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第23話 秘密の通信
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自分の心に「恋」という名前をつけてしまってから、私の日常は静かな地獄へと変わった。
魔王城のどこにいても、何をしていても、思考は常にアルフレッドという存在に引き戻される。それは、強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、抗うことのできない引力だった。
訓練場で魔法を放てば、彼の聖剣がいかにしてそれを防いだかを思い出してしまう。
食堂で味気ない食事を口にすれば、あのクレープの衝撃的な甘さが舌の上で蘇る。
書庫で戦術書を開けば、共に遺跡の謎を解いた時の、あの奇妙な一体感が胸をよぎる。
そして何より私を苦しめたのは、夜、一人でベッドに横たわる時間だった。
闇と静寂は、私の心を無防備にする。罪悪感と、焦がれるような想い。その二つの感情が、寄せては返す波のように私の心を打ち続け、眠ることを許してくれない。
魔王様への裏切り。
その言葉が、鉛のように重くのしかかる。
私は、あの絶対的な忠誠心で満たされていた頃の自分に、もう戻ることはできないのだろうか。アルフレッドを知らなかった頃の、迷いのない自分に。
レヴィの言葉が、脳裏で反響する。
『向き合うのさ。自分の心と。そして、選ぶんだ』
しかし、選ぶことなどできはしない。忠誠と恋、そのどちらか一方を選ぶことは、もう一方を完全に切り捨てることと同義だ。今の私に、そんな決断ができるはずもなかった。
私は、光と闇の狭間で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
そんなある夜のことだった。
いつものように眠れぬまま、自室の窓辺に座り、二つの月が浮かぶ夜空をぼんやりと眺めていた。
その時、不意に、私の頭の中に直接響くような、微かなノイズが聞こえた。
キーン、という金属音のような、それでいてどこか温かい音。
私は咄嗟に身構えた。精神攻撃か? あるいは、城内に侵入した敵からの魔力干渉か?
私はすぐさま自分の周囲に防御結界を展開し、意識を集中させてノイズの発生源を探った。それは、外部から強制的に私の精神に干渉しようとする、一方的な魔力の流れだった。しかし、その魔力には、敵意や悪意といったものが全く感じられない。むしろ、どこか懐かしい。清らかで、温かい、光の魔力。
治癒魔法。
あの時、彼が私にかけてくれた魔法と同じ質の力だ。
私が戸惑っていると、ノイズは徐々にクリアな形を成していき、やがてそれは、一つの声となって私の頭の中に直接響き渡った。
『リディア、聞こえるかい? 僕だ、アルフレッドだ』
「……っ!?」
私は息を呑み、思わず立ち上がった。
アルフレッドの声。間違いない。戦場で、遺跡で、何度も聞いた彼の声だ。
なぜ? どうやって? ここは魔王城の、私の私室。いかなる魔法も、外部からの侵入を許さないはず。
混乱する私の思考を読んだかのように、彼の声が続いた。
『驚かせてすまない。これは、僕の聖剣の力を使った特殊な通信魔法なんだ。君の強大な魔力は、暗闇の中の灯台のように、僕にははっきりと見える。だから、君にだけ繋がる道を開くことができた』
彼の説明は、私の魔法理論の常識を遥かに超えていた。聖剣には、そんなことまで可能なのか。
『君と話がしたい。ただ、それだけなんだ。戦いのためじゃない。僕個人の願いとして、君と』
「黙りなさい!」
私は意識の中で、叫んだ。
「こんな真似をして、何のつもり!? 私をここから誘き出す罠でしょう!」
そうだ。これは罠に違いない。私の心をさらに掻き乱し、判断を誤らせるための、卑劣な罠だ。
私は彼の通信を、自らの魔力で強制的に断ち切ろうとした。しかし、彼の声は、私の抵抗をすり抜けるように、優しく語りかけてくる。
『罠じゃない。信じられないかもしれないが、僕はただ、君の無事を確かめたかった。そして、君の声が聞きたかったんだ。遺跡での君は、とても苦しそうに見えたから』
彼の言葉が、私の心の最も柔らかな部分を突き刺した。
私の、苦しみ。彼は、それに気づいていたというのか。
