偽りの聖女と呪われた公爵様〜嘘が聞こえる私が、心を閉ざした彼と結ぶ偽りの婚約〜

夏見ナイ

文字の大きさ
61 / 64

第六十三話 心の音色

しおりを挟む
あの日、作戦司令室で腹心たちの忠誠を得てから、エルヴァイン公爵邸の空気は確かに変わった。
それはまるで完璧に調律された楽器だけが集められたオーケストラの稽古場のような空気だった。それぞれのパートが互いの音を信頼し、指揮者であるゼノン公爵のタクトの下、一つの完璧なハーモニーを奏でるために、静かに、しかし熱くその時を待っている。
ギルバートは、その老練な手腕で水面下で着々と情報を集め、反撃のための布石を打っていた。レオンハルトは、私を警護する騎士たちを再編成し、来るべき戦いに備えて訓練に明け暮れている。
彼らの心から聞こえてくるのは、もう私への戸惑いではない。同じ目的を持つ仲間への揺るぎない信頼の和音だけだった。
そして、私自身もまた、ただ待っているだけではいられなかった。
リゼットの虚栄心を利用する。そう提案したのは私だ。ならば、その作戦を成功させるために私は自らの武器をさらに研ぎ澄まさなければならない。
「閣下。お願いがございます」
ある日の午後、私は執務室のゼノン公爵にそう切り出した。
「わたくしの『耳』をもっと鍛えたいのです」
彼は書類から顔を上げた。その金色の瞳が興味深そうに私を見つめる。
「鍛える、だと?」
「はい。ただ嘘を見抜くだけでは足りません。リゼットのような巧妙な嘘つきを相手にするには、その嘘の裏にある本当の感情…悪意なのか、保身なのか、あるいは恐怖なのか。その音色の違いを正確に聞き分ける必要があります」
私の真剣な申し出に、彼はしばらく黙考していたが、やがてその口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「面白い。よかろう。俺が直々に稽古をつけてやる」

その日から、私の新たな訓練が始まった。
場所は防音の魔法が施された、城の地下にある一室。そこには私とゼノン公爵、そして時折レオンハルトが加わるだけだった。
「いいか、アリーシャ。嘘の音は感情によってその響きを変える。恐怖に駆られた嘘は高く、そして細く震える。ガラスがひび割れるような音だ。保身のための嘘は低く、そして濁っている。沼の底で空気が弾けるような鈍い音になる」
彼の指導は護身術の時と同じく、的確で一切の無駄がなかった。
最初の訓練は、彼が様々な感情を込めて私に嘘の言葉を投げかけるというものだった。
「俺は甘いものが嫌いだ」
彼はそう言った。その声はいつものように平坦だ。
私は目を閉じ、その音の響きだけに集中する。
「…嘘、です。ですが、それはただの嘘。そこに感情はありません。事実を捻じ曲げただけの無機質な不協和音です」
「正解だ」
彼は次にレオンハルトに目配せした。
レオンハルトはごくりと喉を鳴らし、意を決したように口を開いた。
「俺は…閣下よりも、剣の腕が立つ」
その言葉は震えていた。
「嘘、です。そして、その音は恐怖からくる嘘。主君に対して不敬な言葉を口にすることへの強い恐れが、音を高く不安定に震わせています」
私の答えに、レオンハルトは驚きと安堵が入り混じった顔で息を吐いた。
訓練は次第に難易度を上げていった。
ゼノン公爵は実際にあった過去の外交交渉や、裏切り者の尋問の記録を持ち出し、その時の相手の言葉を感情まで込めて再現してみせた。
「『我々は王国との友好を心から願っております』」
彼の声は、完璧な友好国の使節のそれだった。
しかし、私の耳にはその滑らかな言葉の裏に隠された微かな不協和音が聞こえていた。
「…嘘、です。そして、これは…保身の音。自国の不利な状況を隠し、有利な条件を引き出すための計算された嘘。音の響きは安定していますが、その底に澱んだ泥のような濁った響きがあります」
「…見事だ」
彼は初めて心からの感嘆の声を漏らした。その金色の瞳が、私の能力の底知れなさを改めて見定めるように細められる。
訓練は何日も続いた。
私は彼の指導の下、驚異的な速さで心の音色を聞き分ける術を吸収していった。
悪意は、錆びた鉄が擦れるような耳障りな音。
嫉妬は、甲高くそして粘つくような不快な音。
虚栄心は、中身のない大きな鐘が空虚に鳴り響くような音。
私の耳はもはやただの嘘発見器ではなかった。それは人の心の深淵を覗き込み、その魂の色さえも見抜く鋭利な刃へと変貌を遂げつつあった。

