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僕たちの歪み
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『痛みに鈍感』
今日、改めて麻浦先輩に言われ、ピンとくるまでの数秒間。
僕の鼓動は高鳴った。
でも気付いてからは、冷静だった気がする。
風霞、小岩、能登、灯理、父さんや母さんに、高島先生。
善悪はともかく、皆、確かな動機があった。
いつしか僕は、それがある意味で眩く見えていたのだと思う。
一方で、僕は変われなかった。
今後も変わり切れる自信もない。
そうである以上、やはり僕はこの言葉とともに生きていかなければならないのだろう。
まるで呪いだ。
だが、そう自覚した瞬間、却って楽になった。
何のための、『鈍感』だったか。
結果として、それが何を生んだか。
言い換えれば、僕はそれに気付くことが怖かったのだ。
しかし、今。
10年前に彼女と交わした約束を思い出し、覚悟が出来た。
そんな僕を前に、彼女はハッとした表情を浮かべたまま、一向に口を開こうとしない。
「……それにしても皮肉な話ですね。痛みだの、歪みだの、散々偉そうに講釈垂れてきた人が、その元凶だったとか。何のブラックジョークですか?」
「……キミはまるで夢と歪みは、同義とでも言いたげだね」
僕が憎まれ口を叩くと、彼女はようやく口を開く。
「違うんですか? 灯理だって、そうだったでしょ? 場合によっては、それが人を縛りつける、生き方を歪ませるんですから。ていうか……、ホタカ先生もさっき自分で言ってたでしょ? 高揚感こそが、歪みの正体だって」
「それは飽くまで私の勝手な推測だよ。言い方を変えれば、ただの私の負け惜しみ。説得力にかけると思わない?」
「随分と盛大に梯子を外しますね。でも、その理屈で言えば、今僕が感じているものも幻覚でしかない。だって僕も知らないんですから」
「……じゃあさ。仮にそれが本物だとしよう。キミはさ。それを思い出せて良かったって思える?」
「さぁ。どうですかね? 捉え方によっちゃ、依存先が風霞から、こちらに移ったってだけですから。一概に良いことだとは思えません」
「そっか……。なんかキミらしいね」
彼女はそう言って、クスリと笑う。
そもそも、思い出したところで特段意味はないどころか、円滑に日常生活を過ごす上で害悪でしかない。
だから日々の痛みが蓄積されていく中で、残す記憶を選別していくのは自然の摂理なのだろう。
それこそ他でもない、正常性バイアスそのものだ。
こうして僅かながらも、お互いの頭の片隅に残っていただけでも、奇跡と言っていいのかもしれない。
「でも、そっかぁ。キミは見つけたんだね」
ホタカ先生は柔和な笑みで、そう言った。
僕は見つけた。
それは彼女が、二十数年間、歪みに翻弄され続けた挙げ句、遂に手に入れられなかったものだ。
都合の良いように使い潰されてきた彼女にとって、それは喉から手が出るほど渇望してきたものだ。
「でもね。キミは間違ってる」
「……何が、ですか?」
僕が恐る恐る聞くと、彼女は再びゆっくりと口を開く。
「あの時、確かにキミ自身は役割を見つけたのかもしれない。でもじゃあどうして、私はココにこうしているの?」
「……何が言いたいんですか?」
「キミはあの時ああ言うことで、あわよくば私を救おうとしてくれていたのかもしれない。でも、じゃあ何で私は未だに救われていないの?」
「無茶苦茶、言わないで下さいよ……」
「でもそうでしょ? 結果として救われていない以上、それはキミがキミを救済するだけの約束、なんじゃないかな?」
「……言いたいことは、分かりますよ。ただ、それでも詭弁に聞こえますね。第一、アナタ。高揚感の正体なんて、知らないって言ってたでしょ。どうしてそんなことが断言出来るんですかね? 何ですか? それとも『抜け駆けは許さない』とでも言いたいんですか?」
「人の気も知らないで酷いなぁ、トーキくんは」
