幽霊令嬢と呼ばれていますが、私にだけ見えるイケメンな縛霊様と恋に落ちました

夏見ナイ

文字の大きさ
2 / 53

第2話 あなたの名前は?

しおりを挟む
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
涙は枯れ、心は空っぽになり、ただ冷たい床に座り込んでいた。絶望という名の沼に、身体ごと沈んでいくような感覚。もう、何も考えられない。

その時だった。

ふと、誰かの視線を感じた。
はっとして顔を上げる。この部屋には私以外誰もいないはず。いつものように、人ならざるものの気配だろうか。そう思ったけれど、今日のそれはいつもとどこか違っていた。

空気の密度が濃くなったような、静寂が深まったような、不思議な感覚。
ゆっくりと部屋の中を見渡す。私の視線は、部屋の隅で止まった。

そこに、人が立っていた。

今まで見てきた曖昧な影ではない。はっきりとした輪郭を持つ、一人の青年。
夜の闇を溶かしたような黒髪。月光を閉じ込めたような金の瞳。その顔立ちは、どんな彫刻よりも精緻で美しかった。彼が身にまとっているのは、私が知らない時代のものと思われる、豪奢な貴族の装束だった。

青年は、まるでずっと昔からそこにいたかのように、静かに佇んでいた。
その姿は、少しだけ透けているように見える。ああ、やはりこの人も、この世の存在ではないのだ。

恐怖は感じなかった。
あまりにも現実離れした光景に、思考が追いつかなかったのかもしれない。あるいは、もう何もかもどうでもよくなってしまった心が、恐怖さえも感じなくさせているのか。

青年は、ただじっと私を見つめていた。
その金の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。けれど、よく見るとその奥に深い哀れみと、そしてどこか慈しむような色が揺らめいている気がした。

長い沈黙を破ったのは、彼の方だった。

「なぜ、泣いているんだ?」

低く、穏やかで、それでいて凛とした響きを持つ声。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。

話しかけられた。
今まで、私が見てきた「もの」たちは、ただそこにいるだけだった。私に認識されていることすら、気づいていないようだった。それなのに、この人は、私を見て、私に話しかけている。

「……あなたは、誰?」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、掠れていた。
私の問いに、青年は美しい眉をわずかに寄せ、少し困ったような表情を見せた。

「それが、分からないんだ」

彼の答えは、私の予想を裏切るものだった。

「分からない……?」
「ああ。俺が誰なのか。なぜ、ここにいるのか。何も思い出せない」

彼は静かにそう言った。その声に嘘や冗談の色はない。彼は心から、自分が何者なのか分からずにいるようだった。

「気がついた時には、この部屋にいた。そして、ずっとここに縛られている」
「縛られて……?」
「気がついた時には、この部屋にいた。そして君が生まれた時から、ずっと君と共にここにいる。君が部屋から出ない限り、僕もここから一歩も出ることができないようだ」
青年は、部屋の扉の方へ視線をやった。その瞳には、諦めにも似た静かな色が浮かんでいる。

「ずっと、見ていた」
「え……?」
「君が、この部屋で一人で過ごす姿を。ずっと、見ていた。君が生まれた時から、ずっと」

彼の言葉に、息を呑んだ。
生まれた時から。では、私がこの部屋で孤独に耐えてきた日々を、彼は全て見ていたというのだろうか。私が一人で涙を流した夜も、心を殺してただ息をしていた時間も、全て。

「今まで、俺の姿は誰にも見えなかった。俺の声も、誰にも届かなかった。君が初めてだ。俺を認識し、言葉を交わしてくれたのは」

その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
私と同じだ。
誰にも見てもらえず、誰の声も届かない。ただ一人、世界から切り離された存在。

違うのは、私が生きている人間で、彼が縛られた霊であることだけ。

「君が泣いていると、胸が苦しくなる。理由は分からない。だが、君には笑っていてほしいと、そう思うんだ」

彼はそう言って、私に手を伸ばしかけた。
けれど、その手は私に届く寸前でぴたりと止まる。まるで、触れることを躊躇うかのように。

ああ、この人は。
この人は、私の敵ではない。
私を気味悪がったり、蔑んだりしない。
ただ、静かに私のことを見ていてくれた。そして、私の涙を見て、心を痛めてくれている。

その事実が、凍りついていた私の心を、ほんの少しだけ溶かしていくのが分かった。
頬に、また新しい涙が伝う。でも、それはさっきまでの絶望の涙とは違っていた。温かくて、しょっぱい味がした。

私は手の甲で乱暴に涙を拭うと、もう一度彼の顔をまっすぐに見つめた。
透き通るように美しい顔立ち。けれど、その瞳の奥には、私と同じ深い孤独の色が滲んでいる。

「あなたの名前は?」

私は、もう一度尋ねた。
彼が彼自身を知るための、一番大切な問い。

青年は、やはり静かに首を横に振った。そして、寂しげに微笑む。
「分からない。思い出せないんだ」

彼の答えを聞いて、私の中に小さな決意が芽生えた。
十六年間、誰かのために何かをしたいなんて、思ったこともなかった。自分のことで精一杯で、そんな余裕はなかったから。

