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第1章:村編
第5話『王都への旅立ち』前編
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朝、家の戸を開けたとき、村がいつもより静かだった。
鳥の声はしているのに、外が変だった。
誰かに見られている気がして、胸のあたりが少しだけ苦しくなる。
母さんは、いつもより早く起きていた。
鍋から、野菜を煮た匂いがする。焦げてはいない。でも、少しだけ強い匂いだった。
「ユウ、着替えて」
声は優しい。でも、いつもより短い。
僕は服を着ながら、聞いた。
「今日、なにかあるの?」
母さんは一瞬だけ止まった。
鍋をかき混ぜる手が、ほんの少しだけ遅くなる。
「……大事な話があるの」
それだけだった。
外に出ると、村の人が集会所の前に集まっていた。
朝なのに、誰も笑っていない。
大人たちの声は低くて、子どもは一人もいない。
――変だ。
胸の奥で、嫌な感じが広がる。
村長が立っていた。
僕を見ると、すぐに目を逸らした。
それで、分かった。
僕の話だ。
集会所の中は、木の匂いが強かった。
人が多いせいで、空気が重い。
村長が話し始める。
「王都から、使いが来た」
その言葉で、何人かが息を飲んだ。
「血の登録を、更新するそうだ。代表を一人、王都へ送れと言っている」
誰かが小さく「まさか……」と言った。
村長は、僕を見た。
今度は、目を逸らさなかった。
「ユウ、お前に行ってもらう」
頭の中が、真っ白になった。
「……ぼく?」
声が、思ったより小さかった。
母さんの手が、僕の肩に置かれる。
少し震えている。
「王都だぞ? 子どもだ」
誰かが言った。
でも、村長は首を振った。
「この子しかいない」
理由は、言わなかった。
でも、みんな分かっていた。
僕も、分かっていた。
最近、大人たちの目が変わっていた。
僕を見るとき、名前を呼ばないことが増えた。
ユウ、じゃない。
判断するものを見る目だ。
胸が、きゅっと縮む。
王都がどんな場所か、よく知らない。
でも、遠いことだけは知っている。
「……いやだ」
そう言うと、集会所が静かになった。
母さんの手が、強くなる。
「ユウ」
名前を呼ばれた。
それだけで、言葉が続かなかった。
頭の奥が、ちくりと痛んだ。
その瞬間――
視界の端に、黒いものが見えた。
細い線。
でも、木の枝みたいに伸びている。
文字は、なかった。
触ろうとしたわけじゃない。
ただ、見ただけ。
なのに、次の瞬間には消えていた。
心臓が、どくんと鳴る。
なんだったのか、分からない。
分からないけど、嫌なものだった。
村長の声がする。
「出発は、明日の朝だ」
母さんの手が、離れた。
その冷たさで、やっと分かった。
――本当に、行くんだ。
家に帰ると、母さんは黙ったまま荷物を出していた。
布袋。
着替え。
乾いたパン。
いつもなら、僕が手伝うと「あとでいいよ」と言うのに、今日は何も言わなかった。
それが、余計に怖かった。
「王都って、どんなとこ?」
聞くと、母さんは少し困った顔をした。
「……人が、たくさんいるところ」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど……ユウには、それでいい」
答えになっていない。
でも、それ以上聞けなかった。
袋の中に、見慣れた布が入れられる。
僕が小さいころから使っている、古いハンカチだ。
「それ、いる?」
「うん」
母さんは、強く言った。
「絶対に、なくさないで」
どうしてそんなことを言うのか、分からない。
でも、胸の奥がぎゅっとなった。
外に出ると、近所の人が立っていた。
いつもなら声をかけてくれるのに、今日は少し離れた場所から見ているだけだ。
誰も近づかない。
誰も笑わない。
僕は、何か悪いことをしたんだろうか。
そう思った。
でも、違う。
みんなの目は、怒っていない。
困っている目だった。
家の裏で、父さんの使っていた古い木箱を見つけた。
もういない父さんのものだ。
触ると、指に木のささくれが引っかかった。
「痛っ」
小さな血が出る。
その瞬間、また――
