Chisatoーその悪意回避不可ー

不幸中の幸い

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母胎の檻と胎動する真実

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東雲大学中央第三病院のエントランスは、
冬の朝に似た冷たい静けさに包まれていた。
自動ドアのガラス越しに、外の光が薄く差し込む。
高く澄んだ空気は、どこか人工的な清潔さを漂わせていたが、
同時にそれは“現実の外側”に足を踏み入れるような、
奇妙な緊張を孕んでいる。

ロビーは広く、
どこか胎内を模したような丸みのある天井と淡い間接照明。
壁の奥から微かに漂う消毒薬と石鹸の香りが、
呼吸のリズムを狂わせる。
カウンターには看護師が控え、
椅子には幾人かの患者と
付き添いが沈黙を守って座っていた。
その中で、宇田川梓はお腹をかばうように歩を進めていた。
コートの下、手のひらは知らず知らずのうちに下腹を守る姿勢をとる。
梓の腹は、妊娠三か月を過ぎ、
ゆるやかな膨らみを帯び始めている。
胸元まで冷えが昇り、ほんのわずかに眩暈がする。
それでも梓の目は一歩ごとに鋭く、
だがどこか迷いを含んだ色を宿していた。
千咲との約束。
あのLINEに返信した自分の覚悟が、
ここに来て薄氷のように震える。

「大丈夫ですか?」

後ろから低く静かな声。
佐々木雄二が、警戒を隠そうともせず梓の隣に立った。
彼の目には刑事としての冷徹さより、
いまは人間としての不器用な優しさが滲んでいる。

「……ええ。少し、緊張しているだけです」

梓は短く息を吐いた。
病院という“合理”が、
ここではどこか異質なものに変容していく。
まるで胎内に飲み込まれるような湿った空気。
全身の皮膚が、内側から微かにざわつく。

ロビーの時計が淡い電子音を鳴らす。
時間は午前十時をわずかに過ぎていた。
千咲はまだ姿を見せていない。
梓は椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を組み、
わずかに震える指先を押さえ込む。

周囲には静けさが満ちているが、
耳の奥には遠く機械のアラーム音や、
ベッドを押す車輪の軋みが断片的に届く。
病院という器そのものが、
生き物のように脈動している感覚。
梓の腹の奥でも、胎児が静かに脈打つ。
自分自身が“胎内の中でさらに新たな胎児を抱え込んでいるという、
重層的な矛盾が体内に滲み広がる。

佐々木は周囲を警戒しながらも、
梓の様子を見守ることをやめない。
梓は、佐々木の存在があることで、
ようやく自分の呼吸が現実に繋がれていることを実感する。
数分が過ぎ、病院の奥、
エレベーター前の方から細い足音が近づいた。
長い黒髪と、薄い青色のダッフルコート。
神谷千咲が、やや伏し目がちに現れた顔。
はいつもの冷静さの裏側に、どこか影のような疲労を宿している。

「宇田川さん……ごめんなさい。お待たせして」

千咲は、まず梓の腹部を一瞥し、すぐに優しく顔を和らげる。

「体調、大丈夫ですか?寒くなかったですか?
 私の事情があったにせよ、
 梓さんに疑いを抱かせるような言動本当に後悔しています」

その声は真っ直ぐで、言葉の端々に申し訳なさと気遣いが混ざっていた。

梓はほんの少しだけ、緊張の糸が緩んだのを感じた。

「大丈夫です。むしろ、来てくれてありがとう。
 ……それに、私も色々と、ごめんなさい」

千咲は小さく首を振り、
手に持っていた分厚い資料ファイルを抱え直した。

「このあと、会議室を使えるように手配しています。
 宇田川さんだけでなく、佐々木さんも一緒に。全部、お話しします」

その言葉に、梓は黙ってうなずいた。
佐々木も微かに頷き、
三人はロビーを抜けて、エレベーターに乗り込んだ。

エレベーターの扉が静かに閉まる。
狭い箱の中、三人の呼吸が微かに混じり合う。
扉の内側、ステンレスの冷たい表面に三人の影が映る。
その影が、一瞬だけ歪んで見えた。

