真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~

椿蛍

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1章 竹の春

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 ――仕事を辞めるつもりはなかった。

「先輩、すみません」

 これで何度目だろう。
 私を追いこしていく後輩の言葉を聞くのは。
 桜が咲く頃、料亭『吉浪よしなみ』の調理場には新人が入ってくる。
 この時期に入るのは、経験がある調理人ではなく、学校を卒業したばかりの新人が多い。
 新人が来れば、雑用をこなしていた下っ端の私たちの中から、上のポジションへ昇進する人がいる。
 けれど、私はずっと雑用だけで、上のポジジョンへ昇進できずにいた。
 今年も春が来て、また私は後輩に追い抜かれた。

「ううん。いいのよ。よかったわね。昇進おめでとう」

 口ではそう言っていたけれど、私の顔に笑顔はなく、心の中はたくさんの『なぜ』があった。
 辞めるのはいつでもできると言い聞かせ、頑張ってきたけれど、私も二十六歳。
 調理の仕事は賄いのみで、盛り付けを主とする八寸場はっすんばから昇進できない。
 自分のどこが悪くて、仕事を任せてもらえないのかわからなかった。

 ――わからないのは、私に才能がない証拠かもしれない。

 落ち込んでいても、なにも考えなくても体は勝手に動く。
 六年の間、同じ持ち場を担当していれば、自然とそうなる。
 吉浪が自慢にしている器の数々を並べた。
 陶磁器は六古窯ろっこよう
 千年続く陶磁器の産地を六古窯ろっこようと呼ぶ。
 吉浪が使う器は、六古窯から選ぶことが多い。
 汁物には金蒔絵の漆器、食前酒には江戸切子の青いショットグラス――器の準備はもう手慣れたものだ。 
 先付さきづけは竹の子の木の芽和えで、木の芽をすり鉢ですろうとすると、次の昇進を狙う後輩が横からサッとすり鉢を奪う。
 こんなことは慣れっこで、次は竹の子を切ろうとすると――

山路やまじさん。ちょっと話をしてもいいかな?」

 私を呼んだのは、スーツを着た男性だった。
 呼ばれた理由はなんとなくわかっていた。

「はい」
「じゃあ、事務所へ来て」

 人払いをしたらしく、本店の事務所には、私と彼以外の人間は誰もいなかった。
 彼は吉浪の三代目の息子で、長男の吉浪永祥のぶゆきさんだ。吉浪本店の経営を任され、本店の采配は彼が握り、最近では若旦那と呼ばれるようになった。

「辞めるって気持ちに変わりはない?」
「すみません……」
「君の頑張りをずっと見てきたつもりだ。今度、ホテルに新しい店を出すんだが、接客係として頑張ってもらえないだろうか?」

 ――接客係って……私は料理人として吉浪に入ったのに。
 
 今までもお店が忙しい時は、接客係として働くことがあった。
 でも、私は料理人として雇われたのだ。
 接客係として期待されるのは不本意であり、十分な説明もなく、私にはそれがひどく理不尽に感じた。

「君にとって悪い話じゃない。将来的には女将として、吉浪の店舗をひとつを任せたいと思っているんだ」
「私は料理人として働きたいんです」
「女将はやりがいのある仕事だよ。いわば、料亭の顔だ」

 ――話が通じない。私を料理人として扱う気はないんだわ。

 永祥さん二十九歳と、まだ若いけれど、有名大学を卒業し、父親以上のやり手だと評判だ。
 細い眼鏡フレームと色白な肌、切れ長の目はどことなく冷たく見え、私は少し苦手だった。
 彼は料理の道を進まず、経営の道を選んで、有望な料理人をスカウトしてきた。私も永祥さんに誘われて、吉浪へ入った。
 吉浪は市内でも三本の指に入る有名料亭である。
 本店は城下町だった市内にあり、かつては武家屋敷や花街から、多くのお客様を招いた。
 伝統はもちろんのこと有名ホテルにも支店をだし、いずれは海外にも――という経営面でも非常に優れた店である。
 そんな店だからこそ、女性の私でも採用され、料理人として使ってもらえると期待した。
 期待は六年の間に粉々になり、踏みつけられた。

 ――結局、雑用だけだった。

 雑用どころか、これからは調理場にさえ置いてもらえないんじゃ、吉浪にいる意味はない。
『接客係でもいいから留まります』とは言えずに深々と頭を下げた。

「お引き受けできません。吉浪を辞めさせていただきます」

 私がきっぱり辞めると言うと、永祥さんの顔が歪んだ。
 それは『なぜ、断るのか』という顔だった。
 将来的に支店一つ任せるという話は、一族経営をしている吉浪にとって家族同然の扱いであり、破格の扱いだったと思う。
 でも、私は料理人でいたかった。

