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12話 差し入れと匂い
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翌朝。
目覚ましの音で起き、
顔を洗い、いつも通りスーツに袖を通す。
ホルは、特別何かを言うでもなく、
キッチンで朝の支度をしていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
それだけのやり取り。
昨夜の空気を引きずることもなく、
かといって、何かが解決したわけでもない。
朝食は問題なく終わり、
家を出るまでの会話も、必要最低限だった。
(……考えすぎ、か)
そう思おうとしても、
昨夜の声の余韻だけが、胸の奥に静かに残っていた。
⸻
出社後も、特別なことはなかった。
メールを確認し、
資料をまとめ、
会議に出て、淡々とメモを取る。
誰かに詮索されることもなく、
仕事に支障が出るほど集中できないわけでもない。
ただ――
頭の片隅に、薄い膜のような違和感が張り付いている。
(切り替えろ)
自分にそう言い聞かせながら、
悠人は黙々と作業を進めた。
午前中は、それだけで過ぎていった。
⸻
気がつけば、時計は正午前。
腹が鳴るほどでもなく、
疲労を強く感じるわけでもない。
ただ、区切りとしての昼休憩が近づいている。
(……昼か)
そう思ったところで、
悠人はようやく顔を上げた。
そして――
昼休憩の、少し前。
悠人がデスクで軽く伸びをしていると、
控えめに近づいてくる足音があった。
「……悠人さん」
顔を上げると、ゆきが小さな紙袋を手に立っている。
「昨日、言ってたやつです」
そう言って机の端にそっと置かれた袋から、
かすかに草花のような香りが漂った。
「ハーブティー。カモミールと、ジャスミンです」
「……ありがとう」
「コーヒーの代わりに、たまにはどうかなって」
それだけ言って、ゆきは軽く微笑む。
押し付けるでもなく、理由を並べるでもない。
ちょうどいい距離感だった。
「無理しないでくださいね」
「ああ」
それで会話は一区切りついた――はずだったが、
ゆきは、ほんの少しだけ言葉を続ける。
「そういえば、明日休みですよね」
「うん、そうだけど」
「じゃあ……ソシャゲ、明日はやりますよね?」
イベント名を挙げながら、いつもの調子で話題を切り替える。
「そろそろ走らないと、間に合わなくなりますし」
「……だな。明日はちゃんとやるよ」
「ですよね。じゃ、楽しみにしてます」
それは、いつも通りの会話だった。
安心できる距離感。
現実の中の、変わらないやり取り。
それ以上何も言わずに、
ゆきは自席へ戻っていった。
その場では、特別なことをしたつもりはなかった。
頼まれていたわけでもないものを渡し、
いつも通り席へ戻っただけだ。
仕事に戻り、資料を確認し、
午後の業務は、変わらず進んでいく。
――それでも。
ふとした拍子に、思い出してしまう。
紙袋を差し出したときの、悠人の反応。
一瞬だけ、言葉に詰まったように見えたこと。
そして、自分が視線を逸らしてしまったこと。
(……気のせい、だよね)
心の中でそう呟き、
ゆきは意識を画面へ戻そうとする。
“差し入れ”という行為そのものに、
深い意味があるわけじゃない。
昨日、少し心配だと口にしてしまったこと。
その延長で、形にしただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……別に、変な意味じゃない)
そう自分に言い聞かせて、
ゆきは小さく息を吐いた。
そして今度こそ、
資料の文字を追うために、
視線をしっかりと画面へ戻した。
⸻
昼過ぎ。
悠人はコーヒーの代わりに、
ゆきからもらったハーブティーを淹れていた。
湯気とともに広がる、やわらかな香り。
(……確かに、悪くないな)
口に含むと苦味はなく、
喉を通る頃には、じんわりと力が抜ける感覚があった。
気のせいか、頭も少し軽い。
(……こういうの、久しぶりだ)
午後の業務は、不思議と集中できた。
思考が散らばらず、資料の内容がすっと頭に入ってくる。
(ハーブティー、効いてるのか……?)
ふと、別の考えが頭をよぎる。
(ソシャゲ、そろそろ本気出さないとだな)
イベント期限。
スタミナ計算。
そういえば――と、さらに別の考えが浮かぶ。
(ホルって、ゲームとかするのかな)
家に、使っていないタブレットがあったはずだ。
押し入れの奥に。
(あれなら、一緒にできるか……?)
