現実とサキュバスのあいだで ――夢で告白した相手が、同居を始めた話

そう

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40話戻れない夜

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目覚ましが鳴るより少し早く、目が覚めた。

 隣の部屋からは、まだ物音がしない。
 ホルは、たぶん眠っている。

 天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
 胸の奥が、静かにざわついている。

 今日は、約束の日だ。

 起き上がり、なるべく音を立てないようにリビングへ向かう。
 カーテンの隙間から入る朝の光は柔らかく、部屋の中を薄く照らしていた。

 顔を洗い、身支度を整える。
 鏡の中の自分は、いつもと変わらないはずなのに、どこか落ち着かない。

 服を選ぶ手が止まる。

 目立たないもの。
 でも、手を抜いていると思われないもの。

 結局、いつもより少しだけ整えた格好に落ち着いた。
 それ以上考えると、余計に迷ってしまいそうだった。

 キッチンで湯を沸かしていると、背後で小さな足音がする。

「おはよう」

 ホルの声。

 振り返ると、まだ眠そうな表情で立っていた。

「おはよう」

 それだけのやり取り。
 それなのに、少しだけ心臓が速くなる。

 朝食を並べて、向かい合って座る。
 話題は天気や、電車の混み具合。
 いつも通りの会話。

 でも、言葉の間に、わずかな間ができる。

 ホルも、どこか静かだった。

 食器を片付け、時計を見る。

 午前の針は、思っていたより先まで進んでいる。

 流しに並んだ皿を洗いながら、
 水の音だけが、一定のリズムで続いた。
 会話を探せば、きっと何かは出てくる。
 けれど、どちらもそれをしなかった。

 それぞれ、日中の用事を済ませ、
 夕方には一度、部屋に戻る。

 カーテン越しの光は、少しずつ色を変え、
 部屋の輪郭が、ゆっくりと夜に溶けていった。

 ソファで並んで、テレビをつける。
 内容は、ほとんど頭に入らない。
 画面の光だけが、静かに流れていく。

 時計の針が、約束の時間に近づく。

「そろそろ、出る?」

 ホルがそう言って立ち上がる。

「ああ」

 二人で並んで玄関へ向かう。
 靴を履く間も、言葉は少ない。

 ドアを開ける直前、ホルがちらりとこちらを見る。

「……なんか、静かだね」

 不意に言われて、言葉に詰まる。

「……まあ」

 それだけ答えると、ホルは小さく笑った。

「大丈夫だよ」

 何が、とは言わなかった。
 それでも、その一言で胸の奥が少し落ち着く。

 靴を履き、ドアを閉める。

 すっかり日が落ちていた。

 外に出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れた。

 駅へ向かう道。
 歩幅は自然と揃っている。

 隣にいる。
 それだけで、もう逃げ道がない気がした。

 距離は、いつもと同じくらい。
 肩が触れるほど近くもなければ、離れてもいない。

 それなのに、足取りだけがぎこちない。

 マンションのエントランスを抜け、通りに出る。
 街灯の光が、アスファルトに細長い影を落としていた。

 ホルは、いつもより少しだけ歩くのが遅い。
 気づけば、歩幅を合わせている自分がいる。

 無意識だった。

「夜、涼しくなったね」

 ホルが、前を向いたまま言う。

「ああ」

 短く返す。
 それ以上、言葉が続かない。

 会話が途切れる。
 けれど、気まずさはなかった。

 この沈黙は、今まで何度も共有してきたものだ。
 ゲームのロードを待つ間や、深夜のキッチン。
 言葉がなくても、安心できる時間。

 ――だからこそ。

(このままじゃ、いけないんだよな)

 胸の奥で、何かが小さく軋む。

 横目で、ホルを見る。
 街灯に照らされた横顔は、穏やかで、いつもと変わらない。

 それが、少しだけ怖かった。

 この人は、まだ「いつも通り」でいられる。
 自分だけが、勝手に踏み出そうとしている。

 歩道の信号で立ち止まる。
 赤から青に変わるまでの数秒が、やけに長い。

 ホルはスマホを取り出し、画面を一度確認してからしまった。

「……もうすぐ?」

「ああ。すぐそこ」

 言いながら、喉が乾く。

 約束しただけだ。
 話をする、と言っただけだ。

 それなのに、心臓は正直だった。

 再び歩き出す。
 ガラス張りの建物が見えてきて、柔らかな灯りが目に入る。

(……ここから先は)

 戻れないわけじゃない。
 でも、戻りたいとも思えなかった。

 戻らない、と決めていた。

 ホルは、まだ何も言わない。
 ただ、隣にいる。

 そのことが、何よりの覚悟を迫っていた。

 席に案内され、向かい合って腰を下ろす。

 テーブルは小さすぎず、広すぎない。
 真正面に座れば、視線を逸らすことも、合わせることもできる距離だった。

 メニューを手に取る。
 紙の質感が、やけに指先に残る。

 ホルは一度ページをめくり、
 少し考えるようにしてから顔を上げた。

「……飲み物、どうする?」

「とりあえず、同じのでいいか」

「うん」

 それだけのやり取り。

 店員が注文を受け、静かに離れていく。
 その背中が見えなくなった瞬間、空気が少し変わった。

 周囲では、低い話し声やカトラリーの触れ合う音がしている。
 けれど、このテーブルだけが、別の場所に切り取られたみたいだった。

 ホルは、テーブルの端に指先を添えたまま、ゆっくり息を吐く。
 視線はメニューに落ちているけれど、もう読んではいない。

 悠人も、ページをめくるふりをしながら、
 文字がまったく頭に入ってこないことに気づいていた。

(……今じゃない)

