偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第五十話 それでも、あなたの力に

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偽りの婚約者ごっこは、終わった。
その言葉が、私の心の中で、重く、そして確かな意味を持って響き続けていた。
あの日以来、私はゼノン公爵の執務室の隅にある小さな机で、彼の仕事を手伝うようになった。最初は、地方からの陳情書や、重要度の低い報告書の整理といった、簡単な作業だけだった。しかし、私がそれらを黙々と、そして正確にこなしていくのを認めると、彼は少しずつ、より重要な書類を私に回すようになった。
襲撃事件の後始末に関する報告書。バルトレット子-爵家の不正な金の流れを示す証拠のリスト。そして、王宮内部の派閥の動向を探る密偵からの、暗号化された手紙。
私は、それらの情報を分類し、要点をまとめ、彼が判断を下しやすいように整理していく。
それは、貴族令嬢の教養とは全く違う、緻密で、論理的な思考を要求される作業だった。
しかし、私には「耳」があった。
書類に記された文字の裏にある、報告者の感情の揺らぎ。証言の微かな不協和音。それらを読み解くことで、私は単なる情報整理以上の、彼にとって有益な分析を提供することができた。
『この証言には、保身のための嘘が混じっています』
『この報告書を書いた文官は、何かを隠している可能性があります』
私の小さなメモ書きを、彼は黙って読み、そして彼の戦略に組み込んでいった。
私たちの間には、もうぎこちなさはなかった。
会話は、ほとんどない。交わす言葉は、業務に関する、必要最低限のものだけ。
しかし、その静寂は、以前の冷たいものではなかった。
同じ目的に向かって戦う、共犯者同士の、信頼に満ちた静寂。
私は、彼の背中を追いかけるようにして、必死で知識を吸収した。王国の法律、貴族間の複雑な関係、そして、彼が戦う世界の冷徹な掟。
その全てが、私を強くした。
私はもう、ただ守られるだけのか弱い小娘ではなかった。
彼の、右腕とまではいかなくとも、その小指くらいにはなれている。そのささやかな自負が、私の心を支えていた。

しかし、そんな日々が続く中で、私は気づき始めていた。
彼の、変化に。
彼は、以前にも増して、自分を追い詰めるように仕事に没頭するようになった。睡眠時間は日に日に削られ、食事も執務室で簡単に済ませることが多くなった。
彼の纏う静寂は、時折、ひどく張り詰めた、危険な響きを帯びるようになった。私の耳に聞こえる、彼の心の軋む音も、以前よりずっと大きく、そして痛々しくなっている。
彼は、焦っている。
そして、何かに、怯えている。
呪い。
『愛する者を、その手で不幸にする』
その言葉が、亡霊のように彼の心を蝕んでいるのだ。
私という存在が、彼の隣で確かな価値を持ち始めれば持つほど。私との絆が、深まれば深まるほど。
彼は、その呪いの恐怖に、苛まれることになる。
私を守るために、私を遠ざけようとした。しかし、私はそれを拒絶し、彼の懐に飛び込んでしまった。
その結果、彼は今、自らの内に巣食う呪いと、たった一人で戦い続けているのだ。
その事実に気づいた時、私の胸は、張り裂けそうなほどの痛みに襲われた。
私は、彼の力になりたいと願った。
しかし、私の存在そのものが、彼を苦しめている。
この矛盾。この、どうしようもない現実。
私は、どうすればいいのだろう。
彼から離れるべきなのか。それとも、このまま彼の隣に居続けるべきなのか。
答えの出ない問いが、私の頭の中をぐるぐると回り続けた。

そんなある夜のことだった。
深夜、私は執務室で、彼と共に最後の報告書に目を通していた。窓の外は、完全な闇に包まれている。
「…今日は、もういいだろう。お前は部屋に戻れ」
彼が、疲れの滲む声で言った。その目の下には、濃い隈が刻まれている。
「…閣下も、少しお休みになった方が」
「俺のことは、お前が気にする必要はない」
彼の、冷たい拒絶。
しかし、私はもう、その言葉に傷つかなかった。
私は、静かに立ち上がった。そして、彼の机の前まで歩み寄る。
彼は、怪訝そうな顔で私を見上げた。
私は、何も言わずに、彼の前に、一枚の羊皮紙を差し出した。
それは、私がこの数日間、図書室の古文書を調べ上げ、書き出したものだった。
「…これは」
彼は、その羊皮紙を受け取った。
そこに記されていたのは、エルヴァイン家に伝わる呪いに関する、全ての記録。歴代当主の悲劇的な死。八代目当主が残した、苦悩の書き付け。
そして、その呪いをかけたという、古代魔術師一族の、名前と、その特徴。
「…どこで、これを」
彼の声が、微かに震えていた。
「図書室の、特別書庫に」
私は、静かに答えた。
「わたくしは、知りました。あなたが、何を恐れ、何と戦っているのか」
彼は、羊皮紙を握りしめたまま、言葉を失っていた。その氷の仮面が、わずかに揺らいでいる。
私は、続けた。
涙は見せなかった。ただ、私のありったけの思いを、言葉に乗せて。
「だからこそ、わたくしは、ここにいます」
「あなたは、わたくしを遠ざけようとした。わたくしを、その呪いから守るために」
「でも、それは間違いです。閣下」
私は、彼の金色の瞳を、真っ直гуに見つめ返した。
「わたくしにとっての本当の不幸は、あなたに守られ、安全な場所で生きることではありません」
「わたくしにとっての本当の不幸は、あなたが一人で苦しんでいるのを、ただ指をくわえて見ていることです」
「あなたが、その呪いに心を蝕まれ、孤独な闇の中に沈んでいくのを、止められないことです」
私の声は、震えていなかった。
それは、私の、魂からの誓いだった。
「たとえ、この身に何が起ころうとも。たとえ、その呪いが真実で、わたくしが不幸になるのだとしても」
私は、一歩、彼の机に近づいた。
そして、宣言したのだ。
「それでも、私はあなたの力になりたいのです」
その言葉が、静寂の執務室に、凛と響き渡った。
彼は、私の言葉を、その全身で受け止めていた。
その金色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
彼の心の奥底で、固く凍りついていた何かが、ぱきり、と音を立てて、ひび割れるのが、私の耳には確かに聞こえた。
それは、絶望の音ではなかった。
長い冬の終わりを告げる、氷解の、始まりの音だった。
彼は、何も言えなかった。
ただ、私の瞳の中に、自分の知らない、強い光が燃え上がっているのを、呆然と見つめているだけだった。
この夜を境に、私たち二人の関係は、新たな局面を迎えることになる。
それは、愛か、あるいは破滅か。
その答えを、私たちはまだ、知らなかった。
ただ、もう引き返すことはできない。その確かな覚悟だけが、私たちの間に、静かに、そして熱く存在していた。
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