『もし君が何かを思い悩んでいるのなら、その話を聞きたい。僕は、君の敵かもしれないけれど……君の力になりたいんだ』
やめて。
そんな優しい声で、語りかけないで。
私の決意が、固めたはずの心が、また揺らいでしまう。
これは裏切りだ。敵と、私的に通信するなど。
魔王様が知れば、今度こそ許されはしないだろう。
分かっている。分かっているのに。
彼の声を聞いてしまったら、もう駄目だった。会いたい。話がしたい。この胸を締め付ける苦しみの正体を、彼に会って確かめたい。その抗いがたい欲求が、私の忠誠心を、罪悪感を、猛烈な勢いで侵食していく。
私は、唇を強く噛み締めた。
血の味が、口の中に広がる。その鉄の味が、かろうじて私の理性を繋ぎ止めていた。
私の沈黙が、彼には拒絶と受け取られたのかもしれない。
『……無理にとは、言わない。でも、僕は諦めないよ。君が心を開いてくれるまで、何度でもこうして語りかけるつもりだ』
その言葉に、私は観念した。
このままでは、毎夜彼の声に悩まされることになる。それは、拷問に等しい。
そして何より、私自身が、この中途半端な状況に耐えられそうになかった。
白黒つけなければならない。
この男が何を考えているのか。その真意を確かめ、そしてきっぱりと拒絶する。そうでなければ、私は前に進めない。
私は、長い、長い葛藤の末に、ついに口を開いた。
意識を、彼の声へと繋げる。
『……何の、用なの』
それは、自分でも驚くほどか細く、震えた声だった。
その声を聞いた瞬間、通信の向こう側で、彼が息を呑む気配が伝わってきた。そして、心からの安堵が、魔力の波に乗って私にまで届く。
『リディア……! 応えてくれたんだな。ありがとう』
彼の声が、少しだけ弾んでいる。その純粋な喜びに、私の胸がチクリと痛んだ。
『用件だけ、言いなさい。長話に付き合うつもりはないわ』
私は、精一杯の虚勢を張った。
『ああ、分かっている。……単刀直入に言うよ』
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
『会って、話がしたい。二人きりで。誰にも邪魔されない場所で』
やはり、そう来たか。
私は警戒心を最大まで引き上げた。
『それは、罠でしょう。私を誘き出して、殺すつもりか、あるいは捕虜にするつもりね』
『君を殺すくらいなら、僕は自分を殺すよ』
彼は、間髪入れずに、きっぱりとそう言いきった。その言葉には、一片の嘘も、冗談も含まれていなかった。あまりにも真っ直ぐで、あまりにも真摯なその響きに、私の疑念は根拠を失って霧散していく。
『……信じられると、思うの?』
『信じてほしい。君にだけは』
私は、もう彼を拒絶する言葉を持たなかった。
彼の言葉を、信じたいと思ってしまっている自分がいた。
この男なら、本当に私を傷つけたりはしないだろう。そんな、何の根拠もない確信が、私の心に芽生えていた。
私は、ゆっくりと息を吸い込み、そして、運命を決定づける言葉を口にした。
『……分かったわ』
自分で言った言葉に、自分で驚いていた。
引き返せない橋を渡ってしまった。そんな確かな実感があった。
『本当かい!?』
彼の喜びが、再び私に伝わってくる。
『ただし、少しでも怪しい素振りを見せたら、その時は容赦しないわ。あなたを、この手で殺す』
『ああ、構わない。約束するよ。君を危険な目には絶対に遭わせない』
彼は、会う場所と時間を指定した。
三日後の夜半、二つの月が天頂で重なる時刻に、人間領と魔王領のちょうど中間に位置する、「忘れられた境界の神殿」で、と。
そこは、古代から聖域として扱われ、人間も魔族も立ち入らない場所だという。
約束を取り付けると、彼は名残惜しそうに通信を切った。
『また、三日後に。楽しみにしているよ、リディア』
彼の声が消え、私の部屋に再び静寂が戻る。
私は、その場にへたり込んだ。全身から力が抜け、指先が氷のように冷たい。
私は、とんでもない約束をしてしまった。
魔王軍四天王でありながら、敵である勇者と、二人きりで密会する。
それは、いかなる言い訳も通用しない、完全な裏切り行為だった。
しかし、不思議と後悔はなかった。
あるのは、これから起こることへの恐怖と、そして、彼の真意を知ることができるという、黒い喜びにも似た、微かな期待だけ。
