20 / 100
第20話:私にできること
しおりを挟む
シュヴァルツ砦での日々は、静かに、そして穏やかに過ぎていった。
私はマーサの許しを得て、砦の中を散策するのが日課になっていた。もちろん、ギルバート様の「危険な場所には近づくな」という言いつけは固く守っている。
城壁の上から、眼下に広がる領地を眺めるのが好きだった。
どこまでも続く荒涼とした大地。ごつごつとした岩山。エルミール王国の緑豊かな風景とは全く違う、厳しくも雄大な景色。ギルバート様は、この広大な土地をたった一人で守っているのだ。
遠くの訓練場からは、騎士たちの力強い声が風に乗って聞こえてくる。
彼らは日が昇ると同時に訓練を始め、日が沈むまで剣を振るい続ける。その姿は、私が王都で見てきた着飾っただけの騎士たちとは全く違っていた。彼らは本物の戦士だ。いつ起こるとも知れない脅威から、この土地と人々を守るために、日々己を鍛え上げている。
時折、訓練を終えた騎士たちと廊下ですれ違うことがある。
最初は遠巻きにされ、どう接していいか分からないという空気が流れていた。しかし、私が会釈をすると、彼らは戸惑いながらも、ぎこちなく頭を下げてくれるようになった。無骨で強面な男たちばかりだが、その根は実直で誠実なのだろう。
そして、ギルバート様。
彼は領主として、息つく暇もないほど多忙な日々を送っているようだった。執務室の灯りは、いつも深夜まで消えることがない。昼間は騎士団の訓練を監督し、夕方からは分厚い報告書の山と格闘している。
彼が時折、私のもとを訪れるのは、そんな多忙な日々の合間を縫ってのことなのだ。図書室で静かにお茶を飲む、あの短い時間。それは彼にとって、唯一の休息なのかもしれない。
皆、懸命に生きている。
自分の役割を果たし、この砦を、この土地を支えている。
その中で、私だけが何もしていなかった。
与えられた豪華な部屋で過ごし、三食昼寝付きの生活。温かい食事、清潔な衣服、安全な寝床。その全てが、ギルバート様の優しさによって与えられたものだ。
感謝の気持ちは、もちろんある。命を救われ、居場所を与えられた恩は、一生かかっても返しきれないだろう。
しかし、その感謝の気持ちが大きくなればなるほど、私の胸の中では別の感情が育っていった。
申し訳ない。そして、歯がゆい。
私はただ、彼の庇護下で守られているだけのか弱い存在だ。彼に施しを受け、彼の財産を食いつぶしているだけのお荷物。その事実が、私をひどく惨めな気持ちにさせた。
恩返しがしたい。
この砦と、ここにいる人々のために、私にも何かできることはないだろうか。
そう思い至ったものの、具体的に何ができるのか、すぐには思いつかなかった。
侯爵令嬢として受けてきた教育は、刺繍やダンス、詩作といった、およそこの質実剛健な砦では何の役にも立たないものばかりだ。聖女の力?そんなもの、私にあるはずもない。あの時、子供を助けた光は、きっと火事場の馬鹿力のような、偶然の産物だろう。
私にできることなんて、何もないのかもしれない。
そんな無力感に苛まれ、私は図書室の窓からぼんやりと中庭を眺めていた。ちょうど昼時で、訓練を終えた騎士たちが食堂へと向かっていくところだった。
その時、ふとあることに気づいた。
騎士たちの表情に、食事に向かう楽しみや喜びのようなものが、全く感じられないのだ。彼らは皆、無表情で黙々と食堂へ入り、そして食後も誰と話すでもなく、すぐに持ち場へ戻っていく。
食事は、空腹を満たすためのただの作業。
そんな空気が、彼らの背中から漂っていた。
気になって、私はマーサに砦の食事事情について尋ねてみた。
「食事ですか?ええ、料理長は腕の良い男ですよ。栄養のバランスを考え、騎士たちが訓練で消耗した体力を補えるよう、量はたっぷりと用意しております」
マーサはそう言って胸を張った。
しかし、私は先日ギルバート様と共にした夕食を思い出す。
心のこもった温かいスープとパン。それは涙が出るほど美味しかった。けれど、王都の食卓に比べれば、あまりにも質素だったことも事実だ。特に、彩りを添える野菜がほとんどなかったことが印象に残っている。