心臓の奥で、胎児が弱く跳ねる。
梓は、自分の鼓動と腹の中の生命が、
外界と微かに共振しているのを感じていた。

(ここが、“胎内地獄”の入口なのかもしれない)

エレベーターは静かに上昇していく。
ロビーの静けさが、彼方へと遠ざかっていった。
病院の奥にある静かな会議室。
窓は小さく、分厚いカーテンが光を遮る。
静脈のように流れる微かな空調音。
机の上には冷たい蛍光灯が輪を描き、
壁際に消毒液の匂いが残っている。

千咲は分厚いファイルを両手で押さえ、
机の端に腰を下ろす。
梓は反対側、佐々木はドア近くで警戒を解かず立っている。

千咲が小さく息を整え、顔を上げた。

「宇田川さん……
 最初に、私があなたに近づいた本当の理由を話します」

梓は視線を外さず、緊張と疑念の色を隠さない。

「私に近づいたって……何のために?」

千咲は、ほんの一瞬だけ迷いを見せ、それから静かに語り始めた。

「私はずっと、紅紐事件に関する情報を追いかけていました。
 だけど、警察もマスコミも“本当の真相”にどうしても辿り着けなかった。
 そんな時、東雲日報に南秋大学の出身で、
 最近入社した記者――つまり、梓さんがいると知って思いました。
 “もし記者と接触できれば、何か突破口になるかもしれない”と」

梓が手を握りしめ、沈黙の中で問いを重ねた。

「どうしてそこまでして紅紐事件を調べたの?」

千咲の眼差しは、ほんの少しだけ揺れる。

「私の姉――麻里子が犠牲になったからです。
 事件の真相を知らずにはいられなかった。
 警察も、新聞社も、誰も本当のことを教えてくれなかった。
 だから自分で調べるしかなかった」

梓がわずかに目を細める。

「……私を“利用”しようと?」

千咲はうなずく。

「はい。でも、それだけじゃありません。
 松本沙雪さんの傷害事件が起きて、
 当然東雲日報の記者が現場に来るはずと確信していました。
 私には、その機会を活かすしかなかった。
 梓さんと直接関わることで、
 事件記事や社内資料、何かヒントが得られると思ったんです」

佐々木が一歩前に出る。

「……それで、実際にどこまで情報を集めた?」

千咲は手元のファイルを開き、静かに続ける。

「私は、もともとネットワークの知識があったので、
 大学の端末から東雲日報のデータベースにアクセスを試みました。
 事件記事や未公開ファイル、
 外部に繋がるサーバーの情報まではいけたのですが、
 どうしても、それ以上の重要データにはアクセスできなかった。
 社内の物理端末からでないと、絶対にブロックが破れなかったんです。
 だから東雲日報の中で直接データベースに侵入する“手段”が必要でした」

佐々木がそこで問いを挟む。

「……ハッキング、ということか?」

千咲は正面からその言葉を受け止める。

「はい。本来、絶対にやってはいけないことで、
 犯罪なのはわかっています。
 でも、どうしても――
 どうしても紅紐事件の真相にたどりつきたかった。
 姉のためにです。罪を償う覚悟もあります」

会議室の空気が微かに重くなる。
梓は小さく手を握りしめ、沈黙の中で問いを重ねた。

「……それで、何が分かったの?」

千咲はファイルのページをめくり、静かに語り始めた。

「事件の核心は、“紅紐事件”のさらに奥にありました。
 この事件の源流は…」

ここで千咲が、資料を机に並べ、視線を梓に戻す。

「松本沙雪の出生まで遡ることになります」

梓が小さく息を呑む。

「……沙雪さんの出生?」

千咲はファイルをめくりながら続けた。

「沙雪さんは、シングルマザーの母親から生まれています。
 父親の情報は一切記録がありません。
 もともと、沙雪さんは双子として生まれるはずだったんです。
 でも、妊娠後期に入った頃、母親が重い病気
 妊娠中毒症のような症状に急激に陥ってしまって、
 緊急治療を受けることになりました。
 その治療のあと、沙雪さんだけが無事に生まれています」

