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第5話 「私の運命の人」
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馬車が緩やかに速度を落とし、やがて完全に停止した。
重厚な扉が開け放たれ、外の光が差し込んでくる。
「ユウキ様。到着いたしました」
ロイドの穏やかな声に促され、俺は恐る恐る馬車を降りた。
そして目の前に広がる光景に、言葉を失った。
そびえ立つ白亜の城。
そうとしか表現できない、巨大で壮麗な建造物がそこにあった。
緻密な彫刻が施された門は、俺が住むアパートの数倍はあろうかという高さだ。門の先には、手入れの行き届いた広大な庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っている。
これが、個人の屋敷だというのか。
前世で見たどんな豪邸よりも、比較にならないほど規格外の代物だった。
「さあ、こちらへ」
ルナリアが嬉しそうに俺の手を引く。
まるで自分の家に帰ってきたかのような、彼女の自然な振る舞い。そうか、彼女にとってはこの城が「家」なのだ。
住む世界が違いすぎる。
俺は完全に気圧されながら、されるがままに彼女の後についていった。
屋敷の中に足を踏み入れると、そこはさらに別世界だった。
床には一点の曇りもない深紅の絨毯が敷かれ、天井からは巨大なシャンデリアがきらびやかな光を放っている。壁には歴史を感じさせる肖像画や見事な武具が飾られ、その一つ一つが国宝級の価値を持っているように見えた。
ずらりと並んだメイドや執事たちが、俺たちの前で一斉に頭を下げる。
その光景は、俺のちっぽけな常識をいとも簡単に粉砕していった。
案内されたのは、屋敷の中でも特に豪華な応接室だった。
座り心地の良すぎるソファに腰を下ろすよう勧められたが、とてもじゃないがリラックスなどできない。背筋を伸ばしたまま、俺は緊張で固まっていた。
俺の膝の上では、愛猫が丸くなるかのようにルナリアが俺の腕に寄り添っている。彼女だけが、この異常な状況における唯一の癒やし…いや、元凶だったか。
「ユウキ様、お紅茶はいかがですか? ここのお茶は、とても美味しいのですよ」
「あ、はあ…」
無邪気に微笑む彼女に、俺は曖昧な返事しかできない。
心臓は今にも口から飛び出しそうだ。胃はキリキリと悲鳴を上げている。
やがて、重厚な扉が開き、一人の男が入ってきた。
齢は四十代半ばだろうか。
上質のベルベットで仕立てられた豪奢な服をまとい、口元には威厳のある髭をたくわえている。鋭い眼光は、まるで猛禽類のように獲物を見定めるかのようだ。その全身から放たれる圧倒的な威圧感に、俺は息を呑んだ。
この男が、シルフィード公爵家当主、アルフォンス・フォン・シルフィード。
ルナリアの父親だ。
アルフォンス公爵は、ゆっくりとした足取りで部屋の中央まで進むと、まずその鋭い視線を俺に向けた。
射殺されそうなほどの眼光だ。
「君が、娘を連れてきたという男か」
地を這うような低い声。空気がビリビリと震えるのを感じる。
これが、大貴族の威厳か。俺のような庶民では、目を合わせることすら難しい。
しかし、その威圧的な雰囲気は、次の瞬間には霧散した。
彼の視線が、俺の隣に座るルナリアへと移った時だった。
アルフォンス公爵は、自分の娘の姿を見て、大きく目を見開いた。
その瞳が、驚愕に、そして信じられないという歓喜に揺れる。
「ルナリア…お前…」
彼の声は震えていた。
無理もない。彼は今、自分の足で立ち、その瞳に確かな光を宿している最愛の娘の姿を、初めて目の当たりにしたのだから。
「お父様!」
ルナリアは俺の腕から離れると、ぱたぱたと父親の元へ駆け寄った。
そして、その場でくるりと一回転してみせる。
