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第24話 束の間の逢瀬
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約束の夜が来た。
二つの月が、不吉なほどに赤く、そして大きく夜空に浮かんでいる。まるで、これから私が犯そうとしている罪を、天が見下ろしているかのようだった。
私は誰にも告げず、影のように魔王城を抜け出した。黒いマントで全身を覆い、フードを目深に被る。向かう先は、「忘れられた境界の神殿」。一度足を踏み入れれば、もう二度と、元の私には戻れないかもしれない場所。
何度も、引き返そうと思った。
これは罠だ。正気ではない。魔王様への裏切りだ。
そう頭の中で理性が叫ぶ。しかし、私の足は理性の声に逆らって、ただひたすらに約束の場所へと向かっていた。確かめなければならない。彼の真意を。そして、この私自身の心の正体を。
境界の神殿は、森の奥深くにひっそりと佇んでいた。
その名の通り、人々から忘れ去られたかのように、蔦に覆われ、静かな威厳を湛えている。ここには、人間も魔族も寄り付かない。聖域というよりも、禁足地といった方が近いのかもしれない。
神殿の入り口で、私は足を止めた。
月の光が差し込む境内の中央に、一人の男が立っていた。
鎧ではなく、動きやすい旅装。腰に聖剣は佩いているが、鞘に納められたままだ。彼はただ静かに、夜空の二つの月を見上げていた。
アルフレッド。
私の気配に気づいたのだろう。彼はゆっくりと振り返った。そして、私の姿を認めると、その顔に心からの安堵と、そして喜びの笑みを浮かべた。
「……来てくれたんだな、リディア」
その声は、通信で聞いた時よりもずっと近く、そして温かく私の耳に響いた。
「何の用なの。手短に済ませてちょうだい」
私は、努めて冷たく言った。これが密会だなどと、彼に思わせてはならない。あくまで、敵同士の交渉。その一線を、越えるわけにはいかない。
しかし、彼はそんな私の虚勢などお見通しだった。
「そう警戒しないでくれ。今夜の僕は、勇者じゃない。君に会いに来た、ただの一人の男だ」
彼はゆっくりと私に近づいてくる。私は後ずさりそうになるのを、必死で堪えた。
「君に、伝えたいことがあったんだ」
彼は私の目の前で立ち止まると、その空色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。その瞳は、夜の闇の中でも、星のように澄み切って輝いている。
「僕は、君を愛している」
唐突に、そしてあまりにも真っ直ぐに、彼は告げた。
戦場で何度も聞いた言葉。しかし、今この静寂の中で、二人きりで聞くその言葉は、今までとは全く違う重みを持って、私の心に突き刺さった。
「なっ……!」
「初めて会った日から、ずっとだ。君の強さに、気高さに、そしてその魂の美しさに、僕は心を奪われた。君が魔王軍の四天王であろうと、僕たちの間にどんな障害があろうと、その気持ちは変わらない」
彼の言葉は、よどみない奔流となって私に押し寄せる。それは、私が今まで必死で目を背けてきた、私の心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉り出すようだった。
「……黙りなさい」
私は、震える声で言った。「そんな言葉で、私が靡くとでも思っているの? 私は魔王軍の幹部。あなたとは、決して相容れない存在よ」
「相容れないことなどない!」
彼は、私の言葉を強い口調で否定した。
「君は、縛られているだけだ。魔王という名の呪縛に。君の本当の心は、決して戦いを望んではいないはずだ。僕は、それを知っている」
「あなたに、私の何が分かるというの!」
私は、思わず叫んでいた。
「私は魔王様に救われた! あの御方がいなければ、私はとうの昔に死んでいた! この命も、この心も、全ては魔王様のもの! あなたにだけは……あなたにだけは、渡さない!」
