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15 夜の庭園
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◇◇◇◇◇
お兄様は火傷することなく、ドレスにわずかな紅茶の染みを作るだけで終わった。けれど、私たちの心には染みが残った。
黒い影みたいな染みは私たちの将来に黒い影を落とす。
クラウディオ様が私を庇うなんてことあってはならない。
今、庇うのは婚約者として、有力候補であるヴィルジニアでなければいけなかったのに。
このまま、王妃がなにかの気の迷いで、私にしようなんてことになったら?
以前と同じルートを辿ることになってしまう。
つまり死。
「レティツィア。クラウディオとなにかあった?」
お兄様が聞く『なにか』とは、クラウディオ様が私に好意や関心を抱くような出来事のことだろう。
私に心当たりはない。
あるとするなら、図書室での他愛のない会話くらいだ。
「なにもないわ。図書室にクラウディオ様がいて、少し話をしただけ……。それからお茶会に連れて行かれて……」
「それだけ?」
「それだけよ。ただ距離的に近かったからじゃないかしら」
「なら、いいけど。今のところ、僕たちとクラウディオの関係は悪くない。王妃とも」
それを証明するかのように部屋にはお詫びの品が王妃とクラウディオ様から届けられていた。
私たちが部屋に戻ってすぐ、ヴィルジニア宛てに王妃とクラウディオ様から新しいドレスが届けられた。
王妃からはメッセージカードも添えられていて、そこには今日のお詫びと、お茶会が途中で中止になったということが書かれてあった。
お茶会だけでなく、今日の晩餐会も中止で、なんだか嫌な予感がした。
「お茶会と晩餐会の中止か。王妃は気性の激しい方だからな。この後、なにもせずに終わるとは思えない」
お兄様は王妃からのメッセージカードを険しい目で見つめていた。
お兄様はヴィルジニアに扮するのに疲れたのか、今はドレスではなく、長いチュニック、長い黒髪を後ろに結び、長椅子に座る姿は男っぽい。
ルヴェロナ王国に帰れず、気の休まる時間が少ないから疲れているのかもしれない。
お兄様の身の安全を考えたら、ずっとヴィルジニアでいなくてはならないとわかっているのに私は注意できなかった。
「お兄様。王妃様やクラウディオ様のお相手をして疲れたでしょう? 明日は部屋で休んでいたらどうかしら。私が代わりに出席するわ」
「駄目だ。今日のクラウディオを見ただろう? 無意識でやっているとするなら、なおさら面倒だ。運命の大きな流れを変えるのは簡単じゃないんだなって僕は思ったよ」
「……そうね」
私は不安で憂鬱な気分を変えようと、窓を開けた。
バルコニーから涼しい夜風が入って来た。バルコニーには白い石の階段があり、そこから降りると庭園に出ることができる。
「外に出よう」
「お兄様。その姿じゃ駄目よ」
「ガウンを羽織ればわからないさ。もう夜だし」
ガウンを手にし、長椅子から起き上がるとお兄様は外へ出る。
私たちは大抵いつも一緒にいるけど、一人になりたい気分の時もある。
だから、お兄様について行かないほうがいいような気がしたけど、心配でそっと後ろを追いかけた。
誰もいない夜の庭園は昼間の華やかさが消え、静かで虫や鳥の鳴き声、そして噴水の水音がしていた。
お兄様は物憂げに空を見上げた。空には無数の星が輝き、爪のような形をした細い月がかっている。
「お兄様には窮屈すぎるのよね……」
自由に行きたいと願うお兄様はこんな小さな世界ではなく、もっと広い世界へ出ていきたいと思っている。
そして、お兄様は元の姿に戻りたいのだ。
ヴィルジニアの生活はお兄様が望む生活と真逆のだった。
「私になにかできることがあればいいのに」
お兄様を元の姿に戻して、夢を叶えてあげたい。でも、それにはどうすれば――と、考えを巡らせていると、聞きなれない音がした。
小さな鈴の音だった。
ヴェールにつけられた小さな鈴が動くたび、チリンと音を鳴らす。
わずかな月の光の中、褐色の肌をした美少女がナイフ投げの練習をしている。
南方の服は露出が多く、はしたないと思われがちだけど、気にならないほど神秘的で美しかった。
夜が似合う美少女は銀の刃を舞うように投げる姿を披露する。
「芸の練習?」
お兄様が声をかける。
彼女が持つ独特の空気に惹かれたのか、男の姿だったにも関わらず、お兄様は彼女に微笑んだ。
ナイフ投げの美少女は警戒心の強い猫のような目でお兄様を見つめる。
「怪しい者じゃないよ」
「それはわかります。寝間着姿で庭園を歩けるのは、この王宮に招かれているお客様だけでしょうから」
凛とした声が夜の闇の中に響いた。
お兄様が好きそうなタイプで、気の強い女性に弱い。
もしや……お兄様、こんな時なのにナンパ!?
