げず、再び歩き出そうとした。その背中は、以前よりもさらに孤独で、近寄りがたい壁のように見えた。
行ってしまう。
このまま、私たちの距離は、どんどん離れていってしまう。
「お待ちください、閣下」
私は、気づけば声をかけていた。
彼は、足を止めた。しかし、振り返ることはない。
「…何か、私にできることはありませんか」
私の声は、震えていた。
「あなたの『耳』として、何かお手伝いできることがあれば。どんなことでも…」
「…ない」
彼の、短く、そして冷たい拒絶の言葉が、私の希望を打ち砕いた。
「お前は、ただ邸内で、静かにしていろ。それが、お前の今の役割だ」
役割。
そうだ。私は、彼の計画の一部。彼の道具。
そこに、私の意思が入り込む余地など、ない。
彼は、それだけを言うと、今度こそ、足早にその場を去っていった。
一人残された廊下で、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼の背中が消えた後も、私の耳には、彼の心の軋む音が、痛々しく響き続けていた。
その日の夕食後、ハンナが私の部屋にお茶を運んできてくれた。
私の沈んだ様子に気づいたのだろう。彼女は、何も聞かず、ただそばに寄り添うように、静かにお茶を淹れてくれた。
「…ハンナ」
私が、ぽつりと呟いた。
「閣下は、昔から、あのようにご自分を追い詰める方だったのですか」
私の問いに、ハンナは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「いいえ。閣下は、昔はもっと…人間らしいお方でございました。ですが、先代様が亡くなり、若くして公爵家を継がれ、そして…あの忌まわしい『呪い』がお心を蝕み始めてから…」
呪い。
その言葉が、私の心に、鋭い棘のように突き刺さった。
「血染め公爵」という異名と共に、常に囁かれる不吉な言葉。私は今まで、それをただの悪意ある噂だと、聞き流してきた。
「呪いが、お心を…?」
「ええ」
ハンナは、声を潜めて言った。
「エルヴァイン家に代々伝わる、忌まわしい呪いでございます。『愛する者を、その手で不幸にする』…閣下は、その呪いを恐れ、ご自身の心を、感情を、氷の仮面の下に封じ込めてしまわれたのです」
愛する者を、不幸にする。
その言葉が、雷のように、私の頭を打ち抜いた。
だから、彼は私を遠ざけるのか。
私を、危険から守るためだけではない。彼自身の、その「呪い」から、私を守るために。
私を、「愛する者」だと、彼が認識してしまっているから…?
その途方もない可能性に、私の心臓は大きく跳ねた。
「アリーシャ様と出会われてから、閣下は少しずつ、昔のお姿を取り戻しておられるように見えました。ですが、先日の襲撃事件…あれが、また閣下のお心を、呪いの恐怖へと引き戻してしまったのかもしれません」
ハンナの言葉が、全ての点を線で結んだ。
彼の苦悩の音。彼の冷たい態度。その全てが、この呪いに行き着くのだ。
私が、彼の弱点。
その言葉の意味は、私が思っていたよりも、ずっと深く、そして悲しいものだった。
彼は、私を想うがゆえに、苦しんでいる。
その事実に、私は打ちのめされると同時に、心の奥底から、燃えるような、新たな決意が湧き上がってくるのを感じていた。
もう、無力感に苛まれている場合ではない。
ただ守られ、彼を苦しませるだけの存在で、終わるわけにはいかない。
彼の苦しみの原因が、その「呪い」にあるというのなら。
私が、それを解き明かす。
私が、その呪縛から、彼を解放するのだ。
それが、本当に彼の力になるということ。彼の隣に立つということ。
私は、椅子から静かに立ち上がった。その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「ハンナ。ありがとう。少し、調べたいことがあるの」
私のただならぬ気配に、ハンナは驚いたように私を見つめる。
私は彼女に力強く頷き返すと、部屋を出た。
護衛のレオンハルトが、戸惑いの表情で私を見ている。
「図書室へ、参ります」
私は、彼にそれだけを告げ、迷いのない足取りで歩き出した。
目指すは、エルヴァイン家の歴史が眠る場所。
彼の心を蝕む、呪いの正体。
その闇を、この私が、必ず暴き出してみせる。
それは、私のための戦いではなかった。
ただ一人、孤独に戦い続ける、愛しい人を救うための、私の初めての戦いだった。
私は、彼の弱点。
その言葉が、呪いのように私の思考にまとわりつく。彼が鍛えてくれた護身術も、彼の隣で戦うという決意も、この圧倒的な無力感の前では、まるで砂の城のように脆く崩れ去っていった。
そして、あの日を境に、ゼノン公爵の態度は明らかに変わった。
彼は、私を避けるようになった。
廊下ですれ違っても、以前のように立ち止まることはない。ただ、氷のような一瞥をくれるだけで、足早に通り過ぎていく。食事も、再び別々になった。私が執務室を訪ねても、ギルバートが丁重に、しかし断固としてそれを阻んだ。「閣下はご多忙ですので」という、嘘の音を奏でない、冷たい事実だけを突きつけて。
彼は、私を遠ざけようとしている。
その理由は、痛いほど分かっていた。私は、彼の計画における最大のリスクなのだ。私をそばに置くこと自体が、彼の命を危険に晒す。
頭では理解している。これは、彼なりの合理的な判断なのだと。
