婚約破棄のついでに国外追放されましたが、私を拾ってくれたのは前世で最推しだった黒騎士様でした

夏見ナイ

文字の大きさ
85 / 100

第85話:嵐の前の静けさ

しおりを挟む
帝都からの帰還を祝う宴の熱気が冷めやらぬまま、シュヴァルツ領には本格的な冬が訪れた。大地は深い雪に覆われ、世界は白と静寂に包まれた。しかし厳しい冬の到来を嘆く者は、もはやこの領地にはいなかった。

備蓄庫には秋の豊かな実りが山と積まれている。家々の暖炉には薪が惜しみなくくべられ、その煙突からは温かい煙が立ち上っていた。それは人々の満ち足りた暮らしの象徴そのものだった。
領地にはかつてないほど穏やかな日常が戻ってきた。

私もまた、その穏やかな日常へと帰っていた。
朝は厨房で料理人たちと共に騎士たちのための朝食を用意する。
「先生! ジャガイモをすり潰して生地に混ぜ込んだパンを焼いてみたんですが、味見をお願いします!」
「まあ、美味しそう! ふわふわでほんのり甘いのね」
活気と笑顔に満ちた厨房は、私にとって心安らぐ場所の一つだった。

昼間はマーサと共に砦の中の様々な仕事を手伝った。薬草を乾燥させて種類ごとに分類したり、冬用のリネンの補修をしたり。時折、騎士たちが「リリアンナ様、少し肩が凝って…」と相談に来れば、ハーブを使った温湿布を作ってあげることもあった。
その全てが私にとってはかけがえのない、愛しい日常だった。

そして夜。
執務に追われるギルバート様の部屋へ温かい夜食とハーブティーを運ぶのが、私の大切な日課となっていた。
「今夜はカブと干し肉のクリームシチューです。体を温める効果のある生姜を、少しだけ隠し味に入れてみました」
「…ああ」
彼は書類から目を離さずに、しかし確実に私の声に耳を傾けている。そして私が淹れたお茶を一口飲むと、ふっと息をついてペンを置いた。それが彼の短い休息の合図だった。

私たちは暖炉の前に並んで座り、言葉少なにお茶を飲んだ。
揺れる炎を眺めながら、他愛のない話をする。厨房での出来事。騎士たちの噂話。春になったら、実験農場でどんな新しい作物を育ててみたいか。

「帝都で見た、あの赤い実のなる果樹を育ててみたいのです。ジャムにしたらきっと美味しいでしょうね」
「あれは、この土地の寒さには耐えられん」
「でしたら温室のようなものを作れば…」
「…考えておこう」

そんな何気ない会話が、私の心を温かく満たしていく。
心が通じ合ってから、私たちは以前よりもずっと自然に触れ合うようになった。
彼が私の冷えた指先を、その大きな手で包み込んでくれたり。
私が彼の逞しい肩に、そっと頭を預けたり。
その度に、甘くて少しだけ切ない幸福感が胸いっぱいに広がった。

聖女の力の代償。
その過酷な運命は今も私たちの心に重くのしかかっている。しかし私たちはそのことについて、あえて口にすることはなかった。
ただ時折、彼が私の顔をじっと見つめ、「無理はするな」と、それだけを静かに告げる。
その金の瞳に宿る深い愛情と、失うことへの恐怖。
私は彼のその想いに応えるように、ただ黙って頷くのだった。

この穏やかな日々が永遠に続けばいい。
心の底からそう願っていた。
この腕の中にある幸せが当たり前のものとして、明日も明後日も続いていくのだと、信じて疑わなかった。

しかしこの世界の歯車は、私たちのささやかな願いとは関係なく、静かにそして確実に回り続けていた。

その日の深夜。
リリアンナが自室で安らかな眠りについている頃、ギルバートの執務室の扉が緊急の合図と共に叩かれた。
入室してきたのは、凍てつく夜気を纏った伝令の騎士だった。その顔は極度の緊張で強張っている。

「申し上げます! 国境の監視所より、緊急速報です!」
彼は震える手で封蝋のされた書簡をギルバートに差し出した。

ギルバートは、その不穏な気配に眉をひそめながら封を切った。
書簡に目を通す彼の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。
そこに記されていたのは、あまりにも信じ難く、そして不吉な報せだった。

『エルミール王国、王都近郊に軍を集結中。その数およそ一万。目的不明なれど、その矛先は我がシュヴァルツ領に向けられている可能性、極めて高し』

一万。
それは小国であるエルミールが動員できる、ほぼ全ての戦力だった。
あの愚かな王子はついに正気を失ったのか。外交も密偵による工作も失敗した今、残された最後の手段として、国そのものを賭けた無謀な戦争を仕掛けてくるというのか。