視界の端が、黒く揺れた。
あの線だ。
さっきより、少しだけはっきりしている。
でも、まだ遠い。
見ていると、胸がざわざわする。
近づきたい気もするし、逃げたい気もする。
結局、何もしないうちに消えた。
夜。
母さんは、いつもより早く布団を敷いた。
「一人で寝られる?」
「……うん」
本当は、嫌だった。
でも、言ったら困らせる気がした。
布団に入ると、外の音がよく聞こえる。
虫の声。
風の音。
遠くで犬が鳴く声。
いつもと同じなのに、今日は全部が大きく聞こえた。
「母さん」
「なに?」
「……ぼく、ちゃんと帰ってくるよね」
少し、間があった。
「帰ってくる」
そう言って、母さんは僕の頭を撫でた。
その手は、少し震えていた。
目を閉じる。
でも、眠れない。
王都のことは分からない。
黒い線のことも、分からない。
分からないことばかりで、胸が苦しい。
布団の中で、ハンカチを握りしめた。
なくしちゃいけない。
理由は分からないけど、そう思った。
外で、誰かの足音がした。
村長だ。
母さんと、何か話している。
声は低くて、聞き取れない。
でも、一つだけ聞こえた。
「……あの子は、もう――」
その先は、聞こえなかった。
それが、頭から離れないまま、
いつの間にか眠っていた。
朝は、まだ暗かった。
空は青くなる前で、村の道はしんとしている。
土の匂いが、夜のまま残っていた。
家の前に、馬車が止まっている。
大きくて、古くて、きしむ音がする。
それを見ただけで、胸が重くなった。
母さんは、僕の服を直してくれた。
何度も、何度も。
「もういいよ」
そう言うと、母さんは一度だけ頷いた。
村の人が、少しずつ集まってくる。
昨日と同じ人たちなのに、今日は顔が違う。
目が合うと、すぐに逸らされる。
手を振ってくれる人はいない。
村長が来た。
「準備はいいか」
僕は、頷いた。
声を出したら、泣いてしまいそうだった。
護衛の人もいた。
背が高くて、剣を持っている。
顔に傷があって、笑わない。
でも、馬車の周りをちゃんと見ていた。
その人がいると、少しだけ安心した。
母さんが、しゃがんで僕の目を見た。
「ユウ」
「……なに?」
「王都で、変なことがあったら、ちゃんと周りの大人を見るの。すぐ一人で動かないで」
よく分からない。
でも、何度も言われた。
母さんの声が、少しだけかすれている。
「それと――」
言いかけて、止まった。
その代わり、僕を強く抱きしめた。
息が、少し苦しい。
「母さん……」
「大丈夫」
自分に言っているみたいな声だった。
馬車に乗る。
高い。
足が、うまく届かない。
護衛の人が、黙って手を貸してくれた。
座ると、木の板が冷たい。
布袋を抱えた。
馬が動く。
がたん、と音がして、村が揺れた。
ゆっくり、家が遠ざかる。
畑が小さくなる。
木が並んでいく。
母さんが、まだ立っている。
手を振っている。
僕も振ろうとしたけど、手が動かなかった。
代わりに、ぎゅっとハンカチを握った。
そのとき――
また、黒いものが見えた。
馬車の外。
村のはずれ。
木と木の間に、細い黒い線。
昨日より、長い。
目を凝らすと、胸がざわざわする。
近づいちゃだめ。
でも、見てしまう。
触れようとしたわけじゃない。
ただ、見ただけ。
なのに、頭の奥が、じんとした。
「……いたい」
小さく言ったら、村長が振り返った。
「どうした?」
「なんでもない」
本当だ。
痛いほどじゃない。
でも、嫌な感じが残る。
黒い線は、いつの間にか見えなくなっていた。
森に入る。
光が減って、馬車の中が暗くなる。
葉っぱの匂い。
土の湿った匂い。
村の音が、聞こえなくなった。
戻れない気がした。
理由は分からない。
ただ、そう思った。
馬車は、前に進み続ける。
僕は、後ろを振り返らなかった。
森の中は、静かだった。
馬の足音と、車輪の音だけが続く。
鳥の声も、さっきより少ない。
木が多くて、空が細く見える。
日が当たらないせいか、少し寒かった。
僕は、膝の上に布袋を置いて、じっと前を見ていた。
揺れるたびに、袋の中で物がぶつかる音がする。
村長は、外を見ている。
何も言わない。
護衛の人は、ずっと周りを見ていた。
首を動かして、森の奥を確かめている。
