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Episode3:You are my special
3-14 ちなみにたけのこ派だけどきのこも捨てがたい【累視点】
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僕の名は大崎累。
僕には、血の繋がらない祖父がいた。
母方の祖母が最初の夫を早くに亡くしたので、その後に再婚した相手だ。再婚自体僕が生まれるずっと前の話なので、僕にとっては生まれた時からその人がずっと祖父だった。
彼は、少年時代の僕にとって唯一信頼できる大人だった。
口数こそ少ないけれどとても優しい人で、母からの異常な束縛に苦しむ僕の状態に気付き、相談相手になり、時には逃げ場を作ってくれた。
婿養子で、母にとっても実の父ではないということもあり、家庭内での祖父の立場はあまり強くなかった。それでも穏やかに母を諭したり、時には機転を利かせて気をそらしたり、間に立って場を収めてくれたりした。
決して気の強い人ではなかった。なのに、祖父がいるだけで空気が落ち着く。
そんな不思議な存在感を放つ人だった。
僕の人格の善良な部分は、彼によって形成されたと言っても過言ではないと思う。
けれどその祖父も、僕が10歳を迎える頃に病でこの世を去り、僕はひとりになった。
◇
それから10数年、母の死や地方都市での暮らしなどの紆余曲折を経て、今僕は生まれ故郷の東京へと戻ることにした。亡くなった母の弟――叔父に当たる人の伝手で、お見合い結婚をするためだ。
妻になる女性と初めて顔を合わせたのは、母の葬儀の日だったらしい。
聡子さんというその人は、叔父が祖父から継いだ問屋の筆頭顧客、その社長令嬢なのだとか。その縁で母の弔問に父親とともに来ていたようだ。
「らしい」とか「ようだ」とかいうのは、僕はその時のことを覚えていないから。その日、母から解き放たれてどんな感情でいればいいのか分からなかった僕を聡子さんが見初めたのだと、四十九日が終わった頃にそう聞いた。
「先方からのたっての希望だ。聡子さんをお前の嫁として迎え入れてくれるのならば、我が社との永続的な取引を約束すると取り付けた」
聡子さんは跡取り娘というわけではない。先方の会社は、彼女のお兄さんが跡継ぎに決まっているらしい。叔父の会社も叔父の息子――つまり僕の従兄弟がのちのち継ぐことになっている。だから僕らは、ただ取引の道具にされるというだけのこと。
この縁談を、僕は当初、適当な言い訳をつけて断った。母が亡くなって間もないのでまだ考えられないと。その言い訳を盾に、一時東京から離れることにも成功したわけだ。
実際、この時期にこんな話を持ち出す叔父にも先方にも虫唾が走ったのも本音だ。地方へ逃れてそこで才造さんと出会い、莉子ちゃんと再会し、幸福な時を過ごしながら、あわよくばこのままあの一族と縁を切れたら――そんなことを考えた。
が、現実はそう甘くもなく、僕が地方に出た後も、叔父はたびたび連絡を寄越して返答を迫ってきた。そのことは才造さんと莉子ちゃんには一切話していない。二人には知られたくなかった。
母の一周忌で一時帰郷し、再び聡子さんと顔を合わせた。その時のことは記憶にある。
和装が似合う儚げな美人で、周囲の注目を集めていた。一見穏やかで、男の三歩後ろを歩くような雰囲気。
――でも僕は、彼女から母と同じ匂いを感じた。
「累さん……まだお母様を失った悲しみから抜けられないのね。お気持ち、お察ししますわ。私が片時も離れず、寄り添って包み込んで差し上げたいわ」
そう訴える彼女の目は、まるで蛇のようだった。まとわりつくような視線にゾゾッとして、背中に冷たい汗が流れた。
叔父から詳しく話を聞くと、さらに僕の直感を裏付けるような情報と、反吐が出る理屈が飛び出した。
「どうも先方のお嬢さんは情緒の安定しないところがあるらしい。これまでにも何度か縁談があったが、すべて破断になったのだとか。今回の件はお嬢さんご本人がお前を指名したこともあるが、父親――先方の社長がお嬢さんの行く末を案じ、ノイローゼの母親を看取った経験のあるお前にと白羽の矢を立てた」
「それは――僕にまた母の時と同じ思いをしろと、そういうことでしょうか」
「よく考えろ、累。お前は結局、母親を救うことができなかっただろう。姉を死に追いやった要因が、お前に全くなかったと言い切れるか? お前自身の中でも、多少なりとも罪悪感があるんじゃないのか? 聡子さんを救うことで、せめてもの贖罪になるのではないか? 母親にしてやれなかったことを、聡子さんにしてやるといい」
何を言っているのか、この人は。
「姉を精神異常者扱いする気か」と言って、母がどうしようもない状態になるまで受診させることを阻んでいたくせに。晩年の母の病状と、歯を食いしばってそれに向き合う僕の姿も見ていたはずだ。
その上でなおそんなことを押し付けようとする叔父を、僕はもはや人間とは思えなかった。
また返答を先延ばしにして、僕は莉子ちゃんと才造さんの元へ逃げ帰った。非常に二人が恋しかった。
