天下無敵のI love you

桧垣森輪

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1巻

1-2

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 それでも、好きになってしまったのだから仕方がない。平凡な人間だけど、せめて視界に収めてもらいたいと足掻あがくくらいは許されると信じている。

「はあ? それって、アイドルのファンみたいなもの? コンサートで毎回頑張って最前列の席を確保したり、出待ちしたりとか」
「うーん、近い、かも……」

 贔屓ひいきのアイドルに声をかけてもらうのは、最大の喜びだろう。中には本気で結婚したいと考えるファンもいるが、大抵は叶わぬ夢であることを知っている。そういう意味では、日菜子も同じなのかもしれない。
 好きな人に存在を認識してもらえないのは悲しい。だけど決して高望みもしない。
 彼のそばで、彼のためになにかがしたい。
 その願いを今、日菜子は着実に叶えている。

「なんて無欲な! それが、二十歳を超えた大人の女性が思うこと!?」
「失礼ね。大人だから、身の程を知っているだけですー」

 胸を張る日菜子に、佐保は信じられないといった具合に頭を抱える。

「わかんないなぁ……でも、まあ……とりあえず、応援だけはしてる」
「ありがとう、佐保ちゃん!」

 ちなみに、佐保にはつい先日、彼氏ができた。他社に勤めるサラリーマンで、彩美物産を訪問した際に接客した佐保に、一目惚れしたと言って声をかけてきたらしい。
 可愛くて綺麗きれいな女の子は、待っているだけで出会いの機会が訪れる。
 そうでない日菜子は、自分から動いて努力あるのみだ。

「もっと周りに目を向ければ、ひなちゃんにも幸せは転がっているのにね」

 意味深につぶやいた佐保が、後方をあごで示す。その方向から、一人の男性がこちらに向かって歩いてくるのが目に留まった。

「桃井! お疲れ様。よかった、無事に戻ったんだ」
常磐ときわさん。お疲れ様です」

 足早に近寄ってきたのは、営業事業部に所属する常磐慎之介しんのすけ。年齢は日菜子たちよりひとつ年上で、一年の地方研修を終えて、最近本社に転属されたばかりだ。
 切り揃えられた短髪がさわやかな印象の彼は、同時期に異動してきた日菜子のことをよく気に掛けてくれている。

「俺の代わりに課長の案件で外に行かせてごめんな?」
「そんなこと気にしなくてもいいですよ」

 届け物くらい自分にだってできると、日菜子は苦笑いする。

「いくらひなちゃんでも、迷子になったりしませんよ。常盤さんは過保護ですねぇ」
「そう言うけどな、青柳。行ったことのない会社なんだぞ? 知らない場所に行くのは大変だろ?」
「大丈夫ですよ。スマホにナビが付いてますから」
「そっか。桃井は偉いな」

 偉いのはスマホであって日菜子ではない。
 自分の手柄だと受け取られるのは違うと思いつつも、とりあえず笑顔を見せる。

「一方通行だわ……」

 そうつぶやきながら、なぜか佐保が生暖なまあたたかい目をしていた。

「ところでそれ、青柳の弁当か?」

 日菜子たちのテーブルの横に立った常磐は、佐保の前に置かれた弁当を指さす。
 弁当と認識できないほど、ひどい出来ではないはずなので、彼がそう聞いたのはサイズのせいだろう。

「フフッ、これは、日菜子が私のために作った、愛情たっぷりのお弁当なんです」

 喜々として自慢する佐保に、日菜子は思わずジト目になる。
 ――愛情は込めているけど、込めた相手は違う! 食べてくれるのはありがたいけど……

「へー、美味うまそうだな。それにしても、でかくねぇ?」

 佐保の弁当箱は、日菜子のものの倍の大きさ。男性が食べることを想定して作ったので、量を増やしている。
 それでも佐保は、毎回それをぺろりと平らげてしまうから、見かけに寄らず大食いだ。

「ボリュームはあるけど、野菜たっぷりでヘルシーだから問題ありません」

 今日のメニューは、肉巻きおにぎりに卵焼きとウインナー、ブロッコリーとミニトマトで彩りを添えて、ほうれん草のお浸しとニンジンとたらこの炒め物も入れてみた。
 佐保はヘルシーと言ったが、男子ウケするおかずをネットで調べて作ったので肉料理がメインだ。ヘルシーとは言い難い。
 それはさておき、恋愛経験の乏しい日菜子はメニューに自信がなかったのだが、常磐の反応を見る限り間違ってはいないらしい。

