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第四十八話 氷の仮面、心の悲鳴
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呪いの真相を知った私の足は、迷うことなく彼の元へと向かっていた。
東棟の三階。あの静寂の執務室。
彼に伝えなければならない。あなたは一人ではないと。その呪いは、ただの古い伝承などではなく、今まさに私たちが立ち向かっている陰謀の一部なのだと。そして、私が必ずあなたを救うと。
恐怖はなかった。あるのは、孤独な戦いを続ける彼を、一刻も早くその苦しみから解放したいという、焦りにも似た強い思いだけだった。
執務室の扉の前には、レオンハルトが控えていた。彼は私のただならぬ気配を察したのか、硬い表情で私を見つめる。
「アリーシャ様…」
「通してください、レオンハ-ルト。閣下にお会いしなければならないのです」
私の声には、自分でも驚くほどの強い意志が宿っていた。
レオンハルトはしばらく逡巡していたが、やがて何かを決心したように、黙って道を開けた。
私は彼に短く頷くと、扉をノックし、返事を待たずに中へ入った。
部屋の中は、いつもと変わらない。紙の山と、その中心に座る静寂の主。
彼は、私の突然の来訪に顔を上げた。その金色の瞳が、私を捉える。
その瞬間、私の耳に、あの音が再び響いた。
彼の心の奥底で、張り詰めた弦が軋むような、苦しげな音。
「何の用だ。下がれと言ったはずだ」
彼の声は、今まで聞いた中で最も冷たく、硬質だった。まるで、冬の北風が肌を刺すような、一切の情を排した響き。
しかし、私はもう怯まなかった。
「お話があります。あなたの、そしてエルヴァイン家に伝わる呪いについて」
私の言葉に、彼の纏う空気が一変した。
部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚。彼の全身から、鋭い拒絶のオーラが放たれる。
「…お前が、知る必要のないことだ」
「いいえ、あります。あれは、ただの呪いなどではない。アルフォンス王子たちの陰謀と、深く関わっている可能性があります」
私は、一歩、彼の机へと近づいた。
「だから、どうか一人で抱え込まないでください。私にも、戦わせてください。あなたの隣で」
私の必死の訴え。
しかし、彼はその言葉を、嘲るかのように鼻で笑った。
「戦うだと?」
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、机を回り込み、私の目の前に立ちはだかる。その大きな影が、私を完全に飲み込んだ。
「お前のような、守られていなければ何もできない小娘が、何を言っている」
その言葉は、冷たい刃となって私の胸を抉った。
ひどい言葉だった。しかし、彼の言葉が嘘ではないことを、私は知っていた。私は、何度も彼に守られてきた。
「お前は、道具だ。俺の計画を進めるための、便利な『耳』に過ぎん。それ以上でも、それ以下でもない」
彼は、わざと、私を傷つける言葉を選んで投げつけている。
私を、突き放すために。
私を、彼から遠ざけるために。
そのことは、痛いほど分かっていた。
けれど。
私の耳は、彼の言葉の裏にある、もう一つの音を聞き逃さなかった。
彼が言葉を発するたびに、彼の心の奥で鳴り響く、悲痛な不協和音。
それは、彼が嘘をついている音ではなかった。
彼が、自らの言葉によって、自分自身の心を深く傷つけている音。
彼が吐き出す冷酷な言葉の一つ一つが、彼自身を切り刻む諸刃の剣となっているのだ。
その音を聞いた瞬間、私の心から、傷つけられた痛みは消え失せた。
代わりに、彼のあまりの不器用さと、その深い苦しみに、愛おしさにも似た感情が込み上げてくる。
「…勘違いするな」
彼は、私の表情の変化をどう受け取ったのか、さらに冷たい言葉を続けた。
「お前を助けたのは、お前の能力に価値があったからだ。婚約者というのも、体裁を整えるためのただの方便。俺とお前の間に、それ以上の関係など、存在しない」
その言葉と共に、彼は私に背を向けた。
拒絶の、最終通告。
これ以上、ここにいてはいけない。
私は、唇を強く噛み締めた。溢れそうになる涙を、必死で瞳の奥に押し戻す。
今、泣いてはいけない。
