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9 忘れさせない
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朝になり、私はようやく昨晩の出来事が夢ではないことを自覚した。
「……すみませんでしたっ!」
窓からはパリの象徴ともいえるエッフェル塔が見えて、青い空が広がっている。
部屋はスイートルームだったらしく、色をわずかに変えたベージュのソファーやテーブル、クッションなどが置かれたリビングルームが、寝室の開いたドアの隙間から見えた。
「ああ、起きたか」
「よ、酔っぱらって絡んで、その上、泊まらせていただいて……」
テラスにはリセがいて、昨日とは違うビジネスマンスタイル姿。
男物のスーツを着た姿のリセは完全に男の人だった。
その姿に、私は見覚えがある。
「あの、もしかして、私と一度会ったことあります?」
「一度……?」
「あ、あれ? やっぱりありませんでした?」
「さあな」
リセは曖昧な返事をして笑う。
――これって、私に完璧に当てろってことよね?
答えを言おうとしたのに、リセはこれから仕事なのか、腕時計を確認している。
「一緒にゆっくりできなくて悪いけど、俺は仕事があるから先に出る」
「あ……ありがとうございます……」
スーツ姿に、リセは本当に男の人だったんだなと思っていた。
憧れのモデル、リセの本業はモデルではないらしい。
魔法が解けたシンデレラみたいな気分だった。
「朝食は頼んでおいた」
開け放った大きな窓の先は、テラスになっていて、テーブルとチェアが置かれ、朝食がセッティングされていた。
オレンジジュースやクロワッサン、ブイヨンスープ、トリュフ入りオムレツなどが並べられている。
――ただし、一人分。
豪華な部屋も朝食も、色あせて見えた。
夢はここで終わりだと思ったら、私は――リセは私の頭にぽんっと手をおいた。
「なんだ。元気ないな」
「えっ!? い、いえ、そんなことないです」
一晩、一緒に過ごせただけで奇跡なのに、これで別れるのかと思ったら、寂しいなんて……
そんなふうに思う自分が、図々しく思えて嫌だった。
スーツを着たリセは、明るい笑顔も猫のような自由さも今はなく、別人。
自信に満ちていて、どこか冷たく見えるのに、目を逸らせない。
昨晩、知ってしまった彼の手と香りが、同じリセのものだとわかるから。
「リセ……」
お別れのキスなのか、リセは私の顎をつかみ、唇にキスを落とした。
――さよなら。リセ。
目を閉じ、私はお別れの言葉を心の中で呟いた。
唇が離れた後も唇の感触が残っていて、忘れなければいけないのに――忘れられないよ。
リセにキスをされてしまったら、もう誰とも付き合えないし、結婚だってできない。
彼以上、私の心を支配できる男の人が、この世にいるとは思えなかった。
「なにこの世の終わりみたいな顔をしているんだよ」
「してません……」
「してた」
「してないですっ!」
リセと過ごす時間が長ければ長いほど、別れがたくなる。
――泣き顔を見せたくない。
顔を背け、うつむいた瞬間、ふわりと漂った彼の香りが、昨日のリセの香りとは違っていることに気づいた。
爽やかな香りは、ジャスミンとシトロンが香る柑橘系の香水だった。
――私が知っているって思った香りは、お見合い場所のホテルで出会ったリセの香り。モデルのリセと出会う前に、私はもう出会ってたんだ。
「なんだ?」
「ううん。なんだか、男のリセは香りも違うんだなって思って」
「嫌いか?」
「いいえ。気持ちが落ち着く香りですね」
リセは透明なグリーン色の香水が入った瓶を私に差し出した。
「気に入ったのなら、琉永にやるよ」
「も、もらえません。こんなのもらったら、私、忘れられなくなる……」
「忘れる? 俺の香りだ。ちゃんと覚えておけよ。それに、女装している方が本物だと思われたら困る」
私の記憶にいつまでも残り続けるつもりなのか、リセは私の手に香水の瓶を握らせた。
「あの……。どうして女装しているんですか?」
「仕事だ。別に趣味ではない」
「モデルの仕事?」
「そう。モデルは頼まれたから、やっているだけで本業は別」
誰よりも綺麗で印象的だったリセ。
モデルが本業じゃないのなら、本当のあなたはいったい何者なのだろう。
「琉永。俺を忘れられると思うな」
忘れると言った言葉に怒ったのか、リセは顔を近づけ、その鋭い両眼で私を捉えて、唇を重ねる。
香水瓶を手にして、首の後ろに手を回すと、私の首筋に香水をつける。
ひんやりした感触に体が震え、リセの腕をつかんだ。
リセはくすりと笑って、私の首を指でなぞり、唇を這わす。
「ま、待って……っ!」
唇が音をたてて、皮膚に触れ、首に赤い痕を残す。
「こ、こんなの、残されたら……」
「忘れられない? 顔が真っ赤だぞ」
「だっ、誰のせいでっ!」
キスされた首を手でおさえ、声を張り上げるので精一杯だった。
たったこれだけで、身動きひとつできなくなる。
「悪いのはどちらだろうな」
からかうように言って、私の手に香水の瓶を戻す。
リセはスーツのジャケットを羽織り、髪をセットし、前髪をあげた。
彼がつけたけれど、私からも同じ香りがして、きっとこの先、香水をつけるたび、私は彼を思い出す。
「それじゃあ、またな」
「また!?」
「そのうち会うことになるだろうし」
リセは私のデザイン画を手にしていた。
それは、リセをモデルにしたデザイン画で、昨日と違って、今は現実に戻った私。
だから、そのデザイン画を見られるのが、恥ずかしく感じた。
「かっ、返して!」
伸ばした手を軽々かわし、ベッドに手をつく。
まさか、またキス!?