そんなことを考えながら、
悠人は残りの仕事を片付けていった。
⸻
帰宅すると、玄関を開けた瞬間に気づいた。
「……?」
部屋の空気が、少し違う。
物が散らかっているわけでもない。
壊れた様子もない。
それでも、どこか“動いた”気配があった。
「おかえり、悠人」
リビングから、ホルが顔を出す。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、ふと腕に残る香りに気づく。
その瞬間だった。
ホルが、すっと距離を詰めてくる。
「……それ、誰にもらったの?」
声は穏やかだった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
けれど、その視線には、
ほんのわずかな引っかかりが混じっていた。
嫉妬というほど単純ではない。
“自分の知らないところで、悠人に触れた何か”への違和感。
「ハーブティーだよ」
悠人は正直に説明する。
「会社の後輩が、疲れてるみたいだからって」
「ふぅん……」
ホルは香りを確かめるように息を吸い、
ゆっくりと微笑んだ。
「体、楽になった?」
「ああ。少しな」
その答えに、ホルは満足そうに目を細める。
そして、ぐっと近づいてきて――
耳元で囁いた。
「ホルもね。悠人を、楽にできるよ?」
甘く、柔らかく。
誘うような声。
一瞬、思考が揺らぐ。
(……まずい)
悠人は一歩下がり、
無理やり現実に視線を戻す。
「……それよりさ」
話題を変えるように、部屋を見回した。
「部屋、少し変わってないか?」
ホルは、きょとんとする。
「そう?」
視線を巡らせた先、
机の上に、押し入れにしまってあったはずのタブレットが置かれていた。
画面には、動画を再生していた名残がある。
「……触ったのか?」
ホルは、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「だって、悠人がいない時間、長いんだもん」
言い訳でも、反省でもない。
ただの事実として。
悠人は、頭を抱えそうになりながら、
小さくため息を吐いた。
(……これは、また話が長くなるな)
ホルは、そんな悠人の表情を見て、
どこか楽しそうに微笑んでいた。
目覚ましの音で起き、
顔を洗い、いつも通りスーツに袖を通す。
ホルは、特別何かを言うでもなく、
キッチンで朝の支度をしていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
それだけのやり取り。
昨夜の空気を引きずることもなく、
かといって、何かが解決したわけでもない。
朝食は問題なく終わり、
家を出るまでの会話も、必要最低限だった。
(……考えすぎ、か)
そう思おうとしても、
昨夜の声の余韻だけが、胸の奥に静かに残っていた。
⸻
出社後も、特別なことはなかった。
メールを確認し、
資料をまとめ、
会議に出て、淡々とメモを取る。
誰かに詮索されることもなく、
仕事に支障が出るほど集中できないわけでもない。
ただ――
頭の片隅に、薄い膜のような違和感が張り付いている。
(切り替えろ)
自分にそう言い聞かせながら、
悠人は黙々と作業を進めた。
午前中は、それだけで過ぎていった。
⸻
気がつけば、時計は正午前。
腹が鳴るほどでもなく、
疲労を強く感じるわけでもない。
ただ、区切りとしての昼休憩が近づいている。
(……昼か)
そう思ったところで、
悠人はようやく顔を上げた。
そして――
昼休憩の、少し前。
悠人がデスクで軽く伸びをしていると、
控えめに近づいてくる足音があった。
「……悠人さん」
顔を上げると、ゆきが小さな紙袋を手に立っている。
「昨日、言ってたやつです」
そう言って机の端にそっと置かれた袋から、
かすかに草花のような香りが漂った。
「ハーブティー。カモミールと、ジャスミンです」
「……ありがとう」
「コーヒーの代わりに、たまにはどうかなって」
それだけ言って、ゆきは軽く微笑む。
押し付けるでもなく、理由を並べるでもない。
ちょうどいい距離感だった。
「無理しないでくださいね」
「ああ」
それで会話は一区切りついた――はずだったが、
ゆきは、ほんの少しだけ言葉を続ける。
「そういえば、明日休みですよね」
「うん、そうだけど」
「じゃあ……ソシャゲ、明日はやりますよね?」
イベント名を挙げながら、いつもの調子で話題を切り替える。
