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第50話:不審な影
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エルミール王国の刺客は、シュヴァルツ騎士団の圧倒的な力の前に、赤子の手をひねるように鎮圧された。しかし、彼らがシュヴァルツ領に潜入したという事実は、砦に静かな波紋を広げていた。
リリアンナの身に、直接的な危険が迫った。
その事実は、これまで彼女を『豊穣の女神』や『未来の領主夫人』として温かく見守ってきた領民や騎士たちの心に、新たな感情を芽生えさせた。それは、彼女を守らなければならないという、強い使命感だった。
砦の警備体制は、これまでにないほど厳重なものになった。リリアンナが砦の中を散策する時でさえ、必ず数名の騎士が、目立たないように、しかし確実に彼女の周囲を固めるようになった。
麓町へ買い物に出かける際には、ハンス殿自らが隊長となり、一個小隊規模の物々しい護衛がつく。市場の人々は、その光景に驚きながらも、すぐに納得した。
「女神様を狙う不埒者がいるらしいな」
「許せん!俺たちも、不審な奴がいないか、見張っておこうぜ!」
領民たちは、自発的に自警団のようなものを組織し、見慣れない顔の人間がいれば、すぐに砦へ報告するようになった。
シュヴァルツ領は、リリアンナという一つの宝を守るため、領主から民に至るまで、一枚岩の結束を見せ始めていた。
もちろん、リリアンナ自身は、この過剰なまでの警備に戸惑いを隠せないでいた。
「ハンス殿、こんなに大勢でなくても、私は大丈夫ですのに…」
「いえ、これは閣下からの厳命です。リリアンナ様のお体は、もはやあなた様お一人のものではないのです」
ハンス殿は、きっぱりとした口調でそう言った。彼の言葉は、騎士団と領民の総意でもあった。
リリアンナは、自分の存在が、この平和な土地に争いの火種を持ち込んでしまったのではないかと、心を痛めていた。しかし、彼女がそう言うと、マーサは優しく首を横に振った。
「いいえ、リリアンナ様。あなたは、この土地の人々に『守るべきもの』を与えてくださったのです。それは、ただ食料や富を与えることよりも、ずっと尊いことなのですよ」
守るべきものがあるから、人は強くなれる。
マーサの言葉に、リリアンナは少しだけ救われた気がした。
一方、エルミール王国では、アレンが焦燥に駆られていた。
送り込んだはずの刺客たちから、何の連絡もない。数週間が過ぎても、彼らが戻ってくる気配は一向になかった。失敗したのだ。それも、おそらくは誰一人として生きて帰れぬほどの、完膚なきまでの失敗。
シュヴァルツ辺境伯。あの男の力は、想像以上だ。
アレンは、自分の計画の甘さを思い知り、唇を噛んだ。
「どうなさいましたの、アレン様?近頃、ずっとお顔の色が優れませんわ」
エリアーナが、心配そうに彼の顔を覗き込む。しかし、今の彼には、その甘い声さえも苛立ちを増幅させるだけの雑音にしか聞こえなかった。
彼は密偵長を再び呼びつけた。
「次の手を考える。武力での奪還が難しいのなら、別の方法で奴らを揺さぶるのだ」
彼が次に思いついたのは、陽動作戦だった。
シュヴァルツ辺境伯の関心を、リリアンナから引き離す。その隙を突いて、第二の刺客を送り込むのだ。
「金で、腕利きの魔物使いを雇え」
アレンは、密偵長に新たな命令を下した。
「国境地帯に潜ませ、シュヴァルツ領内で魔物を暴れさせろ。小規模なスタンピードを引き起こすのだ。そうすれば、辺境伯も騎士団を率いて討伐に出ざるを得なくなる。砦の守りが手薄になったそこを、狙う」
それは、他国の領民の命を危険に晒す、卑劣極まりない作戦だった。王族にあるまじき、禁じ手。しかし、焦りと嫉妬に心を支配されたアレンには、もはやそんなことを考える余裕はなかった。
数日後。