ホタカ先生は溜息を吐き、呆れながらにそう溢す。
「分かってるよ。私が無茶苦茶言ってることくらい……。でもね。あの時、キミの一言で少し楽になれた。それは事実なんだよ? 全部諦めたつもりだった私に、選択肢と可能性を提示してくれたんだから。まぁ、言い方は多少屈折していたかもしれないけどね」
「まぁそこは僕なんで……。大目に見て欲しいですけどね」
僕が言うと、彼女は静かに笑ってみせる。
「だからさ! キミのあの馬鹿らしいくらいに必死な様子、見てたらさ。もう一回だけ、何かを信じてみるのも悪くないかなって、ちょっと思ったんだよね……」
「そう、でしたか……」
「おかしいよね。あの時のキミ、小学生だよ? そんな小さい子にまで縋り付いて、期待して……。そのクセ、勝手に裏切られたと思い込んだら、一方的に逆恨みしてさ。ホント、惨めったらありゃしない。最低だよ……」
ホタカ先生は顔を俯かせ、声を震わせる。
「結局さ。『人を救いたい気持ち』、なんて一方通行なんだよ。刹那的で、利己的で、情動的で。そう思っていく内に、どんどん自己嫌悪に陥っていってさ……。あの時にキミが純粋な気持ちで私にくれたもの、全部信じられなくなった自分自身がたまらなく嫌になったんだ」
彼女に対して運命染みた何かを感じたところで、僕自身が軽はずみな親切心を振りかざしていたことに変わりはないのだろう。
とは言え、それは彼女も……。
「いいかな? トーキくん。キミはまだ若い。キミを蝕んでいた歪みにも気付くことが出来た。小岩くんとはこの先どうしていくのかは知らないけど、少なくとも風霞ちゃんはキミの味方だよ。これから先、いくらでもやり直せる。私みたいに拗らせて、負のスパイラルに落ちたら、ちょっとやそっとじゃ抜けられないよ。だからもう、キミは私なんかに構ってちゃダメだよ。キミはこれから、新しい人生を始めるの」
ホタカ先生はどこか嗜めるように、そう溢した。
立場上とでも言うか、使命感とでも言うか。
彼女なりの美学とやらで、僕を諭しているのだろう。
ただ、そう一方的に言われたところで、僕にも言いたいことのニ、三はあるし、払拭しておきたい疑問もある。
「……ホタカ先生。一つ、聞きたいことがあります」
「……何?」
「アナタは今でも、幸せになんて、なりたくないと思っていますか?」
「……思ってるよ」
「本当、ですか?」
僕がそう問いかけると、彼女は気まずそうに視線を逸らす。
「私……、怖いんだ。トーキくんなら分かってくれるでしょ? 私にとって『幸せ』って、得体の知れない、歪なものなの。もし私がそれに触れたら、スグに壊れちゃいそうで……。だって、扱い方が分からないんだから。そんな両手で掬っても、隙間から零れ落ちちゃいそうなもの、新しい痛みの原因にしかならないと思わない? 私には荷が重すぎるよ……」
婆ちゃんとの一件の後、彼女は同じ質問に対して『そんな曖昧なものは必要ない』と答えた。
それに嘘はない。
ただ、その言葉の背景にあるものが、根本的に違っていた。
彼女は手を伸ばすことを恐れていた。
感じたことがないものへの純粋な恐怖。
そして、それを失うことに対しての漠然とした恐怖。
至上命題とばかりに、『幸せ』を強要する周囲に対しての恐怖。
彼女はそれらに押しつぶされそうだった。
だから今、全てを諦める道を選ぼうとしているのだろう。
「キミは10年前に私とした約束に、何かを見出しているのかもしれない。でもね。これだけは言っておくね。私は……、最後には必ず、キミの足を引っ張る」
彼女はそう言うと、真っ直ぐに僕を見つめてくる。
「……10年前のあの約束が、その場しのぎだったことは認めます。結果的にそれがホタカ先生を余計に苦しめたことも。でも、自分から何かをしたいって思えたことは事実なんです。あの時も、今も……。結局、こんなことになってしまいましたけど、僕がアナタの力になりたいという前提は、今も変わっていません」
僕がそう言った瞬間、彼女は激昂する。