それは、自分自身に言い聞かせるための、悲痛な叫びだった。
私の言葉に、アルフレッドは悲しそうに目を伏せた。
「……そうか。君はずっと、そうやって自分を偽って生きてきたんだな」
彼の同情するような声が、私の逆鱗に触れた。
「偽ってなどいないわ! これが、本当の私よ!」
「違う!」
彼もまた、叫んだ。その声は、神殿の壁に反響し、私の心を揺さぶる。
「本当の君は、そんな悲しい顔はしない! 遺跡で僕と共に戦った時の君は、もっと生き生きとしていた! 王都でクレープを食べて笑った時の君は、世界中の誰よりも輝いていた!」
「なっ……!?」
私は、絶句した。
王都でのこと。彼は、気づいていた。あの時の旅の娘が、私であったことに。
「あの時、僕は確信したんだ。僕が好きになったのは、煉獄の魔女という仮面じゃない。不器用で、意地っ張りで、でも本当は誰よりも優しくて、甘いものが好きで、そして……たまらなく可愛らしい笑顔を見せる、君自身なんだと」
彼の言葉が、私の心の最後の城壁を、粉々に打ち砕いた。
もう、駄目だった。
虚勢も、意地も、忠誠心という名の鎧も、彼の真っ直ぐな言葉の前では、全てが無意味だった。
私の瞳から、涙が零れ落ちた。
止めることができない。認めたくないのに、私の心が、彼の言葉の全てを肯定してしまっている。
「……どうして」
私は、涙に濡れた声で、かろうじて尋ねた。「どうして、そこまで……私のことを」
彼は、そっと私の頬に手を伸ばした。私は、今度はそれを振り払わなかった。
彼の指先が、私の涙を優しく拭う。
「言っただろう。愛しているからだよ」
その温かい感触に、私の心は完全に決壊した。
私は、今まで誰にも見せたことのない、胸の内を、彼に吐露していた。
「私には……分からないの」
嗚咽を漏らしながら、私は語った。「魔王様への忠誠は、私の全てだった。それなのに、あなたに会ってから、私の心はめちゃくちゃになった。どうすればいいのか、もう分からない……。これは、裏切りなの? 私は、魔王様を裏切ることになるの?」
それは、誰にも言えなかった、私の魂の叫びだった。
アルフレッドは、そんな私の告白を、ただ静かに聞いてくれていた。
そして、私の涙が少しだけ収まったのを見計らって、彼はゆっくりと口を開いた。
「それは、裏切りじゃないよ、リディア」
彼の声は、どこまでも優しかった。
「君が、君自身の心に従うことは、決して罪なんかじゃない。君は、誰かの道具として生きるべき人間じゃないんだ。君には、君自身の意思で、幸せになる権利がある」
彼は、私の両肩を掴むと、その空色の瞳で、私の魂の奥底を覗き込むように言った。
「君がもし、その呪縛から逃れたいと願うのなら、僕が必ず君を救い出す。たとえ、世界中の全てを敵に回すことになっても、僕は君の味方だ」
その言葉は、聖なる誓いのように、私の心に深く、深く刻み込まれた。
世界中の全てを敵に回しても。
その覚悟の重さに、私は言葉を失った。
私たちは、どれくらいの時間、そうしていただろうか。
二つの月が西に傾き始め、夜明けが近いことを告げていた。
「……もう、行かなければ」
私が言うと、彼は名残惜しそうに頷いた。
「ああ。また、会えるかい?」
「……分からないわ」
それが、私の精一杯の答えだった。
私は彼に背を向け、神殿を後にしようとした。
「リディア」
彼が、私の名を呼ぶ。
私は、振り返らなかった。
「君の答えがどうであれ、僕の気持ちは変わらない。いつか、君が僕の手を取ってくれる日が来ると、信じているよ」
その言葉を背中に受けながら、私は闇の中へと姿を消した。
魔王城への帰り道、私の心は奇妙なほどに静かだった。
嵐が過ぎ去った後のように、穏やかで、そしてどこか澄み切っていた。
答えは、まだ出ていない。私の迷いが、消えたわけでもない。
しかし、私の心の中に、一つの確かな光が灯ったことだけは、分かっていた。