茂みの中に身を隠して、成り行きを見守る。
「うん、大正解。ここに招待されているんだ。で、君はどうしてこの王宮へ?」
「私は王宮に招かれた旅芸人の一座に所属するナイフ投げのソニアと申します。本当なら今日のお茶会にて、芸を披露する予定でした」
「へー。ソニアちゃんか」
お兄様の態度が馴れ馴れしいと感じたのか、ソニアはムッとした顔をしていた。
女の姿は完璧でも女心を掴めるとは限らないらしい。
「僕はヴィルジニ……いや、ヴィルフレードだよ」
お兄様はソニアに本名を明かした。それも男の名前で。
「お、お兄様っ……なっ、なにしてっ……」
大声を出して物陰から飛び出しそうになったのをなんとか堪えた。
お兄様になにか深い考えがあるのかもしれないと思い直したからだ。
「君って、僕の好みのタイプだな」
「は?」
ソニアは不快な表情を浮かべた。
やっぱりお兄様の好みのタイプだった!
我が兄ながら、なんてわかりやすいのだろう。
「気の強そうな女の子が好きなんだよね。ソニアは僕に運命を感じない? 僕は運命を感じたんだけど」
「まったく運命なんて感じませんね」
きっぱりお断りされていた。
これで諦めるのかと思っていると、お兄様のほうは不屈の精神を見せた。
「いや、運命だよ。この日、この瞬間に出会うなんて奇跡だ!」
「そうですか。あなたはすれ違う人全員に運命を感じる人なんですね」
「なんだよー。冷たいなー!」
「年下はお断りです」
さらにお断りを上乗せされていた。
お兄様は残念そうにしているけど、私はホッとしている。明らかにソニアは迷惑そうな顔をしていたから。
「もう引き下がって! お兄様っ!」
ソニアのためにも、今後の身の安全のためにもそろそろ引き際だと感じ、物陰から体を半分ほど出して小声でお兄様に声をかけた。
お兄様は私の気配に気づいたらしく、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「明日、君のナイフ投げを楽しみにしてるよ。ソニアちゃん」
ソニアの手の甲に口づけ、ウインクするお兄様は間違いなく前回の人生で何十回……何百回も見たお兄様だった。
驚いて手を振り払うソニアから、キッと睨まれてもお兄様がへこたれる様子はない。
足取り軽く私のほうへ戻ってきた。下手すれば、口笛を吹きそうなくらいの上機嫌で。
好みの子に会えてラッキーなんて、思っているに違いない。
「お兄様……。なにをしているのよっ! 危険すぎるわ!」
「ごめん。ヴィルフレードに戻って、レティツィア以外とも話をしたかったんだ」
すっきりした顔をしたお兄様をこれ以上責めることはできなかった。
お兄様だって、危険なことはわかってる。
「僕はやれるだけのことをやって、最期の時には悔いを残したくない」
「お兄様……」
前回と同じように十六歳で死んでしまったら、私以上に自由がなかったお兄様は悔いしか残らない。
この一瞬の出来事は、頑張ってきたお兄様へ神様がくれたほんの少しのご褒美。そう思うことにした。
「お兄様。私たち、頑張っているわ。大丈夫よ」
「そうだね。もうなるようにしかならない。そんな気がするよ」
私たちは並んで夜空を見上げた。
殺されたあの日、最後に見た星空はどんな星空が広がっていたのだろう。
思い出そうとしても、暗い夜空を焼く赤い炎しか思い出せなかった――
お兄様は火傷することなく、ドレスにわずかな紅茶の染みを作るだけで終わった。けれど、私たちの心には染みが残った。
黒い影みたいな染みは私たちの将来に黒い影を落とす。
クラウディオ様が私を庇うなんてことあってはならない。
今、庇うのは婚約者として、有力候補であるヴィルジニアでなければいけなかったのに。
このまま、王妃がなにかの気の迷いで、私にしようなんてことになったら?