「無責任なこと言わないでっ! じゃあ聞くけど、キミが本気ならさ! 何でもっと早く私を見つけてくれなかったのさっ! どうして今の今まで忘れてたのさっ! 軽はずみに希望を見せないでよっ! キミは、これから何にでもなれるんだよっ!? 今更、そんな私との下らない約束に固執して何になるのさっ!!」
子どもが駄々を捏ねるかのように。何かに縋りつくように。
彼女の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出てくる。
その一つ一つが、僕の心臓を抉ってくるかのようだ。
「面倒臭くてごめん……。分かってる。でも、もう無理なんだ。私はもう、誰にも迷惑を掛けたくない。高島先生に続いて、トーキくんの人生まで台無しにしたくない。だから、全部終わらせるの。ううん、違う。最初から、全部無かったことにするの……」
力なくそう話す彼女を見て、改めて思う。
やはり、高島先生の推測は正しかったのかもしれない。
彼女は今、形式ばった良識・倫理観のようなものと、純粋でおぞましいまでの本心との間で板挟みになっている。
大人への反発と、なってしまった大人としての自分への失望感を昇華出来ずにいる。
彼女にとって、全てを諦めることこそが、この世に残った唯一の希望なのだろう。
だが……、それでも僕は疑っている。
彼女は間違いなく、10年前のあの約束を忘れていたわけだ。
言ってしまえば、それは彼女が彼女自身を守るための防衛本能だ。
奇しくも、彼女は自ら白状した。
彼女は彼女なりに、僕とのやりとりの中で少なからず希望を感じていた、と。
本当に面倒臭い……。
彼女自身で先出ししている分、余計にそう思えてしまう。
ここまで好き勝手に宣う彼女を前に、僕は我慢の限界を迎えていた。
「アンタに……、何が分かんだよっ!!」
僕の怒声に、彼女は一瞬身体を揺らした後、神妙な顔を向けてくる。
「何が『軽はずみに希望を見せるな』だよっ! ふざけんな! アンタだって軽はずみなこと言って、散々振り回してくれただろうがっ! 何ですか!? 今更、大人振るつもりですかっ!? アンタのそういうとこ、本当に気に入らないんだよ!」
感情のまま声を荒げる僕を前に、彼女は少し後ずさりする。
「大体『人を救いたい気持ちは一方通行』ってなんだよ! じゃあ聞くけど、それならアンタが僕にしたことはどう説明つける気ですか!? 好き勝手にかき乱した挙げ句、テメェが満足したら、『はい、さよなら』って、それこそ無責任だろうが! 勝手に分かったような気になって、コントロールしてるつもりになって……。アンタ、本当に理解出来てるんですか!? 今の僕の気持ちを!」
「今の、キミの気持ち?」
「自業自得? 因果応報? とでも言うんですか? 凄く、凄く、惨めで後ろめたかった……。今までの僕の痛みは、全部自分の保身が引き寄せたものだって自覚したら……」
「トーキくん……」
「別に、比較したいわけじゃない! この後に及んで、不幸自慢大会なんてうんざりだ。でも、皆と話してみて分かったんです。やっぱり、皆と僕とでは抱えてる痛みの性質がまるで違うって……。そう思ったら、何だか自分一人が子どもみたいな気がして……」
「……私はキミの痛みが偽物だなんて思ってないよ。それに痛みの性質なんて関係ない。どんな人にでも痛む心は存在する。それが全てだよ。もっと言えば、保身をしているのはキミに限ったことじゃない」
「分かってますよ! でも、どこかで考えてしまう。自分は本当に悩む資格があるのかって。だって、他人の感じる痛みの大きさなんて、僕には分からないんですから。でも……」
「……でも?」
「でも……、そんな僕だから。他人を……、自分自身を冒涜している僕だからこそ、出来ることがあるんじゃないか、とも、思った」
僕がそう言うと、ホタカ先生は目を丸くさせる。
「だ、だから!」
その時だった。
バーンッ、と自動車同士が接触するかのような鈍い音が、星下の仄暗い闇の中を突き抜けた。