急に、馬車が止まった。
がくん、と体が前に倒れる。
「……どうした」
村長が言う。
護衛の人が、馬の前に立った。
「静かすぎる」
僕には、よく分からない。
でも、その人の声が、いつもより低い。
森を見た。
そのとき――
また、黒い線が見えた。
今度は、一本じゃない。
細い線が、いくつか。
木の間。
地面の近く。
少しずつ、動いている。
胸が、どきどきした。
見ちゃだめな気がする。
でも、目が離れない。
触れようとは思っていない。
ただ、そこにある。
すると、頭の奥が、ぎゅっとした。
さっきより、はっきりした痛み。
「……いたい」
声が、震えた。
「ユウ?」
村長が、すぐに振り返る。
僕は、首を振った。
「だいじょうぶ」
本当は、だいじょうぶじゃない。
でも、何が起きているのか、言えない。
護衛の人が、剣に手をかけた。
「何もいない」
そう言ったけど、まだ周りを見ている。
黒い線は、森の奥に引っ込んでいく。
消えるというより、隠れるみたいだった。
頭の痛みも、少しずつ引いた。
馬車が、また動き出す。
そのあとも、森の中で何度か、変な感じがした。
音が遅れて聞こえたり、
匂いが急に強くなったり。
でも、誰も何も言わない。
僕だけが、変な気がしている。
そう思うと、余計に怖くなった。
森を抜けると、道が広くなる。
石が敷かれていて、馬車の音が変わった。
遠くに、何か大きなものが見える。
灰色で、高い。
「あれが、王都だ」
村長が言った。
胸が、きゅっとなる。
黒い線は、もう見えなかった。
でも、さっきよりも近くにある気がした。
理由は分からない。
分からないけど、逃げたくなった。
僕は、膝を抱えた。
王都は、まだ遠い。
でも、戻る道は、もう見えなかった。
道が、どんどん広くなっていく。
石の上を進む音が、はっきりと耳に残った。
がたがた、という揺れも、さっきより少ない。
森の匂いが、薄れていく。
代わりに、知らない匂いが混ざってきた。
あつい油の匂い。
甘い、焦げた匂い。
それから、ちょっと鼻がつんとする匂い。
村には、なかった。
遠くから、音が聞こえる。
人の声。
何かを叩く音。
馬の鳴き声。
それが全部、重なっている。
うるさい、というより――
多すぎる。
胸が、落ち着かなくなった。
馬車の外を見ると、道の両側に人が増えていた。
知らない服。
知らない色。
青い服の人が歩くと、周りの人が少しだけ避ける。
何も言わない。
ぶつかりそうでも、避ける。
どうしてか、分からない。
でも、みんな同じ動きをする。
それが、気持ち悪かった。
「……人が多いな」
村長が言った。
声が、少しだけ固い。
馬車が、門の前で止まった。
大きな門だ。
石でできていて、近くで見ると高すぎて、上が見えない。
門の前に、兵士が立っている。
銀色の服。
固い顔。
護衛の人が、何か話す。
村長も、紙を見せる。
僕は、馬車の中で、じっとしていた。
そのとき――
また、黒い線が見えた。
今度は、遠くじゃない。
門の内側。
石の向こう。
一本じゃない。
たくさん。
絡まって、動かない。
見ているだけで、胸が苦しくなる。
触っていない。
近づいてもいない。
それなのに、頭の奥が、じわっと痛んだ。
「……」
声が出ない。
息を吸うと、さっきの匂いが、もっと強くなった。
油と、鉄と、何か甘いもの。
門が、開く。
ぎい、という音がして、光が広がる。
中に入った瞬間、
空気が変わった。
足元の石が、冷たい。
音が、跳ね返ってくる。
人の声が、近い。
馬車が、ゆっくり進む。
黒い線は、もう見えなかった。
でも、消えた感じはしない。
ただ、中に入っただけ。
僕は、無意識に布袋を抱きしめた。
帰りたい、と思った。
理由はない。
でも、はっきりそう思った。
王都は、まだ何もしていない。
それなのに、もう――
ここに長くいてはいけない気がした。
宿は、石でできた建物だった。
外から見ると大きいのに、中は暗い。
昼なのに、灯りが必要だった。
中に入ると、音が変わる。
外の声が、急に遠くなる。
床は固くて、冷たい。
歩くたびに、靴の音が響いた。
宿の人が、何か言っている。
早口で、よく分からない。
村長が話して、鍵を受け取る。
金属の音が、じゃらっと鳴った。
