偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

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第六十二話 孤独ではない場所

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作戦司令室の静寂は、もはや冷たいものではなかった。
私の前に跪く二人の腹心。執事頭のギルバートと、護衛騎士隊長のレオンハルト。彼らの心から響いてくるのは、一点の曇りもない絶対的な忠誠の和音だった。
「…顔を上げてください」
私の声は涙で微かに震えていた。
「わたくしはあなた方の主君ではありません。わたくしは閣下と共に戦うただの仲間です。だから、どうかこれからも力を貸してください」
私の言葉に、二人はゆっくりと顔を上げた。その瞳にはもう疑いの色はない。あるのは私という新たな仲間への揺るぎない信頼と、共に戦うことへの熱い決意だけだった。
孤独だった。
ずっと一人で不協和音の世界に耐えてきた。
しかし、今は違う。
私の隣には絶対的な静寂をくれるゼノン公爵がいる。
そして、私の前には私を信じ、支えてくれる頼もしい仲間たちがいる。
私はもう孤独ではない。
その確かな実感が、私の心を今まで感じたことのないほどの温かい光で満たしていく。
部屋の隅で、ゼノン公爵がその全ての光景を静かに見守っていた。
その氷の仮面の下で、彼の口元が満足げな、そしてほんの少しだけ誇らしげな笑みを描いていたことを。その時の私は、まだ気づいてはいなかった。
「…さて」
やがて彼は空気を引き締めるように、短く言った。
「茶番は終わりだ。これより、本当の作戦会議を始める」
その声にギルバートとレオンハルトは、弾かれたように立ち上がり主君の前に直立した。彼らの顔はもはやただの腹心ではない。巨大な敵に立ち向かう、司令官の幕僚としての厳しい覚悟に満ちていた。

ゼノン公爵は巨大な相関図の前に立った。その指が蜘蛛の巣の中心にいる王弟殿下の名を強く指し示す。
「我々の最終目標は、王弟殿下とその一派を断罪し、この国に巣食う腐敗の根を完全に断ち切ることだ。アルフォンス王子やクライノート家の令嬢は、そのための駒に過ぎん。だが」
彼は相関図全体を見渡した。
「黒幕は極めて慎重だ。決して自らに繋がる直接的な証拠は残さない。我々が王宮から手に入れた『第二の帳簿』も、金の流れは示しているが王弟殿下が直接指示したという証拠にはならん」
彼の言葉にギルバートが静かに頷いた。
「おっしゃる通りです、閣下。王弟殿下を追い詰めるには、奴らを自ら動かしその尻尾を掴むしかありますまい。そのためには、まず最も扱いやすい駒から崩していくのが定石かと」
老執事の目は、アルフォンス王子とリゼットの名が記された区画を冷徹に見据えていた。
「情報戦、ということか」
「はい。アルフォンス王子は愚かでプライドが高い。そして閣下に対して強烈な劣等感を抱いております。その心を煽り、焦らせ、判断を誤らせるのです。偽の情報を掴ませ、彼が我々の掌の上で踊るように仕向けるのです」
ギルバートの提案は、老練な謀略家ならではの緻密で狡猾なものだった。
続いてレオンハルトが口を開いた。
「武力の面からも仕掛けることは可能です。王子派の騎士団の中には金や地位で寝返る、忠誠心の薄い者も少なくない。彼らに接触し、内部から情報を攪乱させ、いざという時には我々の手駒として動かすこともできましょう」
騎士団長としての実直で、しかし確実な作戦。
二人の腹心の言葉をゼノン公爵は静かに聞いていた。
そして、その視線が私へと向けられた。
「アリーシャ。お前ならどうする」
その問いは私を試すものではなかった。
純粋に私の意見を、この作戦の一つの重要な要素として求めている。
私は息を呑んだ。そして、この数ヶ月の間に私が見てきた敵の顔を思い浮かべた。
「…わたくしは、リゼットから攻めるべきだと考えます」
私の言葉に、三人の男たちの視線が一斉に私へと注がれた。
「リゼットは…妹は、アルフォンス殿下を意のままに操っています。彼女は、この陰謀のいわば『感情』を司る部分です。そして、彼女の行動原理はただ一つ」
私はきっぱりと言った。
「異常なまでの虚栄心と嫉妬心です」
夜会の記憶が鮮明に蘇る。私に向けられたあの偽りの笑顔と、その裏で渦巻いていたおぞましい不協和音。
「彼女は誰よりも注目され、賞賛されることを望んでいます。そして、わたくしが閣下の『婚約者』として彼女以上の立場にいることが、我慢ならないはずです」
「…その感情を、利用すると?」
ゼノン公爵が低い声で促した。
「はい。わたくしが彼女が主催するお茶会や夜会にあえて出席するのです。そして、彼女の目の前で閣下との親密さを見せつけ、彼女が最も欲しがるもの…つまり、周囲の注目と賞賛を全て奪い去るのです」
私の提案にレオンハルトが眉をひそめた。
「しかし、アリーシャ様! それはあまりにも危険です! あなた様を敵の巣のど真ん中に自ら差し出すようなものでは…!」
「分かっています。ですが、レオンハルト。追い詰められ嫉妬に狂った人間ほど多くの嘘をつき、多くの失言をするものはありません。わたくしの耳は、その瞬間を決して聞き逃しはしません」
私はレオンハルトの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「わたくしはただの囮ではありません。敵の心を乱し、情報を引き出すための攻撃的な『罠』です」
私の言葉に、司令室は再び沈黙に包まれた。
しかし、それはもう疑念の沈黙ではなかった。
私の覚悟と、その作戦の持つ危険性、そして有効性を三人の男たちがそれぞれの立場で真剣に吟味している沈黙だった。
最初にその沈黙を破ったのはゼノン公爵だった。
「…面白い」
彼の口元に、獰猛な、しかしどこか楽しげな笑みが浮かんだ。
「敵の土俵に上がり、その心を直接攻撃する、か。お前らしいやり方だ」
彼はギルバートとレオンハルトに向き直った。
「作戦の骨子は決まった。ギルバート、お前はリゼット嬢の周辺の情報をさらに徹底的に集めろ。彼女が次に開く茶会の詳細、参加者リスト、その全てだ。レオンハルト、お前は当日の警護計画を寸分の隙もなく練り上げろ。アリーシャの安全が最優先事項だ」
「「御意!」」
二人の腹心が力強く応える。
こうして、私たちの反撃の第一歩が決定された。
私が自らの意思で提案し、そして採用された最初の作戦。
その事実に、私の胸は喜びと、そして同時に身が引き締まるような重い責任感で満たされていた。
私はもうただの駒ではない。
この戦局を動かす重要なチェスプレイヤーの一人なのだ。
作戦司令室に満ちる、静かでしかし熱い決意。
反撃の狼煙は今、静かに、しかし確かに上がった。
孤独ではない場所で信頼できる仲間たちと、私はこれから本当の戦いを始めるのだ。
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