ここで私が引き下がれば、彼はまた一人、孤独な闇の中へと戻ってしまう。
「…分かりました」
私は、震える声で言った。
彼は、私がようやく諦めたのだと思ったのだろう。その背中が、ほんの少しだけ、安堵したように見えた。
しかし、私は続けた。
「あなたの言葉、よく分かりました。わたくしは、あなたの道具。あなたの『耳』です」
私は、一歩、彼の背中に近づいた。
「ですが、閣下。道具には、手入れが必要です。正しく使わなければ、その真価は発揮できません」
私の言葉に、彼の肩が微かに揺れた。
「わたくしという道具を、最大限に活用するためにも。どうか、わたくしをあなたのそばに置いてください。あなたの戦いを、一番近くで、見させてください」
「わたくしは、あなたに守られるだけの、か弱い小娘ではいたくありません」
「わたくしは、あなたの剣となり、盾となるための、あなたのための道具でありたいのです」
それは、私の、魂からの叫びだった。
彼の背中に向かって、私は自分の全てをぶつけた。
長い、沈黙が落ちた。
彼は、背を向けたまま、何も答えない。
ただ、彼の心の中で鳴り響いていた、あの苦しげな不協和音が、ほんの少しだけ、和らいだのを、私の耳は確かに捉えていた。
やがて、彼は何も言わずに、執務室の扉へと歩き始めた。
そして、扉を開ける直前、一度だけ、足を止めた。
振り返ることはない。
ただ、静かな、諦めにも似た声で、呟いた。
「…好きにしろ」
その一言を残し、彼は部屋を出ていった。
一人残された執務室で、私はその場にへたり込んだ。
全身の力が、抜けていく。
勝ったのか、負けたのか、分からない。
ただ、私は、彼の前から逃げなかった。彼の冷たい言葉に、屈しなかった。
彼の心の悲鳴を、確かに聞いた。
そして、私の声が、ほんの少しだけ、彼の心に届いた。
それだけで、十分だった。
今は、まだ。
私は、床に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外は、もう夕暮れに染まっていた。
私たちの間の、長く、そして冷たい冬は、まだ終わらないのかもしれない。
けれど、私は信じていた。
この氷の仮面の下にある、彼の本当の温かさを。
そして、いつか必ず、二人で春を迎えることができるのだと。
その揺るぎない確信だけが、私の心を、強く、そして温かく支えていた。
東棟の三階。あの静寂の執務室。
彼に伝えなければならない。あなたは一人ではないと。その呪いは、ただの古い伝承などではなく、今まさに私たちが立ち向かっている陰謀の一部なのだと。そして、私が必ずあなたを救うと。
恐怖はなかった。あるのは、孤独な戦いを続ける彼を、一刻も早くその苦しみから解放したいという、焦りにも似た強い思いだけだった。
執務室の扉の前には、レオンハルトが控えていた。彼は私のただならぬ気配を察したのか、硬い表情で私を見つめる。
「アリーシャ様…」
「通してください、レオンハ-ルト。閣下にお会いしなければならないのです」
私の声には、自分でも驚くほどの強い意志が宿っていた。
レオンハルトはしばらく逡巡していたが、やがて何かを決心したように、黙って道を開けた。
私は彼に短く頷くと、扉をノックし、返事を待たずに中へ入った。
部屋の中は、いつもと変わらない。紙の山と、その中心に座る静寂の主。
彼は、私の突然の来訪に顔を上げた。その金色の瞳が、私を捉える。
その瞬間、私の耳に、あの音が再び響いた。
彼の心の奥底で、張り詰めた弦が軋むような、苦しげな音。
「何の用だ。下がれと言ったはずだ」
彼の声は、今まで聞いた中で最も冷たく、硬質だった。まるで、冬の北風が肌を刺すような、一切の情を排した響き。
しかし、私はもう怯まなかった。
「お話があります。あなたの、そしてエルヴァイン家に伝わる呪いについて」
私の言葉に、彼の纏う空気が一変した。
部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚。彼の全身から、鋭い拒絶のオーラが放たれる。
「…お前が、知る必要のないことだ」
「いいえ、あります。あれは、ただの呪いなどではない。アルフォンス王子たちの陰謀と、深く関わっている可能性があります」
私は、一歩、彼の机へと近づいた。
