無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第九十九話:宰相の日常

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『奈落の蛇』との本土決戦から、一年が過ぎた。
帝国は、アッシュという名の若き宰相の下で、見違えるような変貌を遂げていた。腐敗の根は絶たれ、国には活気が満ち、人々は未来への希望を語り合っている。かつて帝国を覆っていた暗い影は、まるで嘘のように晴れ渡っていた。

宰相執務室。その主であるアッシュ・フォン・ヴェルヘイムは、しかし、帝国の輝かしい未来とは裏腹に、山のような書類の山に埋もれていた。
「……終わらん」
彼は、本日何度目か分からないため息をつき、ペンを置いた。机の上には、ヴァイスラントからの鉄鉱石の生産報告書、軍の再編に関する予算案、そして隣国との新たな通商条約の草案が、無秩序に広がっている。

帝国宰相の仕事は、彼が想像していた以上に地味で、過酷で、そして終わりが見えないものだった。かつて彼が夢見た「安楽な生活」とは、光年単位でかけ離れている。

「アッシュ様、お疲れ様です」
静かな声と共に執務室の扉が開いた。入ってきたのは、メイド服に身を包んだリリアだった。その手には、湯気の立つハーブティーのカップが乗った盆がある。
「少し、休憩になさってください」

彼女はもはや怯えた奴隷の少女ではなかった。この一年で彼女は帝都の作法を完璧に身につけ、アッシュの秘書兼護衛として、公私にわたり彼を支えるかけがえのない存在となっていた。
だが、アッシュに向けるその純粋な眼差しと、時折ぴくりと動く猫の耳だけは昔のままだった。

「……ああ。すまない」
アッシュは彼女が淹れてくれたハーブティーを一口飲んだ。カモミールの優しい香りが、疲れた神経をわずかに解きほぐしてくれる。
リリアは何も言わずに、アッシュの机の乱雑な書類を手際よく片付け始めた。その献身的な姿は、アッシュにとって、この殺伐とした日常における唯一の癒やしだった。

その時、執務室の扉が今度はノックもなしに勢いよく開かれた。
「アッシュ!また部屋に籠って、書類仕事ばかりしているのでしょう!」
現れたのは、真紅のドレスを翻したセレスティアだった。彼女は今や帝国魔導師団の総帥として、そしてアッシュの最も信頼する協力者として、この執務室を自分の部屋のように出入りしていた。

「見てください、この山を」
アッシュは書類の山をうんざりしたように指差した。
「誰かさんが次から次へと新しい改革案を持ってくるせいなんだがな」

「あら、それを実行するのが宰相のお仕事でしょう?」
セレスティアは悪びれもせずに言い返すと、アッシュの机の向かいにどかりと腰を下ろした。
「それで、グランツ帝国に送った密偵からの報告は?」
彼女はすぐに仕事の話を始めた。二人の間にはもはやかつてのような敵意はなく、気心の知れた同僚のような心地よい緊張感が流れていた。

アッシュとセレスティアが大陸情勢について議論を交わしていると、今度は執務室の外から騒がしい声が聞こえてきた。
「だから、アッシュ公は今お取り込み中だと申しておるだろうが!」
「構わん!俺は宰相閣下の右腕だぞ!通せ!」

現れたのは、隻腕の将軍ガイウスと、彼を止めようとする近衛騎士たちだった。ガイウスは今や帝国軍の総司令官として、その武威を帝国中に轟かせていた。
「アッシュ!例の新しい大砲の試射がうまくいったぞ!あれがあれば、どんな城壁も赤子の腕よ!」
彼はまるで子供のようにはしゃぎながら、アッシュに報告した。

執務室は、いつの間にかアッシュが最も信頼する仲間たちで賑やかになっていた。
書類仕事に追われる、うんざりするような日常。
だが、その日常は決して孤独ではなかった。
共に帝国を動かす仲間がいる。自分の帰りを待っていてくれる者がいる。

アッシュは、そんな彼らのやり取りを静かな笑みを浮かべて見つめていた。
(……悪くない)
彼は心の中で呟いた。
(俺が求めていた安楽な生活とは少し違うかもしれんが。こういう日常も、悪くはない)

復讐の果てに見つけた空虚。
それを埋めてくれたのは、このささやかで、騒がしくて、そしてかけがえのない仲間たちとの時間だった。

ふと、アッシュは窓の外に視線を向けた。
活気を取り戻した帝都の街並みが、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
それは彼が、彼らが、守り抜いた平和の光景だった。

『奈落の蛇』の脅威は、まだ世界から消え去ってはいない。
大陸のどこかで今も新たな陰謀が企てられているかもしれない。
彼の戦いは、まだ終わってはいない。

だが、今の彼にはその戦いに立ち向かう理由があった。
この平和な日常を、この大切な仲間たちを守るため。
彼の戦いはもはや個人的なものではなく、帝国を、そして大切な人々を守るための誇り高い戦いへと、その意味を変えていたのだ。

セレスティアとガイウスの口論を聞きながら、リリアが淹れてくれた二杯目のハーブティーをすする。
そんな、ありふれた午後。
それこそが、アッシュが手に入れた何物にも代えがたい最高の報酬だったのかもしれない。
彼の物語はまだ続く。この、愛すべき日常を守るための、長い、長い戦いの物語が。
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