階段を上る。
一段一段が高くて、足が疲れる。
部屋に入ると、窓が小さかった。
外は見えるけど、空はほとんど見えない。
ベッドが二つ。
机が一つ。
椅子が二つ。
全部、知らない匂いがした。
古い布と、石と、人の匂い。
誰かが、前にここにいた感じがする。
僕は、ベッドに座った。
きし、と音がする。
布袋を置く。
その横に、ハンカチを出した。
それだけで、少し落ち着いた。
「外には、出るな」
村長が言った。
「夜もだ。必ず、ここにいろ」
理由は言わない。
でも、声が強い。
護衛の人が、窓を一度だけ開けて、すぐ閉めた。
「人が多すぎる」
それだけ言った。
二人が部屋を出る。
鍵がかかる音がした。
がちゃん。
音が、やけに大きく聞こえた。
一人になった。
外の声は、壁の向こうで動いている。
笑い声。
怒った声。
何かが割れる音。
全部、知らない。
胸が、そわそわする。
そのとき――
背中が、ぞくっとした。
誰もいないはずなのに、
見られている気がする。
振り返る。
何もない。
もう一度、周りを見る。
ベッド。
机。
壁。
でも、変な感じは消えない。
視界の端が、少しだけ暗くなった。
黒い線。
今度は、はっきり見えた。
床の下。
壁の向こう。
動かない。
でも、そこにある。
触ろうとしたわけじゃない。
ただ、気づいただけ。
頭の奥が、きゅっとした。
「……やだ」
小さく言った。
声が、部屋に残る。
黒い線は、消えなかった。
でも、これ以上近づいてこない。
まるで――
見ているだけ。
僕は、ベッドの端に座って、膝を抱えた。
帰りたい。
母さんに会いたい。
王都に来たばかりなのに、
もう、長くいた気がする。
外で、鐘の音が鳴った。
何回鳴ったか、分からない。
ただ、思った。
――ここは、村と同じじゃない。
黒い線があるとか、ないとかじゃない。
ここでは、子どもでも、守られない。
理由は分からない。
でも、体がそう言っていた。
僕は、ハンカチを強く握った。
なくしちゃいけない。
ここでは、特に。
ドアの向こうで、誰かが歩く音がした。
止まった。
そして――
ドアの前で、音が消えた。
そのまま、何も起きなかった。
でも、
それがいちばん、怖かった。
鳥の声はしているのに、外が変だった。
誰かに見られている気がして、胸のあたりが少しだけ苦しくなる。
母さんは、いつもより早く起きていた。
鍋から、野菜を煮た匂いがする。焦げてはいない。でも、少しだけ強い匂いだった。
「ユウ、着替えて」
声は優しい。でも、いつもより短い。
僕は服を着ながら、聞いた。
「今日、なにかあるの?」
母さんは一瞬だけ止まった。
鍋をかき混ぜる手が、ほんの少しだけ遅くなる。
「……大事な話があるの」
それだけだった。
外に出ると、村の人が集会所の前に集まっていた。
朝なのに、誰も笑っていない。
大人たちの声は低くて、子どもは一人もいない。
――変だ。
胸の奥で、嫌な感じが広がる。
村長が立っていた。
僕を見ると、すぐに目を逸らした。
それで、分かった。
僕の話だ。
集会所の中は、木の匂いが強かった。
人が多いせいで、空気が重い。
村長が話し始める。
「王都から、使いが来た」
その言葉で、何人かが息を飲んだ。
「血の登録を、更新するそうだ。代表を一人、王都へ送れと言っている」
誰かが小さく「まさか……」と言った。
村長は、僕を見た。
今度は、目を逸らさなかった。
「ユウ、お前に行ってもらう」
頭の中が、真っ白になった。
「……ぼく?」
声が、思ったより小さかった。
母さんの手が、僕の肩に置かれる。
少し震えている。
「王都だぞ? 子どもだ」
誰かが言った。
でも、村長は首を振った。
「この子しかいない」
理由は、言わなかった。
でも、みんな分かっていた。
僕も、分かっていた。
最近、大人たちの目が変わっていた。
僕を見るとき、名前を呼ばないことが増えた。
ユウ、じゃない。
判断するものを見る目だ。
胸が、きゅっと縮む。
王都がどんな場所か、よく知らない。
でも、遠いことだけは知っている。
「……いやだ」
そう言うと、集会所が静かになった。
母さんの手が、強くなる。
「ユウ」
名前を呼ばれた。
それだけで、言葉が続かなかった。