直後、辺り一帯は静まり返る。
その不気味なほどの静寂に、僕とホタカ先生は思わず目を見合わせた。
僕たちは示し合わせたかのように、屋上の手すり部分から横並びになって身を乗り出し、校庭の方角を見下ろす。
「ホタカ先生、アレって……」
問いかけるも、彼女の返事はなかった。
そればかりか、彼女はフラッと脱力し、そのまま僕の肩に凭れかかってくる。
僕は今にも崩れ落ちそうな彼女の華奢な身体を両手で支え、呼び掛けるが、既に意識を手放した後だった。
ここまで来て、僕はようやく今何が起きたのかを悟る。
「高島先生……」
身動きのとれなくなった僕は、しばらくの間、校庭の縁の花壇前に横たわる轟音の正体を、ただただ見つめることしかできなかった。
今日、改めて麻浦先輩に言われ、ピンとくるまでの数秒間。
僕の鼓動は高鳴った。
でも気付いてからは、冷静だった気がする。
風霞、小岩、能登、灯理、父さんや母さんに、高島先生。
善悪はともかく、皆、確かな動機があった。
いつしか僕は、それがある意味で眩く見えていたのだと思う。
一方で、僕は変われなかった。
今後も変わり切れる自信もない。
そうである以上、やはり僕はこの言葉とともに生きていかなければならないのだろう。
まるで呪いだ。
だが、そう自覚した瞬間、却って楽になった。
何のための、『鈍感』だったか。
結果として、それが何を生んだか。
言い換えれば、僕はそれに気付くことが怖かったのだ。
しかし、今。
10年前に彼女と交わした約束を思い出し、覚悟が出来た。
そんな僕を前に、彼女はハッとした表情を浮かべたまま、一向に口を開こうとしない。
「……それにしても皮肉な話ですね。痛みだの、歪みだの、散々偉そうに講釈垂れてきた人が、その元凶だったとか。何のブラックジョークですか?」
「……キミはまるで夢と歪みは、同義とでも言いたげだね」
僕が憎まれ口を叩くと、彼女はようやく口を開く。
「違うんですか? 灯理だって、そうだったでしょ? 場合によっては、それが人を縛りつける、生き方を歪ませるんですから。ていうか……、ホタカ先生もさっき自分で言ってたでしょ? 高揚感こそが、歪みの正体だって」
「それは飽くまで私の勝手な推測だよ。言い方を変えれば、ただの私の負け惜しみ。説得力にかけると思わない?」
「随分と盛大に梯子を外しますね。でも、その理屈で言えば、今僕が感じているものも幻覚でしかない。だって僕も知らないんですから」
「……じゃあさ。仮にそれが本物だとしよう。キミはさ。それを思い出せて良かったって思える?」
「さぁ。どうですかね? 捉え方によっちゃ、依存先が風霞から、こちらに移ったってだけですから。一概に良いことだとは思えません」
「そっか……。なんかキミらしいね」
彼女はそう言って、クスリと笑う。
そもそも、思い出したところで特段意味はないどころか、円滑に日常生活を過ごす上で害悪でしかない。
だから日々の痛みが蓄積されていく中で、残す記憶を選別していくのは自然の摂理なのだろう。
それこそ他でもない、正常性バイアスそのものだ。
こうして僅かながらも、お互いの頭の片隅に残っていただけでも、奇跡と言っていいのかもしれない。
「でも、そっかぁ。キミは見つけたんだね」
ホタカ先生は柔和な笑みで、そう言った。
僕は見つけた。
それは彼女が、二十数年間、歪みに翻弄され続けた挙げ句、遂に手に入れられなかったものだ。
都合の良いように使い潰されてきた彼女にとって、それは喉から手が出るほど渇望してきたものだ。
「でもね。キミは間違ってる」
「……何が、ですか?」
僕が恐る恐る聞くと、彼女は再びゆっくりと口を開く。
「あの時、確かにキミ自身は役割を見つけたのかもしれない。でもじゃあどうして、私はココにこうしているの?」
「……何が言いたいんですか?」
「キミはあの時ああ言うことで、あわよくば私を救おうとしてくれていたのかもしれない。でも、じゃあ何で私は未だに救われていないの?」
「無茶苦茶、言わないで下さいよ……」
