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第75話:静かなる怒り
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「そこまでにせよ、ギルバート」
皇帝の声は決して大きくはなかった。しかし、その声に含まれた絶対的な威厳はホール全体の空気を一瞬で支配した。
あれほどまでに高まっていたギルBアートの殺気さえも、その声の前ではわずかに揺らいだように見えた。
皇帝レオポルトはゆっくりとした、しかし王者の風格に満ちた足取りで三人の元へと歩み寄ってきた。その鷲のような鋭い瞳は、まず恐怖に震えるドーソン子爵に向けられた。
「エルミールの使者よ。おぬしの言い分は聞き届けた」
皇帝は静かに告げた。その声には何の感情も含まれていない。それが逆にドーソン子爵を恐怖させた。
「貴国の主張によれば、その娘は国を傾けた大罪人である、と。そして我が帝国の賓客として彼女を遇する我々は、正気を疑うべき愚か者である、と。…相違ないか?」
皇帝は一つ一つの言葉を区切るように確認した。
ドーソン子爵は皇帝の圧倒的な威圧感の前に、もはや虚勢を張ることもできなかった。ただ蒼白な顔でこくこくと頷くことしかできない。
「よろしい」
皇帝は頷くと、今度は集まった帝国貴族たちを見渡した。そしてホール全体に響き渡るような明瞭な声で言った。
「皆も聞いたであろう。これがエルミール王国の、我がガルヴァニア帝国に対する公式な見解である」
その言葉の持つ意味を、貴族たちは即座に理解した。
これはもはやギルバート個人とドーソン子爵個人の間の問題ではない。
ガルヴァニア帝国とエルミール王国の国家間の問題へと発展したのだ。
皇帝は再びドーソン子爵に向き直った。その瞳には先ほどまでの静けさとは打って変わって、氷のような冷たい光が宿っていた。
「ならば問おう。使者殿」
その声は冬の北風のように冷え切っていた。
「帝国の賓客を公衆の面前で罪人と罵り、我が帝国の判断を愚かと断じる。それは貴国がこのガルヴァニア帝国に喧嘩を売っていると、そう理解してよろしいのだな?」
喧嘩を売っている。
その直接的であまりにも重い言葉に、ドーソン子爵の全身からだらだらと冷たい汗が噴き出した。
しまった。完全に一線を越えてしまった。
自分の軽率な発言が国家間の戦争の引き金になりかねない、取り返しのつかない事態を招いてしまったのだ。
「い、いえ、滅相もございません! そのようなつもりは断じて…!」
彼は必死に首を横に振った。しかし、もはや手遅れだった。
「ほう? では今の発言は貴殿個人の戯言であったと申すか。それならば話は早い」
皇帝はドーソン子爵の腕を掴んだままのギルバートに冷たく言い放った。
「ギルバートよ。その男の舌を抜け。外交使節としての立場を忘れたただの痴れ者の戯言だ。何の遠慮もいらん」
そのあまりにも冷酷な裁きに、ドーソン子爵は「ひっ」と悲鳴を上げた。
ギルバートの金の瞳がぎらりと危険な光を放つ。彼は本気で皇帝の命令を実行しようとしていた。
「お、お待ちください! お待ちくださいませ、皇帝陛下!」
ドーソン子爵はその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。プライドも見栄も全てをかなぐり捨てて、必死に命乞いをする。
「わ、私の失言でございました! どうか、どうかご容容赦を! エルミール王国に帝国へ弓を引く意思など微塵もございません!」
その惨めな姿を、皇帝は冷たい目で見下ろしていた。
しばらくの沈黙の後、彼はつまらなそうにふっと息をついた。
「…つまらぬ男よ。まあよかろう。今宵は朕の主催する祝いの席だ。血で汚すのも興醒めというもの」