頭の奥が、ちくりと痛んだ。
その瞬間――
視界の端に、黒いものが見えた。
細い線。
でも、木の枝みたいに伸びている。
文字は、なかった。
触ろうとしたわけじゃない。
ただ、見ただけ。
なのに、次の瞬間には消えていた。
心臓が、どくんと鳴る。
なんだったのか、分からない。
分からないけど、嫌なものだった。
村長の声がする。
「出発は、明日の朝だ」
母さんの手が、離れた。
その冷たさで、やっと分かった。
――本当に、行くんだ。
家に帰ると、母さんは黙ったまま荷物を出していた。
布袋。
着替え。
乾いたパン。
いつもなら、僕が手伝うと「あとでいいよ」と言うのに、今日は何も言わなかった。
それが、余計に怖かった。
「王都って、どんなとこ?」
聞くと、母さんは少し困った顔をした。
「……人が、たくさんいるところ」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど……ユウには、それでいい」
答えになっていない。
でも、それ以上聞けなかった。
袋の中に、見慣れた布が入れられる。
僕が小さいころから使っている、古いハンカチだ。
「それ、いる?」
「うん」
母さんは、強く言った。
「絶対に、なくさないで」
どうしてそんなことを言うのか、分からない。
でも、胸の奥がぎゅっとなった。
外に出ると、近所の人が立っていた。
いつもなら声をかけてくれるのに、今日は少し離れた場所から見ているだけだ。
誰も近づかない。
誰も笑わない。
僕は、何か悪いことをしたんだろうか。
そう思った。
でも、違う。
みんなの目は、怒っていない。
困っている目だった。
家の裏で、父さんの使っていた古い木箱を見つけた。
もういない父さんのものだ。
触ると、指に木のささくれが引っかかった。
「痛っ」
小さな血が出る。
その瞬間、また――
視界の端が、黒く揺れた。
あの線だ。
さっきより、少しだけはっきりしている。
でも、まだ遠い。
見ていると、胸がざわざわする。
近づきたい気もするし、逃げたい気もする。
結局、何もしないうちに消えた。
夜。
母さんは、いつもより早く布団を敷いた。
「一人で寝られる?」
「……うん」
本当は、嫌だった。
でも、言ったら困らせる気がした。
布団に入ると、外の音がよく聞こえる。
虫の声。
風の音。
遠くで犬が鳴く声。
いつもと同じなのに、今日は全部が大きく聞こえた。
「母さん」
「なに?」
「……ぼく、ちゃんと帰ってくるよね」
少し、間があった。
「帰ってくる」
そう言って、母さんは僕の頭を撫でた。
その手は、少し震えていた。
目を閉じる。
でも、眠れない。
王都のことは分からない。
黒い線のことも、分からない。
分からないことばかりで、胸が苦しい。
布団の中で、ハンカチを握りしめた。
なくしちゃいけない。
理由は分からないけど、そう思った。
外で、誰かの足音がした。
村長だ。
母さんと、何か話している。
声は低くて、聞き取れない。
でも、一つだけ聞こえた。
「……あの子は、もう――」
その先は、聞こえなかった。
それが、頭から離れないまま、
いつの間にか眠っていた。
朝は、まだ暗かった。
空は青くなる前で、村の道はしんとしている。
土の匂いが、夜のまま残っていた。
家の前に、馬車が止まっている。
大きくて、古くて、きしむ音がする。
それを見ただけで、胸が重くなった。
母さんは、僕の服を直してくれた。
何度も、何度も。
「もういいよ」
そう言うと、母さんは一度だけ頷いた。
村の人が、少しずつ集まってくる。
昨日と同じ人たちなのに、今日は顔が違う。
目が合うと、すぐに逸らされる。
手を振ってくれる人はいない。
村長が来た。
「準備はいいか」
僕は、頷いた。
声を出したら、泣いてしまいそうだった。
護衛の人もいた。
背が高くて、剣を持っている。
顔に傷があって、笑わない。
でも、馬車の周りをちゃんと見ていた。
その人がいると、少しだけ安心した。
母さんが、しゃがんで僕の目を見た。
「ユウ」
「……なに?」
「王都で、変なことがあったら、ちゃんと周りの大人を見るの。すぐ一人で動かないで」
よく分からない。
でも、何度も言われた。
母さんの声が、少しだけかすれている。