 まだ、飲み物が来ていない。
 それだけが、かろうじて残された理由だった。

 沈黙が落ちる。

 けれど、不思議と居心地は悪くない。
 隣に座っていた時間が長すぎて、
 向かい合うだけで、相手の呼吸の間合いが分かる。

 ホルが、ほんの少しだけ視線を上げる。
 目が合いそうになって、また逸れる。

 その仕草が、胸に小さく刺さった。

(……気づいてる)

 言葉にはしない。
 でも、同じ場所に立っていることは、もう分かってしまう。

 やがて、足音が近づく。

 グラスがテーブルに置かれ、
 氷の触れ合う音が、静かに鳴った。

「お待たせしました」

 店員の声が、現実を引き戻す。

 グラスを手に取る。
 冷たさが、指先から伝わる。

 一口飲むと、喉を通る感覚がはっきりした。

(……ここからだ)

 飲み物が来た。
 もう、理由は残っていない。

 悠人は、グラスを置き、
 ゆっくりと顔を上げた。

 ホルも、同じタイミングでこちらを見る。

 視線が、今度は逸れなかった。

ほんの一瞬。
 それだけで、十分だった。

 店員が前菜を運んでくる。
 白い皿に整えられた料理が、テーブルの中央に置かれた。

「……きれいだね」

 ホルが、素直な声で言う。

「ああ」

 短く返しながら、胸の奥の緊張が少しだけ緩む。
 食事が始まった、という事実が、今は救いだった。

 前菜は、あっさりとした味付けだった。
 素材の味がどうとか、そんなことを考える余裕はない。
 けれど、不思議と箸は進む。

「美味しい」

「そうだな」

 言葉は少ない。
 でも、ぎこちなくはない。

 次の皿が運ばれてくるまでの間、
 二人は、自然と少し前の話に戻った。

「……この辺、前に来たところの近くだよな」

 悠人がそう言うと、ホルが一瞬考えてから頷く。

「うん」
「水族館から駅に向かう途中」

 言葉にしただけで、
 あの夜の空気が、静かに蘇る。

「帰り、静かだったね」

「ああ」
「人は多かったのに」

 ガラス越しの光。
 水槽の青。
 耳の奥に残る、低い音。

 具体的な話をしているわけじゃないのに、
 同じ景色を思い出していることが、分かってしまう。

「不思議だよね」

 ホルが、グラスを指先で回しながら言う。

「もう終わったはずなのに」
「まだ、あそこにいるみたい」

 悠人は、返事をする代わりに小さく息を吐いた。

 会話は、穏やかで、柔らかい。
 無理に盛り上げることも、話題を探すこともない。

 ――あの日の余韻が、まだ残っている。

 それが、少しだけ怖かった。

 この時間が、
 思い出として閉じるのか、
 それとも――続いてしまうのか。


(……このまま、流れてしまいそうだ)

 その思いを遮るように、
 メインの皿が運ばれる。
 ナイフとフォークの音が、静かに重なる。

 ホルは、料理を一口食べてから、ふっと息を吐いた。

「こういうの、久しぶりかも」

「外で、ちゃんとしたご飯?」

「うん。落ち着いて食べるの」

 言いながら、少し照れたように笑う。

 その笑顔に、胸が詰まる。

 ――この時間が、当たり前だと思ってしまいそうになる。

 料理は、穏やかに進んだ。
 笑い声は小さく、沈黙も自然で。
 気づけば、皿はすべて下げられていた。

 テーブルの上には、水のグラスだけが残る。

 次が、分かっている。

 デザート。

 けれど、まだ来ない。

 その、ほんのわずかな間。

 悠人は、ナイフもフォークも置いた。
 指先が、テーブルの縁に触れる。

 深く息を吸う。

(……今だ)

 逃げ道は、もうない。
 逃げたいとも、思わなかった。

「……ホル」

 名前を呼ぶと、ホルが静かに顔を上げる。

「なに?」

 声は、穏やかだった。
 急かさない。
 笑いもしない。

 ただ、待っている。

 胸の奥で、何かが決まる。

「今日、こうして来れて」
「正直……すごく、楽しかった」

 一度、言葉を区切る。
 それだけで、喉が少し痛い。

「でも」
「それで終わるのは、嫌で」

 ホルの表情が、わずかに変わる。
 真剣に、こちらを見ている。

「一緒にいるのが、楽だって思うようになったのは」
「たぶん、ずっと前からだった」

 指先が、少し震える。
 それでも、止めなかった。

「家族みたいだって、思おうとしてた」
「そうしてれば、壊れないって」

 視線を逸らさずに、続ける。

「でも……もう、無理だった」

 一拍、間を置く。

「ホルが好きだ」

 声は低く、静かだった。
 大きくも、格好つけてもいない。

 ただ、正直な音。

 ホルは、すぐには答えなかった。
 驚いたように目を見開いて、
 それから、ゆっくりと息を吐く。

 そして、小さく笑った。

「……やっと、言ったね」

 その一言で、肩の力が抜けそうになる。

「うん」

 それしか返せなかった。

 ちょうどその時、店員が近づいてくる。
 デザートの皿が、静かに置かれた。

 甘い香りが、ふわりと広がる。

 ホルは皿を見てから、もう一度こちらを見る。

「ね」
「この話、帰ってからでもいい?」

 優しい声だった。
 拒否じゃない。
 先延ばしでもない。

 続きを、大事にするための提案。

「ああ」

 そう答えると、ホルは安心したように笑う。

「……ありがとう」



 その言葉の意味は、まだ全部は分からない。
 でも、確かに――
 今、同じ場所に立っている。

 デザートは、甘かった。
 けれど、それ以上に、
 胸の奥に残る余韻の方が、はっきりしていた。

 夜は、まだ終わらない。

 そして、もう――
 元の距離には、戻らない。
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