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第四十九話 偽りの終わり
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あの執務室での激しい応酬から一夜が明けた。
私とゼノン公爵の間に流れる空気は、以前よりもさらに複雑で、張り詰めたものになっていた。彼はもう、私を完全に無視することはできない。しかし、私をそばに置くことを、まだ受け入れられずにいる。その葛藤が、彼の心の弦を常に軋ませているのを、私の耳は捉えていた。
朝食の席で、久しぶりに私たちは顔を合わせた。
長いテーブルの両端。途方もない距離。会話はなく、銀食器が皿に触れる音だけが、静かに響く。
私は、彼の顔を盗み見た。その左腕には、まだ白い包帯が巻かれている。あの夜の記憶が、私の胸をちりりと焦がした。
彼は、私の視線に気づいているだろう。しかし、一度もこちらを見ようとはしなかった。
食事を終えると、彼は足早に食堂を後にする。その背中は、私を拒絶する硬い壁のようだった。
私は、ただその背中を見送ることしかできない。
このままでは駄目だ。
このぎこちない距離が、私たちの標準になってしまう。彼はまた一人、孤独な闇の中に閉じこもり、私は無力なまま、彼の苦しみをただ見ているだけになる。
それは、絶対に嫌だ。
私は、彼の「道具」でありたいと誓った。
ならば、使われるのを待っているだけではいけない。自ら、その価値を証明しに行かなければ。
私は、その日の午後、意を決して彼の執務室の扉を叩いた。
扉の前には、レオンハルトが立ちはだかる。彼は、困惑した表情で私を見た。
「アリーシャ様…閣下は、今…」
「分かっています。ご多忙なのは承知の上です。ですが、通してください」
私の瞳に宿る、揺るぎない光に、彼は言葉を失った。しばらくの沈黙の後、彼は深いため息をつくと、黙って道を開けた。
私は、返事を待たずに扉を開け、中へ入った。
部屋の中は、相変わらずの光景だった。しかし、彼の机の上の書類の山は、以前よりもさらに高く、険しい峰を築いているように見えた。襲撃事件の後始末と、王宮から持ち帰った証拠の分析。彼の肩には、今、王国全体の運命がのしかかっている。
彼は、私の突然の来訪に、眉間に深い皺を寄せた。
「…何をしに来た。下がれと言ったはずだ」
その声は、疲労の色を隠しきれず、いつもより少しだけ掠れていた。
「お手伝いを、させてください」
私は、真っ直ぐに彼を見つめて言った。
「その書類の整理を、わたくしにも」
彼の顔に、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「お前に、何ができる。これは、貴族令嬢のお遊びではないぞ」
「存じております。ですが、わたくしはあなたの『耳』です。ただ情報を聞くだけでなく、その情報を整理し、分析する手助けもできるはずです。少なくとも、単純な分類作業くらいは…」
「黙れ!」
彼の、鋭い怒声が飛んだ。
それは、私がこの城に来てから、初めて聞く、感情を剥き出しにした声だった。
彼は、椅子から勢いよく立ち上がると、机を回り込み、私の目の前に立ちはだかった。その金色の瞳には、怒りと、そしてそれ以上の、深い苦悩の色が渦巻いている。
「いい加減にしろ、アリーシャ。お前は、まだ分かっていないのか」
彼は、私の両肩を、強く掴んだ。その力に、私の体は微かに震える。
「これは、もうごっこ遊びではないのだ。偽りの婚約者ごっこは、もう終わりだ!」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
「お前が足を踏み入れている場所が、どれほど危険か、理解しているのか。先日の襲撃は、ただの始まりに過ぎん。敵は、次はお前の命を、本気で奪いに来るだろう。そんな場所に、これ以上お前を引きずり込むわけには、いかんのだ!」
彼の叫びは、私を拒絶するためのものではなかった。
私を、守ろうとする、悲痛な叫びだった。
彼の心の奥底で、張り詰めていた弦が、ついに切れそうになっている。その激しい不協和音が、私の鼓膜を震わせた。
彼の指が、私の肩に食い込む。その痛みさえ、彼の苦しみに比べれば、些細なものに思えた。
私は、彼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
涙は、見せなかった。
「…ごっこは、とうに終わっています」
私の、静かな声が、彼の激昂を鎮めるように、部屋に響いた。
