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第23話:領主命令
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マーサの手引きで、私は再びギルバート様の執務室の前に立っていた。昼間とは違い、扉の隙間から漏れる灯りが、彼がまだ仕事をしていることを示している。こんな夜分に訪ねるのは申し訳なかったが、私にはもうこの手しか残されていなかった。
控えめに扉をノックすると、中から「入れ」という短い返事があった。
「夜分に申し訳ありません、ギルバート様」
私が中に入ると、彼は山と積まれた書類から顔を上げた。その金の瞳には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「リリアンナか。どうした、何か問題でもあったか」
彼の声には、私を案じる響きがあった。その優しさに胸が痛みながらも、私はまっすぐに彼の目を見て切り出した。
「お願いがあって、まいりました」
私は椅子を勧められるのも断り、彼の机の前に立ったまま、今日厨房で起こった出来事をありのままに話した。なぜ私が料理をしたいのか。騎士たちの士気や健康を思ってのこと。そして、料理長のゲルハルト殿に、いかにして断られたか。
私の話が進むにつれて、ギルバート様の表情が険しくなっていくのを、私は見て取った。特に、ゲルハルトが私の申し出を「お嬢様のままごと」「小賢しい理屈」と一蹴したくだりでは、彼の指が羽ペンを握りしめ、ミシリと音を立てた。
全てを話し終えた後、私は深々と頭を下げた。
「私個人の我儘で、閣下のお手を煩わせるのは大変心苦しいのです。ですが、どうか、もう一度ゲルハルト殿とお話しする機会をいただけないでしょうか。次は、必ず説得してみせます」
私は、彼にゲルハルトを無理やり従わせてほしいと頼みに来たわけではなかった。あくまで、もう一度交渉のテーブルにつかせてもらうための、仲介役をお願いするつもりだったのだ。
しかし、彼の反応は私の予想を遥かに超えていた。
彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。その体から放たれる気配は、静かだが、嵐の前の静けさのような凄みがあった。
「話は分かった」
彼の声は、凍てつく冬の夜気のように低く、冷たかった。
「お前は、悪くない。何も間違ったことは言っていない」
彼はそう言うと、壁にかけてあった剣を手に取り、腰に差した。そして、私を一瞥もせずに執務室の扉へと向かう。
「ついてこい」
「えっ、どこへ…?」
「厨房だ」
その有無を言わせぬ響きに、私は思わず息を呑んだ。まさか、今から乗り込むつもりなのだろうか。
「ま、待ってください、ギルバート様!私は、閣下を困らせたいわけでは…!」
私が慌てて彼の後を追うと、彼は歩みを止めることなく言った。
「俺の庇護下にある者が、正当な願いを理由もなく退けられる。それは、俺の顔に泥を塗られたのと同じことだ。部下の非礼は、主である俺が正さねばならん」
彼の言葉は、もはや私のためだけではない。領主としての、彼の矜持の問題になっていた。こうなってしまった以上、私に彼を止める術はなかった。
夜の厨房は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。明日の仕込みをしていた数名の料理人たちが、突然現れた主に驚き、慌てて作業の手を止める。
その奥の部屋から、訝しげな顔をしたゲルハルトが現れた。そして、ギルバート様と、その後ろに立つ私の姿を認め、その表情を強張らせた。
「閣下。このような夜更けに、いかがなさいましたか」
ゲルハルトは努めて冷静な声で言ったが、その目には緊張の色が浮かんでいた。
ギルバート様は、ゲルハルトの目の前まで進み出ると、静かに、しかし腹の底に響くような声で言った。
「ゲルハルト。お前は、リリアンナの申し出を断ったそうだな」
「は。左様でございます」
ゲルハルトは一歩も引かなかった。
「厨房は戦場でございます。お嬢様のようなお方を、危険な場所にお招きするわけにはまいりません。それに、我々のやり方で、これまで何の問題も…」
「問題があるかどうかは、俺が決める」