そんなことがあったから僕は極力里帰りをせず、仕事の多忙を理由に叔父からの連絡もできる限りかわしていた。
だが、母の三回忌を前に、それも無視できない状況になっていた。
『頼む、累。縁談を受けてくれないか。我が社の経営が厳しい。聡子さんの家の会社との取引が打ち切られると、何千という従業員が路頭に迷う……すべてお前にかかっているんだ』
叔父は一流大学を出て、周囲の期待を一身に受けて祖父の跡を継いだ。だが経営に大切な何かが欠けていたらしく、彼の代になって途端に顧客離れが進んだ。自分の感情で物事を決めるくせ、人の感情には無関心なせいだと僕は踏んでいた。
でも、数多くの罪のない従業員たちの顔が浮かんだ。いや、その大多数を僕は知らないが、彼らにもそれぞれ守るべき家庭があり、生活がある。
そして――何より、祖父のことが頭に浮かんだ。
祖父は祖母の後夫として、一時この会社を切り盛りしていた。先代の社長に恩があったらしく、会社を大事に思い、死の直前までその行く末を案じていた。
彼の大切な居場所だった会社を、できることなら守ってやりたかった。
『とにかくもう一度、聡子さんと会ってみてくれ。この通りだ』
母の臨終間際の言葉が蘇る。
『あなたには私と同じ血が流れている。死ぬまで私の子よ――』
死の直前、母は血走った目でそう言い残し、息を引き取った。
それを思い出し、また母の夢を見た。その時、母は僕を襲うでも追いかけるでもなく、ただ泣いていた。悲しそうに、寂しそうに。
泣き落としに屈するなんて(しかも死んだ人間の)不本意ではあったけれど、母を――自分の血を切り捨てることが、僕にはどうしてもできなかった。
もし祖父が生きてくれていたら、こんなことにはならなかったのに――
三回忌で帰郷した折に正式に聡子さんとのお見合いの場を設けてもらい、その日のうちにある程度の話をまとめた。
僕は終始笑顔を貼り付けていたものの、きっと目が完全に死んでいたと思う。なのに先方の親子も叔父も、そんな僕の様子には気を留めず、それはそれは晴れやかな顔をしていた。
「累さん、とうとう夫婦になれるのね。私、毎日必ず美味しい手料理と綺麗なお部屋であなたをお出迎えしますわ。温かい家庭を作りましょうね。お仕事が終わったら、まっすぐ帰っていらしてね。お休みの日も必ず一緒よ」
機嫌がいい時の母と似たようなことを言う人だった。顔や声まで母に似ているような気がした。僕は生返事で頷いた。
◇
そして今――
地方都市での仕事を退職し、部屋を引き払い、すべてを綺麗に精算した。莉子ちゃん、才造さんとの関係もすべて。
飛行機に乗る直前、二人の声が聞こえた気がしたけれど、きっと幻だったんだと思うことにした。
だって、あの二人は僕とは違って、ちゃんとした人たちだもの。まともな家庭に生まれ、まともな両親の元で育ち、まともな恋愛をしてまともに結婚する二人だから、僕はそこに必要ない。かえって邪魔になる。
これ以上推しカプの邪魔をするわけに行かないから、僕はひっそりと姿を消すことにした。これでいい。
東京へ戻り、上機嫌な叔父に出迎えられて、その足ですぐ聡子さんに会うことになっていた。そこで正式に婚約を交わし、結婚に向けての話が進められるはずだ。
――結婚は人生の墓場。
そんな言葉がよぎった。僕の場合、人生の大半が墓場みたいなものだったけれど。
都心の高級ホテルのレストランで席を設け、僕と叔父、先方からはご本人とご両親が集まり会食していた。
「……今、全社を上げた一大プロジェクトが進行中でね。生産地から原材料、製造ラインから販売まですべてにこだわった新商品が間もなく誕生する。我が社も久しく大ヒット商品に恵まれなかったんだがね、今回の件は社員たちにとっても命運をかけた大勝負で……」
「試作品を頂きましたが、いや、これは間違いありませんな。弊社も多少なりともお力添えさせて頂いていることがもう……誇らしくて、大変光栄です」
「ふむ。引き続き頼むよ」
尊大な態度で振る舞う先方の父親と、それに媚びへつらう叔父。
悪代官と越後屋かっ! 莉子ちゃんならそんなツッコミを入れそうだ。
でもここに彼女はいない。いるのは、和装で着飾りはんなりとした話し方をする聡子さんという女性。
「もうっ、お父様ったら。こんな日にお仕事の話をしなくったっていいじゃないの。せっかく累さんが戻っていらっしゃったのに」
「そうだったな、すまない。累くん、娘のこと、くれぐれも末永くよろしく頼むよ」
「はい……」
「累、あれをお渡ししたらどうだ」
叔父に促され、僕はジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出した。それをパカッと開き、聡子さんの方へ向けて差し出した。
中身は、何10カラットかは忘れたけれど、そこそこ値の張るダイヤのエンゲージリング。「援助するのでいいものを選べ」と、叔父の見栄で用意したものだ。
それを前にした彼女は、両手で自分の頬を包んでうっとりした表情を浮かべた。両脇の両親もホッとしたように顔をほころばせる。
「嬉しいわ……ねぇ累さん、つけてくださる?」
左手を僕に向かって差し出し、潤んだ瞳でこちらを見つめている。何の疑問も抱かずに。
――貴女、本当に僕がいいんですか?
