私達には婚約者がいる

椿蛍

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25 破棄できない婚約

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血の色のような赤ワインがグラスの中で揺れた。
笙司そうじさんが経営するイタリアンレストランのディナータイムに招待されたのは私と知久、そして、毬衣まりえさんだった。
店は駅近くにあり、その通りには百貨店や劇場が並び賑やかな人通りの多い場所だった。
閑静な場所にある私の店とはまったく違う雰囲気の場所で、店の内装も赤色で壁が塗られ、鮮やかな青の椅子とテーブルで客層は若い人が多いイメージだった。
飲み会をしているらしく、賑やかな話し声がして、店内は常にざわざわとしている。

「小百里さんの店とは全然違うなー」

「陰気臭い小百里の店より、こっちのほうが私は好きよ」

毬衣さんが言うと、知久が笑った。

「小百里さんの店に行ったことあるんだ?」

「えっ……。ま、まあ、そうね。ちょっと用事があったのよ」

その用事とは、毎回、笙司さんの浮気現場の写真を手に入れると持ってきて、嫌味を言って帰るというのが目的だった。
嫌がらせに行ってます、と言えない毬衣さんは言葉を濁した。
知久は笙司さんに女性がいるということを知っている。
だから、勘のいい知久は毬衣さんが私の店になにをしに行ったのか、言わなくても薄々気づいていると思う。

「お味はどうですか」

テーブルにやってきたのは白いコックコートを着た女性だった。

「どうだ。彼女が作る料理はうまいだろう?」

笙司さんはスーツ姿で、どこか誇らしげな顔をしていた。

「私は小百里の店より、美味しいと思ったわ」

私の店で食べたことがないのに毬衣さんはそう言った。
けれど、毬衣さんの皿の上にはまだパスタが残っていた。

「悪くないと思うよ」

にっこりと知久は微笑んだ。
その笑みは心からなのか、作り笑いなのか、誰にも判別がつかない。
けれど、知久の態度に笙司さんは気をよくしたようだった。

「陣川製薬のお坊っちゃんの口に合ったのなら、本物だな」

ふっと私を横目で見て笙司さんは笑っていた。
私の意見を聞く気はないようでなにも聞かなかった。
けれど、隣の彼女のほうはそうではなかった。

「失礼ですけど、お聞きしたいことがあるんです」

「私に?」

「はい」

彼女は私より年上のような気がしたけれど、丁寧な口調だった。
もしかすると、私のことを知っているのかもしれない。
私が彼女を知る以前より。

「笙司さんと結婚するつもりですか?」

「え?」

「なにを言っているんだ!?」

鋭い口調と目をした笙司さんに彼女はわずかに怯んだだけで前に出た。

「私から見て、あなたが笙司さんを愛しているとは思えないんです」

「おかしなことを言うな。キッチンに戻れ!」

他にもお客様がいるというのに笙司さんは大声で彼女を怒鳴り付けた。
店内がいくら騒がしいといつても、怒鳴り声は目立つ。

「余裕ないなぁ」

くすりと知久が笑うと余計に笙司さんは顔を赤くした。
そして、知久をにらんだ。

「君のように恵まれた環境で育った人間に俺のような成り上がりの気持ちがわかるか。こっちは必死なんだよ」

「つまり、渋木のお金目当てってことを言いたいのかな。それとも、渋木の娘と結婚したと自慢するため?」

笙司さんにとって、私との婚約は投資と同じ。
うまく父に取り入り、伯母を利用し、婚約させた。
知久が私をかばったと思ったのか、毬衣さんが横から口を挟んだ。

「笙司さんの考えのなにが悪いのかわからないわ。利用できるものを利用しただけでしょ? そして婚約できたのよ。私と同じよね」

「そうだな」

笙司さんは強い味方がいて安心したのか、毬衣さんの言葉にうなずいた。
毬衣さんは怒鳴られて青い顔をしている彼女に追い討ちをかけるように言った。

「あなたのような雇われコックにはわからないでしょうけど、私達の婚約は家と家の約束ごとなのよ」

「そういうことだ」

あきらかに笙司さんの彼女を見る目が違っていた。
この間、私の店にきた時は信用できる味方だという雰囲気だったのに今は敵以外の何者でもないという様子だった。
お互いが好きで付き合っていたのではなかったのだろうか。
すくなくとも、彼女のほうは好意を持っていると思う。
両手をきつく握り、唇を噛んでうつむいている。

「キッチンに戻れ」

なかなかその場を動かずにいる彼女に笙司さんは低い声で言って、動くよう促した。
それでもその場を動かずになにか言おうと、口を開きかけたその時―――
笙司さんは毬衣さんが食べ残していたトマトソースのパスタを彼女の白いコックコートにぶちまけた。

「ああ、悪い。手が滑った」

赤。
私の顔から笑みが消えた。
私を守るはずの微笑みが。
割れたワイングラスを思い出してしまった。
けれど、毬衣さんの顔もひきつっていた。
今、なにが起きたのかきっとわかってない。
けれど、知久は違っていた。

「これをどうぞ。手が滑ったようには見えなかったけど、彼女の口から言われたくないことがあるってのはわかったよ」

彼女にハンカチを差し出して、微笑んでいた。
さすがの笙司さんも、知久から得体の知れない不気味な怖さを感じたのか、からになった皿をそっとテーブルに置いた。

「婚約は家と家が決めるものか。うん、そうだね。その通りだよね」

知久はくるくるとワイングラスを回すとワインを一口だけ含んで、すぐにグラスを置いた。

「ごちそうさま。次は本物のイタリアワインを飲ませてもらえると嬉しいな」

笙司さんの顔色が変わった。
ワインボトルは確かにイタリアのものだけど、中身が違っていた?

「ああ、それと、俺はカフェ『音の葉』のほうが好きだよ」

それを聞いて笙司さんと毬衣さんがなにか文句を言うのかと思っていたけど、なにも言えずにいた。
さっきまで青い顔をしていた彼女も知久を見てポカンとしていた。
知久が二人の言葉を殺した。

「じゃあ、仕事があるから、俺はこれで」

知久はまるで、手の中を鮮やかにすりぬける蝶のよう。
ふわりとその場からいなくなってしまった。
店内はまた騒がしさを取り戻し、私はそっと席を立つ。

「私も明日、仕事があるから帰るわね。ごちそうさま」

濃いめの味だったのはわざとだったのか、それとも本当にこの店の味だったのかわからないけど、彼女はきっと冷静でいられなかったのだと思う。
ワインも笙司さんか、彼女のどちらかが、売り上げを伸ばすために安いワインにすりかえたのかもしれない。
店が潰れなければいいけれど。
そう思って店を出た。

―――私がこの店に再び足を踏み入れることはなく、笙司さんの店が危ないと聞いたのはこの数か月後のことだった。
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