ギルバート様の言葉が、ゲルハルトの反論を鋭く断ち切った。厨房の空気が、ぴりりと張り詰める。
「彼女は、騎士たちのことを思い、この砦のために何かをしたいと言っている。その志を、お前はままごとと一笑に付した。違うか」
ゲルハルトはぐっと言葉に詰まった。その額には、脂汗が滲んでいる。辺境伯の怒りを直接買い、無事でいられる者など、この砦には一人もいない。
それでも、ゲルハルトは己の信念を曲げなかった。
「ですが、閣下!お嬢様の気まぐれに、長年築き上げてきた我々の仕事場を乱されるわけには…!」
その言葉が、引き金になった。
ギルバート様の瞳から、すっと温度が消えた。彼がゆっくりと口を開く。
「彼女に、厨房の自由な使用を許可する」
それは、静かだが、絶対的な響きを持った宣告だった。
ゲルハルトが、息を呑む。
「明日より、リリアンナが必要とする食材、道具、全てを優先して用意しろ。彼女の邪魔をする者は、誰であろうと俺が許さん」
「そ、そのようなご無体な!」
ゲルハルトが悲鳴に近い声を上げた。
「これは、俺の決定だ」
ギルバート様は、最後の通告を下すように、はっきりと言い放った。
「シュヴァルツ辺境伯ギルバートの名において命じる。これは、領主命令だ」
領主命令。
その言葉の持つ絶対的な重みが、厨房の空気そのものを圧し潰した。ゲルハルトの顔から、急速に血の気が引いていく。彼の頑なな抵抗も、誇りも、その一言の前には何の意味もなさなかった。
彼はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて、がっくりと肩を落とした。そして、絞り出すような声で呟く。
「…御意に」
その声は、完全な敗北を認めた者の声だった。
こうして、私の厨房入りは、最も強引な形で決定された。
ギルバート様は私に一瞥もくれず、「話は済んだ」とばかりに踵を返し、厨房を出ていく。私はその場に一人取り残され、呆然とする料理人たちと、打ちひしがれた様子のゲルハルトを前に、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。
私はゲルハルトの前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
「…申し訳、ありません。このような形になってしまい」
ゲルハルトは何も答えなかった。ただ、その悔しそうな横顔が、これから始まる私の厨房での戦いが、決して楽なものではないことを物語っていた。
控えめに扉をノックすると、中から「入れ」という短い返事があった。
「夜分に申し訳ありません、ギルバート様」
私が中に入ると、彼は山と積まれた書類から顔を上げた。その金の瞳には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「リリアンナか。どうした、何か問題でもあったか」
彼の声には、私を案じる響きがあった。その優しさに胸が痛みながらも、私はまっすぐに彼の目を見て切り出した。
「お願いがあって、まいりました」
私は椅子を勧められるのも断り、彼の机の前に立ったまま、今日厨房で起こった出来事をありのままに話した。なぜ私が料理をしたいのか。騎士たちの士気や健康を思ってのこと。そして、料理長のゲルハルト殿に、いかにして断られたか。
私の話が進むにつれて、ギルバート様の表情が険しくなっていくのを、私は見て取った。特に、ゲルハルトが私の申し出を「お嬢様のままごと」「小賢しい理屈」と一蹴したくだりでは、彼の指が羽ペンを握りしめ、ミシリと音を立てた。
全てを話し終えた後、私は深々と頭を下げた。
「私個人の我儘で、閣下のお手を煩わせるのは大変心苦しいのです。ですが、どうか、もう一度ゲルハルト殿とお話しする機会をいただけないでしょうか。次は、必ず説得してみせます」
私は、彼にゲルハルトを無理やり従わせてほしいと頼みに来たわけではなかった。あくまで、もう一度交渉のテーブルにつかせてもらうための、仲介役をお願いするつもりだったのだ。
しかし、彼の反応は私の予想を遥かに超えていた。
彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。その体から放たれる気配は、静かだが、嵐の前の静けさのような凄みがあった。
「話は分かった」
