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8 婚約者【壱都】(2)
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―――おかしい。
俺は婚約したはずだ。
それなのになんだこれは?
『拝啓 陽春の頃、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
平素はわたくしの祖父が格別のお引き立てを賜り、厚くお礼申し上げます。さて、わたくしの留学の件ですが、滞在期間も短くそちらにお伺いするのは難しく思われます。
末筆ながら一層のご発展をお祈り申し上げます』
仕事のメールと間違えたかな?そう思い何度か確認したが、井垣朱加里と書いてある。
間違いない。
彼女だ。
大学に入学したと聞いたから、お祝いのメールを送ったのだが返ってきたメールがこれ。
イギリスに短期留学することを井垣会長の秘書から連絡を受けて知った。
だから、てっきり俺と会うものだと思っていた。
いや、普通はそうだろう?
周囲には秘密の婚約者。
しかし、海外での俺達は誰も気にすることなく、会えるのだ。
会わないというほうが不自然じゃないか?
『よろしければ、こちらに立ち寄ってはいかがですか?観光でも買い物でもお付き合いしますよ』
―――という俺なりの優しい言葉(メール)をかけたつもりだ。
婚約者だからな。
それもあるが、向こうからあまりに音沙汰がなさすぎて、こうやって存在をアピールしておかないと忘れられそうな気がしたからだ。
一度も彼女からメールも電話も来ない。
こんな扱いは初めてだった。
「壱都さん。なにかありましたか?焦った顔をして。早く朝食を食べないと食べそびれますよ。今日もスケジュールがつまっていますからね」
俺が苦い表情をし、パソコンとにらみあっていると秘書の樫村が現れた。
出張で南フランスの田舎町にきていた。
取引のあるワイナリーに招待されて、ワインの試飲に来ていた。
安価でおいしいワインを手に入れるためで旅行ではない。
仕事だ。
そう―――俺は忙しい。
海外支店で結果を出しつつ、井垣グループの上層部とも海外で接触し、井垣のほうにも俺という人間を知らしめてきた。
今後のためにだ。
俺は彼女との未来のために頑張っている。
その俺にこのメール?
なにが『陽春の頃』だ!!
「樫村!」
「はい」
こほんっと咳ばらいを一つして、何事もなかったかのように振る舞った。
「井垣の娘の留学日程を調べてくれ」
「はぁ。珍しいですね。女性関係でそんなに慌てる壱都さんを見るのは。仕事に影響が出ると困るので、早急に調べますが……」
うるさい。
お前に俺の気持ちがわかってたまるか。
ホテルの朝食を食べにレストランに行くとテラス席に案内された。
白のテーブルクロスの上に朝食の用意がされてある。
焼きたてのパンにイチゴジャム、プラムジャム、ブルーベリージャム、チェリージャムなど、豊富なジャム類の他にチーズ、新鮮な野菜がたっぷり出されたグリーンサラダ、ジャガイモとクレソンのサラダも美味しい。
「野菜が新鮮で美味しいな。いつか彼女もここに―――」
ふっとさっきのメールが頭をよぎり、なぜかクレソンが苦く感じた。
俺を婚約者だとわかっているよな?
まさか、形だけの婚約者だと思われているとか?
フランス語の新聞を読もうと手にしていたが、内容がまったく頭に入ってこなかった。
「壱都さん。日程がわかりましたよ」
朝食が終わるという頃に樫村がやってきて、メモ紙を渡してくれた。
「ありがとう。樫村」
俺は彼女の留学日程を難なく手に入れ、悪い顔をした。
メールの仕返しをしようと思っていた。
突然俺が現れたら、驚くだろうな。
樫村は『またよからぬことを企んでいるのでは……』という目で俺を見ていた。
失礼な。
これは婚約者に会いたいという純粋な気持ちだ。
機嫌のいい俺を見て、樫村は言った。
「おとなげないことをしないでくださいよ」
すでに俺がろくでもないことをすると思っているらしい。
失礼な奴だ。
文句を言ってやろうかと思ったが、留学の日程を手に入れてくれたのだから、今は黙っておこう。
仕事で正直、疲れていたが、楽しみが出来たおかげで体が軽くなった気がした。
ついでにメールも返信しておくか―――『次はもっと気楽な文章でかまいませんよ』と送った。
さすがにあれは他人行儀すぎだろう……
「壱都さん。朝食を終えたら午前は井垣グループの海外支店長と会うことになっています」
「ああ、そうだったな。昨日選んだワインを試飲できるようにしてくれ」
「はい」
ホテル内のレストランには話を通してあり、料理を用意してもらってある。
ワインに合う料理を。
井垣グループの海外支店長を夫妻で招き、俺は昨日選んだワインを出す。
それが今日の仕事だ。
スーツに乱れがないかチェックし、待っていると夫妻はやってきた。
「いやぁ、まさか井垣グループと白河財閥が手を結ぶなんてこと考えてもみなかったですよ」
海外支店長は陽気な男で話しやすい人柄だった。
おかげで扱いやすく、なにを考えているのか、手に取るように理解できた。
「こちらこそ、支店長のおかげで楽しい取引ができました」
ワインを試飲し、満足したのは支店長だけではなかった。
「すばらしいワインですね。ぶどうだけでなく、他のフルーツの香りがするような甘いワインでした」
支店長も自分の妻が気に入ったのならと思ったらしく、契約書にサラサラとサインをした。
井垣グループが弱いのは海外での食品取引だった。
昔から、ワイナリーの主人達と友人のような付き合いをしてきた白河財閥のコネクションは魅力だったらしく、俺が少しワイナリーの話をするとすぐにのってきた。
「こちらの白ワインもいい。辛口だが、爽やかで花のような香りがある」
「気に入っていただけて、よかった」
「いやいや!さすが白河財閥のご子息。舌も目も肥えていらっしゃる。頼んで正解だった。またお願いしますよ!」
「こちらこそ」
固い握手を交わした。
井垣グループ内での俺の評判は上々。
何度か、頼まれごとをしたが、すべてうまくいっている。
そう、仕事は。
メールはまだ返ってきていない。
俺は樫村がくれた朱加里の留学予定をぐしゃりと潰して、微笑みを浮かべたまま言った。
「おい。樫村。今すぐ井垣朱加里の留学に合わせて俺がイギリスに行けるようにスケジュールを調整しろ」
「こんな急にですか」
「なんだ」
「いますぐやらせていただきます」
樫村は俺の怒りを察して、こくこくと何度もうなずいていた。
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