期待したわけでじゃないけど、近づけられた顔があまりに綺麗で、体が金縛りにあったみたいに動けなくなった。
キスするかしないか、ギリギリのラインで、顔を止め、リセは私に言った。
「琉永。『Lorelei』に負けないくらいのデザイナーになれ」
どうして『Lorelei』なのだろう。
『Lorelei』は謎の美少女モデルローレライをイメージして作られたブランドだ。
デザイナー麻王悠世が手がけるブランドで、たった数年で世界を代表するブランドに成長した。
一番の強みは麻王グループの傘下にあるということだ。
資金力も広報力も他のブランドには負けない。
無名のモデルであるローレライがアーティストのMVや雑誌に載ると、一気に話題になり、あっという間に有名になった。
今では押しも押されぬ世界的デザイナーの麻王悠世。
そんなデザイナーを私が目指す?
返事もできずにいる私にリセはまるで子供に頑張れよと言い聞かせるように、頭をぽんぽんっと叩いた。
「次に会う時は、俺を女と間違えるなよ」
リセは間違えられたことを気にしていたのか、私から離れ、背中を向けると、軽く手をあげ、私の前から去っていった。
広い部屋に取り残され、一人になった私はぽつりと呟いた。
「次って……? また会えるの?」
もうお別れだと思っていた私に、この夢には続きがあるとリセは教えた。
彼と同じ香りが、私を包み込んでいて、リセとの出会いを夢で終わらせはしなかったのだった――
「……すみませんでしたっ!」
窓からはパリの象徴ともいえるエッフェル塔が見えて、青い空が広がっている。
部屋はスイートルームだったらしく、色をわずかに変えたベージュのソファーやテーブル、クッションなどが置かれたリビングルームが、寝室の開いたドアの隙間から見えた。
「ああ、起きたか」
「よ、酔っぱらって絡んで、その上、泊まらせていただいて……」
テラスにはリセがいて、昨日とは違うビジネスマンスタイル姿。
男物のスーツを着た姿のリセは完全に男の人だった。
その姿に、私は見覚えがある。
「あの、もしかして、私と一度会ったことあります?」
「一度……?」
「あ、あれ? やっぱりありませんでした?」
「さあな」
リセは曖昧な返事をして笑う。
――これって、私に完璧に当てろってことよね?
答えを言おうとしたのに、リセはこれから仕事なのか、腕時計を確認している。
「一緒にゆっくりできなくて悪いけど、俺は仕事があるから先に出る」
「あ……ありがとうございます……」
スーツ姿に、リセは本当に男の人だったんだなと思っていた。
憧れのモデル、リセの本業はモデルではないらしい。
魔法が解けたシンデレラみたいな気分だった。
「朝食は頼んでおいた」
開け放った大きな窓の先は、テラスになっていて、テーブルとチェアが置かれ、朝食がセッティングされていた。
オレンジジュースやクロワッサン、ブイヨンスープ、トリュフ入りオムレツなどが並べられている。
――ただし、一人分。
豪華な部屋も朝食も、色あせて見えた。
夢はここで終わりだと思ったら、私は――リセは私の頭にぽんっと手をおいた。
「なんだ。元気ないな」
「えっ!? い、いえ、そんなことないです」
一晩、一緒に過ごせただけで奇跡なのに、これで別れるのかと思ったら、寂しいなんて……
そんなふうに思う自分が、図々しく思えて嫌だった。
スーツを着たリセは、明るい笑顔も猫のような自由さも今はなく、別人。
自信に満ちていて、どこか冷たく見えるのに、目を逸らせない。
昨晩、知ってしまった彼の手と香りが、同じリセのものだとわかるから。
「リセ……」
お別れのキスなのか、リセは私の顎をつかみ、唇にキスを落とした。
――さよなら。リセ。
目を閉じ、私はお別れの言葉を心の中で呟いた。
唇が離れた後も唇の感触が残っていて、忘れなければいけないのに――忘れられないよ。
リセにキスをされてしまったら、もう誰とも付き合えないし、結婚だってできない。
彼以上、私の心を支配できる男の人が、この世にいるとは思えなかった。
「なにこの世の終わりみたいな顔をしているんだよ」
「してません……」
「してた」
「してないですっ!」
リセと過ごす時間が長ければ長いほど、別れがたくなる。