「それと――」
言いかけて、止まった。
その代わり、僕を強く抱きしめた。
息が、少し苦しい。
「母さん……」
「大丈夫」
自分に言っているみたいな声だった。
馬車に乗る。
高い。
足が、うまく届かない。
護衛の人が、黙って手を貸してくれた。
座ると、木の板が冷たい。
布袋を抱えた。
馬が動く。
がたん、と音がして、村が揺れた。
ゆっくり、家が遠ざかる。
畑が小さくなる。
木が並んでいく。
母さんが、まだ立っている。
手を振っている。
僕も振ろうとしたけど、手が動かなかった。
代わりに、ぎゅっとハンカチを握った。
そのとき――
また、黒いものが見えた。
馬車の外。
村のはずれ。
木と木の間に、細い黒い線。
昨日より、長い。
目を凝らすと、胸がざわざわする。
近づいちゃだめ。
でも、見てしまう。
触れようとしたわけじゃない。
ただ、見ただけ。
なのに、頭の奥が、じんとした。
「……いたい」
小さく言ったら、村長が振り返った。
「どうした?」
「なんでもない」
本当だ。
痛いほどじゃない。
でも、嫌な感じが残る。
黒い線は、いつの間にか見えなくなっていた。
森に入る。
光が減って、馬車の中が暗くなる。
葉っぱの匂い。
土の湿った匂い。
村の音が、聞こえなくなった。
戻れない気がした。
理由は分からない。
ただ、そう思った。
馬車は、前に進み続ける。
僕は、後ろを振り返らなかった。
森の中は、静かだった。
馬の足音と、車輪の音だけが続く。
鳥の声も、さっきより少ない。
木が多くて、空が細く見える。
日が当たらないせいか、少し寒かった。
僕は、膝の上に布袋を置いて、じっと前を見ていた。
揺れるたびに、袋の中で物がぶつかる音がする。
村長は、外を見ている。
何も言わない。
護衛の人は、ずっと周りを見ていた。
首を動かして、森の奥を確かめている。
急に、馬車が止まった。
がくん、と体が前に倒れる。
「……どうした」
村長が言う。
護衛の人が、馬の前に立った。
「静かすぎる」
僕には、よく分からない。
でも、その人の声が、いつもより低い。
森を見た。
そのとき――
また、黒い線が見えた。
今度は、一本じゃない。
細い線が、いくつか。
木の間。
地面の近く。
少しずつ、動いている。
胸が、どきどきした。
見ちゃだめな気がする。
でも、目が離れない。
触れようとは思っていない。
ただ、そこにある。
すると、頭の奥が、ぎゅっとした。
さっきより、はっきりした痛み。
「……いたい」
声が、震えた。
「ユウ?」
村長が、すぐに振り返る。
僕は、首を振った。
「だいじょうぶ」
本当は、だいじょうぶじゃない。
でも、何が起きているのか、言えない。
護衛の人が、剣に手をかけた。
「何もいない」
そう言ったけど、まだ周りを見ている。
黒い線は、森の奥に引っ込んでいく。
消えるというより、隠れるみたいだった。
頭の痛みも、少しずつ引いた。
馬車が、また動き出す。
そのあとも、森の中で何度か、変な感じがした。
音が遅れて聞こえたり、
匂いが急に強くなったり。
でも、誰も何も言わない。
僕だけが、変な気がしている。
そう思うと、余計に怖くなった。
森を抜けると、道が広くなる。
石が敷かれていて、馬車の音が変わった。
遠くに、何か大きなものが見える。
灰色で、高い。
「あれが、王都だ」
村長が言った。
胸が、きゅっとなる。
黒い線は、もう見えなかった。
でも、さっきよりも近くにある気がした。
理由は分からない。
分からないけど、逃げたくなった。
僕は、膝を抱えた。
王都は、まだ遠い。
でも、戻る道は、もう見えなかった。
道が、どんどん広くなっていく。
石の上を進む音が、はっきりと耳に残った。
がたがた、という揺れも、さっきより少ない。
森の匂いが、薄れていく。
代わりに、知らない匂いが混ざってきた。
あつい油の匂い。
甘い、焦げた匂い。
それから、ちょっと鼻がつんとする匂い。
村には、なかった。
遠くから、音が聞こえる。
人の声。
何かを叩く音。
馬の鳴き声。
それが全部、重なっている。
うるさい、というより――
多すぎる。
胸が、落ち着かなくなった。
馬車の外を見ると、道の両側に人が増えていた。
知らない服。