そう口をついて出そうだった。
だって、僕のこと何も知らないでしょう。馬鹿みたいに辛いカレーが好きなことも、古い洋楽が好きなことも。きのこ派なのか、たけのこ派なのか、どっちなのかも。どんなタイプが好みかも、どんなプレイが好きかも、どんな思いで母と接していたのかも――
この顔の皮一枚剥げば、きっと貴女が卒倒するような変態趣味がさらけ出されますよ。莉子ちゃんや才造さんとしていたようなことを知れば、どうせドン引きするんでしょう。
でも、それもどうでもいい。
どう足掻いても、僕はやっぱり母の――一族の呪縛から逃れることができない宿命なのだ。
だけど、莉子ちゃんと才造さん、最愛の人たちがこの世に存在するという事実があるだけで僕は救われる。たとえ望まぬ結婚を強いられても、心を押し殺して生きて行ける。
僕はもう一生分の幸福の貯金を二人にもらったから、あとはそれを少しずつ切り崩すだけ。
僕は悪趣味なダイヤのついたリングを箱から取り出し、反対の手で聡子さんの手をそっと取った。
僕には、血の繋がらない祖父がいた。
母方の祖母が最初の夫を早くに亡くしたので、その後に再婚した相手だ。再婚自体僕が生まれるずっと前の話なので、僕にとっては生まれた時からその人がずっと祖父だった。
彼は、少年時代の僕にとって唯一信頼できる大人だった。
口数こそ少ないけれどとても優しい人で、母からの異常な束縛に苦しむ僕の状態に気付き、相談相手になり、時には逃げ場を作ってくれた。
婿養子で、母にとっても実の父ではないということもあり、家庭内での祖父の立場はあまり強くなかった。それでも穏やかに母を諭したり、時には機転を利かせて気をそらしたり、間に立って場を収めてくれたりした。
決して気の強い人ではなかった。なのに、祖父がいるだけで空気が落ち着く。
そんな不思議な存在感を放つ人だった。
僕の人格の善良な部分は、彼によって形成されたと言っても過言ではないと思う。
けれどその祖父も、僕が10歳を迎える頃に病でこの世を去り、僕はひとりになった。
◇
それから10数年、母の死や地方都市での暮らしなどの紆余曲折を経て、今僕は生まれ故郷の東京へと戻ることにした。亡くなった母の弟――叔父に当たる人の伝手で、お見合い結婚をするためだ。
妻になる女性と初めて顔を合わせたのは、母の葬儀の日だったらしい。
聡子さんというその人は、叔父が祖父から継いだ問屋の筆頭顧客、その社長令嬢なのだとか。その縁で母の弔問に父親とともに来ていたようだ。
「らしい」とか「ようだ」とかいうのは、僕はその時のことを覚えていないから。その日、母から解き放たれてどんな感情でいればいいのか分からなかった僕を聡子さんが見初めたのだと、四十九日が終わった頃にそう聞いた。
「先方からのたっての希望だ。聡子さんをお前の嫁として迎え入れてくれるのならば、我が社との永続的な取引を約束すると取り付けた」
聡子さんは跡取り娘というわけではない。先方の会社は、彼女のお兄さんが跡継ぎに決まっているらしい。叔父の会社も叔父の息子――つまり僕の従兄弟がのちのち継ぐことになっている。だから僕らは、ただ取引の道具にされるというだけのこと。
この縁談を、僕は当初、適当な言い訳をつけて断った。母が亡くなって間もないのでまだ考えられないと。その言い訳を盾に、一時東京から離れることにも成功したわけだ。
実際、この時期にこんな話を持ち出す叔父にも先方にも虫唾が走ったのも本音だ。地方へ逃れてそこで才造さんと出会い、莉子ちゃんと再会し、幸福な時を過ごしながら、あわよくばこのままあの一族と縁を切れたら――そんなことを考えた。
が、現実はそう甘くもなく、僕が地方に出た後も、叔父はたびたび連絡を寄越して返答を迫ってきた。そのことは才造さんと莉子ちゃんには一切話していない。二人には知られたくなかった。
母の一周忌で一時帰郷し、再び聡子さんと顔を合わせた。その時のことは記憶にある。
和装が似合う儚げな美人で、周囲の注目を集めていた。一見穏やかで、男の三歩後ろを歩くような雰囲気。