――泣き顔を見せたくない。
顔を背け、うつむいた瞬間、ふわりと漂った彼の香りが、昨日のリセの香りとは違っていることに気づいた。
爽やかな香りは、ジャスミンとシトロンが香る柑橘系の香水だった。
――私が知っているって思った香りは、お見合い場所のホテルで出会ったリセの香り。モデルのリセと出会う前に、私はもう出会ってたんだ。
「なんだ?」
「ううん。なんだか、男のリセは香りも違うんだなって思って」
「嫌いか?」
「いいえ。気持ちが落ち着く香りですね」
リセは透明なグリーン色の香水が入った瓶を私に差し出した。
「気に入ったのなら、琉永にやるよ」
「も、もらえません。こんなのもらったら、私、忘れられなくなる……」
「忘れる? 俺の香りだ。ちゃんと覚えておけよ。それに、女装している方が本物だと思われたら困る」
私の記憶にいつまでも残り続けるつもりなのか、リセは私の手に香水の瓶を握らせた。
「あの……。どうして女装しているんですか?」
「仕事だ。別に趣味ではない」
「モデルの仕事?」
「そう。モデルは頼まれたから、やっているだけで本業は別」
誰よりも綺麗で印象的だったリセ。
モデルが本業じゃないのなら、本当のあなたはいったい何者なのだろう。
「琉永。俺を忘れられると思うな」
忘れると言った言葉に怒ったのか、リセは顔を近づけ、その鋭い両眼で私を捉えて、唇を重ねる。
香水瓶を手にして、首の後ろに手を回すと、私の首筋に香水をつける。
ひんやりした感触に体が震え、リセの腕をつかんだ。
リセはくすりと笑って、私の首を指でなぞり、唇を這わす。
「ま、待って……っ!」
唇が音をたてて、皮膚に触れ、首に赤い痕を残す。
「こ、こんなの、残されたら……」
「忘れられない? 顔が真っ赤だぞ」
「だっ、誰のせいでっ!」
キスされた首を手でおさえ、声を張り上げるので精一杯だった。
たったこれだけで、身動きひとつできなくなる。
「悪いのはどちらだろうな」
からかうように言って、私の手に香水の瓶を戻す。
リセはスーツのジャケットを羽織り、髪をセットし、前髪をあげた。
彼がつけたけれど、私からも同じ香りがして、きっとこの先、香水をつけるたび、私は彼を思い出す。
「それじゃあ、またな」
「また!?」
「そのうち会うことになるだろうし」
リセは私のデザイン画を手にしていた。
それは、リセをモデルにしたデザイン画で、昨日と違って、今は現実に戻った私。
だから、そのデザイン画を見られるのが、恥ずかしく感じた。
「かっ、返して!」
伸ばした手を軽々かわし、ベッドに手をつく。
まさか、またキス!?
期待したわけでじゃないけど、近づけられた顔があまりに綺麗で、体が金縛りにあったみたいに動けなくなった。
キスするかしないか、ギリギリのラインで、顔を止め、リセは私に言った。
「琉永。『Lorelei』に負けないくらいのデザイナーになれ」
どうして『Lorelei』なのだろう。
『Lorelei』は謎の美少女モデルローレライをイメージして作られたブランドだ。
デザイナー麻王悠世が手がけるブランドで、たった数年で世界を代表するブランドに成長した。
一番の強みは麻王グループの傘下にあるということだ。
資金力も広報力も他のブランドには負けない。
無名のモデルであるローレライがアーティストのMVや雑誌に載ると、一気に話題になり、あっという間に有名になった。
今では押しも押されぬ世界的デザイナーの麻王悠世。
そんなデザイナーを私が目指す?
返事もできずにいる私にリセはまるで子供に頑張れよと言い聞かせるように、頭をぽんぽんっと叩いた。
「次に会う時は、俺を女と間違えるなよ」
リセは間違えられたことを気にしていたのか、私から離れ、背中を向けると、軽く手をあげ、私の前から去っていった。
広い部屋に取り残され、一人になった私はぽつりと呟いた。
「次って……? また会えるの?」
もうお別れだと思っていた私に、この夢には続きがあるとリセは教えた。
彼と同じ香りが、私を包み込んでいて、リセとの出会いを夢で終わらせはしなかったのだった――
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