しかし、私の心は、その冷たい現実に静かに悲鳴を上げていた。
やっと見つけた、私の居場所。彼が与えてくれた、温かい静寂。それが、少しずつ、しかし確実に、私から奪い去られていくようだった。
ある日の午後、図書室へ向かう途中、私は作戦司令室の前で、彼と鉢合わせになった。
部屋から出てきた彼は、私の姿を認めると、一瞬だけその足を止めた。その金色の瞳が、私を捉える。
その瞬間、私の耳に、今まで聞いたことのない音が響いた。
それは、嘘の不協和音ではなかった。
彼の心の奥底、静寂のさらに深い場所から漏れ出してくる、微かで、しかし確かな音の歪み。
まるで、完璧に調律された楽器の弦が、極度の緊張によって、切れそうに軋んでいるかのような、苦しげな音。
彼の心は、苦しんでいる。
私を遠ざけるという、その行為自体が、彼自身を苛んでいる。
その事実に気づいた瞬間、私の胸は締め付けられるように痛んだ。
彼は、私に何も告げず、再び歩き出そうとした。その背中は、以前よりもさらに孤独で、近寄りがたい壁のように見えた。
行ってしまう。
このまま、私たちの距離は、どんどん離れていってしまう。
「お待ちください、閣下」
私は、気づけば声をかけていた。
彼は、足を止めた。しかし、振り返ることはない。
「…何か、私にできることはありませんか」
私の声は、震えていた。
「あなたの『耳』として、何かお手伝いできることがあれば。どんなことでも…」
「…ない」
彼の、短く、そして冷たい拒絶の言葉が、私の希望を打ち砕いた。
「お前は、ただ邸内で、静かにしていろ。それが、お前の今の役割だ」
役割。
そうだ。私は、彼の計画の一部。彼の道具。
そこに、私の意思が入り込む余地など、ない。
彼は、それだけを言うと、今度こそ、足早にその場を去っていった。
一人残された廊下で、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼の背中が消えた後も、私の耳には、彼の心の軋む音が、痛々しく響き続けていた。
その日の夕食後、ハンナが私の部屋にお茶を運んできてくれた。
私の沈んだ様子に気づいたのだろう。彼女は、何も聞かず、ただそばに寄り添うように、静かにお茶を淹れてくれた。
「…ハンナ」
私が、ぽつりと呟いた。
「閣下は、昔から、あのようにご自分を追い詰める方だったのですか」
私の問いに、ハンナは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「いいえ。閣下は、昔はもっと…人間らしいお方でございました。ですが、先代様が亡くなり、若くして公爵家を継がれ、そして…あの忌まわしい『呪い』がお心を蝕み始めてから…」
呪い。
その言葉が、私の心に、鋭い棘のように突き刺さった。
「血染め公爵」という異名と共に、常に囁かれる不吉な言葉。私は今まで、それをただの悪意ある噂だと、聞き流してきた。
「呪いが、お心を…?」
「ええ」
ハンナは、声を潜めて言った。
「エルヴァイン家に代々伝わる、忌まわしい呪いでございます。『愛する者を、その手で不幸にする』…閣下は、その呪いを恐れ、ご自身の心を、感情を、氷の仮面の下に封じ込めてしまわれたのです」
愛する者を、不幸にする。
その言葉が、雷のように、私の頭を打ち抜いた。
だから、彼は私を遠ざけるのか。
私を、危険から守るためだけではない。彼自身の、その「呪い」から、私を守るために。
私を、「愛する者」だと、彼が認識してしまっているから…?
その途方もない可能性に、私の心臓は大きく跳ねた。
「アリーシャ様と出会われてから、閣下は少しずつ、昔のお姿を取り戻しておられるように見えました。ですが、先日の襲撃事件…あれが、また閣下のお心を、呪いの恐怖へと引き戻してしまったのかもしれません」
ハンナの言葉が、全ての点を線で結んだ。
彼の苦悩の音。彼の冷たい態度。その全てが、この呪いに行き着くのだ。
私が、彼の弱点。
その言葉の意味は、私が思っていたよりも、ずっと深く、そして悲しいものだった。
彼は、私を想うがゆえに、苦しんでいる。
その事実に、私は打ちのめされると同時に、心の奥底から、燃えるような、新たな決意が湧き上がってくるのを感じていた。
もう、無力感に苛まれている場合ではない。
ただ守られ、彼を苦しませるだけの存在で、終わるわけにはいかない。
彼の苦しみの原因が、その「呪い」にあるというのなら。
私が、それを解き明かす。
私が、その呪縛から、彼を解放するのだ。
それが、本当に彼の力になるということ。彼の隣に立つということ。
私は、椅子から静かに立ち上がった。その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「ハンナ。ありがとう。少し、調べたいことがあるの」
私のただならぬ気配に、ハンナは驚いたように私を見つめる。
私は彼女に力強く頷き返すと、部屋を出た。
護衛のレオンハルトが、戸惑いの表情で私を見ている。
「図書室へ、参ります」
私は、彼にそれだけを告げ、迷いのない足取りで歩き出した。
目指すは、エルヴァイン家の歴史が眠る場所。
彼の心を蝕む、呪いの正体。
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