「私は祖父のような料理人を志して吉浪に来ました。料理人になりたいという夢を捨てることはできません」
「山路か……。一時はうちの店とも並ぶような店だったらしいけど、小さい店で終わったね」

 永祥さんは祖父の店を馬鹿にして、くすりと笑った。
 でも、私は祖父が作った料理のほうが、吉浪よりも美味しいと思っている。
 永祥さんは料理じゃなくて、店の知名度を優先する人だ。
 ここで働き続けていたら、いつか私は駄目になる。
 
 ――違う、もう駄目なのよ。なにも任せてもらえないくらいには……
 
 木の芽が入ったすり鉢すら触らせてもらえないのでは、この先、この店の調理場で学べるものはない。

「山路は店こそ小さいですが、味は吉浪に負けていませんでした」
「立栞さんは昔から変わらないな。小さい頃から料理の味のわかっていたし、店の良し悪しもわかっていた」

 幼い頃から、料理人だった祖父に色々な店へ連れていってもらった。
 吉浪もその一つ――立派なお座敷、美しい料理、丁寧な接客。
 どれも素晴らしかったけど、私は『やっぱり、おじいちゃんの作った料理が一番美味しい』と、言ってしまった気がする。
 祖父は喜んでいたけど、お店にはとても失礼だったと思う。
 小さかったとはいえ、申し訳なく思い、頭を下げた。

「すみません……。生意気なことを言ってしまって……」
「いや……。僕に才能があれば、父も料理人にしていたと思うよ。まあ、僕は君を料理人でなくても、見込んでいるってことをわかってくれたらいい」

 料理人として見込まれたかったと思う。
 永祥さんは料理人以外で、私に期待するなんて、なにを望んでいるのかわからなかった。

「気が変わったら、また連絡してほしい」

 名刺を渡され、そこには手書きの連絡先まで書いてあった。
 連絡することはないだろうけど、名刺を受け取り、深く頭を下げた。

「はい。今までお世話になりました」

 涙をこらえ、お礼の言葉を口にし、目を合わさずに別れた。
 ロッカーの荷物を片付け、吉浪の名前が刺繍された白い制服を置く。
 ロッカーの戸を閉めた時、私の料理人としての未来が終わったような気がした。
 厨房に最後の挨拶をするつもりで、中へ入ろうとした時、話し声が聞こえてきた――

「彼女、本気で板前になるつもりだったんですかね?」
「さあな。嫁入り前に料理の勉強ができると思って、働いていたんじゃないのか」

 笑いながら、私のことを話していた。
 笑っていたのは、私より先に昇進した後輩たちだった。

「そもそも調理長が女に任せるわけがない。ここは料理学校じゃなくて、吉浪だぞ」
「彼女をスカウトしたのは永祥さんだろ?」
「最初から料理人として扱う気はなかったよな」

 つまり、私の才能を見込んで、スカウトしたのは経営側であって、現場を仕切る調理長ではない。
 彼らは私が調理長に認められていないと、言いたいらしい。

「辞めてもらってよかったよ。厨房に女性がいるってだけで、気を遣うしな」

 ――ああ、そう。『女だから』。これが一番の理由だったってこと?

 吉浪は永祥さんが経営側に加わってから、がらりと雰囲気が変わった。
 だから、女である私にもチャンスがあると思っていたのだ。
 けれど、それは私の勘違いだったようで、私が思っていた以上に、吉浪は保守的だった。
 厨房には入らず、裏口から店の外へ出て表へ回る。
 六年間、吉浪で働いたけれど、誰も私を見送ってくれる人はなかった。
 未練がましく振り返ると、格子戸からオレンジ色の明かりがこぼれ、雨に濡れた石畳の道を照らしていた。
 細い雨が私の視線を阻み、格子戸から先はなにも見えない。
 頭が重く感じたかと思うと、頭痛が始まった。
 それは雨のせいではなく、ずっと続いている。
 最近はうまく呼吸ができず、倒れてしまったこともあり、私の心身は限界だった。
 最初の頃のワクワクした気持ちは消え、今は眺めるだけで胸が苦しい。 
 吉浪の看板の文字がにじみ、涙がこぼれた。

「おじいちゃん。私、頑張ったのに……駄目だったよ……」

 祖父を越える料理人になるのが夢だった。
 傘の陰になって吉浪の文字が隠れて見えなくなる。
 それと同時に私の夢も消えた気がした。
 冷たい小雨が降る春の夜――私は六年働いた料亭『吉浪』を去った。
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