知らない色。
青い服の人が歩くと、周りの人が少しだけ避ける。
何も言わない。
ぶつかりそうでも、避ける。
どうしてか、分からない。
でも、みんな同じ動きをする。
それが、気持ち悪かった。
「……人が多いな」
村長が言った。
声が、少しだけ固い。
馬車が、門の前で止まった。
大きな門だ。
石でできていて、近くで見ると高すぎて、上が見えない。
門の前に、兵士が立っている。
銀色の服。
固い顔。
護衛の人が、何か話す。
村長も、紙を見せる。
僕は、馬車の中で、じっとしていた。
そのとき――
また、黒い線が見えた。
今度は、遠くじゃない。
門の内側。
石の向こう。
一本じゃない。
たくさん。
絡まって、動かない。
見ているだけで、胸が苦しくなる。
触っていない。
近づいてもいない。
それなのに、頭の奥が、じわっと痛んだ。
「……」
声が出ない。
息を吸うと、さっきの匂いが、もっと強くなった。
油と、鉄と、何か甘いもの。
門が、開く。
ぎい、という音がして、光が広がる。
中に入った瞬間、
空気が変わった。
足元の石が、冷たい。
音が、跳ね返ってくる。
人の声が、近い。
馬車が、ゆっくり進む。
黒い線は、もう見えなかった。
でも、消えた感じはしない。
ただ、中に入っただけ。
僕は、無意識に布袋を抱きしめた。
帰りたい、と思った。
理由はない。
でも、はっきりそう思った。
王都は、まだ何もしていない。
それなのに、もう――
ここに長くいてはいけない気がした。
宿は、石でできた建物だった。
外から見ると大きいのに、中は暗い。
昼なのに、灯りが必要だった。
中に入ると、音が変わる。
外の声が、急に遠くなる。
床は固くて、冷たい。
歩くたびに、靴の音が響いた。
宿の人が、何か言っている。
早口で、よく分からない。
村長が話して、鍵を受け取る。
金属の音が、じゃらっと鳴った。
階段を上る。
一段一段が高くて、足が疲れる。
部屋に入ると、窓が小さかった。
外は見えるけど、空はほとんど見えない。
ベッドが二つ。
机が一つ。
椅子が二つ。
全部、知らない匂いがした。
古い布と、石と、人の匂い。
誰かが、前にここにいた感じがする。
僕は、ベッドに座った。
きし、と音がする。
布袋を置く。
その横に、ハンカチを出した。
それだけで、少し落ち着いた。
「外には、出るな」
村長が言った。
「夜もだ。必ず、ここにいろ」
理由は言わない。
でも、声が強い。
護衛の人が、窓を一度だけ開けて、すぐ閉めた。
「人が多すぎる」
それだけ言った。
二人が部屋を出る。
鍵がかかる音がした。
がちゃん。
音が、やけに大きく聞こえた。
一人になった。
外の声は、壁の向こうで動いている。
笑い声。
怒った声。
何かが割れる音。
全部、知らない。
胸が、そわそわする。
そのとき――
背中が、ぞくっとした。
誰もいないはずなのに、
見られている気がする。
振り返る。
何もない。
もう一度、周りを見る。
ベッド。
机。
壁。
でも、変な感じは消えない。
視界の端が、少しだけ暗くなった。
黒い線。
今度は、はっきり見えた。
床の下。
壁の向こう。
動かない。
でも、そこにある。
触ろうとしたわけじゃない。
ただ、気づいただけ。
頭の奥が、きゅっとした。
「……やだ」
小さく言った。
声が、部屋に残る。
黒い線は、消えなかった。
でも、これ以上近づいてこない。
まるで――
見ているだけ。
僕は、ベッドの端に座って、膝を抱えた。
帰りたい。
母さんに会いたい。
王都に来たばかりなのに、
もう、長くいた気がする。
外で、鐘の音が鳴った。
何回鳴ったか、分からない。
ただ、思った。
――ここは、村と同じじゃない。
黒い線があるとか、ないとかじゃない。
ここでは、子どもでも、守られない。
理由は分からない。
でも、体がそう言っていた。
僕は、ハンカチを強く握った。
なくしちゃいけない。
ここでは、特に。
ドアの向こうで、誰かが歩く音がした。
止まった。
そして――
ドアの前で、音が消えた。
そのまま、何も起きなかった。
でも、
それがいちばん、怖かった。
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