以前と同じルートを辿ることになってしまう。
つまり死。
「レティツィア。クラウディオとなにかあった?」
お兄様が聞く『なにか』とは、クラウディオ様が私に好意や関心を抱くような出来事のことだろう。
私に心当たりはない。
あるとするなら、図書室での他愛のない会話くらいだ。
「なにもないわ。図書室にクラウディオ様がいて、少し話をしただけ……。それからお茶会に連れて行かれて……」
「それだけ?」
「それだけよ。ただ距離的に近かったからじゃないかしら」
「なら、いいけど。今のところ、僕たちとクラウディオの関係は悪くない。王妃とも」
それを証明するかのように部屋にはお詫びの品が王妃とクラウディオ様から届けられていた。
私たちが部屋に戻ってすぐ、ヴィルジニア宛てに王妃とクラウディオ様から新しいドレスが届けられた。
王妃からはメッセージカードも添えられていて、そこには今日のお詫びと、お茶会が途中で中止になったということが書かれてあった。
お茶会だけでなく、今日の晩餐会も中止で、なんだか嫌な予感がした。
「お茶会と晩餐会の中止か。王妃は気性の激しい方だからな。この後、なにもせずに終わるとは思えない」
お兄様は王妃からのメッセージカードを険しい目で見つめていた。
お兄様はヴィルジニアに扮するのに疲れたのか、今はドレスではなく、長いチュニック、長い黒髪を後ろに結び、長椅子に座る姿は男っぽい。
ルヴェロナ王国に帰れず、気の休まる時間が少ないから疲れているのかもしれない。
お兄様の身の安全を考えたら、ずっとヴィルジニアでいなくてはならないとわかっているのに私は注意できなかった。
「お兄様。王妃様やクラウディオ様のお相手をして疲れたでしょう? 明日は部屋で休んでいたらどうかしら。私が代わりに出席するわ」
「駄目だ。今日のクラウディオを見ただろう? 無意識でやっているとするなら、なおさら面倒だ。運命の大きな流れを変えるのは簡単じゃないんだなって僕は思ったよ」
「……そうね」
私は不安で憂鬱な気分を変えようと、窓を開けた。
バルコニーから涼しい夜風が入って来た。バルコニーには白い石の階段があり、そこから降りると庭園に出ることができる。
「外に出よう」
「お兄様。その姿じゃ駄目よ」
「ガウンを羽織ればわからないさ。もう夜だし」
ガウンを手にし、長椅子から起き上がるとお兄様は外へ出る。
私たちは大抵いつも一緒にいるけど、一人になりたい気分の時もある。
だから、お兄様について行かないほうがいいような気がしたけど、心配でそっと後ろを追いかけた。
誰もいない夜の庭園は昼間の華やかさが消え、静かで虫や鳥の鳴き声、そして噴水の水音がしていた。
お兄様は物憂げに空を見上げた。空には無数の星が輝き、爪のような形をした細い月がかっている。
「お兄様には窮屈すぎるのよね……」
自由に行きたいと願うお兄様はこんな小さな世界ではなく、もっと広い世界へ出ていきたいと思っている。
そして、お兄様は元の姿に戻りたいのだ。
ヴィルジニアの生活はお兄様が望む生活と真逆のだった。
「私になにかできることがあればいいのに」
お兄様を元の姿に戻して、夢を叶えてあげたい。でも、それにはどうすれば――と、考えを巡らせていると、聞きなれない音がした。
小さな鈴の音だった。
ヴェールにつけられた小さな鈴が動くたび、チリンと音を鳴らす。
わずかな月の光の中、褐色の肌をした美少女がナイフ投げの練習をしている。
南方の服は露出が多く、はしたないと思われがちだけど、気にならないほど神秘的で美しかった。
夜が似合う美少女は銀の刃を舞うように投げる姿を披露する。
「芸の練習?」
お兄様が声をかける。
彼女が持つ独特の空気に惹かれたのか、男の姿だったにも関わらず、お兄様は彼女に微笑んだ。
ナイフ投げの美少女は警戒心の強い猫のような目でお兄様を見つめる。
「怪しい者じゃないよ」
「それはわかります。寝間着姿で庭園を歩けるのは、この王宮に招かれているお客様だけでしょうから」
凛とした声が夜の闇の中に響いた。
お兄様が好きそうなタイプで、気の強い女性に弱い。
もしや……お兄様、こんな時なのにナンパ!?