シュヴァルツ領の国境付近の村々で、不審な影が目撃されるようになった。
見慣れない旅人が、森の奥深くへと姿を消していく。
夜になると、森の中から、これまで聞いたことのない不気味な獣の咆哮が聞こえてくる。
村の家畜が、何者かに惨殺される事件も起き始めた。
それらの報告は、すぐに砦のギルバートのもとへと届けられた。
「…エルミールの犬め。懲りずに、また小細工を弄してきたか」
ギルバートは、報告書を読みながら、静かに呟いた。その金の瞳には、冷たい怒りの炎が揺らめいている。
「ハンス。村々の警備を固めろ。特に、女子供は絶対に家から出すな」
「はっ」
「それから、斥候部隊に命じろ。森に潜むネズミの正体を、徹底的に暴き出せ。ただし、決して打って出るな。相手の狙いが分かるまで、こちらも動かん」
ギルバートは、アレンの狙いが陽動であることを見抜いていた。リリアンナから自分を引き離し、その隙を突くつもりだろう。単純だが、それゆえに厄介な手だ。
砦の空気は、再び緊張感を帯び始めた。
騎士たちは、昼夜を問わず領内の巡回を強化し、いつ起こるとも知れぬ魔物の襲撃に備えた。
リリアンナも、その不穏な空気を感じ取っていた。騎士たちの顔から笑顔が消え、ギルバートが執務室に籠もる時間も増えた。
「何か、あったのですか?」
彼女が尋ねても、ギルバートは「お前が心配することではない」と、詳しいことを話そうとはしなかった。
それは、彼女を危険から遠ざけようとする、彼の優しさだった。
しかし、その優しさが、逆に彼女を不安にさせた。
自分だけが、何も知らされない。
大切な人たちが、自分の知らないところで、自分のために戦っている。
その事実が、リリアンナの心を苦しめた。
私は、守られているだけではいたくない。
私も、皆と一緒に戦いたい。
この大切な居場所を、私の手で守りたい。
リリアンナの心の中に、これまでとは違う、強い決意が芽生え始めていた。
それは、ただの恩返しではない。
この土地と、ここにいる人々を、家族のように愛し、守りたいと願う、強い意志の炎だった。
嵐が、静かに、しかし確実に、シュヴァルツ領へと近づいていた。
リリアンナの身に、直接的な危険が迫った。
その事実は、これまで彼女を『豊穣の女神』や『未来の領主夫人』として温かく見守ってきた領民や騎士たちの心に、新たな感情を芽生えさせた。それは、彼女を守らなければならないという、強い使命感だった。
砦の警備体制は、これまでにないほど厳重なものになった。リリアンナが砦の中を散策する時でさえ、必ず数名の騎士が、目立たないように、しかし確実に彼女の周囲を固めるようになった。
麓町へ買い物に出かける際には、ハンス殿自らが隊長となり、一個小隊規模の物々しい護衛がつく。市場の人々は、その光景に驚きながらも、すぐに納得した。
「女神様を狙う不埒者がいるらしいな」
「許せん!俺たちも、不審な奴がいないか、見張っておこうぜ!」
領民たちは、自発的に自警団のようなものを組織し、見慣れない顔の人間がいれば、すぐに砦へ報告するようになった。
シュヴァルツ領は、リリアンナという一つの宝を守るため、領主から民に至るまで、一枚岩の結束を見せ始めていた。
もちろん、リリアンナ自身は、この過剰なまでの警備に戸惑いを隠せないでいた。
「ハンス殿、こんなに大勢でなくても、私は大丈夫ですのに…」
「いえ、これは閣下からの厳命です。リリアンナ様のお体は、もはやあなた様お一人のものではないのです」
ハンス殿は、きっぱりとした口調でそう言った。彼の言葉は、騎士団と領民の総意でもあった。
リリアンナは、自分の存在が、この平和な土地に争いの火種を持ち込んでしまったのではないかと、心を痛めていた。しかし、彼女がそう言うと、マーサは優しく首を横に振った。
「いいえ、リリアンナ様。あなたは、この土地の人々に『守るべきもの』を与えてくださったのです。それは、ただ食料や富を与えることよりも、ずっと尊いことなのですよ」