「わたくしが、あの処刑台からあなたに救い出された、あの瞬間から。わたくしはもう、普通の令嬢ではいられなくなりました。わたくしは、あなたの戦場に、足を踏み入れたのです。あなた自身の手で」
私の言葉に、彼は息を呑んだ。肩を掴む力が、わずかに緩む。
「あなたは、わたくしを『道具』だと言いました。わたくしは、それを受け入れました。ならば、閣下」
私は、一歩も引かなかった。
「使われない道具ほど、無価値なものはありません。わたくしを、あなたの戦場で、ただ守られるだけの役立たずのままにしておくおつもりですか。それは、わたくしという道具を、みすみす錆びつかせることになります。あなたの、合理的な判断に反するのでは?」
私は、彼の論理を、そっくりそのまま彼に返した。
私の瞳に宿る、揺るぎない覚悟。
それは、彼が私に教えた、戦う者の瞳だった。
彼は、言葉を失った。
その金色の瞳が、激しく揺れている。怒り、戸惑い、諦め、そして、ほんの少しの安堵。いくつもの感情が、その中で渦を巻いていた。
長い、長い沈黙が、二人を包む。
やがて、彼は、天を仰ぐように、深く、そして長い息を吐いた。
それは、彼の最後の抵抗が、完全に打ち砕かれたことを示す、敗北のため息だった。
彼は、私の肩から、ゆっくりと手を離す。
そして、自分の机へと戻ると、書類の山の中から、比較的機密性の低そうな、地方からの陳情書の束を、無造作に掴み取った。
彼は、それを、私に向かって差し出した。
「…好きにしろ」
その声は、疲労と、そして諦めに満ちていた。
それは、彼が私を、本当の意味で「共犯者」として認めた、降伏宣言だった。
私は、その書類の束を、両手で、恭しく受け取った。
その紙の重みが、私の手の中で、確かな勝利の証となって輝いている。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、彼はもう私を見ようとせず、椅子に深く沈み込み、新たな書類の山へと手を伸ばした。
私は、彼に背を向け、部屋の隅にある小さな閲覧用の机へと向かった。
そして、椅子に腰を下ろし、受け取った書類の最初のページを開く。
これから、私の本当の戦いが始まる。
彼の隣で、彼の背中を守るための、静かで、しかし熾烈な戦いが。
胸の奥で、新たな痛みを伴う、確かな喜びが灯るのを感じながら。
私は、ただ黙々と、インクの染みた文字を追い始めた。
この静寂の執務室が、今、私たちの、本当の戦場になったのだ。
私とゼノン公爵の間に流れる空気は、以前よりもさらに複雑で、張り詰めたものになっていた。彼はもう、私を完全に無視することはできない。しかし、私をそばに置くことを、まだ受け入れられずにいる。その葛藤が、彼の心の弦を常に軋ませているのを、私の耳は捉えていた。
朝食の席で、久しぶりに私たちは顔を合わせた。
長いテーブルの両端。途方もない距離。会話はなく、銀食器が皿に触れる音だけが、静かに響く。
私は、彼の顔を盗み見た。その左腕には、まだ白い包帯が巻かれている。あの夜の記憶が、私の胸をちりりと焦がした。
彼は、私の視線に気づいているだろう。しかし、一度もこちらを見ようとはしなかった。
食事を終えると、彼は足早に食堂を後にする。その背中は、私を拒絶する硬い壁のようだった。
私は、ただその背中を見送ることしかできない。
このままでは駄目だ。
このぎこちない距離が、私たちの標準になってしまう。彼はまた一人、孤独な闇の中に閉じこもり、私は無力なまま、彼の苦しみをただ見ているだけになる。
それは、絶対に嫌だ。
私は、彼の「道具」でありたいと誓った。
ならば、使われるのを待っているだけではいけない。自ら、その価値を証明しに行かなければ。
私は、その日の午後、意を決して彼の執務室の扉を叩いた。
扉の前には、レオンハルトが立ちはだかる。彼は、困惑した表情で私を見た。
「アリーシャ様…閣下は、今…」
「分かっています。ご多忙なのは承知の上です。ですが、通してください」
私の瞳に宿る、揺るぎない光に、彼は言葉を失った。しばらくの沈黙の後、彼は深いため息をつくと、黙って道を開けた。
私は、返事を待たずに扉を開け、中へ入った。
部屋の中は、相変わらずの光景だった。しかし、彼の机の上の書類の山は、以前よりもさらに高く、険しい峰を築いているように見えた。襲撃事件の後始末と、王宮から持ち帰った証拠の分析。彼の肩には、今、王国全体の運命がのしかかっている。
彼は、私の突然の来訪に、眉間に深い皺を寄せた。
「…何をしに来た。下がれと言ったはずだ」
その声は、疲労の色を隠しきれず、いつもより少しだけ掠れていた。
「お手伝いを、させてください」
