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第六十四話:闇夜の攻防
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新月の夜は、帝都から全ての光を奪い去ったかのようだった。ヴェルヘイム邸の広大な庭は深い闇に沈み、風が木々を揺らす音だけが不気味に響いている。
アッシュの私室の窓が音もなく僅かに開いた。
そこから黒い煙のようなものがゆらりと室内に流れ込む。それはただの煙ではなかった。吸い込んだ者を深い眠りへと誘う特殊な睡眠香だった。
煙が部屋に充満しベッドの人影が完全に動かなくなったのを確認すると、窓から一人の影が猫のようにしなやかに侵入した。『夜想曲』の暗殺者だった。その全身は闇色の装束に包まれ顔は仮面で覆われている。その歩みは一切の音を立てない。まさに闇に生きる亡霊そのものだった。
暗殺者はベッドに近づくと、腰に提げた短剣を抜き放った。その刃には青黒い毒が塗られている。一突きで確実に標的の命を奪うための必殺の凶器。
彼はベッドに眠るアッシュの心臓を目掛け、音もなく短剣を振り下ろした。
成功を確信した、その瞬間。
「――遅い」
背後から氷のように冷たい声が響いた。
暗殺者は驚愕に目を見開いた。気づかなかった。背後に人の気配など全くなかったはずだ。
彼が振り返るよりも早く、銀色の閃光が闇を切り裂いた。
リリアだった。彼女は天井の梁の上で気配を完全に殺して待ち伏せていたのだ。彼女が放ったショートソードの一撃は、暗殺者の短剣を持つ腕を正確に切り裂いた。
「ぐっ……!?」
暗殺者は痛みと驚きに呻き、後ろへ飛び退いた。短剣がカランと乾いた音を立てて床に落ちる。
「獣人……!? なぜ睡眠香が効かない!」
彼の感情に初めて「焦り」という色が浮かんだ。獣人族は五感が鋭敏な分、特殊な薬物への耐性が高いことを彼は知らなかった。
「貴様一人ではないな!」
暗殺者は即座に状況を判断した。
その言葉に答えるかのように、部屋の隅の甲冑がギシリと音を立てて動き出した。中から現れたのは隻腕の巨漢、ガイウスだった。
「いかにも。貴様の相手はこの俺だ」
そしてベッドの中から眠っていたはずのアッシュがゆっくりと身を起こした。彼が眠っていたのはリリアが事前に用意した解毒薬草を詰めた枕の上だった。
「ようこそ、『夜想曲』の客人。歓迎するよ」
アッシュの赤い瞳が、闇の中で不気味に輝いていた。
罠だ。完璧に嵌められた。
暗殺者は自らの失態を悟った。だが彼は帝都最強の暗殺者ギルドの一員。その矜持が彼に撤退を許さなかった。
彼は懐から二本のクナイを取り出すと、ガイウスとリリアに同時に投げつけた。
「甘い!」
ガイウスは長剣の一振りでクナイを弾き返し、リリアは身をかがめてそれを避けた。
その一瞬の隙に、暗殺者は窓から飛び出し屋根の上へと逃れようとする。
「逃がさん!」
ガイウスが後を追おうとするが、アッシュはそれを手で制した。
「追う必要はない。外にも客人は来ているはずだ」
アッシュの言葉通り、屋敷の庭の闇の中から数人の黒装束の影が現れた。彼らは最初の暗殺者の仲間であり、陽動と退路の確保を担当していた部隊だった。
だが彼らの前にも、招かれざる客が立ちはだかった。
「貴様ら、何者だ!」
暗殺者の一人が驚きに声を上げる。
そこに立っていたのは帝国騎士の鎧に身を包んだ十数名の兵士たちだった。その先頭に立つのは騎士サイモン。そして彼の隣には、燃えるような真紅の髪を持つ美女セレスティアが優雅に杖を構えていた。
「帝国魔導師団筆頭、セレスティア・フォン・ヴァーミリオンよ」
セレスティアは静かに名乗りを上げた。
「あなたたちのような帝都の闇に巣食う害虫を駆除しに来たわ」
「『帝国の薔薇』だと!? なぜお前がここに!」
暗殺者たちは狼狽した。彼らの情報網にセレスティアの動きは一切捕捉されていなかった。