「でもそうでしょ? 結果として救われていない以上、それはキミがキミを救済するだけの約束、なんじゃないかな?」
「……言いたいことは、分かりますよ。ただ、それでも詭弁に聞こえますね。第一、アナタ。高揚感の正体なんて、知らないって言ってたでしょ。どうしてそんなことが断言出来るんですかね? 何ですか? それとも『抜け駆けは許さない』とでも言いたいんですか?」
「人の気も知らないで酷いなぁ、トーキくんは」
ホタカ先生は溜息を吐き、呆れながらにそう溢す。
「分かってるよ。私が無茶苦茶言ってることくらい……。でもね。あの時、キミの一言で少し楽になれた。それは事実なんだよ? 全部諦めたつもりだった私に、選択肢と可能性を提示してくれたんだから。まぁ、言い方は多少屈折していたかもしれないけどね」
「まぁそこは僕なんで……。大目に見て欲しいですけどね」
僕が言うと、彼女は静かに笑ってみせる。
「だからさ! キミのあの馬鹿らしいくらいに必死な様子、見てたらさ。もう一回だけ、何かを信じてみるのも悪くないかなって、ちょっと思ったんだよね……」
「そう、でしたか……」
「おかしいよね。あの時のキミ、小学生だよ? そんな小さい子にまで縋り付いて、期待して……。そのクセ、勝手に裏切られたと思い込んだら、一方的に逆恨みしてさ。ホント、惨めったらありゃしない。最低だよ……」
ホタカ先生は顔を俯かせ、声を震わせる。
「結局さ。『人を救いたい気持ち』、なんて一方通行なんだよ。刹那的で、利己的で、情動的で。そう思っていく内に、どんどん自己嫌悪に陥っていってさ……。あの時にキミが純粋な気持ちで私にくれたもの、全部信じられなくなった自分自身がたまらなく嫌になったんだ」
彼女に対して運命染みた何かを感じたところで、僕自身が軽はずみな親切心を振りかざしていたことに変わりはないのだろう。
とは言え、それは彼女も……。
「いいかな? トーキくん。キミはまだ若い。キミを蝕んでいた歪みにも気付くことが出来た。小岩くんとはこの先どうしていくのかは知らないけど、少なくとも風霞ちゃんはキミの味方だよ。これから先、いくらでもやり直せる。私みたいに拗らせて、負のスパイラルに落ちたら、ちょっとやそっとじゃ抜けられないよ。だからもう、キミは私なんかに構ってちゃダメだよ。キミはこれから、新しい人生を始めるの」
ホタカ先生はどこか嗜めるように、そう溢した。
立場上とでも言うか、使命感とでも言うか。
彼女なりの美学とやらで、僕を諭しているのだろう。
ただ、そう一方的に言われたところで、僕にも言いたいことのニ、三はあるし、払拭しておきたい疑問もある。
「……ホタカ先生。一つ、聞きたいことがあります」
「……何?」
「アナタは今でも、幸せになんて、なりたくないと思っていますか?」
「……思ってるよ」
「本当、ですか?」
僕がそう問いかけると、彼女は気まずそうに視線を逸らす。
「私……、怖いんだ。トーキくんなら分かってくれるでしょ? 私にとって『幸せ』って、得体の知れない、歪なものなの。もし私がそれに触れたら、スグに壊れちゃいそうで……。だって、扱い方が分からないんだから。そんな両手で掬っても、隙間から零れ落ちちゃいそうなもの、新しい痛みの原因にしかならないと思わない? 私には荷が重すぎるよ……」
婆ちゃんとの一件の後、彼女は同じ質問に対して『そんな曖昧なものは必要ない』と答えた。
それに嘘はない。
ただ、その言葉の背景にあるものが、根本的に違っていた。
彼女は手を伸ばすことを恐れていた。
感じたことがないものへの純粋な恐怖。
そして、それを失うことに対しての漠然とした恐怖。
至上命題とばかりに、『幸せ』を強要する周囲に対しての恐怖。
彼女はそれらに押しつぶされそうだった。
だから今、全てを諦める道を選ぼうとしているのだろう。
「キミは10年前に私とした約束に、何かを見出しているのかもしれない。でもね。これだけは言っておくね。私は……、最後には必ず、キミの足を引っ張る」