「ご覧になって。私、もう大丈夫ですわ。目も見えるのです。お父様の優しいお顔が、はっきりと」
その言葉が、最後の引き金となった。
アルフォンス公爵の威厳は完全に崩壊した。
彼は「おお…」と呻くと、その場に崩れ落ちるように膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。
「ルナリア…我が愛しい娘よ…! 神は、神は我らをお見捨てにはならなかった…!」
大の男が、人目もはばからずに泣きじゃくっている。
その姿は、威厳ある公爵ではなく、ただ娘の身を案じる一人の父親のものだった。
しばらく続いた感動の再会の後、アルフォンス公爵はようやく落ち着きを取り戻した。
メイドが差し出したハンカチで涙を拭うと、彼は改めて俺に向き直った。
その瞳には、先ほどの威圧感は欠片もなく、ただただ深い感謝の色が浮かんでいた。
「失礼した。ユウキ・アスカワ殿、とお呼びすればよいかな」
「は、はい」
「娘から話は聞いた。君が、我が娘の不治の病と盲目を癒やしてくれたと。…この御恩、どう感謝すればよいか、言葉も見つからん」
アルフォンス公爵は立ち上がると、俺の前に進み出て、深々と頭を下げた。
公爵が、一介の冒険者に頭を下げる。
常識的に考えて、ありえない光景だ。周囲に控えていたメイドや執事たちが、息を呑む気配がした。
「どうか、お顔を上げてください。俺はそんな、大したことをしたわけでは…」
俺が慌ててそう言うと、アルフォ-ンス公爵はゆっくりと顔を上げた。
「謙遜なさるな。君は、我がシルフィード家の、いや、この国にとっての救世主だ。さあ、望みを言ってほしい。金か? 地位か? あるいは、望むだけの領地を与えてもいい。君が望むものなら、この私が責任を持って全てを叶えよう!」
きた。予想していたとはいえ、あまりにも話が大きすぎる。
金も地位も領地もいらない。俺が欲しいのは、静かで穏やかな生活だけだ。
俺は意を決して、口を開いた。
「ありがとうございます。ですが、俺は何も望みません。ただ、これからも静かに…」
そう、言いかけた時だった。
俺の言葉を遮るように、澄んだ声が響いた。
「お父様。ユウキ様がお望みなのは、そのようなものではございません」
声の主は、ルナリアだった。
彼女はいつの間にか俺の隣に戻ってくると、真っ直ぐな瞳で父親を見つめていた。
そして、今度は俺の方に向き直る。
空色の瞳が、真剣な光をたたえて俺を射抜いた。
彼女は俺の両手をそっと取ると、その場に跪いた。
「え、ちょ、ルナリアさん!?」
「ユウキ様」
彼女は俺の制止を聞き入れず、ただひたすらに真摯な声で言葉を紡いだ。
「改めて、申し上げます。私の命を、光を、未来を救ってくださり、心から感謝いたします」
その瞳には、再び涙が溢れていた。
「このご恩に報いるため、どうか私に、貴方様へ全てを捧げることをお許しください」
「いや、だから、そんなことは…」
「私の命も、私の心も、この魂さえも、今日からすべてはユウキ様のものです。貴方様が笑ってくださるなら、私はどんなことでもいたします。貴方様が悲しむのなら、私はその原因を全て排除いたしましょう」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
純粋で、無垢で、どこまでも真っ直ぐな献身の誓い。
そのあまりの重さに、俺はただ圧倒されるしかなかった。
そして、その誓いを聞いていたアルフォンス公爵が、何かを盛大に勘違いしたようだった。
彼は「おお、おお…!」と再び涙ぐむと、天を仰いで叫んだ。
「そうか、ルナリア! そういうことだったのだな! お前はこのユウキ殿を、夫として迎えたいと、そう言っているのだな!」
「へ?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
夫? 婿?