けれど、今。
目の前の、私と同じ孤独を抱えた美しい縛霊のために、私にできることが一つだけある。

「……それなら」

私は震える唇で、言葉を紡いだ。

「私が、あなたの名前をつけます」

その瞬間、彼の金の瞳が、驚きに見開かれるのを私は見た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

メイド令嬢は毎日磨いていた石像(救国の英雄)に求婚されていますが、粗大ゴミの回収は明日です

有沢楓花
恋愛
エセル・エヴァット男爵令嬢は、二つの意味で名が知られている。 ひとつめは、金遣いの荒い実家から追い出された可哀想な令嬢として。ふたつめは、何でも綺麗にしてしまう凄腕メイドとして。 高給を求めるエセルの次の職場は、郊外にある老伯爵の汚屋敷。 モノに溢れる家の終活を手伝って欲しいとの依頼だが――彼の偉大な魔法使いのご先祖様が残した、屋敷のガラクタは一筋縄ではいかないものばかり。 高価な絵画は勝手に話し出し、鎧はくすぐったがって身よじるし……ご先祖様の石像は、エセルに求婚までしてくるのだ。 「毎日磨いてくれてありがとう。結婚してほしい」 「石像と結婚できません。それに伯爵は、あなたを魔法資源局の粗大ゴミに申し込み済みです」 そんな時、エセルを後妻に貰いにきた、という男たちが現れて連れ去ろうとし……。 ――かつての救国の英雄は、埃まみれでひとりぼっちなのでした。 この作品は他サイトにも掲載しています。

私を陥れたつもりのようですが、責任を取らされるのは上司である聖女様ですよ。本当に大丈夫なんですか?

木山楽斗
恋愛
平民であるため、類稀なる魔法の才を持つアルエリアは聖女になれなかった。 しかしその実力は多くの者達に伝わっており、聖女の部下となってからも一目置かれていた。 その事実は、聖女に選ばれた伯爵令嬢エムリーナにとって気に入らないものだった。 彼女は、アルエリアを排除する計画を立てた。王都を守る結界をアルエリアが崩壊させるように仕向けたのだ。 だが、エムリーナは理解していなかった。 部下であるアルエリアの失敗の責任を取るのは、自分自身であるということを。 ある時、アルエリアはエムリーナにそれを指摘した。 それに彼女は、ただただ狼狽えるのだった。 さらにエムリーナの計画は、第二王子ゼルフォンに見抜かれていた。 こうして彼女の歪んだ計画は、打ち砕かれたのである。

答えられません、国家機密ですから

ととせ
恋愛
フェルディ男爵は「国家機密」を継承する特別な家だ。その後継であるジェシカは、伯爵邸のガゼボで令息セイルと向き合っていた。彼はジェシカを愛してると言うが、本当に欲しているのは「国家機密」であるのは明白。全てに疲れ果てていたジェシカは、一つの決断を彼に迫る。

【完結】僻地の修道院に入りたいので、断罪の場にしれーっと混ざってみました。

櫻野くるみ
恋愛
王太子による独裁で、貴族が息を潜めながら生きているある日。 夜会で王太子が勝手な言いがかりだけで3人の令嬢達に断罪を始めた。 ひっそりと空気になっていたテレサだったが、ふと気付く。 あれ?これって修道院に入れるチャンスなんじゃ? 子爵令嬢のテレサは、神父をしている初恋の相手の元へ行ける絶好の機会だととっさに考え、しれーっと断罪の列に加わり叫んだ。 「わたくしが代表して修道院へ参ります!」 野次馬から急に現れたテレサに、その場の全員が思った。 この娘、誰!? 王太子による恐怖政治の中、地味に生きてきた子爵令嬢のテレサが、初恋の元伯爵令息に会いたい一心で断罪劇に飛び込むお話。 主人公は猫を被っているだけでお転婆です。 完結しました。 小説家になろう様にも投稿しています。

“足りない”令嬢だと思われていた私は、彼らの愛が偽物だと知っている。

ぽんぽこ狸
恋愛
 レーナは、婚約者であるアーベルと妹のマイリスから書類にサインを求められていた。  その書類は見る限り婚約解消と罪の自白が目的に見える。  ただの婚約解消ならばまだしも、後者は意味がわからない。覚えもないし、やってもいない。  しかし彼らは「名前すら書けないわけじゃないだろう?」とおちょくってくる。  それを今までは当然のこととして受け入れていたが、レーナはこうして歳を重ねて変わった。  彼らに馬鹿にされていることもちゃんとわかる。しかし、変わったということを示す方法がわからないので、一般貴族に解放されている図書館に向かうことにしたのだった。

見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。

有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。 選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。 涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。 彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。 やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。

【完結】妹に婚約者まであげちゃったけれど、あげられないものもあるのです

ムキムキゴリラ
恋愛
主人公はアナスタシア。妹のキャシーにほしいとせがまれたら、何でも断らずにあげてきた結果、婚約者まであげちゃった。 「まあ、魔術の研究やりたかったから、別にいいんだけれどね」 それから、早三年。アナスタシアは魔術研究所で持ち前の才能を活かしながら働いていると、なんやかんやである騎士と交流を持つことに……。 誤字脱字等のお知らせをいただけると助かります。 感想もいただけると嬉しいです。 小説家になろうにも掲載しています。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さくら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

処理中です...