アッシュはこの襲撃を予測した上でセレスティアとサイモンに協力を要請し、屋敷の周囲に伏兵として配置していたのだ。
「問答無用! 一人残らず捕らえなさい!」
セレスティアの号令で、騎士たちが一斉に暗殺者たちへと襲いかかった。
庭は瞬く間に激戦の場と化した。
暗殺者たちは闇に紛れて変幻自在の攻撃を繰り出す。だがサイモン率いる騎士たちはガイウスの訓練を受け、少数精鋭との戦い方を熟知していた。彼らは決して深追いせず、盾で堅固な陣形を組み着実に暗殺者たちを追い詰めていく。
そしてその戦場を支配していたのは、セレスティアの魔法だった。
「――踊れ、風の刃よ!」
彼女が杖を振るうと、不可視の風の刃が乱れ飛び暗殺者たちの退路を断ち、その体勢を崩す。
「――縛れ、大地の枷よ!」
地面から土の腕が無数に出現し、暗殺者たちの足首を掴んで動きを封じた。
彼女の魔法は殲滅魔法のような派手さはない。だがその一体一体を的確に無力化していく精密で冷徹な戦場制御術は、暗殺者たちにとって悪夢そのものだった。
屋根の上では最初の暗殺者が、眼下で仲間たちが次々と捕らえられていく光景を見て歯噛みしていた。
完全に包囲されている。もはや逃げ場はない。
その時、彼の背後に再び銀色の影が立った。リリアだった。
「終わりだよ」
リリアの感情のない声が響く。
暗殺者は最後の抵抗として懐から煙玉を叩きつけた。目眩ましの煙が屋根の上を覆い尽くす。
だがリリアにとって視覚など必要なかった。
彼女は目を閉じ、耳と鼻で煙の中の敵の位置、呼吸、心臓の鼓動を完璧に捉えていた。
煙が晴れた時、そこには首筋にショートソードの柄を叩き込まれ完全に意識を失った暗殺者の姿と、その傍らに静かに佇む銀髪の少女の姿があった。
闇夜の攻防はアッシュたちの完璧な勝利によって幕を閉じた。
帝都最強と謳われた暗殺ギルド『夜想曲』は、辺境の悪魔が仕掛けた周到な罠の前でその牙を抜かれ、無力な獣へと成り下がった。
この一夜の出来事は、アッシュという存在の危険性を帝都の闇に生きる者たちに骨の髄まで刻み込むことになった。
アッシュの私室の窓が音もなく僅かに開いた。
そこから黒い煙のようなものがゆらりと室内に流れ込む。それはただの煙ではなかった。吸い込んだ者を深い眠りへと誘う特殊な睡眠香だった。
煙が部屋に充満しベッドの人影が完全に動かなくなったのを確認すると、窓から一人の影が猫のようにしなやかに侵入した。『夜想曲』の暗殺者だった。その全身は闇色の装束に包まれ顔は仮面で覆われている。その歩みは一切の音を立てない。まさに闇に生きる亡霊そのものだった。
暗殺者はベッドに近づくと、腰に提げた短剣を抜き放った。その刃には青黒い毒が塗られている。一突きで確実に標的の命を奪うための必殺の凶器。
彼はベッドに眠るアッシュの心臓を目掛け、音もなく短剣を振り下ろした。
成功を確信した、その瞬間。
「――遅い」
背後から氷のように冷たい声が響いた。
暗殺者は驚愕に目を見開いた。気づかなかった。背後に人の気配など全くなかったはずだ。
彼が振り返るよりも早く、銀色の閃光が闇を切り裂いた。
リリアだった。彼女は天井の梁の上で気配を完全に殺して待ち伏せていたのだ。彼女が放ったショートソードの一撃は、暗殺者の短剣を持つ腕を正確に切り裂いた。
「ぐっ……!?」
暗殺者は痛みと驚きに呻き、後ろへ飛び退いた。短剣がカランと乾いた音を立てて床に落ちる。
「獣人……!? なぜ睡眠香が効かない!」
彼の感情に初めて「焦り」という色が浮かんだ。獣人族は五感が鋭敏な分、特殊な薬物への耐性が高いことを彼は知らなかった。
「貴様一人ではないな!」
暗殺者は即座に状況を判断した。
その言葉に答えるかのように、部屋の隅の甲冑がギシリと音を立てて動き出した。中から現れたのは隻腕の巨漢、ガイウスだった。
「いかにも。貴様の相手はこの俺だ」