彼はギルバートに顎でしゃくった。
「放してやれ、ギルバート。その犬はもう吠えん」
ギルバートは皇帝の言葉に従い、忌々しげにドーソン子爵の腕を解放した。
解放されたドーソン子爵は、その場にへたり込んだまま荒い息を繰り返している。
「エルミールの使者よ」
皇帝は最後の通告を下すように低い声で言った。
「今宵の無礼、この場では不問としてやろう。だが二度はない。次に我が帝国の賓客、あるいは帝国そのものを侮辱するようなことがあれば、その時はおぬしの首一つでは済まんぞ。エルミール王国そのものが地図の上から消えると思え」
その言葉は絶対君主による紛れもない最後通牒だった。
ドーソン子爵は顔面蒼白で、ただひたすらに頭を床にこすりつけることしかできなかった。
皇帝はそんな彼にもう興味を失くしたように背を向けると、何事もなかったかのように楽団に音楽の再開を命じた。
ホールには再び優雅なワルツの調べが流れ始める。
ギルバートはまだ怒りの収まらない険しい表情で、リリアンナの肩を抱き寄せた。
「…大丈夫か」
「はい…。私は大丈夫です」
リリアンナはこくりと頷いた。
怖かった。
しかし、それ以上に彼女の心を満たしていたのは、ギルバートと、そして皇帝陛下という二人の偉大な男に守られたという大きな安堵感だった。
私はもう一人で戦う必要はないのだ。
皇帝の裁きにより、ドーソン子爵は這うようにしてホールから退散していった。
帝国貴族たちは何事もなかったかのように再び談笑を始めている。しかし彼らがリリアンナに向ける視線は明らかに変わっていた。
彼女はただ美しいだけの聖女ではない。黒騎士がその身を懸けて守り、皇帝陛下自らがその存在を認めた、この帝国にとって極めて重要な人物なのだと。
その夜、リリアンナ・フォン・アルクライドという名は帝都の社交界に決して揺らぐことのない確固たる地位を築いた。
それは彼女自身の力ではなく、彼女を愛し守ろうとする二人の男の、静かなる怒りによってもたらされた皮肉な結果だった。
皇帝の声は決して大きくはなかった。しかし、その声に含まれた絶対的な威厳はホール全体の空気を一瞬で支配した。
あれほどまでに高まっていたギルBアートの殺気さえも、その声の前ではわずかに揺らいだように見えた。
皇帝レオポルトはゆっくりとした、しかし王者の風格に満ちた足取りで三人の元へと歩み寄ってきた。その鷲のような鋭い瞳は、まず恐怖に震えるドーソン子爵に向けられた。
「エルミールの使者よ。おぬしの言い分は聞き届けた」
皇帝は静かに告げた。その声には何の感情も含まれていない。それが逆にドーソン子爵を恐怖させた。
「貴国の主張によれば、その娘は国を傾けた大罪人である、と。そして我が帝国の賓客として彼女を遇する我々は、正気を疑うべき愚か者である、と。…相違ないか?」
皇帝は一つ一つの言葉を区切るように確認した。
ドーソン子爵は皇帝の圧倒的な威圧感の前に、もはや虚勢を張ることもできなかった。ただ蒼白な顔でこくこくと頷くことしかできない。
「よろしい」
皇帝は頷くと、今度は集まった帝国貴族たちを見渡した。そしてホール全体に響き渡るような明瞭な声で言った。
「皆も聞いたであろう。これがエルミール王国の、我がガルヴァニア帝国に対する公式な見解である」
その言葉の持つ意味を、貴族たちは即座に理解した。
これはもはやギルバート個人とドーソン子爵個人の間の問題ではない。
ガルヴァニア帝国とエルミール王国の国家間の問題へと発展したのだ。
皇帝は再びドーソン子爵に向き直った。その瞳には先ほどまでの静けさとは打って変わって、氷のような冷たい光が宿っていた。
「ならば問おう。使者殿」
その声は冬の北風のように冷え切っていた。