守るべきものがあるから、人は強くなれる。
マーサの言葉に、リリアンナは少しだけ救われた気がした。
一方、エルミール王国では、アレンが焦燥に駆られていた。
送り込んだはずの刺客たちから、何の連絡もない。数週間が過ぎても、彼らが戻ってくる気配は一向になかった。失敗したのだ。それも、おそらくは誰一人として生きて帰れぬほどの、完膚なきまでの失敗。
シュヴァルツ辺境伯。あの男の力は、想像以上だ。
アレンは、自分の計画の甘さを思い知り、唇を噛んだ。
「どうなさいましたの、アレン様?近頃、ずっとお顔の色が優れませんわ」
エリアーナが、心配そうに彼の顔を覗き込む。しかし、今の彼には、その甘い声さえも苛立ちを増幅させるだけの雑音にしか聞こえなかった。
彼は密偵長を再び呼びつけた。
「次の手を考える。武力での奪還が難しいのなら、別の方法で奴らを揺さぶるのだ」
彼が次に思いついたのは、陽動作戦だった。
シュヴァルツ辺境伯の関心を、リリアンナから引き離す。その隙を突いて、第二の刺客を送り込むのだ。
「金で、腕利きの魔物使いを雇え」
アレンは、密偵長に新たな命令を下した。
「国境地帯に潜ませ、シュヴァルツ領内で魔物を暴れさせろ。小規模なスタンピードを引き起こすのだ。そうすれば、辺境伯も騎士団を率いて討伐に出ざるを得なくなる。砦の守りが手薄になったそこを、狙う」
それは、他国の領民の命を危険に晒す、卑劣極まりない作戦だった。王族にあるまじき、禁じ手。しかし、焦りと嫉妬に心を支配されたアレンには、もはやそんなことを考える余裕はなかった。
数日後。
シュヴァルツ領の国境付近の村々で、不審な影が目撃されるようになった。
見慣れない旅人が、森の奥深くへと姿を消していく。
夜になると、森の中から、これまで聞いたことのない不気味な獣の咆哮が聞こえてくる。
村の家畜が、何者かに惨殺される事件も起き始めた。
それらの報告は、すぐに砦のギルバートのもとへと届けられた。
「…エルミールの犬め。懲りずに、また小細工を弄してきたか」
ギルバートは、報告書を読みながら、静かに呟いた。その金の瞳には、冷たい怒りの炎が揺らめいている。
「ハンス。村々の警備を固めろ。特に、女子供は絶対に家から出すな」
「はっ」
「それから、斥候部隊に命じろ。森に潜むネズミの正体を、徹底的に暴き出せ。ただし、決して打って出るな。相手の狙いが分かるまで、こちらも動かん」
ギルバートは、アレンの狙いが陽動であることを見抜いていた。リリアンナから自分を引き離し、その隙を突くつもりだろう。単純だが、それゆえに厄介な手だ。
砦の空気は、再び緊張感を帯び始めた。
騎士たちは、昼夜を問わず領内の巡回を強化し、いつ起こるとも知れぬ魔物の襲撃に備えた。
リリアンナも、その不穏な空気を感じ取っていた。騎士たちの顔から笑顔が消え、ギルバートが執務室に籠もる時間も増えた。
「何か、あったのですか?」
彼女が尋ねても、ギルバートは「お前が心配することではない」と、詳しいことを話そうとはしなかった。
それは、彼女を危険から遠ざけようとする、彼の優しさだった。
しかし、その優しさが、逆に彼女を不安にさせた。
自分だけが、何も知らされない。
大切な人たちが、自分の知らないところで、自分のために戦っている。
その事実が、リリアンナの心を苦しめた。
私は、守られているだけではいたくない。
私も、皆と一緒に戦いたい。
この大切な居場所を、私の手で守りたい。
リリアンナの心の中に、これまでとは違う、強い決意が芽生え始めていた。
それは、ただの恩返しではない。
この土地と、ここにいる人々を、家族のように愛し、守りたいと願う、強い意志の炎だった。
嵐が、静かに、しかし確実に、シュヴァルツ領へと近づいていた。
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