梓が不安げに口を開く。

「……もう一人の赤ちゃんは、どうなったの?」

千咲はゆっくりと頷いた。

「――医療記録によれば、
 もう一人の胎児の肉体は消失したとされています。
 『消失双胎症候群(Vanishing Twin Syndrome)』と
 記録されていました」

佐々木もファイルに目を落としながら、息を潜める。

「……そんなことが本当に……」

千咲はさらにページをめくり、静かに説明を続ける。

「その後の記録では、“双胎の同体化”
 つまり、もう一人の胎児の存在が沙雪さんの内部に
 何らかの形で“同居”した可能性が疑われています。
 生まれてくるはずだった女の子の名前は『ちさと』になるはずだった」

梓は驚きと混乱を隠せず、言葉を探す。

「……沙雪の中に、もう一人が取り込まれたってこと?」

千咲の声は静かだが、芯がある。

「その通りです。専門家も“同体化”と呼んでいました」

会議室の空気が一段と重くなった。
佐々木が腕を組み、ファイルの記述に目を落とす。

「じゃあ、沙雪さんは……二人分の存在を背負って生きてきたのか?」

千咲は頷きながらも、迷いのない目で梓を見る。

「実際、成長してから、
 沙雪さんの中に明らかに本人とは異なる意思が存在している。
 そう診断された記録が残っています。
 精神科医も、二重人格とは違う“外部的な意識”が
 同居している可能性を示唆していた」

ここで梓が静かに息を吐き、佐々木が真剣な眼差しで千咲に問う。

「……それが…Chisatoだと?」

千咲は、静かに頷いた。

「はい。Chisatoは、“生まれることのできなかったもう一人”です」

会議室の空気はさらに冷たく、密度を増していた。
千咲がファイルの新しいページをそっと差し出す。
そこには、松本沙雪の出生以降、
周囲で起きた不可解な死や失踪事件が列挙されている。

「……実は、沙雪さんの出産に立ち会った関係者の多くが、
 数年以内に変死しています。
 医師、助産師、当時の研修生、
 さらには記録を管理していた行政担当者まで」

梓は背筋を伸ばし、ファイルに目を落とした。
佐々木も横から覗き込む。

「これだけの人数が亡くなっている……
 偶然で済ませていいレベルじゃないな」

千咲は一瞬、目を閉じて言葉を選ぶ。

「唯一、生き残っているのが――
 当時、研修医だった高田静流先生です。
 ほかの関係者は全員、不審な事故や突発的な病気、
 あるいは自殺のようなかたちで亡くなっています」

佐々木が口を挟む。

「静流先生が生き残った理由、何か心当たりは?」

千咲は小さく首を横に振った。

「医療記録や警察の調書にも、
 “特異点”として静流先生だけが除外されていました。
 むしろ“なぜ生き残れたのか”が不可解だと、
 事件担当の刑事も記録に残しています」

梓が沈黙の中で、そっと口を開く。

「……静流先生は、最近も何かおかしい。
 家族や周囲が気づかないうちに、
 何かに巻き込まれていった可能性は……?」

千咲は、わずかに顔を曇らせながら続ける。

「この一連の異変は、沙雪さんのもう一人の意思、
 つまり“Chisato”に関係があると考えています。
 成長の過程で、沙雪さんの中には明らかに
 本人とは異なる行動や感情、記憶の断絶が見られた。
 専門家も“二重人格”ではなく、
 “外部からの強い影響”を疑っていました。
 精神科医の見解では、
『離人感性人格同居症例
(pseudo-host personality phenomenon)』、
『発達早期の自己と非自己の境界障害』、
 そして“神経ネットワークへの外来信号の混入”――
 こういった医学的用語が使われていた記録もあります」

