桜葬ー八神翔子、散華すー

不幸中の幸い

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第三章第七節collapse2

軋む心音

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目深にフードをかぶった人物が、無言のまま扉を閉める。
その金属音が地下室の壁に反響し、
鈍く、冷たく空間を満たしていった。

翔子の身体はまだ重い。
麻酔の影響か、あるいは恐怖か、筋肉が命令通りに動かない。
床に手を突いたまま、彼女はその人影を凝視していた。

ぬちゃり、と粘着質な音が濡れた床から響くたびに、
翔子の鼓動はひときわ強くなる。
かび臭さと鉄の匂い、微かな汗と腐臭の混じった空気。
コンクリートの床は湿って冷たく、足元には古い器具やコードが絡まり、
蛍光灯の明滅だけが淡く空間を照らしている。

その人物が、ゆっくりとフードを脱いだ。

現れた顔を見た瞬間、翔子は言葉を失う。

「……凛……桜……?」
思わずその名を呟いた。

ありえない、いや、あってはならない光景だった。
死体の傍らに、我が子が立っている。
目の前の娘が、恐ろしいまでに静かな瞳で、
こちらを見下ろしていた。

凛桜は微かに笑った。

「やっと起きたね、お母さん」

その声は確かに娘のものだが、冷気を帯びている。
感情の温度が、極端に低い。

翔子は唇を震わせながら問いかけた。

「……どうして……凛桜がここに……? 
ここ……ここはどこなの……?」

「家の地下室。お母さんも知ってるでしょ?
お父さんが“書斎だから”って、鍵かけてたから入ったことなかっただろうけど。
私も兄貴も入るのは初めて。
でも、昴流は……中に入ったことがあった。
お父さんにPCのこと教えてたみたい。
昴流はPCやネットのこと得意だからね」

翔子は、目の前が歪むような感覚に囚われた。
あの部屋。康人が「入るな」と言い続けていた部屋。
それが──こんな形で自分を飲み込んでくるなんて。

「……じゃあ、あなたは……どうやってここに……」

「だって、運んだもの。兄貴と2人で。お母さんと山路先生を、ね」

その言葉が、まるで石のように重く翔子の胸に落ちた。

「……そんな……嘘……」

「以前から山路の行動、おかしかったから。監視してたの。
運動会のとき、お母さんを見つめる目とかね。
家の前で立ってるのを見た人もいた。塚本さんとか、前原さんとか。
それで、今日。昴流が“山路先生、休みだ”って教えてくれて。
お父さんには会社、有給取ってもらって。
私と兄貴は、学校に行くふりして地下に隠れてたの」

凛桜の声は、怒りに震えているわけではない。
ただ、事実を静かに、乾いた口調で並べていく。

「お父さんも知ってた。何も言わなかったけど、
鍵は渡してくれたし、最初は一緒にいた。
でも……堪らなかったんだろうね。黙って、階段を上がっていった。
……冷めた目だったよ。見てるのに、何も見てないような」

翔子は、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じた。

「この地下室にはね、家の各部屋が見えるように、
防犯カメラがついてるの。
全部、隣のPCルームに繋がってる。
デバイス、クラウド、録画機材。もう、マジで基地だよ」

翔子は信じられなかった。だが、その言葉に嘘は感じられなかった。
これが現実だという冷たさだけが、皮膚に刺さっていた。

「……それで……見てたの……? 全部……」

「見てたよ。山路がやってきて、お母さんがあんな……
あんな、雌みたいな顔して、喘いでるのを」
凛桜の声音が、濁る。

「ほんとは止めたかった。飛び出して、やめろって言いたかった。でも……
でも、動けなかった。
恐怖と怒りで、身体が凍ったの。兄貴は冷静に見てたけどね」

翔子は、必死に否定の言葉を紡ぐ。

「違うの……違うのよ……私は……脅されてたの……
山路先生に、無理矢理……っ」

「何も違わない。なーんもね」

凛桜がナイフを取り出す。警告灯の赤が、刃に反射して輝いた。

「アンタは狂ってる。それだけ。山路は──私が殺した」
「……え……?」

翔子は呆然と凛桜を見つめる。
地面が、ぐにゃりと揺れたように感じた。

「正すために殺したの。お母さんを、正すために」

足音が近づいてくる。
ナイフを手にした凛桜が、翔子の真正面に立つ。
翔子は床を這いながら、じりじりと後ずさるが──
麻酔で足がもつれ、うまく動けない。
天井の換気口は止まったまま。
警告灯だけが、赤いリズムを刻み続ける。
その点滅のたびに、ナイフの刃がきらめいた。

「やめて……お願い、凛桜……っ」

「だって……こんな世界、あんたが“母親”である限り、
もう、救いようがないんだもん」

翔子は、身構えた。
だが動けない。
視界の隅で、ナイフがゆっくりと振りかぶられる気配。
思考が真っ白になる。

──ああ、殺される。

娘の手で。
自分の娘に、殺される.

翔子は、目を閉じた。
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