「この辺りは土地が痩せていて、冬は長く厳しいですからな。新鮮な野菜はなかなか手に入らないのです。主な食材は、干し肉や塩漬けの魚、豆、そして硬い黒パン。どうしても、メニューが代わり映えしなくなってしまうのは仕方のないことですが…」
マーサは少し寂しそうに付け加えた。
その言葉を聞いて、私の頭の中に、一つの光が差し込んだ。
料理だ。
前世の私は、食べることが好きで、料理もそれなりに得意だった。休日にはレシピサイトを見て、色々な国の料理に挑戦したものだ。リゾット、グラタン、ポトフ、肉じゃが…。保存食として、ピクルスやジャムを作るのも好きだった。
この砦にある食材は限られているかもしれない。でも、工夫次第で、もっと美味しく、もっと楽しい食事を提供できるのではないだろうか。
体を温めるスープの種類を増やしたり、同じ干し肉でも調理法を変えてみたり。ハーブを使えば、香りも豊かになるはずだ。
温かくて美味しい食事は、人の心を癒し、元気を与える力がある。
戦いに明け暮れる騎士たちに、束の間でも安らぎの時間を提供できるかもしれない。多忙なギルバート様の心と体を、少しでも労うことができるかもしれない。
これなら、私にもできる。
いいや、前世の知識を持つ私だからこそ、できることだ。
ようやく見つけた、自分にできること。
それは、妃教育で学んだどんな高尚な教養よりも、今の私にとっては価値のあるものに思えた。
よし、決めた。
私は厨房を借りて、料理を作ろう。
それが、この場所で私が踏み出す、恩返しへの第一歩だ。
私はスカートの裾を握りしめ、固く決意した。まずは、頑固者だと噂の料理長に、どうやって厨房を貸してもらうか。作戦を練らなくては。
私の心に、久しぶりに前向きな炎が灯った瞬間だった。
私はマーサの許しを得て、砦の中を散策するのが日課になっていた。もちろん、ギルバート様の「危険な場所には近づくな」という言いつけは固く守っている。
城壁の上から、眼下に広がる領地を眺めるのが好きだった。
どこまでも続く荒涼とした大地。ごつごつとした岩山。エルミール王国の緑豊かな風景とは全く違う、厳しくも雄大な景色。ギルバート様は、この広大な土地をたった一人で守っているのだ。
遠くの訓練場からは、騎士たちの力強い声が風に乗って聞こえてくる。
彼らは日が昇ると同時に訓練を始め、日が沈むまで剣を振るい続ける。その姿は、私が王都で見てきた着飾っただけの騎士たちとは全く違っていた。彼らは本物の戦士だ。いつ起こるとも知れない脅威から、この土地と人々を守るために、日々己を鍛え上げている。
時折、訓練を終えた騎士たちと廊下ですれ違うことがある。
最初は遠巻きにされ、どう接していいか分からないという空気が流れていた。しかし、私が会釈をすると、彼らは戸惑いながらも、ぎこちなく頭を下げてくれるようになった。無骨で強面な男たちばかりだが、その根は実直で誠実なのだろう。
そして、ギルバート様。
彼は領主として、息つく暇もないほど多忙な日々を送っているようだった。執務室の灯りは、いつも深夜まで消えることがない。昼間は騎士団の訓練を監督し、夕方からは分厚い報告書の山と格闘している。
彼が時折、私のもとを訪れるのは、そんな多忙な日々の合間を縫ってのことなのだ。図書室で静かにお茶を飲む、あの短い時間。それは彼にとって、唯一の休息なのかもしれない。
皆、懸命に生きている。
自分の役割を果たし、この砦を、この土地を支えている。
その中で、私だけが何もしていなかった。
与えられた豪華な部屋で過ごし、三食昼寝付きの生活。温かい食事、清潔な衣服、安全な寝床。その全てが、ギルバート様の優しさによって与えられたものだ。
感謝の気持ちは、もちろんある。命を救われ、居場所を与えられた恩は、一生かかっても返しきれないだろう。
しかし、その感謝の気持ちが大きくなればなるほど、私の胸の中では別の感情が育っていった。
申し訳ない。そして、歯がゆい。