アルフレッドという名の、温かく、そして力強い光。
その光を、私はもう、消し去ることができないだろう。
たとえ、それが私を破滅へと導く光だとしても。
二つの月が、不吉なほどに赤く、そして大きく夜空に浮かんでいる。まるで、これから私が犯そうとしている罪を、天が見下ろしているかのようだった。
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これは罠だ。正気ではない。魔王様への裏切りだ。
そう頭の中で理性が叫ぶ。しかし、私の足は理性の声に逆らって、ただひたすらに約束の場所へと向かっていた。確かめなければならない。彼の真意を。そして、この私自身の心の正体を。
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その名の通り、人々から忘れ去られたかのように、蔦に覆われ、静かな威厳を湛えている。ここには、人間も魔族も寄り付かない。聖域というよりも、禁足地といった方が近いのかもしれない。
神殿の入り口で、私は足を止めた。
月の光が差し込む境内の中央に、一人の男が立っていた。
鎧ではなく、動きやすい旅装。腰に聖剣は佩いているが、鞘に納められたままだ。彼はただ静かに、夜空の二つの月を見上げていた。
アルフレッド。
私の気配に気づいたのだろう。彼はゆっくりと振り返った。そして、私の姿を認めると、その顔に心からの安堵と、そして喜びの笑みを浮かべた。
「……来てくれたんだな、リディア」
その声は、通信で聞いた時よりもずっと近く、そして温かく私の耳に響いた。
「何の用なの。手短に済ませてちょうだい」
私は、努めて冷たく言った。これが密会だなどと、彼に思わせてはならない。あくまで、敵同士の交渉。その一線を、越えるわけにはいかない。
しかし、彼はそんな私の虚勢などお見通しだった。
「そう警戒しないでくれ。今夜の僕は、勇者じゃない。君に会いに来た、ただの一人の男だ」
彼はゆっくりと私に近づいてくる。私は後ずさりそうになるのを、必死で堪えた。
「君に、伝えたいことがあったんだ」
彼は私の目の前で立ち止まると、その空色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。その瞳は、夜の闇の中でも、星のように澄み切って輝いている。
「僕は、君を愛している」
唐突に、そしてあまりにも真っ直ぐに、彼は告げた。
戦場で何度も聞いた言葉。しかし、今この静寂の中で、二人きりで聞くその言葉は、今までとは全く違う重みを持って、私の心に突き刺さった。
「なっ……!」
「初めて会った日から、ずっとだ。君の強さに、気高さに、そしてその魂の美しさに、僕は心を奪われた。君が魔王軍の四天王であろうと、僕たちの間にどんな障害があろうと、その気持ちは変わらない」
彼の言葉は、よどみない奔流となって私に押し寄せる。それは、私が今まで必死で目を背けてきた、私の心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉り出すようだった。
「……黙りなさい」
私は、震える声で言った。「そんな言葉で、私が靡くとでも思っているの? 私は魔王軍の幹部。あなたとは、決して相容れない存在よ」
「相容れないことなどない!」
彼は、私の言葉を強い口調で否定した。
「君は、縛られているだけだ。魔王という名の呪縛に。君の本当の心は、決して戦いを望んではいないはずだ。僕は、それを知っている」
「あなたに、私の何が分かるというの!」
私は、思わず叫んでいた。
「私は魔王様に救われた! あの御方がいなければ、私はとうの昔に死んでいた! この命も、この心も、全ては魔王様のもの! あなたにだけは……あなたにだけは、渡さない!」
それは、自分自身に言い聞かせるための、悲痛な叫びだった。