私は、約束の場所へ向かう自分を、もう止めることができないと悟っていた。
三日後、私は破滅への扉を、自らの手で開けることになるのだ。
魔王城のどこにいても、何をしていても、思考は常にアルフレッドという存在に引き戻される。それは、強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、抗うことのできない引力だった。
訓練場で魔法を放てば、彼の聖剣がいかにしてそれを防いだかを思い出してしまう。
食堂で味気ない食事を口にすれば、あのクレープの衝撃的な甘さが舌の上で蘇る。
書庫で戦術書を開けば、共に遺跡の謎を解いた時の、あの奇妙な一体感が胸をよぎる。
そして何より私を苦しめたのは、夜、一人でベッドに横たわる時間だった。
闇と静寂は、私の心を無防備にする。罪悪感と、焦がれるような想い。その二つの感情が、寄せては返す波のように私の心を打ち続け、眠ることを許してくれない。
魔王様への裏切り。
その言葉が、鉛のように重くのしかかる。
私は、あの絶対的な忠誠心で満たされていた頃の自分に、もう戻ることはできないのだろうか。アルフレッドを知らなかった頃の、迷いのない自分に。
レヴィの言葉が、脳裏で反響する。
『向き合うのさ。自分の心と。そして、選ぶんだ』
しかし、選ぶことなどできはしない。忠誠と恋、そのどちらか一方を選ぶことは、もう一方を完全に切り捨てることと同義だ。今の私に、そんな決断ができるはずもなかった。
私は、光と闇の狭間で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
そんなある夜のことだった。
いつものように眠れぬまま、自室の窓辺に座り、二つの月が浮かぶ夜空をぼんやりと眺めていた。
その時、不意に、私の頭の中に直接響くような、微かなノイズが聞こえた。
キーン、という金属音のような、それでいてどこか温かい音。
私は咄嗟に身構えた。精神攻撃か? あるいは、城内に侵入した敵からの魔力干渉か?
私はすぐさま自分の周囲に防御結界を展開し、意識を集中させてノイズの発生源を探った。それは、外部から強制的に私の精神に干渉しようとする、一方的な魔力の流れだった。しかし、その魔力には、敵意や悪意といったものが全く感じられない。むしろ、どこか懐かしい。清らかで、温かい、光の魔力。
治癒魔法。
あの時、彼が私にかけてくれた魔法と同じ質の力だ。
私が戸惑っていると、ノイズは徐々にクリアな形を成していき、やがてそれは、一つの声となって私の頭の中に直接響き渡った。
『リディア、聞こえるかい? 僕だ、アルフレッドだ』
「……っ!?」
私は息を呑み、思わず立ち上がった。
アルフレッドの声。間違いない。戦場で、遺跡で、何度も聞いた彼の声だ。
なぜ? どうやって? ここは魔王城の、私の私室。いかなる魔法も、外部からの侵入を許さないはず。
混乱する私の思考を読んだかのように、彼の声が続いた。
『驚かせてすまない。これは、僕の聖剣の力を使った特殊な通信魔法なんだ。君の強大な魔力は、暗闇の中の灯台のように、僕にははっきりと見える。だから、君にだけ繋がる道を開くことができた』
彼の説明は、私の魔法理論の常識を遥かに超えていた。聖剣には、そんなことまで可能なのか。
『君と話がしたい。ただ、それだけなんだ。戦いのためじゃない。僕個人の願いとして、君と』
「黙りなさい!」
私は意識の中で、叫んだ。
「こんな真似をして、何のつもり!? 私をここから誘き出す罠でしょう!」
そうだ。これは罠に違いない。私の心をさらに掻き乱し、判断を誤らせるための、卑劣な罠だ。
私は彼の通信を、自らの魔力で強制的に断ち切ろうとした。しかし、彼の声は、私の抵抗をすり抜けるように、優しく語りかけてくる。
『罠じゃない。信じられないかもしれないが、僕はただ、君の無事を確かめたかった。そして、君の声が聞きたかったんだ。遺跡での君は、とても苦しそうに見えたから』
彼の言葉が、私の心の最も柔らかな部分を突き刺した。
私の、苦しみ。彼は、それに気づいていたというのか。
『もし君が何かを思い悩んでいるのなら、その話を聞きたい。僕は、君の敵かもしれないけれど……君の力になりたいんだ』
やめて。
そんな優しい声で、語りかけないで。
私の決意が、固めたはずの心が、また揺らいでしまう。