私はただ、彼の庇護下で守られているだけのか弱い存在だ。彼に施しを受け、彼の財産を食いつぶしているだけのお荷物。その事実が、私をひどく惨めな気持ちにさせた。
恩返しがしたい。
この砦と、ここにいる人々のために、私にも何かできることはないだろうか。
そう思い至ったものの、具体的に何ができるのか、すぐには思いつかなかった。
侯爵令嬢として受けてきた教育は、刺繍やダンス、詩作といった、およそこの質実剛健な砦では何の役にも立たないものばかりだ。聖女の力?そんなもの、私にあるはずもない。あの時、子供を助けた光は、きっと火事場の馬鹿力のような、偶然の産物だろう。
私にできることなんて、何もないのかもしれない。
そんな無力感に苛まれ、私は図書室の窓からぼんやりと中庭を眺めていた。ちょうど昼時で、訓練を終えた騎士たちが食堂へと向かっていくところだった。
その時、ふとあることに気づいた。
騎士たちの表情に、食事に向かう楽しみや喜びのようなものが、全く感じられないのだ。彼らは皆、無表情で黙々と食堂へ入り、そして食後も誰と話すでもなく、すぐに持ち場へ戻っていく。
食事は、空腹を満たすためのただの作業。
そんな空気が、彼らの背中から漂っていた。
気になって、私はマーサに砦の食事事情について尋ねてみた。
「食事ですか?ええ、料理長は腕の良い男ですよ。栄養のバランスを考え、騎士たちが訓練で消耗した体力を補えるよう、量はたっぷりと用意しております」
マーサはそう言って胸を張った。
しかし、私は先日ギルバート様と共にした夕食を思い出す。
心のこもった温かいスープとパン。それは涙が出るほど美味しかった。けれど、王都の食卓に比べれば、あまりにも質素だったことも事実だ。特に、彩りを添える野菜がほとんどなかったことが印象に残っている。
「この辺りは土地が痩せていて、冬は長く厳しいですからな。新鮮な野菜はなかなか手に入らないのです。主な食材は、干し肉や塩漬けの魚、豆、そして硬い黒パン。どうしても、メニューが代わり映えしなくなってしまうのは仕方のないことですが…」
マーサは少し寂しそうに付け加えた。
その言葉を聞いて、私の頭の中に、一つの光が差し込んだ。
料理だ。
前世の私は、食べることが好きで、料理もそれなりに得意だった。休日にはレシピサイトを見て、色々な国の料理に挑戦したものだ。リゾット、グラタン、ポトフ、肉じゃが…。保存食として、ピクルスやジャムを作るのも好きだった。
この砦にある食材は限られているかもしれない。でも、工夫次第で、もっと美味しく、もっと楽しい食事を提供できるのではないだろうか。
体を温めるスープの種類を増やしたり、同じ干し肉でも調理法を変えてみたり。ハーブを使えば、香りも豊かになるはずだ。
温かくて美味しい食事は、人の心を癒し、元気を与える力がある。
戦いに明け暮れる騎士たちに、束の間でも安らぎの時間を提供できるかもしれない。多忙なギルバート様の心と体を、少しでも労うことができるかもしれない。
これなら、私にもできる。
いいや、前世の知識を持つ私だからこそ、できることだ。
ようやく見つけた、自分にできること。
それは、妃教育で学んだどんな高尚な教養よりも、今の私にとっては価値のあるものに思えた。
よし、決めた。
私は厨房を借りて、料理を作ろう。
それが、この場所で私が踏み出す、恩返しへの第一歩だ。
私はスカートの裾を握りしめ、固く決意した。まずは、頑固者だと噂の料理長に、どうやって厨房を貸してもらうか。作戦を練らなくては。
私の心に、久しぶりに前向きな炎が灯った瞬間だった。
399
あなたにおすすめの小説
元社畜悪役令嬢、辺境のボロ城を全自動ボタニカル美容スパに大改造して引きこもる ~前世コスメで冷徹公爵を完治させたら溺愛されました~
季未
恋愛
「貴様のような悪逆非道な女は、極寒の辺境へ追放だ!」
建国記念の夜会で王太子から婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢シャルロッテ。
しかし、彼女の中身は前世でブラック企業に殺された過労で過労死したマーケターだった!