私の言葉に、アルフレッドは悲しそうに目を伏せた。
「……そうか。君はずっと、そうやって自分を偽って生きてきたんだな」
彼の同情するような声が、私の逆鱗に触れた。
「偽ってなどいないわ! これが、本当の私よ!」
「違う!」
彼もまた、叫んだ。その声は、神殿の壁に反響し、私の心を揺さぶる。
「本当の君は、そんな悲しい顔はしない! 遺跡で僕と共に戦った時の君は、もっと生き生きとしていた! 王都でクレープを食べて笑った時の君は、世界中の誰よりも輝いていた!」
「なっ……!?」
私は、絶句した。
王都でのこと。彼は、気づいていた。あの時の旅の娘が、私であったことに。
「あの時、僕は確信したんだ。僕が好きになったのは、煉獄の魔女という仮面じゃない。不器用で、意地っ張りで、でも本当は誰よりも優しくて、甘いものが好きで、そして……たまらなく可愛らしい笑顔を見せる、君自身なんだと」
彼の言葉が、私の心の最後の城壁を、粉々に打ち砕いた。
もう、駄目だった。
虚勢も、意地も、忠誠心という名の鎧も、彼の真っ直ぐな言葉の前では、全てが無意味だった。
私の瞳から、涙が零れ落ちた。
止めることができない。認めたくないのに、私の心が、彼の言葉の全てを肯定してしまっている。
「……どうして」
私は、涙に濡れた声で、かろうじて尋ねた。「どうして、そこまで……私のことを」
彼は、そっと私の頬に手を伸ばした。私は、今度はそれを振り払わなかった。
彼の指先が、私の涙を優しく拭う。
「言っただろう。愛しているからだよ」
その温かい感触に、私の心は完全に決壊した。
私は、今まで誰にも見せたことのない、胸の内を、彼に吐露していた。
「私には……分からないの」
嗚咽を漏らしながら、私は語った。「魔王様への忠誠は、私の全てだった。それなのに、あなたに会ってから、私の心はめちゃくちゃになった。どうすればいいのか、もう分からない……。これは、裏切りなの? 私は、魔王様を裏切ることになるの?」
それは、誰にも言えなかった、私の魂の叫びだった。
アルフレッドは、そんな私の告白を、ただ静かに聞いてくれていた。
そして、私の涙が少しだけ収まったのを見計らって、彼はゆっくりと口を開いた。
「それは、裏切りじゃないよ、リディア」
彼の声は、どこまでも優しかった。
「君が、君自身の心に従うことは、決して罪なんかじゃない。君は、誰かの道具として生きるべき人間じゃないんだ。君には、君自身の意思で、幸せになる権利がある」
彼は、私の両肩を掴むと、その空色の瞳で、私の魂の奥底を覗き込むように言った。
「君がもし、その呪縛から逃れたいと願うのなら、僕が必ず君を救い出す。たとえ、世界中の全てを敵に回すことになっても、僕は君の味方だ」
その言葉は、聖なる誓いのように、私の心に深く、深く刻み込まれた。
世界中の全てを敵に回しても。
その覚悟の重さに、私は言葉を失った。
私たちは、どれくらいの時間、そうしていただろうか。
二つの月が西に傾き始め、夜明けが近いことを告げていた。
「……もう、行かなければ」
私が言うと、彼は名残惜しそうに頷いた。
「ああ。また、会えるかい?」
「……分からないわ」
それが、私の精一杯の答えだった。
私は彼に背を向け、神殿を後にしようとした。
「リディア」
彼が、私の名を呼ぶ。
私は、振り返らなかった。
「君の答えがどうであれ、僕の気持ちは変わらない。いつか、君が僕の手を取ってくれる日が来ると、信じているよ」
その言葉を背中に受けながら、私は闇の中へと姿を消した。
魔王城への帰り道、私の心は奇妙なほどに静かだった。
嵐が過ぎ去った後のように、穏やかで、そしてどこか澄み切っていた。
答えは、まだ出ていない。私の迷いが、消えたわけでもない。
しかし、私の心の中に、一つの確かな光が灯ったことだけは、分かっていた。
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