現実とサキュバスのあいだで ――夢で告白した相手が、同居を始めた話

そう

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39話 同じテーブル、同じ夜

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翌日。

 朝、目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらないはずなのに、
 頭の奥に残る感覚だけが、少し違っていた。

(……楽しかったな)

 昨夜の会話。
 水族館の話題で笑ったこと。
 何気ない相槌や、並んで過ごした時間。

 特別なことは何もしていない。
 それでも、思い出そうとすると、胸の奥がじんわり温かくなる。

 身支度を整えてリビングへ出ると、ホルはもう起きていた。
 キッチンで朝の準備をしていて、こちらに気づくと軽く手を振る。

「おはよう」

「おはよう」

 声を交わすだけ。
 距離も、空気も、いつも通りだ。

ーーーそれなのに、
少しだけ意識してしまう。

 出かける時間になり、靴を履く。

「いってらっしゃい」

 ホルの声は、いつもと同じ調子だった。

「いってきます」

 玄関の扉が閉まる。

 ――その瞬間、胸の奥に残ったものを、無視できなくなる。

(……このままでいい、わけないよな)

 駅へ向かう道。
 人の流れに混じりながら、考えが巡る。

 今朝も、何も言えなかった。
 昨日の余韻は確かにあるのに、
 言葉にしなければ、それはただの「楽しかった」で終わ ってしまう。

 電車に乗り、つり革を掴む。

 窓に映る自分の顔は、どこか落ち着かない。

(告白、か……)

 頭に浮かんだだけで、
 思考が止まった。

 社会人になってから、
 誰かに気持ちを伝えるなんて、してこなかった。

 仕事と生活が優先で、
 関係を変える勇気を持つ機会もなかった。

(勢いで言える年でもないよな)

 それでも、
 何もしなければ、何も始まらない。

 分かっているのに、
 電車は無情にも次の駅へ進んでいく。

 会社に着く頃には、
 考えすぎたせいか、少しだけ疲れていた。

 午前中の業務をこなしながらも、
 頭の片隅には、ずっとホルのことが残っている。

 書類を確認しながら、ふと思う。

(……あの時間が、当たり前になる未来はあるんだろうか)

 昼休み。
 会社の休憩スペースで、コーヒーを片手にぼんやりしていると、
 視界の端に見覚えのある姿が入った。

 ゆきだった。

 スマホを見ながら歩いてきて、
 ふと顔を上げ、こちらに気づく。

「あ、悠人さん」

「……ああ」

 軽く会釈を交わす。

 最近、ホルとチャットや通話をしているのは知っている。
 何をどこまで話しているのかは分からないが、
 この距離感なら――たぶん。

(察してるよな)

 一瞬迷ってから、悠人は口を開いた。

「……ちょっと、いい?」

「はい?」

 ベンチに並んで座る。

 告白、という言葉は使わない。
 それだけは決めていた。

「今週末の前に……新月前にさ」

 ゆきは何も言わず、続きを待つ。

「ホルと、二人でゆっくりできる場所、知らないか」

 一瞬だけ、ゆきの視線が揺れた。

 けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。

「ゆっくり、ですか」

「ああ」

「……それなら」

 少し考えてから、ゆきは言った。

「逃げられない場所、がいいと思います」

 心臓が、一拍遅れる。

「例えば、ですけど」

 ゆきはあくまで淡々と。

「少し暗くて、落ち着いたレストランとか」

「静かで、話すしかない場、ですね」

 告白、という言葉は出てこない。
 それでも、何を言っているのかは、はっきり分かった。

(……気づいてるな)

 ゆきも。
 そして、自分も。

「ありがとうございます」

 自然と、言葉が丁寧になる。
 こういう話題で、軽い口調は選べなかった。

 そう言うと、ゆきは小さく笑った。

「いえ。おすすめなだけですから」

 それ以上、踏み込まない。
 それが、彼女の優しさだった。



 帰りの電車。

 窓に映る自分の顔は、
 思っていたより真剣だった。

 スマホを取り出し、
 沿線の店を検索する。

 条件は、静かで、落ち着いていて、
 逃げ道がない場所。

 いくつか候補を見ているうちに、
 ふと、昨日の水族館帰りを思い出す。

 駅前の通り。
 ガラス越しに見えた、小さなレストラン。

(……あそこか)