これは裏切りだ。敵と、私的に通信するなど。
魔王様が知れば、今度こそ許されはしないだろう。
分かっている。分かっているのに。
彼の声を聞いてしまったら、もう駄目だった。会いたい。話がしたい。この胸を締め付ける苦しみの正体を、彼に会って確かめたい。その抗いがたい欲求が、私の忠誠心を、罪悪感を、猛烈な勢いで侵食していく。
私は、唇を強く噛み締めた。
血の味が、口の中に広がる。その鉄の味が、かろうじて私の理性を繋ぎ止めていた。
私の沈黙が、彼には拒絶と受け取られたのかもしれない。
『……無理にとは、言わない。でも、僕は諦めないよ。君が心を開いてくれるまで、何度でもこうして語りかけるつもりだ』
その言葉に、私は観念した。
このままでは、毎夜彼の声に悩まされることになる。それは、拷問に等しい。
そして何より、私自身が、この中途半端な状況に耐えられそうになかった。
白黒つけなければならない。
この男が何を考えているのか。その真意を確かめ、そしてきっぱりと拒絶する。そうでなければ、私は前に進めない。
私は、長い、長い葛藤の末に、ついに口を開いた。
意識を、彼の声へと繋げる。
『……何の、用なの』
それは、自分でも驚くほどか細く、震えた声だった。
その声を聞いた瞬間、通信の向こう側で、彼が息を呑む気配が伝わってきた。そして、心からの安堵が、魔力の波に乗って私にまで届く。
『リディア……! 応えてくれたんだな。ありがとう』
彼の声が、少しだけ弾んでいる。その純粋な喜びに、私の胸がチクリと痛んだ。
『用件だけ、言いなさい。長話に付き合うつもりはないわ』
私は、精一杯の虚勢を張った。
『ああ、分かっている。……単刀直入に言うよ』
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
『会って、話がしたい。二人きりで。誰にも邪魔されない場所で』
やはり、そう来たか。
私は警戒心を最大まで引き上げた。
『それは、罠でしょう。私を誘き出して、殺すつもりか、あるいは捕虜にするつもりね』
『君を殺すくらいなら、僕は自分を殺すよ』
彼は、間髪入れずに、きっぱりとそう言いきった。その言葉には、一片の嘘も、冗談も含まれていなかった。あまりにも真っ直ぐで、あまりにも真摯なその響きに、私の疑念は根拠を失って霧散していく。
『……信じられると、思うの?』
『信じてほしい。君にだけは』
私は、もう彼を拒絶する言葉を持たなかった。
彼の言葉を、信じたいと思ってしまっている自分がいた。
この男なら、本当に私を傷つけたりはしないだろう。そんな、何の根拠もない確信が、私の心に芽生えていた。
私は、ゆっくりと息を吸い込み、そして、運命を決定づける言葉を口にした。
『……分かったわ』
自分で言った言葉に、自分で驚いていた。
引き返せない橋を渡ってしまった。そんな確かな実感があった。
『本当かい!?』
彼の喜びが、再び私に伝わってくる。
『ただし、少しでも怪しい素振りを見せたら、その時は容赦しないわ。あなたを、この手で殺す』
『ああ、構わない。約束するよ。君を危険な目には絶対に遭わせない』
彼は、会う場所と時間を指定した。
三日後の夜半、二つの月が天頂で重なる時刻に、人間領と魔王領のちょうど中間に位置する、「忘れられた境界の神殿」で、と。
そこは、古代から聖域として扱われ、人間も魔族も立ち入らない場所だという。
約束を取り付けると、彼は名残惜しそうに通信を切った。
『また、三日後に。楽しみにしているよ、リディア』
彼の声が消え、私の部屋に再び静寂が戻る。
私は、その場にへたり込んだ。全身から力が抜け、指先が氷のように冷たい。
私は、とんでもない約束をしてしまった。
魔王軍四天王でありながら、敵である勇者と、二人きりで密会する。
それは、いかなる言い訳も通用しない、完全な裏切り行為だった。
しかし、不思議と後悔はなかった。
あるのは、これから起こることへの恐怖と、そして、彼の真意を知ることができるという、黒い喜びにも似た、微かな期待だけ。
私は、約束の場所へ向かう自分を、もう止めることができないと悟っていた。
三日後、私は破滅への扉を、自らの手で開けることになるのだ。
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