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6 変わる天気
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食料を買うために外に出たはずが、カフェ『音の葉』の前に私は立っていた。
来るつもりなかった―――それなのに。
なぜ私はここにいるんだろう。
渋木唯冬と会う前は迷うことなく、店内に入ることができたのに今は入るのが怖い。
「買い物にきたんだから……」
中に入らず、立ち去ろうとした瞬間、カフェのドアが内側から開いた。
「いらっしゃい。開いてるわよ」
いつもの女性の店長が優しい笑顔で出迎えてくれた。
店長は春の日差しようにほんわかした雰囲気の綺麗な女性でその笑顔は人をホッとさせる。
店長のファンで店に通っている人も多い。
「もしかして!ピアノ弾きにきたのかしら?」
嬉しそうな顔でパンッと手を叩いた。
「いえ……違います。レモンアイスティーをお願いします」
「そう、お茶ね、お茶よね!」
慌てて店長はカウンターへ走っていった。
透明な瓶にはレモンのはちみつ漬けが入っていてカウンターの棚にずらりと並んでいる。
店長は気まずそうな顔をしていた。
『よけいなことを言ってしまった』と顔に書いてある。
もしかして私の事情を知っている―――?
話を聞いているのかもしれない。
もしかして、あの人の恋人?
あり得る。
優しそうだし、どこか似ている。
恋人がいるのにあんな思わせぶりな態度したの?
そう思いながら、ソファー席に座った。
昼をだいぶ過ぎた中途半端な時間のせいかお客さんは少ない。
「どうぞ。レモンアイスティーです」
すすっとアイスティーをテーブルに置いてくれた。
ここのレモンアイスティーはレモンシロップが入っていて、はちみつ漬けにしたレモンの輪切りがついてくる。
会釈してお礼を言うと何か言いたそうにウロウロとしていた。
なんだろう……
気になって、こちらから話しかけてみた。
「あの、店長もピアノを弾かれるんですか?」
「わっ、私!?少しだけ。唯冬よりはうまくないんだけど……」
グランドピアノをちらりと見て『どうしよう』『でも、私の演奏じゃ……』とブツブツ言っていた。
うぅーんと唸ってから、店長は意を決したように言った。
「よかったら、なにか弾きましょうか?せっかくピアノがあるんだから!」
「え?ええ……」
どちらでもよかったけれど、意気込んだ店長の姿に断ることができず、勢いに負けてうなずいた。
「よーし!弾くわよっ!」
気合を入れて店長は腕まくりをした。
今からパンの生地でもこねるのだろうかというくらい力が入っていたのにピアノの前に座ると、ふっと力が抜け、優しく微笑んだ。
その仕草がこの間の渋木唯冬と重なる。
鍵盤の上に指をそっと置いた。
そして、しばらくの無音。
その無音の中に音が聴こえるんじゃないかというくらいの無音の後、柔らかな音が響きだした。
春になって嬉しいという気持ちと暖かな日差し。
子供がスキップをしているかのような足取りの軽さ、ひらひらと舞う蝶が目に浮かぶようだった。
「ショパンの蝶々……」
楽しそうに店長は弾く。
明るく輝く音色は彼女の人柄を表すようにキラキラしていた。
こんなふうに楽しく弾いていた頃が私にもあった―――はずだ。
今の私には眩しくて、演奏する姿を黙って眺めていた。
私はあそこに座る資格はない。
自分の指を見つめた。
指も動かないし―――
「ねえ、弾いてみる?」
「すみません……。私、弾けないんです」
「じゃあ、座るだけでも。ね?」
店長が近寄るとバニラの甘い香りが私を優しく包み込んだ。
両肩に手を置き、大丈夫!というようにぽんぽんっと叩いた。
私の手を握ると、手をひいてピアノの前に座らせた。
優しく甘い香りのせいか、なぜか逆らえず、なんのためらいもなく座ってしまったけど、弾こうとは思わなかった。
「このピアノね、唯冬があなたのために運ばせたのよ」
「私のため……」
「どんな音でもあなたの音よ。私だって、酷かったでしょ?」
「いいえ。とても可愛らしい蝶々でした」
「え?そう!?それならいいけど」
確かにミスタッチは多かったけれど、それすら曲の一部だったのかなと思うくらい自然だった。
そう思わせるくらい表現力の高い人だと思う。
今の私がなにを言えるわけでもないけれど……
「あら、雨が降ってきちゃった。せっかくテラス席を準備したのに」
店長ががっくりと肩を落とし、あわただしく窓を閉めに行った。
お菓子みたいなバニラの甘い香りが消え、雨の匂いが窓から入ってきた。
私と正反対の柔らかい空気をもった人。
笑顔も素敵で明るくて優しい。
あんな綺麗な恋人がいるのに―――
「……簡単に人を好きだなんて言わないで」
ザァーッと雨が地面にたたきつけるような音がした。
葉を叩き、地面をえぐる。
雨の音が聴こえてきて、あの日のサティを思い出す。
触れた唇の感触も熱も。
鍵盤に指をおいた。
自分の手の甲が見える。
あれは私にとって悪魔との契約だったのかもししれない。
ダーンッという音が頭に響く。
すべての指がピアノに触れて、離す。
鍵盤の感触が指から脳へと駆け巡り、体が震えた。
蝶々は逃げ出し、春の日差しは厚い雲の中に隠れ去る。
コンクール以来の数年ぶりのピアノ。
曲なのか、曲じゃないのか、わからない滅茶苦茶な音が鳴り響いた。
感情が揺さぶられる。
今まで妹に馬鹿にされても両親に酷い言葉を投げつけられても動かなかったのに。
熱を失っていた心に何かが灯った。
それは間違いなくあの渋木唯冬のせいだった―――
来るつもりなかった―――それなのに。
なぜ私はここにいるんだろう。
渋木唯冬と会う前は迷うことなく、店内に入ることができたのに今は入るのが怖い。
「買い物にきたんだから……」
中に入らず、立ち去ろうとした瞬間、カフェのドアが内側から開いた。
「いらっしゃい。開いてるわよ」
いつもの女性の店長が優しい笑顔で出迎えてくれた。
店長は春の日差しようにほんわかした雰囲気の綺麗な女性でその笑顔は人をホッとさせる。
店長のファンで店に通っている人も多い。
「もしかして!ピアノ弾きにきたのかしら?」
嬉しそうな顔でパンッと手を叩いた。
「いえ……違います。レモンアイスティーをお願いします」
「そう、お茶ね、お茶よね!」
慌てて店長はカウンターへ走っていった。
透明な瓶にはレモンのはちみつ漬けが入っていてカウンターの棚にずらりと並んでいる。
店長は気まずそうな顔をしていた。
『よけいなことを言ってしまった』と顔に書いてある。
もしかして私の事情を知っている―――?
