お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました

夏見ナイ

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第11話:異変の察知

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涙と共に過去を洗い流したリリアーナの心は、静かな湖面のようだった。もう何にも乱されることはない。そんな強さを手に入れた気さえした。彼女は森のさらに奥へと足を進める。どこへ続く道なのか、出口がどちらなのかも分からない。ただ、前に進むことだけが、今の彼女にできる唯一のことだった。

森は、進めば進むほどその様相を変えていった。入り口付近の穏やかな雰囲気は消え失せ、巨木が空を覆い尽くし、昼間だというのに薄暗い。湿った土と苔の匂いが、空気に満ちている。時折、木々の隙間から差し込む光が、まるで舞台のスポットライトのように、シダの葉やきのこを照らし出していた。

リリアーナは、これほど深く自然の中に身を置いたことがなかった。屋敷の庭は完璧に管理され、人の手が入っていない場所などなかったからだ。ここでは、全てが生命の法則のままに動いている。力強い木の根が大地を掴み、枯れた葉は土に還り、新しい命の糧となる。その循環の中にいると、人間の世界の悩み事が、ひどくちっぽけなものに思えた。

布袋の中のパンは、もう残り少ない。水もそうだ。それでも、不思議と焦りはなかった。森は、食べられる木の実や清らかな泉を与えてくれた。薬草図鑑で見た知識が、ここで役立っている。どのきのこに毒があり、どの葉が傷に効くか。母親が昔語ってくれた知識が、彼女の命を繋いでいた。

歩き続けて、三日が経った頃だろうか。
森の雰囲気が、再び変わったことに気づいた。
それまで聞こえていた鳥のさえずりや、小動物が木々の間を駆け抜ける音が、ぴたりと止んだのだ。まるで、森全体が息を殺しているかのような、不気味な静寂。風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく耳に響く。

リリアーナは足を止め、周囲を警戒した。野生の獣だろうか。しかし、獣の気配とは明らかに違う、もっと根源的な恐怖を煽る何かが、この空間を支配していた。肌が粟立つような、嫌な感覚。

その時だった。
風向きが変わり、今まで感じたことのない匂いが鼻腔をかすめた。
鉄が錆びたような匂い。そして、それに混じる、甘ったるく腐臭にも似た香り。
血だ。
リリアーナは瞬時にそれを理解した。これほどの濃さ、尋常な量ではない。

それだけではなかった。
匂いと同時に、彼女の体の奥深くで、 dormant 状態だった力が疼き始めた。それは、彼女が最も嫌い、最も恐れていた感覚だった。聖女の力は、生命の危機や穢れに敏感に反応する。今、その力が警鐘を鳴らしていた。この先に、強大な「穢れ」が存在すると。

魔瘴。
古の文献でしか読んだことのない、邪悪な気配。生命力を蝕み、大地を腐らせ、生き物を凶暴な魔物に変えるという呪われたエネルギー。その気配が、血の匂いと混じり合って、風に乗って流れてきている。

逃げなければ。
本能が、理性が、そう叫んでいた。これまでの人生で培ってきた処世術が、危険には近づくなと強く警告する。関わってはいけない。見て見ぬふりをして、別の道を探すべきだ。そうすれば、自分は傷つかずに済む。今までだって、ずっとそうやって生きてきたではないか。

リリアーナは踵を返し、この場を去ろうとした。
しかし、足が動かない。
まるで、見えない何かに縫い付けられたかのように、地面に根が生えてしまったかのようだった。

血の匂いが、脳裏にこびりついて離れない。
魔瘴の気配が、誰かの苦しみを伝えてくる。
この森のどこかで、誰かが傷つき、苦しんでいる。もしかしたら、命を落とす寸前なのかもしれない。

見過ごせるだろうか。
それを知ってしまった上で、自分だけが助かろうと背を向けることができるだろうか。

『自分のために生きる』

そう決めたばかりだ。自分の安全を第一に考えるべきだ。
だが、誰かの苦しみを見捨てて手に入れた安全に、本当に価値があるのだろうか。そんな生き方が、本当に自分の望む生き方なのだろうか。

葛藤が、嵐のように心の中で吹き荒れる。
今まで忌み嫌ってきたこの力。誰かを傷つけるだけの、呪われた力。
でも、もし。もしもこの力が、死にかけている誰かを救えるのだとしたら。

初めて、自分の意志で力を使う可能性を考えた。それは、リリアーナにとって天動説が地動説に変わるほどの、大きな価値観の転換だった。

怖い。
また誰かを傷つけてしまうかもしれない。力を制御できず、良かれと思ってしたことが、最悪の結果を招くかもしれない。幼い頃のトラウマが、冷たい手となって心臓を掴む。

それでも。
リリアーナの脳裏に、血に塗れて倒れている名も知らぬ誰かの姿が浮かんだ。その命の灯火が、今まさに消えようとしている。

「……行こう」

か細い、けれど確かな意志のこもった声が、静かな森に落ちた。
もう、逃げるのはやめだ。
過去の自分からも、この忌まわしい力からも。そして、目の前の誰かの苦しみからも。

リリアーナは、血と魔瘴の匂いがする方へ、顔を向けた。恐怖で膝が震える。それでも、彼女は一歩、前に足を踏み出した。
それは、彼女が「灰色の令嬢」の殻を破り、本当の意味で「リリアーナ・グレイフィールド」として生きることを決意した、運命の一歩だった。
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