「いいな……俺、一人暮らしだから手料理って食べる機会ないんだよ。青柳には多すぎるだろう? ちょっと分けてくれよ」
「ダメです」

 お弁当に向かって伸びてきた常盤の手を、佐保はピシッと払いのける。

「これは私のなんだから、誰にもあげないっ!」

 ――だから、佐保のじゃないんだけどなぁ。
 心の中でツッコミを入れつつ、どこかでホッとする。
 央人に受け取ってはもらえなくとも、他の男の人が口にするのは抵抗があった。

「だったら今度、俺の分も作ってきてくれないか!?」

 しばらくうらやましそうに眺めていた常磐が、急に日菜子に向かって身を乗り出した。

「ええっ!?」
「もちろん、ちゃんとお礼はする。フレンチでもイタリアンでも、好きなものをご馳走ちそうするから」

 それほど手料理にえているのかと、突然の申し出に日菜子は困惑した。
 一人暮らしで料理もできないという彼を、気の毒に思わないわけではない。しかし、気乗りはしない。
 日菜子が央人のためにお弁当を作るのは、彼が好きだからだ。女子力のアピールもあるが、忙しい央人の健康を憂慮ゆうりょしてのこと。冷たいかもしれないけれど、他の男性にはそこまで気を回せない。
 返事に困って視線を彷徨さまよわせると、肉巻きおにぎりにかぶりついていた佐保と目が合う。

「……自分で頑張りなさい」

 小さな声で突き放されたが、彼女なりに「央人のお弁当」は守ってくれている。
 ここは自分が頑張るしかない。
 日菜子が口を開きかけたとき、ふと、背後から声をかけられる。

「――楽しそうだね」

 この声は――

「ふ、藤崎課長……!」

 振り返ると、そこにはやっぱり央人が立っていた。隣には、彼の同期で係長の小金井こがねい圭吾の姿もある。

「盛り上がってるみたいだけど、なにを話してたの?」

 央人の言葉を聞いた常磐が、上司二人に簡潔に説明をする。

「お疲れ様です。青柳のこの弁当、桃井が作ったらしいんですよ。あまりにも美味うまそうなんで、俺にも作ってほしいって頼んでたとこで」

 一瞬のを置いて、央人の視線が日菜子に向けられ、それから佐保の前のお弁当箱にそそがれた。
 お弁当箱のすぐそばには、深緑色のランチバッグも置かれている。おそらく央人は、それがつい先ほど自分へと差し出されたものと気づいただろう。
 横流しにしたのが見つかってしまい、なんだか気まずい。

「本当に、美味おいしそうなお弁当だ」

 日菜子との秘密のやり取りなどおくびにも出さず、央人は涼しげな顔で常磐と会話を続ける。

「そうなんですよ。でも青柳は、一口もくれなくて」
「だって本当に美味おいしいんだもの。他人にあげるのはもったいないです」

 ――佐保ちゃん、ナイスアシスト!
 日菜子はオロオロしながらも、常磐と佐保からの高評価が後押しとなって、次の機会には央人がお弁当を受け取ってくれないかなとほのかな期待を寄せる。
 するとその直後、央人は予想外の行動に出た。

「そうか。じゃあ、味見してもいい?」

 そう言って、央人がひょいと手を伸ばしたのは、日菜子の弁当箱だった。

「ええっ!?」

 彼が摘まんだのは、ハート型の卵焼き。普通に切ったひと切れを、さらに真ん中で斜めに切って並べて盛りつけたものだ。
 そのハートの片割れを指で持ち上げた央人は、そのままパクリと口に入れる。

「……うん。甘くて、美味おいしい。桃井さんは料理上手だね」

 指先をぺろっとめる仕草がやけにセクシーで、日菜子の胸は激しくときめく。
 央人が自分の手料理を初めて食べてくれたという事実に、一気に舞い上がった。
 ――課長が、私のハートを食べたぁぁぁ!

「ありがとう。また、俺にも作ってきてくれると嬉しいな」
「はい! 喜んで!」

 そばに立っている常盤が「え、『また』ってどういうこと?」と不思議がっていたが、そんなことに構ってはいられない。今日までの連敗記録も忘れて、天にも昇る心地で央人の背中を見送った。

「あれは……罪作りな男だね」

 ほうける日菜子の横で、佐保は感心したようにうなる。

「罪作りでも手作りは好きなんだね……佐保ちゃん、私、明日からも頑張るよ!」

 日菜子はふたたび、やる気をたぎらせた。
 その様子を眺めている常盤は微妙な顔で、苦笑する佐保に肩を叩かれている。

「敵は手強てごわい、ね」

 佐保のそれは日菜子と常盤の二人に向けられた言葉だったのだけれど、舞い上がる彼女の耳には届いていなかった。
 確かに入社式の日のオリエンテーションで日菜子は央人に一目惚れをした。
 だが、本当に彼に恋をしたのは、もっとあと。
 日菜子の心は、入社三か月後の「あの雨の日」から、ずっと央人にとらわれている。
 おそらく社内の誰も知らない、彼の一面を知ったあの日から――


