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第1章
3 許されない相手➂
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私が『別れます』と言わなければ、百貨店への出店を妨害されるだけではすまない。
それに、有近家を敵に回したと知ったら、都久山の住人たちは店の利用を控えるだろう。
「叔父さんたちには、なにもしないでください」
だって、叔父さんはなにも悪くない――悪くないのに、店を潰されるなんて。
別れたくなくても、玲我さんの両親は選択肢を与えてはくれない。
私に許された選択肢は、たったひとつ。
――別れだけ。
目を閉じ、膝の上に置いた自分の手を握りしめた。
両親を亡くし、育ててくれた叔父夫婦。
叔父夫婦に迷惑をかけたくない。
「玲我さんと付き合った私が悪いんです……」
絞り出すように言った私の言葉に、二人はホッとした顔を見せた。
「玲我と別れるのなら、なにもしないと約束しよう」
妃莉さんがテーブルに手をつき、私ににっこり微笑んだ。
「玲我さんと別れるの? 別れないの? きちんと『別れる』と夕愛さんの口から聞かせてほしいわ」
「別れます……」
震える声で返事をするしかなかった。
妃莉さんは満足そうに笑い、私に札束を差し出す。
「やっと自分の立場がわかったみたいね。このお金で新しい服を買うといいわ。さっきから、あなただけ浮いてるのよ」
ハッとして、周囲を見回した。
私が通された立派な洋間には、美術館に飾るような絵、彫刻が置かれている。
一口も手をつけずに冷めてしまった紅茶のティーカップはイギリスの有名ブランド品。
それらに見劣りしない玲我さんの両親と妃莉さん。
私は配達中で、セーターにジーンズという動きやすい服と髪をひとつに結んでいた。
普通の女子高校生の平凡な姿。
――都久山の人たちとは住む世界が違う。
頭ではわかっていたけど、改めて思い知らされた気がした。
ソファーから立ち上がり、会釈して立ち去ろうとした私に、妃莉さんがお金を押し付けた。
「お金はいただいたら? ご両親が亡くなって、おこづかいだって満足にもらっていないでしょ?」
「私は玲我さんとお金目当で付き合っていたわけじゃありません。ただ純粋に玲我さんのことが好きだったからです」
私が玲我さんと『付き合っていた』と口にすると、妃莉さんの目が鋭くなった。
「それから、叔父夫婦は私を娘同然に育ててくれています。不満はありません。ですから、お金は受け取れません」
十八歳の私が見せた精一杯の矜持だった。
けれど、玲我さんの両親にしたら、子供っぽく可愛らしいものだったのか、笑われてしまった。
妃莉さんは私が反論すると思っていなかったらしく、怯んだけれど、すぐに面白くなさそうな顔をしてふてくされた。
「ええ、そうね。夕愛さん、わかってますよ。小椋さん夫妻はとても気のいい方たちですもの。都久山にも『オグラ』の常連客が大勢いますわ」
だからこそ、なおさら有近家を敵に回せない。
デリカテッセン『オグラ』は三代続く総菜屋で、祖父、父、叔父が守ってきた店だ。
ホテルやレストランの料理人として働いていた祖父が、都久山の隣町で総菜屋を開いたのが始まりで、昔からお客様は都久山の人々が中心だった。
祖父は都久山の――特に奥様たちの要望に応え、洋食と和食、中華など、幅広く作ったことから祖父の店は都久山の人気店となった。
それぞれの家庭の事情や嗜好を知り、自宅まで料理を届けてくれる便利な店。
有近の奥様もなるべく穏便に済ませたいという空気が見て取れた。
「夕愛さんが玲我さんと別れてくださるのなら、それでこの件は終わりにしたいと思っているの」
「もちろん、今後も小椋さんの店を使わせてもらうよ」
「……は、い」
――なかったことにされた私の恋。
声を出すと涙がこぼれそうで、うまく返事ができなかった。
向こうもそれを察していて、気遣うように私を見ていた。
有近夫妻は普段なら優しく声をかけてくれるような人たちだ。
ソファーから立ち上がり、お辞儀をし、自分の泣きそうな顔を見られたくなくて、急いで部屋から出た。
部屋を出ると、昔から有近家に通っている家政婦さんたちがキッチンから顔を覗かせていて、私と目が合うとサッと隠れた。
「仲がいいとは思ってたけど、まさか玲我さんと付き合っていたなんて」
「こうなるとわかっていただろうに……」
――身の程知らず。
同情する声よりも立場をわきまえなかったという批判のほうが多かった。
私が玄関を出るまで、その声は聞こえてきた。
「お邪魔しました……」
