身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍

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第4章

38 取引➁

「これをどこから!」
「……海寿から」

 本人に知られると思っていなかったのか、祖母は息を呑んだ。
 
 ――海寿さんは自分が売られたと知ってしまった。

 これを目にした時の海寿さんの気持ちを考えたら、胸が苦しくなった。

「絶対に人目に触れないよう隠してほしいと頼んだのに……なぜ……」
「鷹沢の正妻は少しずつ心を病んでいった。紙で契約を交わし、無理やり手に入れた結婚生活と子供だったが、心まではどうにもできないと知り、不安でしかたなかったんだろうな」

 コピーされた紙を玲我さんは哀れむように眺めた。
 海宏さんと家の力を使って結婚したけれど、その心にいつもいたのは別の人で、子供を奪っても満たされず、いずれ海寿さんは自分の元から去っていく。
 鷹沢の奥様の生活は不安と孤独が常につきまとっていた。

「心の拠り所として、この誓約書をコピーして持ち歩くようになった。それだけじゃなく、別荘の金庫にもコピーを保管していたそうだ。海寿の目に触れないほうがおかしい」
「これは鷹沢の奥様のお守りだったんですね……」
 
 そっと紙を持ち上げ、内容を読んだ――これは、誰も幸せになれない取引だった。

「今さら被害者ぶって、早恵さんを悪者にして逃げきれるとでも?」
「悪いのは早恵ですよ! この加々見かがみを捨てただけじゃなく、あの子のせいで潰れかけたんですからね! 何もできない子供の尻拭いを親がして、なにが悪いと言うの!」
「お母さんを悪く言わないでください。海寿さんを犠牲にして店を続けてきた加々見が、お母さんを悪く言う権利はありません」
「な、なんて生意気な子なの。夕愛までこんな……早恵の育て方が悪かったんだわ」

 祖母は自分は悪くないと言い張って、認めるつもりは微塵もない。
 そんな祖母に玲我さんは言った。

「そういえば、言い忘れていたが、鷹沢の正妻から毎月支払われていた援助が止まるぞ」
「なんですって?」
「海寿が鷹沢を継ぐということはそういうことだ。金欲しさに売った孫から、金をもらうつもりでいたのか?」

 祖母は顔を赤くし、唇を噛み締めた。

「援助してもらった料亭も、結局潰れてしまったな」

 人の気配がない料亭は、休みだからではなかった。
 もう営業していないらしく、祖母だけがここで暮らしているようだ。

「よくご存じね……」
「料亭を利用することが多いもので。分家の料理人が頑張っていたのに、あなたと意見が合わず、他店に移ったとか」
「加々見らしくない見映えの悪い地味な料理だったからですよ」
「厳選した素材を使い、初代の加々見を思い出す味だと、他の料亭の女将から聞きましたが」

 そういえば、桜の花が見事な料亭へ行った時、玲我さんと女将が会話していた。
 その内容までわからなかったけど、二人は真面目な顔で話していたような気がする。

「夕愛。あなたは早恵とは違って、優しい子よね? 加々見を助けてくれるわね?」

 今度は鷹沢ではなく、有近から祖母はお金を引き出すつもりらしい。
 どれだけお金があっても、祖母がいる限り、また同じ結果になる――お店を手伝ってきた私にはそれがわかった。
 
「店を守りたい気持ちはわかります」
「そうでしょう? それなら……!」
「店の形だけが残っても意味がありません」

 見事な庭や掛け軸、花瓶――歴史を感じるものが、加々見には多くある。
 けれど――

「ここは料亭です。守るべきだったのは加々見という入れ物ではなく、味ではなかったのですか?」
 
 祖父と私の父が亡くなり、『オグラ』を継いだ叔父さんは、修行していたフランスの店の味ではなく、『オグラ』の味に寄せて作っている。
 だから、叔父さんの料理を食べると、祖父と父を思い出す。