   *****


「央人、さっきの行動。おまえにしては珍しいな」

 食堂を出た藤崎央人は、同期の小金井圭吾とともに喫煙室にやってきた。
 煙草に火をけながら自分に向かって片眉を上げる圭吾に、央人は顔をしかめる。

「なんのことだ?」

 圭吾が言いたいことはわかっていたが、面倒なのでしらばくれたが……

「普段のおまえなら、絶対に他人の手料理なんか口にしないだろう?」

 やはり、この男は鋭い。央人が気づいてほしくないことも敏感に察知してしまう。
 圭吾が言っているのは、先ほどの社員食堂での央人の行動だ。桃井日菜子の弁当箱から卵焼きを摘まんで食べたことを指している。

「他人の手料理が食べられないわけじゃない。ちょっと……気が向いた、だけだ」

 適当にはぐらかし、ここへ来る途中で買った缶コーヒーを口に運ぶ。
 なんでもないふうをよそおいながら答えたが、あの行動に一番驚いているのは央人だった。
 なぜ、あんな人がたくさんいる場所で、わざわざ食べかけの弁当に手を伸ばしたのか……
 厄介事やっかいごとを避けるため、日頃から女子社員からのプレゼントのたぐいは断っている。一度受け取れば収拾がつかなくなることはわかりきっていたし、相手の気持ちにこたえるつもりもない。
 ――それなのに、俺はなぜ?
 桃井日菜子が友人に渡した弁当が、自分に差し出されたものだというのは一目でわかった。
 だが、受け取らなかったものを、どう扱おうが彼女の自由だ。

「気が向いた、ねえ。俺には後輩に対して嫉妬心しっとしん丸出しだったように見えたけど?」
「そんな馬鹿な」

 くだらないと、央人は一笑いっしょうす。

「なあ、いっそのこと桃井と付き合ってみたらどうだ? お試しから始めてみるとか」

 それでもまだ圭吾は、含み笑いをしながら煙をくゆらせている。
 央人はあきれてため息を吐いた。

「よせよ。面倒臭い」
「そうか? おまえも意外と気に掛けているように見えたぞ」
「異動してきたばかりの彼女を気に掛けるのは当然だろう? せっかく事務の新任が見つかったのに」

 央人が日菜子を気に掛ける理由は、それしかない。
 営業事業部は多忙を極める部署。海外への買い付けなどで出張も多く、勤務時間も不規則になりがちだ。一般職は残業など、ある程度セーブされているが、まったく影響を受けないわけではない。
 それに営業マンは体育会系の気質の者も多く、口調がきつかったりもする。
 色々な面でハードな職場についていけず、辞めてしまう一般職が多かった。そのため、営業事業部は慢性的まんせいてきな事務員不足におちいっている。
 管理職に就いている央人は、部内の人事もになっている。経験不足でもいいからタフな人間を回してくれと人事部長に依頼したところ、推薦されたのが桃井日菜子だった。
 入社三年目の彼女は、今のところ及第点きゅうだいてん。経験不足なのはいなめないが、キャリアを考えれば当然のことだ。
 ――しかし、並々ならぬ熱意だけは感じられる。
 失敗することもあるが、積極的に仕事を覚えて貢献こうけんしようとしている。指示を出す人間の目をじっと覗き込み、真剣に業務メモを取る姿をよく見かけた。明るくハキハキした性格で、部内での評判も上々だ。
 まだ若いこともあってか、多少元気すぎる感はあるものの、部署の雰囲気には合っている。
 もちろん、彼女のモチベーションの一端が自分にあることは承知の上だ。
 毎日手作りの弁当を渡されれば、どんなに鈍い男でも気づく。
 それほどの積極性を持ちつつも、肝心なところで毎回なかなか言い出せずにこちらをうかがっている様子にはクスリとする。央人から声をかけると嬉しそうに頬を赤らめるという初心うぶな反応も、ちぐはぐな感じがして見ていて飽きない。
 央人の周りには今までいなかったタイプである。
 学生時代も社会人になってからも、央人の周囲には自分に自信がある女性が多かった。
 彼女たちは、他人におくすることも遠慮することもない。目的のためには他者を蹴落けおとすことさえいとわない。
 特に就職してからは、仕事柄エリート志向の強い女性と出会うことが多かった。商社の最前線である営業事業部にいるのだから、当然の成り行きと言える。
 ――男性と対等に渡り合っている女性に、魅力を感じていた時期もあった。
 その頃の央人はとにかく仕事のことしか頭になく、自分のキャリアにとって有益かいなかで女性との付き合いを考えていた。
 お互いに高め合える相手でなければ、一緒にいる意味はないとさえ思っていたのである。
 どこまでも自分本位なことを考えていた結果が、二年前の婚約解消だ。
 あの一件では、相当痛い目を見た。しかし同時に目が覚めた。
 家庭を持っていたほうが世間体せけんていがいいだとか、そんなことを考えていた央人にとって、結婚は出世のための手段であった。
 上昇志向が強く、バリバリと仕事をこなすキャリアウーマンだった元婚約者とは、お互いの利害が一致していた。
 愛や恋といった、甘い感情だけで決めた結婚ではない。とてもドライでむなしい関係。最初からお互いに好きではなかったのだと、今ならはっきりわかる。
 ――昔、誰かに『自分にとってのいやしはなにか』という質問をされたことがあった。当時の央人は婚約中だったが、最愛の人であるはずの彼女といても、いやされると感じたことはなかった。
 婚約解消の理由は、相手の不貞――彼女は取引先の重役と、不倫していた。だが元婚約者の裏切りを知ったときも、悲しさや怒りはなかった。
 彼女は自分よりもさらに打算的で、目的を達成するためには手段を選ばなかったのだ。同い年の央人といるよりも、愛人稼業かぎょうのほうが割がいいと踏んだらしい。いつかは正妻の座も奪ってやるとも言っていた。
 いさぎよいまでの彼女の態度を見て、央人は不思議とすっきりした気分だった。そして、瞬間に消え去った彼女への想い――
 結婚したところで、きっと先は見えていただろう。