茂みの中に身を隠して、成り行きを見守る。
「うん、大正解。ここに招待されているんだ。で、君はどうしてこの王宮へ?」
「私は王宮に招かれた旅芸人の一座に所属するナイフ投げのソニアと申します。本当なら今日のお茶会にて、芸を披露する予定でした」
「へー。ソニアちゃんか」
お兄様の態度が馴れ馴れしいと感じたのか、ソニアはムッとした顔をしていた。
女の姿は完璧でも女心を掴めるとは限らないらしい。
「僕はヴィルジニ……いや、ヴィルフレードだよ」
お兄様はソニアに本名を明かした。それも男の名前で。
「お、お兄様っ……なっ、なにしてっ……」
大声を出して物陰から飛び出しそうになったのをなんとか堪えた。
お兄様になにか深い考えがあるのかもしれないと思い直したからだ。
「君って、僕の好みのタイプだな」
「は?」
ソニアは不快な表情を浮かべた。
やっぱりお兄様の好みのタイプだった!
我が兄ながら、なんてわかりやすいのだろう。
「気の強そうな女の子が好きなんだよね。ソニアは僕に運命を感じない? 僕は運命を感じたんだけど」
「まったく運命なんて感じませんね」
きっぱりお断りされていた。
これで諦めるのかと思っていると、お兄様のほうは不屈の精神を見せた。
「いや、運命だよ。この日、この瞬間に出会うなんて奇跡だ!」
「そうですか。あなたはすれ違う人全員に運命を感じる人なんですね」
「なんだよー。冷たいなー!」
「年下はお断りです」
さらにお断りを上乗せされていた。
お兄様は残念そうにしているけど、私はホッとしている。明らかにソニアは迷惑そうな顔をしていたから。
「もう引き下がって! お兄様っ!」
ソニアのためにも、今後の身の安全のためにもそろそろ引き際だと感じ、物陰から体を半分ほど出して小声でお兄様に声をかけた。
お兄様は私の気配に気づいたらしく、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「明日、君のナイフ投げを楽しみにしてるよ。ソニアちゃん」
ソニアの手の甲に口づけ、ウインクするお兄様は間違いなく前回の人生で何十回……何百回も見たお兄様だった。
驚いて手を振り払うソニアから、キッと睨まれてもお兄様がへこたれる様子はない。
足取り軽く私のほうへ戻ってきた。下手すれば、口笛を吹きそうなくらいの上機嫌で。
好みの子に会えてラッキーなんて、思っているに違いない。
「お兄様……。なにをしているのよっ! 危険すぎるわ!」
「ごめん。ヴィルフレードに戻って、レティツィア以外とも話をしたかったんだ」
すっきりした顔をしたお兄様をこれ以上責めることはできなかった。
お兄様だって、危険なことはわかってる。
「僕はやれるだけのことをやって、最期の時には悔いを残したくない」
「お兄様……」
前回と同じように十六歳で死んでしまったら、私以上に自由がなかったお兄様は悔いしか残らない。
この一瞬の出来事は、頑張ってきたお兄様へ神様がくれたほんの少しのご褒美。そう思うことにした。
「お兄様。私たち、頑張っているわ。大丈夫よ」
「そうだね。もうなるようにしかならない。そんな気がするよ」
私たちは並んで夜空を見上げた。
殺されたあの日、最後に見た星空はどんな星空が広がっていたのだろう。
思い出そうとしても、暗い夜空を焼く赤い炎しか思い出せなかった――
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