 ――私が大切だと思うもの。それは、おじいちゃんとお父さんが繋いできた『オグラ』の味。

「私が『オグラ』からいなくなっても、祖父と父の味は守れていきます。もう退いて、分家の料理人にお任せしてはいかがですか」

「私が『オグラ』からいなくなっても、祖父と父の味は守られ、受け継がれていきます。それがわかるから、店を離れていいと思えたんです。加々見の味を残せる分家の料理人に、すべてをお任せしてはいかがですか」
「黙りなさいっ! 早恵と……早恵と同じことをお前も言うのね! 同じ声で同じ顔で言わないで!」

 私につかみかかろうとした手を玲我さんが遮った。

「夕愛に危害を加えるなら、警察を呼ぶ」
「警察ですって!? そんなことをしたら、二度と加々見は……加々見は……!」

 取り憑かれたように、祖母はぶつぶつと呟き、爪を噛んだ。
 今の祖母をよく見ると、あの乱れのなかったしゃんとした祖母は、髪を振り乱し、着物の帯は歪んでいた。
「夕愛。行こうか」

 玲我さんが私の手をつかみ、客間から出ようとしたのを止めた。

「玲我さん、待ってください」

 私と玲我さんを見ていなかったけれど、私は言っておかなくてはと思った。

「お母さんは一度も加々見の家を悪く言いませんでした。鷹沢のことも。それだけは忘れないでください」

 だから、私は過去を知らず、誰も恨まずに生きてこれた。
 もし、母が恨みごとを私にいい聞かせて育てていたなら、祖母と会うことはなかったと思う。

 ――私に誰も恨んで欲しくなったから、過去を教えなかった。

 深々とお辞儀し、私は部屋の外へ出た。
 玲我さんは私の後に出て、障子戸を閉めた。
 障子戸が閉まる一瞬、祖母がうずくまって子供のように泣く姿が目に入った。
 その涙は後悔の涙なのか、守ってきた加々見が終わるからなのか……
 どちらなのか、わからないけれど、それ以上なにも聞かなかった。
 私は玲我さんと一緒に玄関から門をくぐって、料亭の外へ出た。

「これから、祖母はどうなるんでしょう?」
「後は加々見の親族がなんとかするだろう。どっちみち、ここは銀行の担保になっているから、借金を払えずに出ていくことになる」
「そうですか……」

 私の記憶の中にある母はふんわりとした人で、いつも微笑んでいた。
 けれど、微笑みの下にたくさんの悲しみを隠していたのだ。
 
 ――海寿さんも同じ。

 似てないと思ったけど、二人は似ている。
 
「夕愛は話を聞いて、泣くと思ったけど泣かなかったな」

 玲我さんが祖母と話す時、私の顔を時々見ていたことに気づいていた。

「なにを聞いても、絶対に泣かずに、そのまま受けとけようと覚悟してきました。そうじゃないと、玲我さんは私に話さなければよかったって、後悔するでしょう?」

 当たっていたのか、玲我さんは苦笑した。
 私は玲我さんの手に触れた。

 ――私たちが誰からも反対されずに、ここにいるのは当たり前のことじゃない。

「玲我さん。これからは一人で抱え込むのは無しですからね」

 それはどうかなという顔をしたのを見逃さなかった。

「駄目ですよ。私たちは夫婦になるんですから、ちゃんと相談して決めましょう」
「……わかった」
 
 夫婦と言ったら、玲我さんのガードが緩んだ。
 玲我さんはなんでも一人でできてしまうから、相談するということがあまりない――というか、できない。 

「それで、私からお願いがあるんですけど……」
「いいよ」
「まだなにも言ってません」

 お願いを全部叶えるつもりでいるのか、返事が早すぎる。

「鷹沢の葬儀が終わったら、海寿さんに会って話をしたいんです。海寿さんと会えますか?」

 鷹沢を継ぐ海寿さんは忙しく、社長交代の時期に、醜聞になりかねない両親の話が外部に漏れるのはまずい。
 
 ――もちろん、都久山の人々にも。

「わかった。なんとかしよう」

 玲我さんしか、私と海寿さんを会わせることはできなかった。

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