話が一体どこをどう飛んだらそうなるんだ。
「よかろう! この父が許す! ユウキ殿、君ほどの男ならば、我が娘を任せるにふさわしい! いや、君以外には考えられん! さあ、すぐにでも婚約の準備を…!」
「ええええええええええええええええ!」
俺の絶叫が、壮麗な応接室に虚しく響き渡った。
アルフォンス公爵は「我が息子よ!」とか言いながら、感動の涙にむせんでいる。
そして、当のルナリアは。
彼女は顔を真っ赤に染めながらも、否定するどころか、満更でもないといった様子でこくりと小さく頷いていた。
その幸せそうな微笑みは、俺の最後の希望を打ち砕くには十分すぎた。
ああ、終わった。
終わってしまった。
俺の穏やかなスローライフは、今日、この瞬間、完全に、跡形もなく、木っ端微塵に消滅したのだ。
これから始まるであろう、怒涛の日々を想像して、俺の意識は遠くなった。
胃の痛みは、もはや感覚がないほどに麻痺していた。
ただ一つ確かなのは、俺の日常が、この純粋すぎる公爵令嬢によって、とんでもなく甘く、そしてとんでもなく騒がしいものに塗り替えられてしまったということだけだった。
重厚な扉が開け放たれ、外の光が差し込んでくる。
「ユウキ様。到着いたしました」
ロイドの穏やかな声に促され、俺は恐る恐る馬車を降りた。
そして目の前に広がる光景に、言葉を失った。
そびえ立つ白亜の城。
そうとしか表現できない、巨大で壮麗な建造物がそこにあった。
緻密な彫刻が施された門は、俺が住むアパートの数倍はあろうかという高さだ。門の先には、手入れの行き届いた広大な庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っている。
これが、個人の屋敷だというのか。
前世で見たどんな豪邸よりも、比較にならないほど規格外の代物だった。
「さあ、こちらへ」
ルナリアが嬉しそうに俺の手を引く。
まるで自分の家に帰ってきたかのような、彼女の自然な振る舞い。そうか、彼女にとってはこの城が「家」なのだ。
住む世界が違いすぎる。
俺は完全に気圧されながら、されるがままに彼女の後についていった。
屋敷の中に足を踏み入れると、そこはさらに別世界だった。
床には一点の曇りもない深紅の絨毯が敷かれ、天井からは巨大なシャンデリアがきらびやかな光を放っている。壁には歴史を感じさせる肖像画や見事な武具が飾られ、その一つ一つが国宝級の価値を持っているように見えた。
ずらりと並んだメイドや執事たちが、俺たちの前で一斉に頭を下げる。
その光景は、俺のちっぽけな常識をいとも簡単に粉砕していった。
案内されたのは、屋敷の中でも特に豪華な応接室だった。
座り心地の良すぎるソファに腰を下ろすよう勧められたが、とてもじゃないがリラックスなどできない。背筋を伸ばしたまま、俺は緊張で固まっていた。
俺の膝の上では、愛猫が丸くなるかのようにルナリアが俺の腕に寄り添っている。彼女だけが、この異常な状況における唯一の癒やし…いや、元凶だったか。
「ユウキ様、お紅茶はいかがですか? ここのお茶は、とても美味しいのですよ」
「あ、はあ…」
無邪気に微笑む彼女に、俺は曖昧な返事しかできない。
心臓は今にも口から飛び出しそうだ。胃はキリキリと悲鳴を上げている。
やがて、重厚な扉が開き、一人の男が入ってきた。
齢は四十代半ばだろうか。
上質のベルベットで仕立てられた豪奢な服をまとい、口元には威厳のある髭をたくわえている。鋭い眼光は、まるで猛禽類のように獲物を見定めるかのようだ。その全身から放たれる圧倒的な威圧感に、俺は息を呑んだ。
この男が、シルフィード公爵家当主、アルフォンス・フォン・シルフィード。
ルナリアの父親だ。
アルフォンス公爵は、ゆっくりとした足取りで部屋の中央まで進むと、まずその鋭い視線を俺に向けた。
射殺されそうなほどの眼光だ。
「君が、娘を連れてきたという男か」
地を這うような低い声。空気がビリビリと震えるのを感じる。
これが、大貴族の威厳か。俺のような庶民では、目を合わせることすら難しい。
しかし、その威圧的な雰囲気は、次の瞬間には霧散した。
彼の視線が、俺の隣に座るルナリアへと移った時だった。
アルフォンス公爵は、自分の娘の姿を見て、大きく目を見開いた。
その瞳が、驚愕に、そして信じられないという歓喜に揺れる。
「ルナリア…お前…」
彼の声は震えていた。
無理もない。彼は今、自分の足で立ち、その瞳に確かな光を宿している最愛の娘の姿を、初めて目の当たりにしたのだから。
「お父様!」
ルナリアは俺の腕から離れると、ぱたぱたと父親の元へ駆け寄った。
そして、その場でくるりと一回転してみせる。
「ご覧になって。私、もう大丈夫ですわ。目も見えるのです。お父様の優しいお顔が、はっきりと」
その言葉が、最後の引き金となった。
アルフォンス公爵の威厳は完全に崩壊した。