 名前を検索すると、
 ちょうど空きがあった。

 指が止まる。

 一度深呼吸してから、
 仮予約のボタンを押す。

 胸の奥が、少しだけ軽くなった。

 悠人は電車を降りた後、そのまま真っ直ぐ帰らなかった。

 駅前の人波を抜け、ふと立ち止まる。
 ガラス越しに並ぶケーキを見て、少しだけ眉をひそめた。

(……らしくないな)

 そう思いながらも、足は自然と店内へ向かっていた。

 特別な理由があるわけじゃない。
 誕生日でも、記念日でもない。

 ただ――
 今日は、何も言わずに終わりたくなかった。

 ショーケースの前で数秒迷い、結局、無難なショートケーキを二つ選ぶ。
 派手さはないけれど、誰でも食べやすい味。

(逃げ道は、もう残すな)

 自分に言い聞かせるように、紙袋を受け取った。
ーーーー

 家に帰ると、ホルはキッチンにいた。

「おかえり」

 いつもと変わらない声。
 それだけで、胸の奥が少し緩む。

「ただいま」

 靴を脱ぎ、上着をかける。
 紙袋を見られないように、さりげなく背中側へ回した。

 夕飯は、穏やかに進んだ。

 他愛もない会話。
 笑って、頷いて。

 楽しい。
 それが、はっきり分かる。

 だからこそ――
 このまま流してしまうのが、怖かった。

 食事を終え、片付けをして。
 一息ついたところで、悠人は立ち上がった。

「……デザート、ある」

 短くそう言って、紙袋を差し出す。

 ホルが少し目を丸くした。

「え、なにそれ」

「帰りに、たまたま」

 たまたま、という言葉に自分で苦笑しそうになる。
 けれど、それ以上は言わない。

 ケーキを皿に乗せ、二人でテーブルにつく。
 フォークを入れる音が、やけに大きく響いた。

 甘さが、少しだけ強く感じる。
 それはきっと、緊張のせいだ。

 ホルは美味しそうに食べながら、ふと顔を上げた。

「まだ、頭の中に残ってる」
「あの水槽の光とか、静かな音とか」

 言いながら、少し照れたように笑う。

「不思議だよね」
「帰ってからも、ずっと落ち着いてて」

 その一言が、胸に静かに触れた。

 ――楽しかった、という言葉は出てこない。
 けれど、言わなくても分かってしまう。

 同じ時間を、同じ温度で思い出していること。

「……ああ」

 短く返すと、ホルはそれで十分だというように頷いた。

 沈黙が落ちる。
 けれど、気まずさはない。

 ただ、その沈黙の中に、
 “このままでいいのか”という感覚だけが、確かにあった。

 今だ、と頭のどこかで分かっている。
 逃げる理由も、もう思いつかない。

 悠人は、フォークを置いた。

「……ホル」

 名前を呼んだだけで、喉が詰まる。

 視線が合う。
 ホルは、何も言わずに待っていた。

「今週さ」
「新月の前に……」

 言葉を選ぶ時間すら、長く感じる。

「二人で、少し話せる時間、取れないか」

 それ以上、踏み込めなかった。
 水族館、という言葉も。
 レストラン、という言葉も。

 ただ、“話したい”とだけ。

 沈黙が落ちる。

 ホルは一瞬だけ瞬きをして、そして――
 柔らかく、笑った。

「うん」

 それだけだった。

「空いてるよ」

 胸の奥に、静かに何かが落ちる。
 重たい石じゃない。
 でも、確かに“次”へ進む重さ。

「ありがとう」

 それが精一杯だった。

 ケーキは、もう少しだけ甘く感じた。



 何も、壊れていない。
 けれど、確実に――
 もう、元の距離には戻れない。

 悠人は、そのことをようやく受け入れながら、
 目の前で笑うホルを、静かに見つめていた。
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