佐々木が顎に手を当てて問いかける。

「……つまり、沙雪さんを通して
 Chisatoという何かが“感染”していった、という解釈か?」

千咲はしっかりと佐々木を見つめてうなずいた。

「はい。しかも、その影響は彼女と関わった人物――
 たとえば出産に立ち会った医療関係者、
 学校で接した友人、
 事件の目撃者にまで及ぶことが確認されています。
 それが“直接的な死”として現れるか、
 精神の破綻や自死として現れるかは、
 その時のChisatoの意思や“気分”によって決まるみたいです」

梓は息を詰めて、震える声で問い返す。

「……じゃあ、私たちも……?」

千咲は静かに頷く。

「はい。
 私の姉、麻里子も“自害パターン”で
 精神をコントロールされた可能性が高いです。
 篠原栞さんの姉・薫さんは、
 Chisatoが第三者の肉体を操作し、殺害したパターンだと思われます。
 事件ごとに手口が違うのは、Chisatoのその時々の
 わがまなな“悪意”によって使い分けられている。
 篠原さんの件については、私は重大な誤解をしてしまいました。
 篠原栞さんと南雲拓さんを、同時に死なせてしまったことは
 ……どれだけ悔やんでも償いきれません」

会議室の静けさに、三人の呼吸だけが重なった。

佐々木が重々しく口を開く。

「要するに、“関わったら最後”ということか」

千咲は、苦しそうに目を伏せる。

「……その通りです。
 松本沙雪は、もはや“媒介”であり“受容体”。
 本物の沙雪さんは、もしかしたら……もう――」

言葉がそこで途切れた。梓も佐々木も、
重い沈黙のなかでそれ以上は問わなかった。

会議室の空気は、
誰かが指先で触れるだけで崩れそうなほど重く、張りつめていた。
千咲は机上のファイルをさらにめくり、
書類の一枚一枚を慎重に取り出していく。
梓と佐々木の視線が、無意識にその手元に吸い寄せられる。

「……ここまでで、私は一つの結論にたどり着きました」

千咲は新たな資料――
住民票、戸籍謄本、大学の在籍証明書のコピーを並べる。

「松本沙雪さんは、
 南秋大学の教育学部の学生ということになっていましたが、
 大学の在籍記録には、その名前が一度も現れていませんでした。
 しかも戸籍を調べると、驚くべき事実がわかったんです」

梓が、かすかに唇を震わせる。

「……どういうこと?」

「沙雪さんは、今から十二年前、
 九歳の時点で既に亡くなっていました。
 母親も沙雪さんが亡くなった直後に他界していて、
 以後、親族関係者も極端に少なくなっています」

佐々木が目を細め、低く問いかける。

「じゃあ、今まで私たちが“松本沙雪”だと思っていた存在は?」

千咲は静かに頷き、声を落とす。

「本物の松本沙雪さんは、もう存在しない。
つまり、これまで私たちが“沙雪”だと信じてきた人物は、
戸籍上も社会的記録上も、もはや“幽霊”のような存在だったんです。
そして……」

千咲は、最後の書類をそっと机の中央に置いた。
そこには古びた出生届と、
沙雪の名の横に小さく記された“Chisato”という付記が残されている。

「……生まれてくるはずだったもう一人の名前、“ちさと”。
 母親は、亡くなった後も“沙雪とちさと”という双子の存在を
 ずっと意識していた形跡があります。
 ですが記録上は、沙雪しかこの世に存在しないはずでした」

梓が低く、息を詰めるように言う。

「じゃあ……今まで私たちが見てきた“沙雪”って、誰だったの?」

千咲の声は、静かに、しかし揺るぎなく響いた。

「中身は、おそらく“Chisato”です。
 肉体そのものも、もしかすると“全く別の誰か”だった可能性があります。
 例えば、沙雪さんが亡くなる前、
 子供の頃に一緒に遊んでいたという養護施設の子供とか。
 つまり、その子供の肉体を器をとして使い、沙雪と洗脳させたうえで
 その中に“Chisato”が存在していた。
 記録の“抜け殻”のなかで、
 悪意そのものが現実の顔を持って私たちの前に現れていたんです」

