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19章 宮節日 支度をするのも一苦労
②
「……悪さをしようとしていたのは、間違いないようね。」
キシュワールはソッとドアの隙間から部屋を覗きこんだ。
アリムはまだ眠っているようだ。結構な騒ぎだったはずだが、規則正しく胸が上下している。
彼女達は、初めから行動がおかしかった。あからさまではない程度に手を抜き、アリムと視線を合わせない。好き勝手に手を動かし、それも何となく形を整えるだけ。
アリムの後ろで見張っていたのは、その違和感の為だった。
「ありがとう、ドラニア卿。侍女の管理が出来ていなかったわ。」
「恐れ入ります。」
「バーリには、後で私からお伝えするわ。もう……きっと私にもお叱りがあるわね。」
リアナが自分の体を抱きしめたぶるりと震え上がる。
「……承知いたしました。」
「……マルグリットさんの荒れ具合は、最近目に余るものがあるわ。」
リアナは眉を寄せ、深いため息をつく。
「……アリム妃殿下も、今後社交の場が増えるかと存じます。」
「そうね。アリムにも専属の侍女を付けられればいいのだけれど。」
身内以外がアルバスに入ってくると、いくらリアナが気を遣っても、管理が行き届かない。社交の場が増えれば、ハイネリアだけではなく、アリムを良く思わない貴族が、今後出てくる事も考えられる。
「今一度、バーリに進言致します。」
その言葉に、リアナはキョトンっと目を丸くした。
「お願いできるかしら?私もお声をかけてみるけれど。」
「承知いたしました。」
「……あなたがスキンケアやヘアメイクを覚えてくださっても良いのよ?」
武人に言うには、度が過ぎる冗談だった。些かムッとして視線を上げる。
するとリアナは扇で口元を隠し、ふふっと笑った。
「冗談よ。少しお利口さんになったみたいだから、それもやってくれるかと思っただけ。」
「……。」
「1時間後にまた侍女を送りますわ。」
リアナは柔らかく微笑み、淑女の礼をする。キシュワールは胸に手を当て、丁寧に返礼をした。
「貴方は本当に貴族の手本のようね。」
言われた事の意味を掴みかねる。
するとリアナは、わざとらしく大きなため息をついた。
「貴方がもっと、アリムを導いてくれればいいのに。」
残念がりながら皮肉を言う。
ラシードにも以前、そんな事を言われていた。
「……。」
「また、後で。ご機嫌よう。」
リアナの背中を見送ってから、キシュワールは静かにアリムの部屋の扉を閉じた。
フゥッと細いため息が漏れ出る。
アリムが目を覚ますまで、まだまだやることはたくさんあった。
マルグリットが余計な事をしたせいで、スケジュールも幾分狂っている。
「……そういえば。」
アルバシウムをそろそろ神殿の司祭に渡しに行かなければならない。
色々な意味で目立つ青いアルバシウムは、アリムの好奇心のおかげで、立派な花弁をつけた。
アリム手ずから、肥料をやり、虫をとり、天候に合わせて場所を変えていたからだ。
妃が一年かけてアルバシウムを育てるといっても、実質的な世話は侍従が行う。妃がやる事は、水遣りくらいのものだ。
だがアリムはレイブンに庭師を紹介してもらい、世話のやり方を学んでいた。
「……。」
宮節日とアルバシウムについて説明しなかったのはわざとだった。
その事が今、ちくりと胸の奥に刺さっている。
『約束を破るなんて許さない……!』
数週間前の、天文塔でのアリムを思い出す。
13年前、イートンの村の前でみた少年の影がちらついて仕方がなかった。
武装した大人を前にして勇敢に立ち向かう少年。あの壮絶な炎を宿した瞳と、先日ラシードを切実に睨め付けていた瞳が重なる。
声変わりもまだだったあの少年に、アリムの面影はない。
だがあの熱量は間違いなく似ていた。
あの少年を見ていたのは、ラシードだけではない。
キシュワールの記憶にも、鈍く抜けない棘として残っているーー
「……あの時の子供が妃殿下だから、なんだというのだ。」
あの子供が王都に出てきていたとしても、おかしな事はない。征略以来、多くの西夷が各地に散っているのだから。
キシュワールは緩く頭を振り、雑念を振り払う。
今はもっと、集中すべき事がある。
そう、例えば来客の事。
アリムのそばにはラシードが居るはずだから問題ないとは思う。
しかし……。
キシュワールは深いため息をつき、ペンと紙を探しに、控えの部屋へと足を向けたのだった。
***
昼寝から起こされると、頭は幾分かすっきりしていた。
それから何故か先ほどとは別の侍女に、ガッツリと顔をマッサージされ、寝ている間に乱れたらしい髪の毛を、より念入りにセットされる。久しぶりに後ろに撫で付けた髪型は、先程の櫛でといたものよりも気に入った。
真っ白なタラーレンは、宮中行事なので、形式が決まっている。
縁取りの金糸がとても美しい。
神殿に向かう前、キシュワールがアリムを呼び止めた。
「こちらを。」
キシュワールが一枚の紙切れを手渡す。
紙を開くと、そこには几帳面な文字で、数名の名前が書かれていた。
「これは?」
「王太后、王弟殿下、マーシャ妃殿下の父君、リアナ妃殿下の兄君の名前でございます。そのほかの名前は、宴会で集まる大臣と側近の名前でございます。」
オハラ=アレジャブル
アザール=ルイス=アレジャブル
フェルナンド=ハイネリア公爵
ユージン=マコガレン侯爵
その下には、役職のある貴族達の名前が10名程書かれていた。
「アザール殿下は、オハラ皇太后と、生家のベルンハル領でお過ごしになられています。フェルナンド=ハイネリア公爵は、先王が話し相手として交流しておりました。ユージン=マコガレン侯爵は5年前に、先代が隠居し、爵位を継承しております。」
キシュワールは簡潔に内容を説明する。
「公爵以下の貴族からは、挨拶があるかと思いますので、名乗られたら、挨拶を返してください。王太后には、妃殿下から挨拶に行かれた方がよろしいかと思いますので、折を見てご紹介いたします。」
「……。」
アリムはジッとメモを見つめ、それからジトっとキシュワールを恨みがましく睨みつける。
「遅いよ。」
「……。」
「朝にでも渡してくれれば良かったのに。」
アリムは片眉を上げると、メモに書かれた名前を口の中で呟く。そしてそれをキシュワールに突き返す。
「覚えた。」
キシュワールは胸に押し付けられたメモ用紙を受け取りながら、ポカンっと呆ける。
確かに、貴族の名前は、綴りが複雑で平民には読みにくい。しかしアリムにとっては、こんな事朝飯前だった。
「……こちらはお持ちになってください。」
「大丈夫だよ。全員覚えたから。」
「それでは、外務大臣の名前は?」
アリムはスラリと名前を答える。
「第一騎士団長は?」
「ラインハルト=アドニス公爵令息。」
「アドニス家の当主は?」
「書いてなかったじゃん。来るの?」
「……病気療養中で、今回は欠席でございます。」
アリムは口を尖らせる、腰に手を当てた。
「あのさ、俺少し前まで、番頭だったんだよ。名前覚えるのなんて、初歩中の初歩だし、貴族の名前だって見慣れてるんだよ。」
「失礼いたしました。」
キシュワールは素直にメモ用紙を折りたたみ、屑籠に捨てた。
なぜかその仕草が不貞腐れているようにも見える。
アリムはそれを見て、腕を解き、眉を下げる。
「助かるよ。ありがとう。」
「……。」
「さっきも、タオルと休む時間をくれて、有り難かったよ。」
「……恐れ入ります。」
キシュワールをチラリと見ると、パチリと目があった。アリムはなんとなく気まずくなって、直ぐに目を逸らす。
気まずい沈黙が流れる。
どちらかが何かを言い出さなければならなかったが、その口火を切るのが難しい。
コンコンっと、ノイがドアを叩いた。
「ちょい、まだっすか?遅れるっすよ。」
「あれ、ナトマ卿。正装ですね。」
ノイが沈黙を破った事に、アリムはホッとする。
「いいじゃないですか。似合う似合う。」
「親衛隊の礼装ですよ。」
ノイは幾つかの胸章と肩章のついた、えんじ色の正服を着ていた。それに黒いマントを羽織っている姿は、威厳に満ちていて思わず見惚れる。
ノイの礼装姿を見たキシュワールは、一瞬嫌そうに眉を顰めた。
アリムはそれを見て、彼が元親衛隊長であった事を思い出した。
キシュワールは貴族の正装であるタラーレンを身につけていた。
本来ならば、親衛隊長として、ノイと同じ格好をしていたはずなのに。
似合っているはずの、濃茶のタラーレンが、どうしてか物寂しく見えてくる。
「ちょっと待ってもらえます?」
アリムは2人にそう言い置くと、部屋に戻る。
そして、金糸の刺繍が入ったボルドーのクラバットと、金のクラバットピンを持ってきた。
「キシュワール、ちょっと。」
アリムはキシュワールの前に立つと、彼の付けていたブラウンのクラバットを解いた。
「地味だよ。こっちの方がいい。」
アリムは手早くクラバットを結び、クラバットピンを刺した。
鮮やかなボルドーは、キシュワールの顔色をパッと華やかにする。
そして金のクラバットピンは、勲章のようにキラリと胸元で輝いていた。
キシュワールは胸元に視線を落として、目を丸くした。
「ほら、似合う。」
「いいじゃん。」
アリムとノイが頷きあう。
「俺ので悪いんだけど。でも、嫌だったら自分のつける?」
キシュワールは目を瞬き、クラバットを一撫でする。
「……あのクラバットは、礼拝用です……。」
「え?」
「宴会用には、もう少し派手なものを用意しておりました。」
その言葉に、アリムは大いに赤面した。
「着替えるよね……。」
「はい。」
アリムは二の句が告げなくなり、顔を手のひらで覆い隠す。
考えなくてもわかるはずだった。礼拝と宴会では装いを替えて当然なのだ。
先程、呉服屋の番頭であった事を豪語していた事が恥ずかしくなる。
だが、キシュワールのタラーレンが、もの寂しそうに見え、少し手を加えたくなったのだ。
キシュワールはクラバットピンを弄り、もう一度滑らかなシルクのクラバットに視線を落とした。
「ありがたく、お借りいたします。」
「準備してるんだよね?いいよ、気を遣わなくて……。」
「付けたことのない色でございますが、確かに似合っているかと。」
キシュワールは面布の中で、モゴモゴと呟く。
何と言っているか聞き取りにくくて、聞き返そうとする。
しかしアリムはそれをやめた。
キシュワールの耳が赤くなっているのは、気が付かないフリをする。
「返さなくていいよ。似合ってるから、必要な時があれば使って。」
「……ありがとうございます。」
「てか、ほんと早く行かないと。」
時間を思い出したノイが、アリムをせっつく。
「ちょっと待って。」
アリムは慌ててボルドーのクラバットを解き、先ほどのブラウンのクラバットをキシュワールの首に巻いた。
「ごめん。プレーンノットでいいよね?」
結び方の確認をしながらも、他のものに変更する気はない。アリムはさっさとクラバットを結び終える。
ノイが「さすが、元呉服屋。」と茶々を入れた。
キシュワールは体を強張らせて、されるがままになっている。その不器用な様子に、ほんの少しの愛嬌を感じた。
最後にキュッと丁寧にクラバットを整える。
そしてアリムはニコリと笑った。
「よし、行こう。」
「承知。」
ポンっとキシュワールの胸を叩き、ノイの腕を引いていった。
キシュワールはソッとドアの隙間から部屋を覗きこんだ。
アリムはまだ眠っているようだ。結構な騒ぎだったはずだが、規則正しく胸が上下している。
彼女達は、初めから行動がおかしかった。あからさまではない程度に手を抜き、アリムと視線を合わせない。好き勝手に手を動かし、それも何となく形を整えるだけ。
アリムの後ろで見張っていたのは、その違和感の為だった。
「ありがとう、ドラニア卿。侍女の管理が出来ていなかったわ。」
「恐れ入ります。」
「バーリには、後で私からお伝えするわ。もう……きっと私にもお叱りがあるわね。」
リアナが自分の体を抱きしめたぶるりと震え上がる。
「……承知いたしました。」
「……マルグリットさんの荒れ具合は、最近目に余るものがあるわ。」
リアナは眉を寄せ、深いため息をつく。
「……アリム妃殿下も、今後社交の場が増えるかと存じます。」
「そうね。アリムにも専属の侍女を付けられればいいのだけれど。」
身内以外がアルバスに入ってくると、いくらリアナが気を遣っても、管理が行き届かない。社交の場が増えれば、ハイネリアだけではなく、アリムを良く思わない貴族が、今後出てくる事も考えられる。
「今一度、バーリに進言致します。」
その言葉に、リアナはキョトンっと目を丸くした。
「お願いできるかしら?私もお声をかけてみるけれど。」
「承知いたしました。」
「……あなたがスキンケアやヘアメイクを覚えてくださっても良いのよ?」
武人に言うには、度が過ぎる冗談だった。些かムッとして視線を上げる。
するとリアナは扇で口元を隠し、ふふっと笑った。
「冗談よ。少しお利口さんになったみたいだから、それもやってくれるかと思っただけ。」
「……。」
「1時間後にまた侍女を送りますわ。」
リアナは柔らかく微笑み、淑女の礼をする。キシュワールは胸に手を当て、丁寧に返礼をした。
「貴方は本当に貴族の手本のようね。」
言われた事の意味を掴みかねる。
するとリアナは、わざとらしく大きなため息をついた。
「貴方がもっと、アリムを導いてくれればいいのに。」
残念がりながら皮肉を言う。
ラシードにも以前、そんな事を言われていた。
「……。」
「また、後で。ご機嫌よう。」
リアナの背中を見送ってから、キシュワールは静かにアリムの部屋の扉を閉じた。
フゥッと細いため息が漏れ出る。
アリムが目を覚ますまで、まだまだやることはたくさんあった。
マルグリットが余計な事をしたせいで、スケジュールも幾分狂っている。
「……そういえば。」
アルバシウムをそろそろ神殿の司祭に渡しに行かなければならない。
色々な意味で目立つ青いアルバシウムは、アリムの好奇心のおかげで、立派な花弁をつけた。
アリム手ずから、肥料をやり、虫をとり、天候に合わせて場所を変えていたからだ。
妃が一年かけてアルバシウムを育てるといっても、実質的な世話は侍従が行う。妃がやる事は、水遣りくらいのものだ。
だがアリムはレイブンに庭師を紹介してもらい、世話のやり方を学んでいた。
「……。」
宮節日とアルバシウムについて説明しなかったのはわざとだった。
その事が今、ちくりと胸の奥に刺さっている。
『約束を破るなんて許さない……!』
数週間前の、天文塔でのアリムを思い出す。
13年前、イートンの村の前でみた少年の影がちらついて仕方がなかった。
武装した大人を前にして勇敢に立ち向かう少年。あの壮絶な炎を宿した瞳と、先日ラシードを切実に睨め付けていた瞳が重なる。
声変わりもまだだったあの少年に、アリムの面影はない。
だがあの熱量は間違いなく似ていた。
あの少年を見ていたのは、ラシードだけではない。
キシュワールの記憶にも、鈍く抜けない棘として残っているーー
「……あの時の子供が妃殿下だから、なんだというのだ。」
あの子供が王都に出てきていたとしても、おかしな事はない。征略以来、多くの西夷が各地に散っているのだから。
キシュワールは緩く頭を振り、雑念を振り払う。
今はもっと、集中すべき事がある。
そう、例えば来客の事。
アリムのそばにはラシードが居るはずだから問題ないとは思う。
しかし……。
キシュワールは深いため息をつき、ペンと紙を探しに、控えの部屋へと足を向けたのだった。
***
昼寝から起こされると、頭は幾分かすっきりしていた。
それから何故か先ほどとは別の侍女に、ガッツリと顔をマッサージされ、寝ている間に乱れたらしい髪の毛を、より念入りにセットされる。久しぶりに後ろに撫で付けた髪型は、先程の櫛でといたものよりも気に入った。
真っ白なタラーレンは、宮中行事なので、形式が決まっている。
縁取りの金糸がとても美しい。
神殿に向かう前、キシュワールがアリムを呼び止めた。
「こちらを。」
キシュワールが一枚の紙切れを手渡す。
紙を開くと、そこには几帳面な文字で、数名の名前が書かれていた。
「これは?」
「王太后、王弟殿下、マーシャ妃殿下の父君、リアナ妃殿下の兄君の名前でございます。そのほかの名前は、宴会で集まる大臣と側近の名前でございます。」
オハラ=アレジャブル
アザール=ルイス=アレジャブル
フェルナンド=ハイネリア公爵
ユージン=マコガレン侯爵
その下には、役職のある貴族達の名前が10名程書かれていた。
「アザール殿下は、オハラ皇太后と、生家のベルンハル領でお過ごしになられています。フェルナンド=ハイネリア公爵は、先王が話し相手として交流しておりました。ユージン=マコガレン侯爵は5年前に、先代が隠居し、爵位を継承しております。」
キシュワールは簡潔に内容を説明する。
「公爵以下の貴族からは、挨拶があるかと思いますので、名乗られたら、挨拶を返してください。王太后には、妃殿下から挨拶に行かれた方がよろしいかと思いますので、折を見てご紹介いたします。」
「……。」
アリムはジッとメモを見つめ、それからジトっとキシュワールを恨みがましく睨みつける。
「遅いよ。」
「……。」
「朝にでも渡してくれれば良かったのに。」
アリムは片眉を上げると、メモに書かれた名前を口の中で呟く。そしてそれをキシュワールに突き返す。
「覚えた。」
キシュワールは胸に押し付けられたメモ用紙を受け取りながら、ポカンっと呆ける。
確かに、貴族の名前は、綴りが複雑で平民には読みにくい。しかしアリムにとっては、こんな事朝飯前だった。
「……こちらはお持ちになってください。」
「大丈夫だよ。全員覚えたから。」
「それでは、外務大臣の名前は?」
アリムはスラリと名前を答える。
「第一騎士団長は?」
「ラインハルト=アドニス公爵令息。」
「アドニス家の当主は?」
「書いてなかったじゃん。来るの?」
「……病気療養中で、今回は欠席でございます。」
アリムは口を尖らせる、腰に手を当てた。
「あのさ、俺少し前まで、番頭だったんだよ。名前覚えるのなんて、初歩中の初歩だし、貴族の名前だって見慣れてるんだよ。」
「失礼いたしました。」
キシュワールは素直にメモ用紙を折りたたみ、屑籠に捨てた。
なぜかその仕草が不貞腐れているようにも見える。
アリムはそれを見て、腕を解き、眉を下げる。
「助かるよ。ありがとう。」
「……。」
「さっきも、タオルと休む時間をくれて、有り難かったよ。」
「……恐れ入ります。」
キシュワールをチラリと見ると、パチリと目があった。アリムはなんとなく気まずくなって、直ぐに目を逸らす。
気まずい沈黙が流れる。
どちらかが何かを言い出さなければならなかったが、その口火を切るのが難しい。
コンコンっと、ノイがドアを叩いた。
「ちょい、まだっすか?遅れるっすよ。」
「あれ、ナトマ卿。正装ですね。」
ノイが沈黙を破った事に、アリムはホッとする。
「いいじゃないですか。似合う似合う。」
「親衛隊の礼装ですよ。」
ノイは幾つかの胸章と肩章のついた、えんじ色の正服を着ていた。それに黒いマントを羽織っている姿は、威厳に満ちていて思わず見惚れる。
ノイの礼装姿を見たキシュワールは、一瞬嫌そうに眉を顰めた。
アリムはそれを見て、彼が元親衛隊長であった事を思い出した。
キシュワールは貴族の正装であるタラーレンを身につけていた。
本来ならば、親衛隊長として、ノイと同じ格好をしていたはずなのに。
似合っているはずの、濃茶のタラーレンが、どうしてか物寂しく見えてくる。
「ちょっと待ってもらえます?」
アリムは2人にそう言い置くと、部屋に戻る。
そして、金糸の刺繍が入ったボルドーのクラバットと、金のクラバットピンを持ってきた。
「キシュワール、ちょっと。」
アリムはキシュワールの前に立つと、彼の付けていたブラウンのクラバットを解いた。
「地味だよ。こっちの方がいい。」
アリムは手早くクラバットを結び、クラバットピンを刺した。
鮮やかなボルドーは、キシュワールの顔色をパッと華やかにする。
そして金のクラバットピンは、勲章のようにキラリと胸元で輝いていた。
キシュワールは胸元に視線を落として、目を丸くした。
「ほら、似合う。」
「いいじゃん。」
アリムとノイが頷きあう。
「俺ので悪いんだけど。でも、嫌だったら自分のつける?」
キシュワールは目を瞬き、クラバットを一撫でする。
「……あのクラバットは、礼拝用です……。」
「え?」
「宴会用には、もう少し派手なものを用意しておりました。」
その言葉に、アリムは大いに赤面した。
「着替えるよね……。」
「はい。」
アリムは二の句が告げなくなり、顔を手のひらで覆い隠す。
考えなくてもわかるはずだった。礼拝と宴会では装いを替えて当然なのだ。
先程、呉服屋の番頭であった事を豪語していた事が恥ずかしくなる。
だが、キシュワールのタラーレンが、もの寂しそうに見え、少し手を加えたくなったのだ。
キシュワールはクラバットピンを弄り、もう一度滑らかなシルクのクラバットに視線を落とした。
「ありがたく、お借りいたします。」
「準備してるんだよね?いいよ、気を遣わなくて……。」
「付けたことのない色でございますが、確かに似合っているかと。」
キシュワールは面布の中で、モゴモゴと呟く。
何と言っているか聞き取りにくくて、聞き返そうとする。
しかしアリムはそれをやめた。
キシュワールの耳が赤くなっているのは、気が付かないフリをする。
「返さなくていいよ。似合ってるから、必要な時があれば使って。」
「……ありがとうございます。」
「てか、ほんと早く行かないと。」
時間を思い出したノイが、アリムをせっつく。
「ちょっと待って。」
アリムは慌ててボルドーのクラバットを解き、先ほどのブラウンのクラバットをキシュワールの首に巻いた。
「ごめん。プレーンノットでいいよね?」
結び方の確認をしながらも、他のものに変更する気はない。アリムはさっさとクラバットを結び終える。
ノイが「さすが、元呉服屋。」と茶々を入れた。
キシュワールは体を強張らせて、されるがままになっている。その不器用な様子に、ほんの少しの愛嬌を感じた。
最後にキュッと丁寧にクラバットを整える。
そしてアリムはニコリと笑った。
「よし、行こう。」
「承知。」
ポンっとキシュワールの胸を叩き、ノイの腕を引いていった。
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