訓練の合間、私たちは言葉を交わすようになった。
「レオンハルト。あなたは本当に正直な人ですわね。あなたの心からはいつも真っ直ぐな音しか聞こえてきません」
私がそう言うと、彼は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「も、もったいないお言葉です…!」
その純粋な反応に、私とゼノン公爵は思わず顔を見合わせて微かに笑みを交わした。
ギルバートもまた、訓練の成果を確かめるように時折顔を見せた。
「これは先日リゼット嬢が購入した宝飾品のリストです。彼女の取り巻きの令嬢たちに自らの裕福さを誇示するために、身の丈に合わない買い物を続けているようですな」
老執事の報告を聞きながら、私は目を閉じる。
リゼット。虚栄心。
ああ、聞こえるようだ。中身のない空虚な鐘の音が、けたたましく鳴り響くのが。
その音は必ず彼女を破滅へと導くだろう。

ある夜、いつものように地下の一室で集中力を使い果たした私が、ぐったりと椅子に座り込んでいると。
ゼノン公爵が音もなく、一つのカップを私の前に置いた。
湯気の立つ温かいミルク。甘い蜂蜜の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「…ありがとうございます」
私が礼を言うと、彼は私の向かいの椅子に腰を下ろした。
「無理はするな」
その声は不器用で、しかし確かな優しさに満ちていた。
「お前は俺の最強の武器だ。だが、同時に…」
彼はそこで言葉を切った。
そして、何かを言うのを躊躇うように視線を彷徨わせる。
その珍しく人間らしい彼の姿に、私の胸は温かくなった。
私は彼の言いたいことを、もう音で理解していた。
『唯一無二の、大切な存在だ』
彼の心の中でその言葉が、声にならない美しい和音となって確かに響いていた。
私は何も言わずに、ただ温かいミルクを一口飲んだ。
その甘さが疲れた心と体にじんわりと染み渡っていく。
言葉にしなくてもいい。
私たちはもう、心の音で会話ができるのだから。

そして、その数日後。
ギルバートが、一枚の招待状を手に私の部屋を訪れた。
「アリーシャ様。リゼット嬢が主催するお茶会の日取りが決まりました」
その言葉に、私は読んでいた本から静かに顔を上げた。
カップに残っていたミルクを最後の一滴まで飲み干す。
そして、私は立ち上がった。
その瞳には、これから始まる戦いへの揺るぎない決意の光が宿っていた。
私の耳は、もう準備ができている。
偽りの天使が奏でる、破滅のプレリュードを聞きに行くために。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

聖女解任ですか?畏まりました(はい、喜んでっ!)

ゆきりん(安室 雪)
恋愛
私はマリア、職業は大聖女。ダグラス王国の聖女のトップだ。そんな私にある日災難(婚約者)が災難(難癖を付け)を呼び、聖女を解任された。やった〜っ!悩み事が全て無くなったから、2度と聖女の職には戻らないわよっ!? 元聖女がやっと手に入れた自由を満喫するお話しです。

【完結】大聖女は無能と蔑まれて追放される〜殿下、1%まで力を封じよと命令したことをお忘れですか?隣国の王子と婚約しましたので、もう戻りません

冬月光輝
恋愛
「稀代の大聖女が聞いて呆れる。フィアナ・イースフィル、君はこの国の聖女に相応しくない。職務怠慢の罪は重い。無能者には国を出ていってもらう。当然、君との婚約は破棄する」 アウゼルム王国の第二王子ユリアンは聖女フィアナに婚約破棄と国家追放の刑を言い渡す。 フィアナは侯爵家の令嬢だったが、両親を亡くしてからは教会に預けられて類稀なる魔法の才能を開花させて、その力は大聖女級だと教皇からお墨付きを貰うほどだった。 そんな彼女は無能者だと追放されるのは不満だった。 なぜなら―― 「君が力を振るうと他国に狙われるし、それから守るための予算を割くのも勿体ない。明日からは能力を1%に抑えて出来るだけ働くな」 何を隠そう。フィアナに力を封印しろと命じたのはユリアンだったのだ。 彼はジェーンという国一番の美貌を持つ魔女に夢中になり、婚約者であるフィアナが邪魔になった。そして、自らが命じたことも忘れて彼女を糾弾したのである。 国家追放されてもフィアナは全く不自由しなかった。 「君の父親は命の恩人なんだ。私と婚約してその力を我が国の繁栄のために存分に振るってほしい」 隣国の王子、ローレンスは追放されたフィアナをすぐさま迎え入れ、彼女と婚約する。 一方、大聖女級の力を持つといわれる彼女を手放したことがバレてユリアンは国王陛下から大叱責を食らうことになっていた。