佐々木は、眉をしかめて問う。

「……じゃあ、Chisatoは一体“何”なんだ? “誰”なんだ?」

千咲は、目を伏せながら答える。

「Chisatoの根源は“悪意そのもの”です。
 人を操り、遊び、殺し、どこまでも“個”を食い尽くしていく力。
 それが今、この病院の“胎内”で、新たな段階に進もうとしています」

梓は、自分の腹の奥が微かに疼くのを感じていた。
それは命の胎動なのか、
恐怖という名の悪意なのか、判別がつかないままだった。


会議室の空気は、
外界から完全に遮断された胎内のように濃密だった。
千咲の手元にはすでにほとんどの資料が並び尽くされ、
梓と佐々木はそれぞれの思考の迷宮に沈み込む。

千咲が、再び意を決したように顔を上げる。

「……ここまで話してきましたが、
 たぶん信じられない内容ばかりだったと思います」

梓が低く、しかし必死に食い下がる。

「でも、全部繋がってる……事件も、沙雪も、Chisatoも。
 あの“悪意”が、ずっと。」

千咲は静かに、言葉を引き取る。

「ええ、全ての事件の中心には“Chisato”がいます。
 彼女は誰かを通じて悪意を拡散し、
 その都度“器”を変えて生き延びてきた。
 沙雪さんの肉体を使い、彼女の視界や感覚を媒体にして、
 接触した人間に“感染”していく。
 それは単なる精神疾患や集団ヒステリーとは違う。
 Chisatoの“気分”
 すなわち悪意が、ある時は自死を誘い、
 ある時は他人を使って殺害し、
 時には記憶を喰い尽くして人格そのものを空洞にしていく」
 

佐々木は、わずかに唇を噛みしめながら問いかける。

「……つまり、“関わるだけで感染する”のか?」

千咲は、佐々木の眼差しを正面から受け止めた。

「はい。
 私も本当は、梓さんや佐々木さんを
 危険な場所に呼び出してしまっているかもしれません。
 だけど、知ってしまった以上、もう後戻りはできない。
 この病院、中央第三が“地獄の胎内”となり、
 私たち全員がChisatoという“胎児”の養分として
 集められつつあると感じています」

梓は苦しそうにうつむく。

千咲はしばらく黙していたが、
やがて絞り出すように言った。

「ただ一つ言えるのは、
 “沙雪”という名前や記憶の外側で、
 Chisatoの悪意はずっと広がり続けているということ。
 もしかすると今も、どこかで新たな器を探して、
 新たな悪意を育てているのかもしれません」

静けさのなか、
会議室の外からかすかに車椅子の軋む音が聞こえた。
病院の奥。
胎内のさらに奥で、何かが目覚め始めている気配があった。

千咲は深く頭を下げ、

「……ここまでのこと、
 もし私が償える方法があるなら、どんな罰でも受けます」

と絞るように告げる。

佐々木は、無言でその姿を見つめた。

梓は自分の腹に手を当てながら、
会議室の曇ったガラス越しに外を見つめていた。
自分の中で静かに脈打つものが、
まるで“もう一つの胎動”と共鳴しているかのように感じていた。

重く、冷たい空気のなかで、三人はしばらく言葉を失ったまま、
それぞれが自分の内側に潜む恐怖と向き合っていた。

会議室の重い沈黙が、やがて佐々木の一言で破られた。

「……なあ、千咲さん。
 Chisatoが本当に人を直接コントロールできるなら、
 どうしていちいち第三者を使ったり、間接的な方法で殺害するんだ?
 自害させたり、他人を操ったり。
 わざわざ手間をかけて、何をしている?」

その問いは、
この場にいる誰もが一度は心に浮かべた疑問だった。

千咲は静かに視線を落とし、ゆっくりと答える。

「……私にもすべては分からないけれど、
 たぶんChisatoにとって“殺すこと”は遊びなんです。
 彼女は純粋な悪、漆黒の悪意だけでできている。
 だから相手を選ぶことも、方法を変えることも、
 まるで“お人形さんごっこ”のように、
 飽きるまで好き勝手に人の生と死を操ってきた。
 直接操るだけじゃ、すぐに飽きてしまうから。
 他人を媒介にしたり、時には自害を選ばせたりして、
 “人間がどう壊れるか”“どう苦しむか”を、
 その都度観察して楽しんでいるんだと思う」