私は、真っ直ぐに彼を見つめて言った。
「その書類の整理を、わたくしにも」
彼の顔に、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「お前に、何ができる。これは、貴族令嬢のお遊びではないぞ」
「存じております。ですが、わたくしはあなたの『耳』です。ただ情報を聞くだけでなく、その情報を整理し、分析する手助けもできるはずです。少なくとも、単純な分類作業くらいは…」
「黙れ!」
彼の、鋭い怒声が飛んだ。
それは、私がこの城に来てから、初めて聞く、感情を剥き出しにした声だった。
彼は、椅子から勢いよく立ち上がると、机を回り込み、私の目の前に立ちはだかった。その金色の瞳には、怒りと、そしてそれ以上の、深い苦悩の色が渦巻いている。
「いい加減にしろ、アリーシャ。お前は、まだ分かっていないのか」
彼は、私の両肩を、強く掴んだ。その力に、私の体は微かに震える。
「これは、もうごっこ遊びではないのだ。偽りの婚約者ごっこは、もう終わりだ!」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
「お前が足を踏み入れている場所が、どれほど危険か、理解しているのか。先日の襲撃は、ただの始まりに過ぎん。敵は、次はお前の命を、本気で奪いに来るだろう。そんな場所に、これ以上お前を引きずり込むわけには、いかんのだ!」
彼の叫びは、私を拒絶するためのものではなかった。
私を、守ろうとする、悲痛な叫びだった。
彼の心の奥底で、張り詰めていた弦が、ついに切れそうになっている。その激しい不協和音が、私の鼓膜を震わせた。
彼の指が、私の肩に食い込む。その痛みさえ、彼の苦しみに比べれば、些細なものに思えた。
私は、彼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
涙は、見せなかった。
「…ごっこは、とうに終わっています」
私の、静かな声が、彼の激昂を鎮めるように、部屋に響いた。
「わたくしが、あの処刑台からあなたに救い出された、あの瞬間から。わたくしはもう、普通の令嬢ではいられなくなりました。わたくしは、あなたの戦場に、足を踏み入れたのです。あなた自身の手で」
私の言葉に、彼は息を呑んだ。肩を掴む力が、わずかに緩む。
「あなたは、わたくしを『道具』だと言いました。わたくしは、それを受け入れました。ならば、閣下」
私は、一歩も引かなかった。
「使われない道具ほど、無価値なものはありません。わたくしを、あなたの戦場で、ただ守られるだけの役立たずのままにしておくおつもりですか。それは、わたくしという道具を、みすみす錆びつかせることになります。あなたの、合理的な判断に反するのでは?」
私は、彼の論理を、そっくりそのまま彼に返した。
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それは、彼が私に教えた、戦う者の瞳だった。
彼は、言葉を失った。
その金色の瞳が、激しく揺れている。怒り、戸惑い、諦め、そして、ほんの少しの安堵。いくつもの感情が、その中で渦を巻いていた。
長い、長い沈黙が、二人を包む。
やがて、彼は、天を仰ぐように、深く、そして長い息を吐いた。
それは、彼の最後の抵抗が、完全に打ち砕かれたことを示す、敗北のため息だった。
彼は、私の肩から、ゆっくりと手を離す。
そして、自分の机へと戻ると、書類の山の中から、比較的機密性の低そうな、地方からの陳情書の束を、無造作に掴み取った。
彼は、それを、私に向かって差し出した。
「…好きにしろ」
その声は、疲労と、そして諦めに満ちていた。
それは、彼が私を、本当の意味で「共犯者」として認めた、降伏宣言だった。
私は、その書類の束を、両手で、恭しく受け取った。
その紙の重みが、私の手の中で、確かな勝利の証となって輝いている。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、彼はもう私を見ようとせず、椅子に深く沈み込み、新たな書類の山へと手を伸ばした。
私は、彼に背を向け、部屋の隅にある小さな閲覧用の机へと向かった。
そして、椅子に腰を下ろし、受け取った書類の最初のページを開く。
これから、私の本当の戦いが始まる。
彼の隣で、彼の背中を守るための、静かで、しかし熾烈な戦いが。
胸の奥で、新たな痛みを伴う、確かな喜びが灯るのを感じながら。
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