(激務の王妃ルート回避!? しかも辺境は誰にも邪魔されないブルーオーシャン! 最高のフリーランス生活の始まりじゃない!)
理不尽な追放を究極のホワイト・スローライフへのパスポートだと歓喜した彼女は、あてがわれた辺境のボロ城を、前世の「DIY・スマートホーム知識」と「土・水魔法」を駆使して爆速で大改造!
隙間風の吹く部屋は、一瞬で「床暖房完備の全自動温水スパ」へ。
辺境に自生する雑草からは「極上ボタニカルコスメ」を開発し、自らも絶世の美女へと変貌していく。
さらに「お前には干渉しない」と白い結婚を突きつけてきたはずの、呪いで顔に火傷を負った氷の公爵に特製マッサージと美肌治療を施したところ……。
「お前が作ったこの空間と、お前自身が……俺のすべてだ」
冷徹だったはずの公爵様が、極上の癒やし空間と彼女の手技で完全に骨抜きにされ、異常なまでの過保護・溺愛モードに突入!?
現代マーケティングと美容チートで辺境を超高級スマート・リゾートへと再生させ、かつて自分を追放した王太子たちを大後悔させる!
爽快&極甘な、異世界リゾート経営×溺愛ファンタジー、堂々開幕!
わがままな婚約者はお嫌いらしいので婚約解消を提案してあげたのに、反応が思っていたのと違うんですが
水谷繭
恋愛
公爵令嬢のリリアーヌは、婚約者のジェラール王子を追いかけてはいつも冷たくあしらわれていた。
王子の態度に落ち込んだリリアーヌが公園を散策していると、転んで頭を打ってしまう。
数日間寝込むはめになったリリアーヌ。眠っている間に前世の記憶が流れ込み、リリアーヌは今自分がいるのは前世で読んでいたWeb漫画の世界だったことに気づく。
記憶を思い出してみると冷静になり、あれだけ執着していた王子をどうしてそこまで好きだったのかわからなくなる。
リリアーヌは王子と婚約解消して、新しい人生を歩むことを決意するが……
◆表紙はGirly Drop様からお借りしました
◇小説家になろうにも掲載しています
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
田舎娘をバカにした令嬢の末路
冬吹せいら
恋愛
オーロラ・レンジ―は、小国の産まれでありながらも、名門バッテンデン学園に、首席で合格した。
それを不快に思った、令嬢のディアナ・カルホーンは、オーロラが試験官を買収したと嘘をつく。
――あんな田舎娘に、私が負けるわけないじゃない。
田舎娘をバカにした令嬢の末路は……。
婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。
パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢カルルは、ある夜会で王太子ジェラールから婚約破棄を言い渡される。しかし、カルルは泣くどころか、これまで立て替えていた経費や労働対価の「莫大な請求書」をその場で叩きつけた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる