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第一章
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短剣を使うなんてやめておけばよかった、自分自身の体温に近い彼の血が手首を、肘を伝い、絨毯に吸い込まれるのを目で追って、私は小さくため息をつく。
私を包み込むのはむせ返りそうな鉄錆の匂い。
なのに。
「思ったより、なんでもないのね」
こんなに悪い事をしたんだから、空くらい落ちてくるかと思ったのに何も変わらない。私の鼓動はいつも通り。私の笑顔もいつも通り。
握っていた短剣から手を離すと、柔らかな絨毯の上に鈍い音を立てて落ちた。
ゆっくりと赤い色が広がっていく。
「殿下は赤い色は嫌いだと言っていたのに」
でももう見ることはない。だから、どうでもいいのかしらと思い直し私は顔を上げた。
その時、ごめんねルエラという声が聞こえた気がした。でもそんなはずはない。彼はあんな甘い声で私の名前を呼ばない。
そのまま歩き出す。赤い足跡は足を進めるたびに掠れ、そのうちに消えた。
◇◇◇
「ルエラお嬢様?」
染みひとつない両手を見つめて動かないルエラの後ろで、恐る恐ると言った様子の声がした。
顔を上げると、鏡越しにマーサのまあるい榛色の目が、ルエラの金緑色の目とぱちりと合う。
「どうかなさいましたか?」
マーサ。私の侍女。……いつでも優しく私の名前を呼んでくれる彼女が何故ここに?
ルエラが不思議に思い、何度目を瞬いても彼女の姿は消えない。それどころか前に回り込み膝をつくと、ルエラの顔を心配そうに見上げてくる。
見回せば馴染みのある自室。血の匂いなんて何処にも無い。代わりにあるのは飾られた花々の爽やかな香り。
……全部悪い夢だったのかもしれない。
ルエラが悪夢を払い除けるように首を振ると、艶やかな銀糸の髪がふわりと広がった。
「昨夜あまり眠れなかったの。それでぼーっとしてしまって」
答えを聞いて、自分がなにか失敗をしたわけじゃないとわかったマーサは安堵を目に浮かべる。
「もしかしたら緊張なさっているのかもしれませんね、今日は殿下に婚約者として初めてお会いするんですから。でもお嬢様は幼い頃からこの日を迎えるために努力して来られたのですから、大丈夫ですよ」
その言葉にルエラはハッとした。
鏡に映る自分の身に纏ったドレスと組み合わせた宝飾品に見覚えがあったから。
更にマーサが口にした『婚約者として初めてお会いする』という言葉。
ルエラは笑顔の仮面を被って、懸命に励まそうとするマーサの言葉に適当に頷きながら思考の海に沈んでいく。
今日が婚約が決まった後の顔合わせの日だというのなら、あの時から一年は前だという事になる。
「白昼夢というには、長すぎるわね」
マーサが髪飾りを別室に取りにいっている間に、ぽつり呟いてルエラは首を傾げた。
私を包み込むのはむせ返りそうな鉄錆の匂い。
なのに。
「思ったより、なんでもないのね」
こんなに悪い事をしたんだから、空くらい落ちてくるかと思ったのに何も変わらない。私の鼓動はいつも通り。私の笑顔もいつも通り。
握っていた短剣から手を離すと、柔らかな絨毯の上に鈍い音を立てて落ちた。
ゆっくりと赤い色が広がっていく。
「殿下は赤い色は嫌いだと言っていたのに」
でももう見ることはない。だから、どうでもいいのかしらと思い直し私は顔を上げた。
その時、ごめんねルエラという声が聞こえた気がした。でもそんなはずはない。彼はあんな甘い声で私の名前を呼ばない。
そのまま歩き出す。赤い足跡は足を進めるたびに掠れ、そのうちに消えた。
◇◇◇
「ルエラお嬢様?」
染みひとつない両手を見つめて動かないルエラの後ろで、恐る恐ると言った様子の声がした。
顔を上げると、鏡越しにマーサのまあるい榛色の目が、ルエラの金緑色の目とぱちりと合う。
「どうかなさいましたか?」
マーサ。私の侍女。……いつでも優しく私の名前を呼んでくれる彼女が何故ここに?
ルエラが不思議に思い、何度目を瞬いても彼女の姿は消えない。それどころか前に回り込み膝をつくと、ルエラの顔を心配そうに見上げてくる。
見回せば馴染みのある自室。血の匂いなんて何処にも無い。代わりにあるのは飾られた花々の爽やかな香り。
……全部悪い夢だったのかもしれない。
ルエラが悪夢を払い除けるように首を振ると、艶やかな銀糸の髪がふわりと広がった。
「昨夜あまり眠れなかったの。それでぼーっとしてしまって」
答えを聞いて、自分がなにか失敗をしたわけじゃないとわかったマーサは安堵を目に浮かべる。
「もしかしたら緊張なさっているのかもしれませんね、今日は殿下に婚約者として初めてお会いするんですから。でもお嬢様は幼い頃からこの日を迎えるために努力して来られたのですから、大丈夫ですよ」
その言葉にルエラはハッとした。
鏡に映る自分の身に纏ったドレスと組み合わせた宝飾品に見覚えがあったから。
更にマーサが口にした『婚約者として初めてお会いする』という言葉。
ルエラは笑顔の仮面を被って、懸命に励まそうとするマーサの言葉に適当に頷きながら思考の海に沈んでいく。
今日が婚約が決まった後の顔合わせの日だというのなら、あの時から一年は前だという事になる。
「白昼夢というには、長すぎるわね」
マーサが髪飾りを別室に取りにいっている間に、ぽつり呟いてルエラは首を傾げた。
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