そしてベッドの中から眠っていたはずのアッシュがゆっくりと身を起こした。彼が眠っていたのはリリアが事前に用意した解毒薬草を詰めた枕の上だった。
「ようこそ、『夜想曲』の客人。歓迎するよ」
アッシュの赤い瞳が、闇の中で不気味に輝いていた。
罠だ。完璧に嵌められた。
暗殺者は自らの失態を悟った。だが彼は帝都最強の暗殺者ギルドの一員。その矜持が彼に撤退を許さなかった。
彼は懐から二本のクナイを取り出すと、ガイウスとリリアに同時に投げつけた。
「甘い!」
ガイウスは長剣の一振りでクナイを弾き返し、リリアは身をかがめてそれを避けた。
その一瞬の隙に、暗殺者は窓から飛び出し屋根の上へと逃れようとする。
「逃がさん!」
ガイウスが後を追おうとするが、アッシュはそれを手で制した。
「追う必要はない。外にも客人は来ているはずだ」
アッシュの言葉通り、屋敷の庭の闇の中から数人の黒装束の影が現れた。彼らは最初の暗殺者の仲間であり、陽動と退路の確保を担当していた部隊だった。
だが彼らの前にも、招かれざる客が立ちはだかった。
「貴様ら、何者だ!」
暗殺者の一人が驚きに声を上げる。
そこに立っていたのは帝国騎士の鎧に身を包んだ十数名の兵士たちだった。その先頭に立つのは騎士サイモン。そして彼の隣には、燃えるような真紅の髪を持つ美女セレスティアが優雅に杖を構えていた。
「帝国魔導師団筆頭、セレスティア・フォン・ヴァーミリオンよ」
セレスティアは静かに名乗りを上げた。
「あなたたちのような帝都の闇に巣食う害虫を駆除しに来たわ」
「『帝国の薔薇』だと!? なぜお前がここに!」
暗殺者たちは狼狽した。彼らの情報網にセレスティアの動きは一切捕捉されていなかった。
アッシュはこの襲撃を予測した上でセレスティアとサイモンに協力を要請し、屋敷の周囲に伏兵として配置していたのだ。
「問答無用! 一人残らず捕らえなさい!」
セレスティアの号令で、騎士たちが一斉に暗殺者たちへと襲いかかった。
庭は瞬く間に激戦の場と化した。
暗殺者たちは闇に紛れて変幻自在の攻撃を繰り出す。だがサイモン率いる騎士たちはガイウスの訓練を受け、少数精鋭との戦い方を熟知していた。彼らは決して深追いせず、盾で堅固な陣形を組み着実に暗殺者たちを追い詰めていく。
そしてその戦場を支配していたのは、セレスティアの魔法だった。
「――踊れ、風の刃よ!」
彼女が杖を振るうと、不可視の風の刃が乱れ飛び暗殺者たちの退路を断ち、その体勢を崩す。
「――縛れ、大地の枷よ!」
地面から土の腕が無数に出現し、暗殺者たちの足首を掴んで動きを封じた。
彼女の魔法は殲滅魔法のような派手さはない。だがその一体一体を的確に無力化していく精密で冷徹な戦場制御術は、暗殺者たちにとって悪夢そのものだった。
屋根の上では最初の暗殺者が、眼下で仲間たちが次々と捕らえられていく光景を見て歯噛みしていた。
完全に包囲されている。もはや逃げ場はない。
その時、彼の背後に再び銀色の影が立った。リリアだった。
「終わりだよ」
リリアの感情のない声が響く。
暗殺者は最後の抵抗として懐から煙玉を叩きつけた。目眩ましの煙が屋根の上を覆い尽くす。
だがリリアにとって視覚など必要なかった。
彼女は目を閉じ、耳と鼻で煙の中の敵の位置、呼吸、心臓の鼓動を完璧に捉えていた。
煙が晴れた時、そこには首筋にショートソードの柄を叩き込まれ完全に意識を失った暗殺者の姿と、その傍らに静かに佇む銀髪の少女の姿があった。
闇夜の攻防はアッシュたちの完璧な勝利によって幕を閉じた。
帝都最強と謳われた暗殺ギルド『夜想曲』は、辺境の悪魔が仕掛けた周到な罠の前でその牙を抜かれ、無力な獣へと成り下がった。
この一夜の出来事は、アッシュという存在の危険性を帝都の闇に生きる者たちに骨の髄まで刻み込むことになった。
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