いつもなら『ご苦労様』とか『こんな坂の上まで配達をするなんてえらいわね』と声をかけてくれる有近で働く人々は、今日はしんっと静まり返っていて、奥から微かな物音をさせただけだった。
そっと玄関の戸を閉め、門をくぐった時、振り返った。
立派なお屋敷が目に入る。
高級住宅地『都久山』にこれほど大きな家を建てられるものではない。
代々続くお金持ちで、積み重ねた財と人脈の結果だ。
私の目蓋に雪が触れた。
灰色の空から雪がひとひら、ふたひら降ってくる。
三月にしては、大きな雪片が灰色の空から降ってきて、私の頬を濡らした。
お屋敷から目を逸らし、ぼやけて見えた景色は、長い下り坂と灰色の靄に沈む町。
私が好きになったのは高級住宅地『都久山』の頂点に住む人。
――最初から、うまくいかない恋だった。
見えない坂の下の町。
私が住んでいる家は、ずっと下にある。
本当はわかってた。
玲我さんと遊びで付き合ったわけじゃないけど、結婚を考えるのが怖かった。
指輪の意味を聞けなかったのも『恋人』が終わったら、玲我さんとの別れが待っている気がしてたから。
私は少しでも長くあなたの恋人でいたかった。
結婚の話が出れば、いずれ終わる恋だとわかっていても――それでも私は。
「玲我さんと別れたくない……」
きっと私と玲我さんが付き合っていた事実は『有近家の恥』としてなかったことにされる。
玲我さんにふさわしい女性だけが、世間に認められる恋人で結婚相手になれるからだ。
前へ歩くことを忘れてしまったかのように、道の途中で立ち尽くしていると、白のファーコートを着た妃莉さんが門から出てきて、有近夫妻からお礼を言われる声が聞こえてきた。
「妃莉さん、ありがとう」
「いいえ。おば様、海外へ行っても私がしっかり玲我さんを見張りますから、安心してください」
妃莉さんの家は本家の近くで、昔から家族ぐるみの付き合いをしてきただけあって親しい。
――妃莉さんなら、きっと反対されなかった。
妃莉さんは玲我さんが海外へ行くのに合わせて、海外留学をするのか、その話をしている。
未来がない私と未来のある妃莉さん。
――雪が降っていてよかった。
誰にも泣き顔を見られたくなかった。
マフラーに顔を埋め、坂の下に向かってふたたび歩き出した。
私の目に映ったのは、雪に混じる黒い車の影。
私にはあの車に乗っている人が誰なのかわかる。
いつもなら、玲我さんかもしれないと思ったら嬉しくなるのに今日は違う。
今はあなたに会いたくない――この後、私たちを待っているのは別れだけだから。
それに、有近家を敵に回したと知ったら、都久山の住人たちは店の利用を控えるだろう。
「叔父さんたちには、なにもしないでください」
だって、叔父さんはなにも悪くない――悪くないのに、店を潰されるなんて。
別れたくなくても、玲我さんの両親は選択肢を与えてはくれない。
私に許された選択肢は、たったひとつ。
――別れだけ。
目を閉じ、膝の上に置いた自分の手を握りしめた。
両親を亡くし、育ててくれた叔父夫婦。
叔父夫婦に迷惑をかけたくない。
「玲我さんと付き合った私が悪いんです……」
絞り出すように言った私の言葉に、二人はホッとした顔を見せた。
「玲我と別れるのなら、なにもしないと約束しよう」
妃莉さんがテーブルに手をつき、私ににっこり微笑んだ。
「玲我さんと別れるの? 別れないの? きちんと『別れる』と夕愛さんの口から聞かせてほしいわ」
「別れます……」
震える声で返事をするしかなかった。
妃莉さんは満足そうに笑い、私に札束を差し出す。
「やっと自分の立場がわかったみたいね。このお金で新しい服を買うといいわ。さっきから、あなただけ浮いてるのよ」
ハッとして、周囲を見回した。
私が通された立派な洋間には、美術館に飾るような絵、彫刻が置かれている。
一口も手をつけずに冷めてしまった紅茶のティーカップはイギリスの有名ブランド品。
それらに見劣りしない玲我さんの両親と妃莉さん。
私は配達中で、セーターにジーンズという動きやすい服と髪をひとつに結んでいた。
普通の女子高校生の平凡な姿。
――都久山の人たちとは住む世界が違う。
頭ではわかっていたけど、改めて思い知らされた気がした。
ソファーから立ち上がり、会釈して立ち去ろうとした私に、妃莉さんがお金を押し付けた。
「お金はいただいたら? ご両親が亡くなって、おこづかいだって満足にもらっていないでしょ?」
「私は玲我さんとお金目当で付き合っていたわけじゃありません。ただ純粋に玲我さんのことが好きだったからです」
私が玲我さんと『付き合っていた』と口にすると、妃莉さんの目が鋭くなった。
「それから、叔父夫婦は私を娘同然に育ててくれています。不満はありません。ですから、お金は受け取れません」