「桃井って、料理上手なんだろ? おまけに尽くすタイプっぽいし、嫁にするにはうってつけじゃないか」

 思考をさえぎるように、やけに明るい圭吾の声が耳に届く。
 実際に圭吾の顔つきは明るく、一押しの商品をプレゼンするかのように生き生きとしている。

「嫁って……飛躍ひやくしすぎだ。それに、彼女は俺たちと十歳も年が離れている」
「いいじゃないか、若い嫁。毎日が楽しくなるぞ?」

 ゲスな笑みを隠さない圭吾に、央人は白けた視線を向けた。
 学生時代からの友人であるこの男は、央人の歴代の彼女を知っている。だからこそ、毛色の違う桃井をすすめたいのだろう。
 だが――残念ながら、女性としては対象外。

「ああいうタイプは、女性というより妹に近い」
「妹、ねえ……おまえが妹と親しげにしてるところなんて、見たことないけどな」

 ちなみに央人の妹は、同じ藤崎家のDNAを持つだけあってクールで自立心が強い。日菜子とはまったく異なるタイプであるため、圭吾は違和感を覚えたようだ。

「でも、それくらい親しみやすいほうが、おまえには合ってるんじゃね? おまえに必要なのは、競争相手じゃなくて、俺みたいなパートナーだよ」

 圭吾は自分から前に出るタイプではなく、仕事上でも友人関係でも周囲の調整役になっていた。
 央人との関係においても、圭吾が一歩引いてサポートしてくれるから助けられていることも多い。

「いつも付き合っているようなの強い女とはすぐに破綻はたんするけど、俺との関係は続いているのがいい例だ」
「……おまえとは、ただの腐れ縁だろう?」
「うわ、冷たっ!」

 社内での央人の評価は「誰にでも優しくて人当たりのいい課長」。しかし実際は、すこぶる外面そとづらがいいだけで、冷淡でずるい男だ。

「おまえと周囲とを調整しているのは、この俺だぞ?」
「そうか? 無理矢理飲み会に連れ出された記憶しかないけどな」

 にくまれ口を叩いたが、圭吾には感謝もしている。
 なんでも自分でできてしまう央人は、めったに他人を必要としない。ともすれば孤立しやすい自分に声をかけ、強引に集団の中に引き入れてくれるのは、いつも圭吾だ。

「おまえには、愛想よくしている外面そとづらだけじゃなくて、裏の顔も理解してくれるような相手が必要なんだよ」

 圭吾は央人に遠慮せず軽口を叩く。央人もあえて圭吾の前では自分を取りつくろったりしない。

「なあ央人、ずっと本心を隠したままじゃ疲れるぞ。自分の悪い面や弱いところをさらけ出せる相手を見つけろ」
「それが、桃井日菜子? それこそ、ないな」

 彼女こそ、見せかけの自分に惑わされているいい例だと、圭吾の主張を鼻で笑う。

「どうかな。ああいう天真爛漫てんしんらんまんな人間は、他人のこともありのままに受け入れるふところの深さを持っていたりするかもよ。あなどっていると痛い目にうぞ?」
「女で痛い目にうのは、もうりだ」
「おまえ、いい加減に吹っ切れよ……」