佐々木は深く息を吐く。

「つまり、殺すこと自体が目的じゃない。
 その過程“壊れる様”を楽しんでいる、ってことか」

千咲は頷いた。

「そう。
 悪意の残滓に触れた人は、南秋市でも東雲市でも、
 大小問わず様々なトラブルや不幸に巻き込まれていった。
 自分の意志だと思い込んでいた行動や衝動が、
 実はChisatoの放った“悪意のかけら”による感染だったと
 考えられます。
 この世界に撒かれた彼女の悪意は、
 もはや誰にも止められないレベルまで拡がっているのかもしれません」

梓は、静かに問いかける。

「……つまり、私たちは今、この“檻”の中で、
 Chisatoの遊びに巻き込まれている?」

千咲は静かに微笑んだ。
その笑みには、ほとんど祈りにも近い切実さが滲んでいた。

「たぶん、そうなのだと思います。
 でも、私は絶対に――絶対に諦めない。
 この悪意の連鎖を、どこかで断ち切りたい。
 だから今日、すべてを話しに来たんです」

会議室の空気は再び静けさを取り戻すが、
その静寂は、
病院全体を包み込む“胎内”の鼓動と
どこか共鳴しているようだった。

梓は自分の腹部に手を当て、
そこに宿る新たな命の脈動と、
今まさに迫る地獄の胎動を重ねて感じていた。

会議室に重く静かな余韻が漂う。
千咲の言葉が尽きた後も、
誰もすぐには動こうとしなかった。
三人の間に流れる沈黙は、
ここまで積み重ねた真実と、
これから待ち受ける地獄の気配を孕んでいる。

梓は、腹部の奥に宿る生命の鼓動と、
背後から忍び寄る何かの胎動が響き合うのを感じていた。
佐々木は、刑事としての本能と
人間としての恐怖がせめぎ合うのを抑えきれない。
千咲は、すべてを語った今なお、
自分の中の罪と不安に押し潰されそうになっていた。

そんな時、
会議室の外から、柔らかい足音が近づく。
扉の向こうで一瞬、空気が波打つような気配。
静電気が走るような感覚が、三人の皮膚にじわりと伝わる。

カチリ、とドアノブが回る。
重たい扉が静かに開かれ、
病院の白い廊下から、一人の女が姿を現した。

長い髪、青白い顔色、わずかに揺れる視線。不確かな輪郭。
それは“松本沙雪”と名乗っていた女だった。
しかし、目の奥に宿るものは、
これまでの沙雪とはまるで違っていた。

千咲が思わず身をこわばらせる。
梓も佐々木も、声を出せないまま、扉の方を凝視する。

女は一歩ずつ、静かに部屋の中に入る。
その背後で、病院の蛍光灯が微かに揺れ、
遠くから機械のアラームと、
どこか湿った空気のうねりが押し寄せてくる。

女は無言のまま、三人を見渡した。
唇がかすかに動き、笑みとも呼べない表情が浮かぶ。

「こんばんは」

その声は、部屋全体の温度を一度に下げるような、
冷たく澄んだ響きだった。

梓の腹部で胎児が小さく跳ねる。
千咲の喉が詰まり、
佐々木は無意識に梓の盾になるように身構える。
女は部屋の中央に立ち止まり、
無表情のまま梓たちを見つめた。
沈黙が流れる。
梓の腹部の奥で、何かが鋭く跳ねた。
千咲は椅子の肘掛けを強く握りしめ、
佐々木は微かに喉を鳴らして息を整える。

誰もが言葉を失ったまま、その女“沙雪”を見つめていた。
病院の蛍光灯が一度だけ大きく揺れた。

その静けさの中で、三人は“何か”がもう元に戻らないことを、
皮膚と内臓の奥で、確かに悟っていた。
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