十八歳の私が見せた精一杯の矜持だった。
けれど、玲我さんの両親にしたら、子供っぽく可愛らしいものだったのか、笑われてしまった。
妃莉さんは私が反論すると思っていなかったらしく、怯んだけれど、すぐに面白くなさそうな顔をしてふてくされた。
「ええ、そうね。夕愛さん、わかってますよ。小椋さん夫妻はとても気のいい方たちですもの。都久山にも『オグラ』の常連客が大勢いますわ」
だからこそ、なおさら有近家を敵に回せない。
デリカテッセン『オグラ』は三代続く総菜屋で、祖父、父、叔父が守ってきた店だ。
ホテルやレストランの料理人として働いていた祖父が、都久山の隣町で総菜屋を開いたのが始まりで、昔からお客様は都久山の人々が中心だった。
祖父は都久山の――特に奥様たちの要望に応え、洋食と和食、中華など、幅広く作ったことから祖父の店は都久山の人気店となった。
それぞれの家庭の事情や嗜好を知り、自宅まで料理を届けてくれる便利な店。
有近の奥様もなるべく穏便に済ませたいという空気が見て取れた。
「夕愛さんが玲我さんと別れてくださるのなら、それでこの件は終わりにしたいと思っているの」
「もちろん、今後も小椋さんの店を使わせてもらうよ」
「……は、い」
――なかったことにされた私の恋。
声を出すと涙がこぼれそうで、うまく返事ができなかった。
向こうもそれを察していて、気遣うように私を見ていた。
有近夫妻は普段なら優しく声をかけてくれるような人たちだ。
ソファーから立ち上がり、お辞儀をし、自分の泣きそうな顔を見られたくなくて、急いで部屋から出た。
部屋を出ると、昔から有近家に通っている家政婦さんたちがキッチンから顔を覗かせていて、私と目が合うとサッと隠れた。
「仲がいいとは思ってたけど、まさか玲我さんと付き合っていたなんて」
「こうなるとわかっていただろうに……」
――身の程知らず。
同情する声よりも立場をわきまえなかったという批判のほうが多かった。
私が玄関を出るまで、その声は聞こえてきた。
「お邪魔しました……」
いつもなら『ご苦労様』とか『こんな坂の上まで配達をするなんてえらいわね』と声をかけてくれる有近で働く人々は、今日はしんっと静まり返っていて、奥から微かな物音をさせただけだった。
そっと玄関の戸を閉め、門をくぐった時、振り返った。
立派なお屋敷が目に入る。
高級住宅地『都久山』にこれほど大きな家を建てられるものではない。
代々続くお金持ちで、積み重ねた財と人脈の結果だ。
私の目蓋に雪が触れた。
灰色の空から雪がひとひら、ふたひら降ってくる。
三月にしては、大きな雪片が灰色の空から降ってきて、私の頬を濡らした。
お屋敷から目を逸らし、ぼやけて見えた景色は、長い下り坂と灰色の靄に沈む町。
私が好きになったのは高級住宅地『都久山』の頂点に住む人。
――最初から、うまくいかない恋だった。
見えない坂の下の町。
私が住んでいる家は、ずっと下にある。
本当はわかってた。
玲我さんと遊びで付き合ったわけじゃないけど、結婚を考えるのが怖かった。
指輪の意味を聞けなかったのも『恋人』が終わったら、玲我さんとの別れが待っている気がしてたから。
私は少しでも長くあなたの恋人でいたかった。
結婚の話が出れば、いずれ終わる恋だとわかっていても――それでも私は。
「玲我さんと別れたくない……」
きっと私と玲我さんが付き合っていた事実は『有近家の恥』としてなかったことにされる。
玲我さんにふさわしい女性だけが、世間に認められる恋人で結婚相手になれるからだ。
前へ歩くことを忘れてしまったかのように、道の途中で立ち尽くしていると、白のファーコートを着た妃莉さんが門から出てきて、有近夫妻からお礼を言われる声が聞こえてきた。
「妃莉さん、ありがとう」
「いいえ。おば様、海外へ行っても私がしっかり玲我さんを見張りますから、安心してください」
妃莉さんの家は本家の近くで、昔から家族ぐるみの付き合いをしてきただけあって親しい。
――妃莉さんなら、きっと反対されなかった。
妃莉さんは玲我さんが海外へ行くのに合わせて、海外留学をするのか、その話をしている。
未来がない私と未来のある妃莉さん。
――雪が降っていてよかった。
誰にも泣き顔を見られたくなかった。
マフラーに顔を埋め、坂の下に向かってふたたび歩き出した。
私の目に映ったのは、雪に混じる黒い車の影。
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いつもなら、玲我さんかもしれないと思ったら嬉しくなるのに今日は違う。
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