 かたくなな央人に、今度は圭吾のほうがあきれてしまった。


 ――央人が恋愛から距離を置きたがるのを、圭吾は婚約破棄のトラウマだと思っているようだが、実は他にも理由はある。それは、親友である圭吾にも話していない。
 ある女性との、一夜限りの思い出。その一人を、央人はずっと探し続けている。
 元婚約者と別れた日、央人は「彼女」と出会った。
 その彼女に――おそらく自分は、恋をした。
 断言できないのは、これまで誰かに強く惹かれた経験がないためである。
 それに、彼女がどこの誰なのかも、まったく覚えていないのだ。
 元婚約者と別れたその足で飲みに行き、自棄やけになって浴びるほど酒を飲んだ。だから、彼女の顔も名前も、出会いの経緯すらも曖昧あいまいで、気づいたときには彼女はすでに自分の隣にいた。
 見ず知らずの相手でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。央人の話に耳を傾け、必死に元気づけようとする姿が健気けなげで。最初からそこにいるのが当たり前のように、二人の波長がぴったりと合ったような気がした。
 彼女と過ごしたわずかな時間は、央人にいやしをもたらした。
 それは決して、元婚約者には抱くことのなかった感情。気がつけば、心の底から「彼女」をほっしていた。
 ――この女性ひとと、もっと一緒にいたい。
 その一心で、ベッドをともにした。
 彼女を抱いた感覚だけは、今も鮮明だ。
 央人の背中へと回された遠慮がちな手の感触を、はっきりと覚えている。
 小柄でも、胸はそれなりにあった。感じやすいのか、刺激を与えるたびに身体が敏感に跳ねて。
 白い喉元をらしながら、熱い息と甲高かんだかい声を漏らす姿を見て、がらにもなく興奮した。
 朦朧もうろうとする頭でも、そのとき自分にできる精一杯の誠意を持って優しくしたつもりだったのに――
 目覚めたときには、自分は一人だった。
 夢でも見たのかと思ったが、着ていた衣服は脱衣所のかごに収められ、ベッドのシーツには……
 彼女の痕跡こんせきがあったのだ。
 それだけが、昨晩のことを現実だと教えてくれていた。
 ――せめて、もう一度だけでも会いたい。
 顔も、名前すらもわからない。
 なのに、彼女を想う気持ちは日に日に強くなっていく。
 それは、初恋に似た感情なのかもしれない。それなりに恋愛経験は積んできたが、これほど心惹かれる相手は、後にも先にも彼女しかいなかった。
 手がかりはないかと記憶を掘り起こしてみても、肝心なことはなにも覚えていない自分が悔しい。
 だから央人は、なかば意地になって、現在進行形で彼女を待っている。
 そもそも、自分が彼女の名前を聞いたかどうかも不明だ。
 だが彼女は、央人のことを『藤崎さん』と呼んでいた。
 それだけは覚えているので、お互いに名乗り合ったか、もしくは元々知り合いだった誰かだと推測できる。
 とはいえ、最初から知り合いだったのなら、後日向こうから話を切り出す気もするので、初対面の可能性も高いが。
 そういえば、彼女の身長は桃井日菜子と同じくらいだった……
 こんなふうに、なにかにつけて「彼女」と誰かを結びつけてしまうのは、もはや央人の癖になっている。
 しかし、桃井日菜子が「彼女」なわけがない。
 好意を持っている相手と一夜をともにして名乗り出ないなんてことは、あり得ないだろう。
 もっとも、桃井日菜子はそんな女の武器を上手に使えるようにも見えないけれど。そんな狡猾こうかつなタイプでないことは、これまでの央人に対する態度から明らかだった。
 肉食女子ばかりを相手にしていたから、稚拙ちせつなアプローチを微笑ましいと感じさえする。まるでお子様な感じで、身構えなくていい分、気が楽だ。
 だから――弁当の卵焼きを食べるという、特異な行動に意味はない。本当に、ただの気まぐれ。


「そろそろ戻るか」

 一服を終えた圭吾が一足先に喫煙室を出ていく。

「……美味うまかったな」

 央人はコーヒーの味に消された甘い卵焼きを思い出しながらつぶやき、頭に浮かんだ疑念を追い出した。

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