――でも僕は、彼女から母と同じ匂いを感じた。
「累さん……まだお母様を失った悲しみから抜けられないのね。お気持ち、お察ししますわ。私が片時も離れず、寄り添って包み込んで差し上げたいわ」
そう訴える彼女の目は、まるで蛇のようだった。まとわりつくような視線にゾゾッとして、背中に冷たい汗が流れた。
叔父から詳しく話を聞くと、さらに僕の直感を裏付けるような情報と、反吐が出る理屈が飛び出した。
「どうも先方のお嬢さんは情緒の安定しないところがあるらしい。これまでにも何度か縁談があったが、すべて破断になったのだとか。今回の件はお嬢さんご本人がお前を指名したこともあるが、父親――先方の社長がお嬢さんの行く末を案じ、ノイローゼの母親を看取った経験のあるお前にと白羽の矢を立てた」
「それは――僕にまた母の時と同じ思いをしろと、そういうことでしょうか」
「よく考えろ、累。お前は結局、母親を救うことができなかっただろう。姉を死に追いやった要因が、お前に全くなかったと言い切れるか? お前自身の中でも、多少なりとも罪悪感があるんじゃないのか? 聡子さんを救うことで、せめてもの贖罪になるのではないか? 母親にしてやれなかったことを、聡子さんにしてやるといい」
何を言っているのか、この人は。
「姉を精神異常者扱いする気か」と言って、母がどうしようもない状態になるまで受診させることを阻んでいたくせに。晩年の母の病状と、歯を食いしばってそれに向き合う僕の姿も見ていたはずだ。
その上でなおそんなことを押し付けようとする叔父を、僕はもはや人間とは思えなかった。
また返答を先延ばしにして、僕は莉子ちゃんと才造さんの元へ逃げ帰った。非常に二人が恋しかった。
そんなことがあったから僕は極力里帰りをせず、仕事の多忙を理由に叔父からの連絡もできる限りかわしていた。
だが、母の三回忌を前に、それも無視できない状況になっていた。
『頼む、累。縁談を受けてくれないか。我が社の経営が厳しい。聡子さんの家の会社との取引が打ち切られると、何千という従業員が路頭に迷う……すべてお前にかかっているんだ』
叔父は一流大学を出て、周囲の期待を一身に受けて祖父の跡を継いだ。だが経営に大切な何かが欠けていたらしく、彼の代になって途端に顧客離れが進んだ。自分の感情で物事を決めるくせ、人の感情には無関心なせいだと僕は踏んでいた。
でも、数多くの罪のない従業員たちの顔が浮かんだ。いや、その大多数を僕は知らないが、彼らにもそれぞれ守るべき家庭があり、生活がある。
そして――何より、祖父のことが頭に浮かんだ。
祖父は祖母の後夫として、一時この会社を切り盛りしていた。先代の社長に恩があったらしく、会社を大事に思い、死の直前までその行く末を案じていた。
彼の大切な居場所だった会社を、できることなら守ってやりたかった。
『とにかくもう一度、聡子さんと会ってみてくれ。この通りだ』
母の臨終間際の言葉が蘇る。
『あなたには私と同じ血が流れている。死ぬまで私の子よ――』
死の直前、母は血走った目でそう言い残し、息を引き取った。
それを思い出し、また母の夢を見た。その時、母は僕を襲うでも追いかけるでもなく、ただ泣いていた。悲しそうに、寂しそうに。
泣き落としに屈するなんて(しかも死んだ人間の)不本意ではあったけれど、母を――自分の血を切り捨てることが、僕にはどうしてもできなかった。
もし祖父が生きてくれていたら、こんなことにはならなかったのに――
三回忌で帰郷した折に正式に聡子さんとのお見合いの場を設けてもらい、その日のうちにある程度の話をまとめた。
僕は終始笑顔を貼り付けていたものの、きっと目が完全に死んでいたと思う。なのに先方の親子も叔父も、そんな僕の様子には気を留めず、それはそれは晴れやかな顔をしていた。
「累さん、とうとう夫婦になれるのね。私、毎日必ず美味しい手料理と綺麗なお部屋であなたをお出迎えしますわ。温かい家庭を作りましょうね。お仕事が終わったら、まっすぐ帰っていらしてね。お休みの日も必ず一緒よ」