彼は「おお…」と呻くと、その場に崩れ落ちるように膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。
「ルナリア…我が愛しい娘よ…! 神は、神は我らをお見捨てにはならなかった…!」
大の男が、人目もはばからずに泣きじゃくっている。
その姿は、威厳ある公爵ではなく、ただ娘の身を案じる一人の父親のものだった。
しばらく続いた感動の再会の後、アルフォンス公爵はようやく落ち着きを取り戻した。
メイドが差し出したハンカチで涙を拭うと、彼は改めて俺に向き直った。
その瞳には、先ほどの威圧感は欠片もなく、ただただ深い感謝の色が浮かんでいた。
「失礼した。ユウキ・アスカワ殿、とお呼びすればよいかな」
「は、はい」
「娘から話は聞いた。君が、我が娘の不治の病と盲目を癒やしてくれたと。…この御恩、どう感謝すればよいか、言葉も見つからん」
アルフォンス公爵は立ち上がると、俺の前に進み出て、深々と頭を下げた。
公爵が、一介の冒険者に頭を下げる。
常識的に考えて、ありえない光景だ。周囲に控えていたメイドや執事たちが、息を呑む気配がした。
「どうか、お顔を上げてください。俺はそんな、大したことをしたわけでは…」
俺が慌ててそう言うと、アルフォ-ンス公爵はゆっくりと顔を上げた。
「謙遜なさるな。君は、我がシルフィード家の、いや、この国にとっての救世主だ。さあ、望みを言ってほしい。金か? 地位か? あるいは、望むだけの領地を与えてもいい。君が望むものなら、この私が責任を持って全てを叶えよう!」
きた。予想していたとはいえ、あまりにも話が大きすぎる。
金も地位も領地もいらない。俺が欲しいのは、静かで穏やかな生活だけだ。
俺は意を決して、口を開いた。
「ありがとうございます。ですが、俺は何も望みません。ただ、これからも静かに…」
そう、言いかけた時だった。
俺の言葉を遮るように、澄んだ声が響いた。
「お父様。ユウキ様がお望みなのは、そのようなものではございません」
声の主は、ルナリアだった。
彼女はいつの間にか俺の隣に戻ってくると、真っ直ぐな瞳で父親を見つめていた。
そして、今度は俺の方に向き直る。
空色の瞳が、真剣な光をたたえて俺を射抜いた。
彼女は俺の両手をそっと取ると、その場に跪いた。
「え、ちょ、ルナリアさん!?」
「ユウキ様」
彼女は俺の制止を聞き入れず、ただひたすらに真摯な声で言葉を紡いだ。
「改めて、申し上げます。私の命を、光を、未来を救ってくださり、心から感謝いたします」
その瞳には、再び涙が溢れていた。
「このご恩に報いるため、どうか私に、貴方様へ全てを捧げることをお許しください」
「いや、だから、そんなことは…」
「私の命も、私の心も、この魂さえも、今日からすべてはユウキ様のものです。貴方様が笑ってくださるなら、私はどんなことでもいたします。貴方様が悲しむのなら、私はその原因を全て排除いたしましょう」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
純粋で、無垢で、どこまでも真っ直ぐな献身の誓い。
そのあまりの重さに、俺はただ圧倒されるしかなかった。
そして、その誓いを聞いていたアルフォンス公爵が、何かを盛大に勘違いしたようだった。
彼は「おお、おお…!」と再び涙ぐむと、天を仰いで叫んだ。
「そうか、ルナリア! そういうことだったのだな! お前はこのユウキ殿を、夫として迎えたいと、そう言っているのだな!」
「へ?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
夫? 婿?
話が一体どこをどう飛んだらそうなるんだ。
「よかろう! この父が許す! ユウキ殿、君ほどの男ならば、我が娘を任せるにふさわしい! いや、君以外には考えられん! さあ、すぐにでも婚約の準備を…!」
「ええええええええええええええええ!」
俺の絶叫が、壮麗な応接室に虚しく響き渡った。
アルフォンス公爵は「我が息子よ!」とか言いながら、感動の涙にむせんでいる。
そして、当のルナリアは。
彼女は顔を真っ赤に染めながらも、否定するどころか、満更でもないといった様子でこくりと小さく頷いていた。
その幸せそうな微笑みは、俺の最後の希望を打ち砕くには十分すぎた。
ああ、終わった。
終わってしまった。
俺の穏やかなスローライフは、今日、この瞬間、完全に、跡形もなく、木っ端微塵に消滅したのだ。
これから始まるであろう、怒涛の日々を想像して、俺の意識は遠くなった。
胃の痛みは、もはや感覚がないほどに麻痺していた。
ただ一つ確かなのは、俺の日常が、この純粋すぎる公爵令嬢によって、とんでもなく甘く、そしてとんでもなく騒がしいものに塗り替えられてしまったということだけだった。
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