「…来たか」
ギルバートは静かに呟いた。その声は怒りよりも、むしろ冷え切った諦観に似た響きを帯びていた。
やはり避けられぬ運命だったのだ。
あの男がリリアンナを諦めるはずがなかった。

彼は立ち上がると、窓の外に広がる雪に閉ざされた暗い夜空を見上げた。
しんしんと雪が降り続いている。
それはまるでこれから始まる血なまぐさい戦いを覆い隠す、白い帳のようだった。

彼の脳裏に、リリアン-ナの穏やかな寝顔が浮かんだ。
彼女がようやく手に入れたこの温かい日常。彼女が愛したこの穏やかな場所。

(この平穏を、何者にも壊させはしない)

ギルバートの金の瞳に、絶対零度の決意の光が宿った。
たとえ相手が一万の軍勢であろうと、関係ない。
彼女の眠りを妨げる者は神であろうと悪魔であろうと、この俺が全て斬り捨てる。

嵐の前の最後の静けさ。
その終わりを告げる鐘が、今、遠い国で鳴らされた。
シュヴァルツ領の、そしてリリアンナとギルバートの運命を懸けた最後の戦いが、静かに始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

元社畜悪役令嬢、辺境のボロ城を全自動ボタニカル美容スパに大改造して引きこもる ~前世コスメで冷徹公爵を完治させたら溺愛されました~

季未
恋愛
「貴様のような悪逆非道な女は、極寒の辺境へ追放だ!」 建国記念の夜会で王太子から婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢シャルロッテ。 しかし、彼女の中身は前世でブラック企業に殺された過労で過労死したマーケターだった! (激務の王妃ルート回避!? しかも辺境は誰にも邪魔されないブルーオーシャン! 最高のフリーランス生活の始まりじゃない!) 理不尽な追放を究極のホワイト・スローライフへのパスポートだと歓喜した彼女は、あてがわれた辺境のボロ城を、前世の「DIY・スマートホーム知識」と「土・水魔法」を駆使して爆速で大改造! 隙間風の吹く部屋は、一瞬で「床暖房完備の全自動温水スパ」へ。 辺境に自生する雑草からは「極上ボタニカルコスメ」を開発し、自らも絶世の美女へと変貌していく。 さらに「お前には干渉しない」と白い結婚を突きつけてきたはずの、呪いで顔に火傷を負った氷の公爵に特製マッサージと美肌治療を施したところ……。 「お前が作ったこの空間と、お前自身が……俺のすべてだ」 冷徹だったはずの公爵様が、極上の癒やし空間と彼女の手技で完全に骨抜きにされ、異常なまでの過保護・溺愛モードに突入!? 現代マーケティングと美容チートで辺境を超高級スマート・リゾートへと再生させ、かつて自分を追放した王太子たちを大後悔させる! 爽快&極甘な、異世界リゾート経営×溺愛ファンタジー、堂々開幕!

わがままな婚約者はお嫌いらしいので婚約解消を提案してあげたのに、反応が思っていたのと違うんですが

水谷繭
恋愛
公爵令嬢のリリアーヌは、婚約者のジェラール王子を追いかけてはいつも冷たくあしらわれていた。 王子の態度に落ち込んだリリアーヌが公園を散策していると、転んで頭を打ってしまう。 数日間寝込むはめになったリリアーヌ。眠っている間に前世の記憶が流れ込み、リリアーヌは今自分がいるのは前世で読んでいたWeb漫画の世界だったことに気づく。 記憶を思い出してみると冷静になり、あれだけ執着していた王子をどうしてそこまで好きだったのかわからなくなる。 リリアーヌは王子と婚約解消して、新しい人生を歩むことを決意するが…… ◆表紙はGirly Drop様からお借りしました ◇小説家になろうにも掲載しています

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~

tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!! 壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは??? 一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

田舎娘をバカにした令嬢の末路

冬吹せいら
恋愛
オーロラ・レンジ―は、小国の産まれでありながらも、名門バッテンデン学園に、首席で合格した。 それを不快に思った、令嬢のディアナ・カルホーンは、オーロラが試験官を買収したと嘘をつく。 ――あんな田舎娘に、私が負けるわけないじゃない。 田舎娘をバカにした令嬢の末路は……。

婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢カルルは、ある夜会で王太子ジェラールから婚約破棄を言い渡される。しかし、カルルは泣くどころか、これまで立て替えていた経費や労働対価の「莫大な請求書」をその場で叩きつけた。

処理中です...