【完結】慰謝料は国家予算の半分!?真実の愛に目覚めたという殿下と婚約破棄しました〜国が危ないので返して欲しい?全額使ったので、今更遅いです

冬月光輝
恋愛
生まれつき高い魔力を持って生まれたアルゼオン侯爵家の令嬢アレインは、厳しい教育を受けてエデルタ皇国の聖女になり皇太子の婚約者となる。 しかし、皇太子は絶世の美女と名高い後輩聖女のエミールに夢中になりアレインに婚約破棄を求めた。 アレインは断固拒否するも、皇太子は「真実の愛に目覚めた。エミールが居れば何もいらない」と口にして、その証拠に国家予算の半分を慰謝料として渡すと宣言する。 後輩聖女のエミールは「気まずくなるからアレインと同じ仕事はしたくない」と皇太子に懇願したらしく、聖女を辞める退職金も含めているのだそうだ。 婚約破棄を承諾したアレインは大量の金塊や現金を規格外の収納魔法で一度に受け取った。 そして、実家に帰ってきた彼女は王族との縁談を金と引き換えに破棄したことを父親に責められて勘当されてしまう。 仕事を失って、実家を追放された彼女は国外に出ることを余儀なくされた彼女は法外な財力で借金に苦しむ獣人族の土地を買い上げて、スローライフをスタートさせた。 エデルタ皇国はいきなり国庫の蓄えが激減し、近年魔物が増えているにも関わらず強力な聖女も居なくなり、急速に衰退していく。

騎士団長を追放した平和ボケ王国は、七日で滅びました

藤原遊
ファンタジー
長らく戦のなかった王国で、 騎士団長の父を病で失った令嬢は、その座を引き継いだ。 だが王城に呼び出された彼女に告げられたのは、 騎士団の解体と婚約破棄。 理由はただ一つ―― 「武力を持つ者は危険だから」。 平和ボケした王子は、 非力で可愛い令嬢を侍らせ、 彼女を“国の火種”として国外追放する。 しかし王国が攻められなかった本当の理由は、 騎士団長家が持つ“戦況を覆す力”への恐れだった。 追放された令嬢は、即座に隣国帝国へ迎えられ、 軍人として正当に評価され、安泰な地位を得る。 ――そして一週間後。 守りを捨てた王国は、あっけなく陥落した。 これは、 「守る力」を理解しなかった国の末路と、 追放された騎士団長令嬢のその後の物語。

【完結】無能聖女と呼ばれ婚約破棄された私ですが砂漠の国で溺愛されました

よどら文鳥
恋愛
エウレス皇国のラファエル皇太子から突然婚約破棄を告げられた。 どうやら魔道士のマーヤと婚約をしたいそうだ。 この国では王族も貴族も皆、私=リリアの聖女としての力を信用していない。 元々砂漠だったエウレス皇国全域に水の加護を与えて人が住める場所を作ってきたのだが、誰も信じてくれない。 だからこそ、私のことは不要だと思っているらしく、隣の砂漠の国カサラス王国へ追放される。 なんでも、カサラス王国のカルム王子が国の三分の一もの財宝と引き換えに迎え入れたいと打診があったそうだ。 国家の持つ財宝の三分の一も失えば国は確実に傾く。 カルム王子は何故そこまでして私を迎え入れようとしてくれているのだろうか。 カサラス王国へ行ってからは私の人生が劇的に変化していったのである。 だが、まだ砂漠の国で水など殆どない。 私は出会った人たちや国のためにも、なんとしてでもこの国に水の加護を与えていき住み良い国に変えていきたいと誓った。 ちなみに、国を去ったエウレス皇国には距離が離れているので、水の加護はもう反映されないけれど大丈夫なのだろうか。

腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。

四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」 突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。

【完結】 ご存知なかったのですね。聖女は愛されて力を発揮するのです

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 本当の聖女だと知っているのにも関わらずリンリーとの婚約を破棄し、リンリーの妹のリンナールと婚約すると言い出した王太子のヘルーラド。陛下が承諾したのなら仕方がないと身を引いたリンリー。  リンナールとヘルーラドの婚約発表の時、リンリーにとって追放ととれる発表までされて……。

追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?

タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。 白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。 しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。 王妃リディアの嫉妬。 王太子レオンの盲信。 そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。 「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」 そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。 彼女はただ一言だけ残した。 「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」 誰もそれを脅しとは受け取らなかった。 だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。

処理中です...