機嫌がいい時の母と似たようなことを言う人だった。顔や声まで母に似ているような気がした。僕は生返事で頷いた。
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そして今――
地方都市での仕事を退職し、部屋を引き払い、すべてを綺麗に精算した。莉子ちゃん、才造さんとの関係もすべて。
飛行機に乗る直前、二人の声が聞こえた気がしたけれど、きっと幻だったんだと思うことにした。
だって、あの二人は僕とは違って、ちゃんとした人たちだもの。まともな家庭に生まれ、まともな両親の元で育ち、まともな恋愛をしてまともに結婚する二人だから、僕はそこに必要ない。かえって邪魔になる。
これ以上推しカプの邪魔をするわけに行かないから、僕はひっそりと姿を消すことにした。これでいい。
東京へ戻り、上機嫌な叔父に出迎えられて、その足ですぐ聡子さんに会うことになっていた。そこで正式に婚約を交わし、結婚に向けての話が進められるはずだ。
――結婚は人生の墓場。
そんな言葉がよぎった。僕の場合、人生の大半が墓場みたいなものだったけれど。
都心の高級ホテルのレストランで席を設け、僕と叔父、先方からはご本人とご両親が集まり会食していた。
「……今、全社を上げた一大プロジェクトが進行中でね。生産地から原材料、製造ラインから販売まですべてにこだわった新商品が間もなく誕生する。我が社も久しく大ヒット商品に恵まれなかったんだがね、今回の件は社員たちにとっても命運をかけた大勝負で……」
「試作品を頂きましたが、いや、これは間違いありませんな。弊社も多少なりともお力添えさせて頂いていることがもう……誇らしくて、大変光栄です」
「ふむ。引き続き頼むよ」
尊大な態度で振る舞う先方の父親と、それに媚びへつらう叔父。
悪代官と越後屋かっ! 莉子ちゃんならそんなツッコミを入れそうだ。
でもここに彼女はいない。いるのは、和装で着飾りはんなりとした話し方をする聡子さんという女性。
「もうっ、お父様ったら。こんな日にお仕事の話をしなくったっていいじゃないの。せっかく累さんが戻っていらっしゃったのに」
「そうだったな、すまない。累くん、娘のこと、くれぐれも末永くよろしく頼むよ」
「はい……」
「累、あれをお渡ししたらどうだ」
叔父に促され、僕はジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出した。それをパカッと開き、聡子さんの方へ向けて差し出した。
中身は、何10カラットかは忘れたけれど、そこそこ値の張るダイヤのエンゲージリング。「援助するのでいいものを選べ」と、叔父の見栄で用意したものだ。
それを前にした彼女は、両手で自分の頬を包んでうっとりした表情を浮かべた。両脇の両親もホッとしたように顔をほころばせる。
「嬉しいわ……ねぇ累さん、つけてくださる?」
左手を僕に向かって差し出し、潤んだ瞳でこちらを見つめている。何の疑問も抱かずに。
――貴女、本当に僕がいいんですか?
そう口をついて出そうだった。
だって、僕のこと何も知らないでしょう。馬鹿みたいに辛いカレーが好きなことも、古い洋楽が好きなことも。きのこ派なのか、たけのこ派なのか、どっちなのかも。どんなタイプが好みかも、どんなプレイが好きかも、どんな思いで母と接していたのかも――
この顔の皮一枚剥げば、きっと貴女が卒倒するような変態趣味がさらけ出されますよ。莉子ちゃんや才造さんとしていたようなことを知れば、どうせドン引きするんでしょう。
でも、それもどうでもいい。
どう足掻いても、僕はやっぱり母の――一族の呪縛から逃れることができない宿命なのだ。
だけど、莉子ちゃんと才造さん、最愛の人たちがこの世に存在するという事実があるだけで僕は救われる。たとえ望まぬ結婚を強いられても、心を押し殺して生きて行ける。
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