「帝国の賓客を公衆の面前で罪人と罵り、我が帝国の判断を愚かと断じる。それは貴国がこのガルヴァニア帝国に喧嘩を売っていると、そう理解してよろしいのだな?」
喧嘩を売っている。
その直接的であまりにも重い言葉に、ドーソン子爵の全身からだらだらと冷たい汗が噴き出した。
しまった。完全に一線を越えてしまった。
自分の軽率な発言が国家間の戦争の引き金になりかねない、取り返しのつかない事態を招いてしまったのだ。
「い、いえ、滅相もございません! そのようなつもりは断じて…!」
彼は必死に首を横に振った。しかし、もはや手遅れだった。
「ほう? では今の発言は貴殿個人の戯言であったと申すか。それならば話は早い」
皇帝はドーソン子爵の腕を掴んだままのギルバートに冷たく言い放った。
「ギルバートよ。その男の舌を抜け。外交使節としての立場を忘れたただの痴れ者の戯言だ。何の遠慮もいらん」
そのあまりにも冷酷な裁きに、ドーソン子爵は「ひっ」と悲鳴を上げた。
ギルバートの金の瞳がぎらりと危険な光を放つ。彼は本気で皇帝の命令を実行しようとしていた。
「お、お待ちください! お待ちくださいませ、皇帝陛下!」
ドーソン子爵はその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。プライドも見栄も全てをかなぐり捨てて、必死に命乞いをする。
「わ、私の失言でございました! どうか、どうかご容容赦を! エルミール王国に帝国へ弓を引く意思など微塵もございません!」
その惨めな姿を、皇帝は冷たい目で見下ろしていた。
しばらくの沈黙の後、彼はつまらなそうにふっと息をついた。
「…つまらぬ男よ。まあよかろう。今宵は朕の主催する祝いの席だ。血で汚すのも興醒めというもの」
彼はギルバートに顎でしゃくった。
「放してやれ、ギルバート。その犬はもう吠えん」
ギルバートは皇帝の言葉に従い、忌々しげにドーソン子爵の腕を解放した。
解放されたドーソン子爵は、その場にへたり込んだまま荒い息を繰り返している。
「エルミールの使者よ」
皇帝は最後の通告を下すように低い声で言った。
「今宵の無礼、この場では不問としてやろう。だが二度はない。次に我が帝国の賓客、あるいは帝国そのものを侮辱するようなことがあれば、その時はおぬしの首一つでは済まんぞ。エルミール王国そのものが地図の上から消えると思え」
その言葉は絶対君主による紛れもない最後通牒だった。
ドーソン子爵は顔面蒼白で、ただひたすらに頭を床にこすりつけることしかできなかった。
皇帝はそんな彼にもう興味を失くしたように背を向けると、何事もなかったかのように楽団に音楽の再開を命じた。
ホールには再び優雅なワルツの調べが流れ始める。
ギルバートはまだ怒りの収まらない険しい表情で、リリアンナの肩を抱き寄せた。
「…大丈夫か」
「はい…。私は大丈夫です」
リリアンナはこくりと頷いた。
怖かった。
しかし、それ以上に彼女の心を満たしていたのは、ギルバートと、そして皇帝陛下という二人の偉大な男に守られたという大きな安堵感だった。
私はもう一人で戦う必要はないのだ。
皇帝の裁きにより、ドーソン子爵は這うようにしてホールから退散していった。
帝国貴族たちは何事もなかったかのように再び談笑を始めている。しかし彼らがリリアンナに向ける視線は明らかに変わっていた。
彼女はただ美しいだけの聖女ではない。黒騎士がその身を懸けて守り、皇帝陛下自らがその存在を認めた、この帝国にとって極めて重要な人物なのだと。
その夜、リリアンナ・フォン・アルクライドという名は帝都の社交界に決して揺らぐことのない確固たる地位を築いた。
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