「そろそろ走らないと、間に合わなくなりますし」
「……だな。明日はちゃんとやるよ」
「ですよね。じゃ、楽しみにしてます」
それは、いつも通りの会話だった。
安心できる距離感。
現実の中の、変わらないやり取り。
それ以上何も言わずに、
ゆきは自席へ戻っていった。
その場では、特別なことをしたつもりはなかった。
頼まれていたわけでもないものを渡し、
いつも通り席へ戻っただけだ。
仕事に戻り、資料を確認し、
午後の業務は、変わらず進んでいく。
――それでも。
ふとした拍子に、思い出してしまう。
紙袋を差し出したときの、悠人の反応。
一瞬だけ、言葉に詰まったように見えたこと。
そして、自分が視線を逸らしてしまったこと。
(……気のせい、だよね)
心の中でそう呟き、
ゆきは意識を画面へ戻そうとする。
“差し入れ”という行為そのものに、
深い意味があるわけじゃない。
昨日、少し心配だと口にしてしまったこと。
その延長で、形にしただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……別に、変な意味じゃない)
そう自分に言い聞かせて、
ゆきは小さく息を吐いた。
そして今度こそ、
資料の文字を追うために、
視線をしっかりと画面へ戻した。
⸻
昼過ぎ。
悠人はコーヒーの代わりに、
ゆきからもらったハーブティーを淹れていた。
湯気とともに広がる、やわらかな香り。
(……確かに、悪くないな)
口に含むと苦味はなく、
喉を通る頃には、じんわりと力が抜ける感覚があった。
気のせいか、頭も少し軽い。
(……こういうの、久しぶりだ)
午後の業務は、不思議と集中できた。
思考が散らばらず、資料の内容がすっと頭に入ってくる。
(ハーブティー、効いてるのか……?)
ふと、別の考えが頭をよぎる。
(ソシャゲ、そろそろ本気出さないとだな)
イベント期限。
スタミナ計算。
そういえば――と、さらに別の考えが浮かぶ。
(ホルって、ゲームとかするのかな)
家に、使っていないタブレットがあったはずだ。
押し入れの奥に。
(あれなら、一緒にできるか……?)
そんなことを考えながら、
悠人は残りの仕事を片付けていった。
⸻
帰宅すると、玄関を開けた瞬間に気づいた。
「……?」
部屋の空気が、少し違う。
物が散らかっているわけでもない。
壊れた様子もない。
それでも、どこか“動いた”気配があった。
「おかえり、悠人」
リビングから、ホルが顔を出す。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、ふと腕に残る香りに気づく。
その瞬間だった。
ホルが、すっと距離を詰めてくる。
「……それ、誰にもらったの?」
声は穏やかだった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
けれど、その視線には、
ほんのわずかな引っかかりが混じっていた。
嫉妬というほど単純ではない。
“自分の知らないところで、悠人に触れた何か”への違和感。
「ハーブティーだよ」
悠人は正直に説明する。
「会社の後輩が、疲れてるみたいだからって」
「ふぅん……」
ホルは香りを確かめるように息を吸い、
ゆっくりと微笑んだ。
「体、楽になった?」
「ああ。少しな」
その答えに、ホルは満足そうに目を細める。
そして、ぐっと近づいてきて――
耳元で囁いた。
「ホルもね。悠人を、楽にできるよ?」
甘く、柔らかく。
誘うような声。
一瞬、思考が揺らぐ。
(……まずい)
悠人は一歩下がり、
無理やり現実に視線を戻す。
「……それよりさ」
話題を変えるように、部屋を見回した。
「部屋、少し変わってないか?」
ホルは、きょとんとする。
「そう?」
視線を巡らせた先、
机の上に、押し入れにしまってあったはずのタブレットが置かれていた。
画面には、動画を再生していた名残がある。
「……触ったのか?」
ホルは、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「だって、悠人がいない時間、長いんだもん」
言い訳でも、反省でもない。
ただの事実として。
悠人は、頭を抱えそうになりながら、
小さくため息を吐いた。
(……これは、また話が長くなるな)
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