彼の声は、凍てつく冬の夜気のように低く、冷たかった。
「お前は、悪くない。何も間違ったことは言っていない」
彼はそう言うと、壁にかけてあった剣を手に取り、腰に差した。そして、私を一瞥もせずに執務室の扉へと向かう。
「ついてこい」
「えっ、どこへ…?」
「厨房だ」
その有無を言わせぬ響きに、私は思わず息を呑んだ。まさか、今から乗り込むつもりなのだろうか。
「ま、待ってください、ギルバート様!私は、閣下を困らせたいわけでは…!」
私が慌てて彼の後を追うと、彼は歩みを止めることなく言った。
「俺の庇護下にある者が、正当な願いを理由もなく退けられる。それは、俺の顔に泥を塗られたのと同じことだ。部下の非礼は、主である俺が正さねばならん」
彼の言葉は、もはや私のためだけではない。領主としての、彼の矜持の問題になっていた。こうなってしまった以上、私に彼を止める術はなかった。
夜の厨房は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。明日の仕込みをしていた数名の料理人たちが、突然現れた主に驚き、慌てて作業の手を止める。
その奥の部屋から、訝しげな顔をしたゲルハルトが現れた。そして、ギルバート様と、その後ろに立つ私の姿を認め、その表情を強張らせた。
「閣下。このような夜更けに、いかがなさいましたか」
ゲルハルトは努めて冷静な声で言ったが、その目には緊張の色が浮かんでいた。
ギルバート様は、ゲルハルトの目の前まで進み出ると、静かに、しかし腹の底に響くような声で言った。
「ゲルハルト。お前は、リリアンナの申し出を断ったそうだな」
「は。左様でございます」
ゲルハルトは一歩も引かなかった。
「厨房は戦場でございます。お嬢様のようなお方を、危険な場所にお招きするわけにはまいりません。それに、我々のやり方で、これまで何の問題も…」
「問題があるかどうかは、俺が決める」
ギルバート様の言葉が、ゲルハルトの反論を鋭く断ち切った。厨房の空気が、ぴりりと張り詰める。
「彼女は、騎士たちのことを思い、この砦のために何かをしたいと言っている。その志を、お前はままごとと一笑に付した。違うか」
ゲルハルトはぐっと言葉に詰まった。その額には、脂汗が滲んでいる。辺境伯の怒りを直接買い、無事でいられる者など、この砦には一人もいない。
それでも、ゲルハルトは己の信念を曲げなかった。
「ですが、閣下!お嬢様の気まぐれに、長年築き上げてきた我々の仕事場を乱されるわけには…!」
その言葉が、引き金になった。
ギルバート様の瞳から、すっと温度が消えた。彼がゆっくりと口を開く。
「彼女に、厨房の自由な使用を許可する」
それは、静かだが、絶対的な響きを持った宣告だった。
ゲルハルトが、息を呑む。
「明日より、リリアンナが必要とする食材、道具、全てを優先して用意しろ。彼女の邪魔をする者は、誰であろうと俺が許さん」
「そ、そのようなご無体な!」
ゲルハルトが悲鳴に近い声を上げた。
「これは、俺の決定だ」
ギルバート様は、最後の通告を下すように、はっきりと言い放った。
「シュヴァルツ辺境伯ギルバートの名において命じる。これは、領主命令だ」
領主命令。
その言葉の持つ絶対的な重みが、厨房の空気そのものを圧し潰した。ゲルハルトの顔から、急速に血の気が引いていく。彼の頑なな抵抗も、誇りも、その一言の前には何の意味もなさなかった。
彼はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて、がっくりと肩を落とした。そして、絞り出すような声で呟く。
「…御意に」
その声は、完全な敗北を認めた者の声だった。
こうして、私の厨房入りは、最も強引な形で決定された。
ギルバート様は私に一瞥もくれず、「話は済んだ」とばかりに踵を返し、厨房を出ていく。私はその場に一人取り残され、呆然とする料理人たちと、打ちひしがれた様子のゲルハルトを前に、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。
私はゲルハルトの前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
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