話を聞いているのかもしれない。
もしかして、あの人の恋人?
あり得る。
優しそうだし、どこか似ている。
恋人がいるのにあんな思わせぶりな態度したの?
そう思いながら、ソファー席に座った。
昼をだいぶ過ぎた中途半端な時間のせいかお客さんは少ない。
「どうぞ。レモンアイスティーです」
すすっとアイスティーをテーブルに置いてくれた。
ここのレモンアイスティーはレモンシロップが入っていて、はちみつ漬けにしたレモンの輪切りがついてくる。
会釈してお礼を言うと何か言いたそうにウロウロとしていた。
なんだろう……
気になって、こちらから話しかけてみた。
「あの、店長もピアノを弾かれるんですか?」
「わっ、私!?少しだけ。唯冬よりはうまくないんだけど……」
グランドピアノをちらりと見て『どうしよう』『でも、私の演奏じゃ……』とブツブツ言っていた。
うぅーんと唸ってから、店長は意を決したように言った。
「よかったら、なにか弾きましょうか?せっかくピアノがあるんだから!」
「え?ええ……」
どちらでもよかったけれど、意気込んだ店長の姿に断ることができず、勢いに負けてうなずいた。
「よーし!弾くわよっ!」
気合を入れて店長は腕まくりをした。
今からパンの生地でもこねるのだろうかというくらい力が入っていたのにピアノの前に座ると、ふっと力が抜け、優しく微笑んだ。
その仕草がこの間の渋木唯冬と重なる。
鍵盤の上に指をそっと置いた。
そして、しばらくの無音。
その無音の中に音が聴こえるんじゃないかというくらいの無音の後、柔らかな音が響きだした。
春になって嬉しいという気持ちと暖かな日差し。
子供がスキップをしているかのような足取りの軽さ、ひらひらと舞う蝶が目に浮かぶようだった。
「ショパンの蝶々……」
楽しそうに店長は弾く。
明るく輝く音色は彼女の人柄を表すようにキラキラしていた。
こんなふうに楽しく弾いていた頃が私にもあった―――はずだ。
今の私には眩しくて、演奏する姿を黙って眺めていた。
私はあそこに座る資格はない。
自分の指を見つめた。
指も動かないし―――
「ねえ、弾いてみる?」
「すみません……。私、弾けないんです」
「じゃあ、座るだけでも。ね?」
店長が近寄るとバニラの甘い香りが私を優しく包み込んだ。
両肩に手を置き、大丈夫!というようにぽんぽんっと叩いた。
私の手を握ると、手をひいてピアノの前に座らせた。
優しく甘い香りのせいか、なぜか逆らえず、なんのためらいもなく座ってしまったけど、弾こうとは思わなかった。
「このピアノね、唯冬があなたのために運ばせたのよ」
「私のため……」
「どんな音でもあなたの音よ。私だって、酷かったでしょ?」
「いいえ。とても可愛らしい蝶々でした」
「え?そう!?それならいいけど」
確かにミスタッチは多かったけれど、それすら曲の一部だったのかなと思うくらい自然だった。
そう思わせるくらい表現力の高い人だと思う。
今の私がなにを言えるわけでもないけれど……
「あら、雨が降ってきちゃった。せっかくテラス席を準備したのに」
店長ががっくりと肩を落とし、あわただしく窓を閉めに行った。
お菓子みたいなバニラの甘い香りが消え、雨の匂いが窓から入ってきた。
私と正反対の柔らかい空気をもった人。
笑顔も素敵で明るくて優しい。
あんな綺麗な恋人がいるのに―――
「……簡単に人を好きだなんて言わないで」
ザァーッと雨が地面にたたきつけるような音がした。
葉を叩き、地面をえぐる。
雨の音が聴こえてきて、あの日のサティを思い出す。
触れた唇の感触も熱も。
鍵盤に指をおいた。
自分の手の甲が見える。
あれは私にとって悪魔との契約だったのかもししれない。
ダーンッという音が頭に響く。
すべての指がピアノに触れて、離す。
鍵盤の感触が指から脳へと駆け巡り、体が震えた。
蝶々は逃げ出し、春の日差しは厚い雲の中に隠れ去る。
コンクール以来の数年ぶりのピアノ。
曲なのか、曲じゃないのか、わからない滅茶苦茶な音が鳴り響いた。
感情が揺さぶられる。
今まで妹に馬鹿にされても両親に酷い言葉を投げつけられても動かなかったのに。
熱を失っていた心に何かが灯った。
それは間違いなくあの渋木唯冬のせいだった―――
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