「だから、どうか一人で抱え込まないでください。私にも、戦わせてください。あなたの隣で」
私の必死の訴え。
しかし、彼はその言葉を、嘲るかのように鼻で笑った。
「戦うだと?」
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、机を回り込み、私の目の前に立ちはだかる。その大きな影が、私を完全に飲み込んだ。
「お前のような、守られていなければ何もできない小娘が、何を言っている」
その言葉は、冷たい刃となって私の胸を抉った。
ひどい言葉だった。しかし、彼の言葉が嘘ではないことを、私は知っていた。私は、何度も彼に守られてきた。
「お前は、道具だ。俺の計画を進めるための、便利な『耳』に過ぎん。それ以上でも、それ以下でもない」
彼は、わざと、私を傷つける言葉を選んで投げつけている。
私を、突き放すために。
私を、彼から遠ざけるために。
そのことは、痛いほど分かっていた。
けれど。
私の耳は、彼の言葉の裏にある、もう一つの音を聞き逃さなかった。
彼が言葉を発するたびに、彼の心の奥で鳴り響く、悲痛な不協和音。
それは、彼が嘘をついている音ではなかった。
彼が、自らの言葉によって、自分自身の心を深く傷つけている音。
彼が吐き出す冷酷な言葉の一つ一つが、彼自身を切り刻む諸刃の剣となっているのだ。
その音を聞いた瞬間、私の心から、傷つけられた痛みは消え失せた。
代わりに、彼のあまりの不器用さと、その深い苦しみに、愛おしさにも似た感情が込み上げてくる。
「…勘違いするな」
彼は、私の表情の変化をどう受け取ったのか、さらに冷たい言葉を続けた。
「お前を助けたのは、お前の能力に価値があったからだ。婚約者というのも、体裁を整えるためのただの方便。俺とお前の間に、それ以上の関係など、存在しない」
その言葉と共に、彼は私に背を向けた。
拒絶の、最終通告。
これ以上、ここにいてはいけない。
私は、唇を強く噛み締めた。溢れそうになる涙を、必死で瞳の奥に押し戻す。
今、泣いてはいけない。
ここで私が引き下がれば、彼はまた一人、孤独な闇の中へと戻ってしまう。
「…分かりました」
私は、震える声で言った。
彼は、私がようやく諦めたのだと思ったのだろう。その背中が、ほんの少しだけ、安堵したように見えた。
しかし、私は続けた。
「あなたの言葉、よく分かりました。わたくしは、あなたの道具。あなたの『耳』です」
私は、一歩、彼の背中に近づいた。
「ですが、閣下。道具には、手入れが必要です。正しく使わなければ、その真価は発揮できません」
私の言葉に、彼の肩が微かに揺れた。
「わたくしという道具を、最大限に活用するためにも。どうか、わたくしをあなたのそばに置いてください。あなたの戦いを、一番近くで、見させてください」
「わたくしは、あなたに守られるだけの、か弱い小娘ではいたくありません」
「わたくしは、あなたの剣となり、盾となるための、あなたのための道具でありたいのです」
それは、私の、魂からの叫びだった。
彼の背中に向かって、私は自分の全てをぶつけた。
長い、沈黙が落ちた。
彼は、背を向けたまま、何も答えない。
ただ、彼の心の中で鳴り響いていた、あの苦しげな不協和音が、ほんの少しだけ、和らいだのを、私の耳は確かに捉えていた。
やがて、彼は何も言わずに、執務室の扉へと歩き始めた。
そして、扉を開ける直前、一度だけ、足を止めた。
振り返ることはない。
ただ、静かな、諦めにも似た声で、呟いた。
「…好きにしろ」
その一言を残し、彼は部屋を出ていった。
一人残された執務室で、私はその場にへたり込んだ。
全身の力が、抜けていく。
勝ったのか、負けたのか、分からない。
ただ、私は、彼の前から逃げなかった。彼の冷たい言葉に、屈しなかった。
彼の心の悲鳴を、確かに聞いた。
そして、私の声が、ほんの少しだけ、彼の心に届いた。
それだけで、十分だった。
今は、まだ。
私は、床に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外は、もう夕暮れに染まっていた。
私たちの間の、長く、そして冷たい冬は、まだ終わらないのかもしれない。
けれど、私は信じていた。
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