彼女はそう言うと、真っ直ぐに僕を見つめてくる。
「……10年前のあの約束が、その場しのぎだったことは認めます。結果的にそれがホタカ先生を余計に苦しめたことも。でも、自分から何かをしたいって思えたことは事実なんです。あの時も、今も……。結局、こんなことになってしまいましたけど、僕がアナタの力になりたいという前提は、今も変わっていません」
僕がそう言った瞬間、彼女は激昂する。
「無責任なこと言わないでっ! じゃあ聞くけど、キミが本気ならさ! 何でもっと早く私を見つけてくれなかったのさっ! どうして今の今まで忘れてたのさっ! 軽はずみに希望を見せないでよっ! キミは、これから何にでもなれるんだよっ!? 今更、そんな私との下らない約束に固執して何になるのさっ!!」
子どもが駄々を捏ねるかのように。何かに縋りつくように。
彼女の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出てくる。
その一つ一つが、僕の心臓を抉ってくるかのようだ。
「面倒臭くてごめん……。分かってる。でも、もう無理なんだ。私はもう、誰にも迷惑を掛けたくない。高島先生に続いて、トーキくんの人生まで台無しにしたくない。だから、全部終わらせるの。ううん、違う。最初から、全部無かったことにするの……」
力なくそう話す彼女を見て、改めて思う。
やはり、高島先生の推測は正しかったのかもしれない。
彼女は今、形式ばった良識・倫理観のようなものと、純粋でおぞましいまでの本心との間で板挟みになっている。
大人への反発と、なってしまった大人としての自分への失望感を昇華出来ずにいる。
彼女にとって、全てを諦めることこそが、この世に残った唯一の希望なのだろう。
だが……、それでも僕は疑っている。
彼女は間違いなく、10年前のあの約束を忘れていたわけだ。
言ってしまえば、それは彼女が彼女自身を守るための防衛本能だ。
奇しくも、彼女は自ら白状した。
彼女は彼女なりに、僕とのやりとりの中で少なからず希望を感じていた、と。
本当に面倒臭い……。
彼女自身で先出ししている分、余計にそう思えてしまう。
ここまで好き勝手に宣う彼女を前に、僕は我慢の限界を迎えていた。
「アンタに……、何が分かんだよっ!!」
僕の怒声に、彼女は一瞬身体を揺らした後、神妙な顔を向けてくる。
「何が『軽はずみに希望を見せるな』だよっ! ふざけんな! アンタだって軽はずみなこと言って、散々振り回してくれただろうがっ! 何ですか!? 今更、大人振るつもりですかっ!? アンタのそういうとこ、本当に気に入らないんだよ!」
感情のまま声を荒げる僕を前に、彼女は少し後ずさりする。
「大体『人を救いたい気持ちは一方通行』ってなんだよ! じゃあ聞くけど、それならアンタが僕にしたことはどう説明つける気ですか!? 好き勝手にかき乱した挙げ句、テメェが満足したら、『はい、さよなら』って、それこそ無責任だろうが! 勝手に分かったような気になって、コントロールしてるつもりになって……。アンタ、本当に理解出来てるんですか!? 今の僕の気持ちを!」
「今の、キミの気持ち?」
「自業自得? 因果応報? とでも言うんですか? 凄く、凄く、惨めで後ろめたかった……。今までの僕の痛みは、全部自分の保身が引き寄せたものだって自覚したら……」
「トーキくん……」
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「……私はキミの痛みが偽物だなんて思ってないよ。それに痛みの性質なんて関係ない。どんな人にでも痛む心は存在する。それが全てだよ。もっと言えば、保身をしているのはキミに限ったことじゃない」
「分かってますよ! でも、どこかで考えてしまう。自分は本当に悩む資格があるのかって。だって、他人の感じる痛みの大きさなんて、僕には分からないんですから。でも……」
「……でも?」
「でも……、そんな僕だから。他人を……、自分自身を冒涜している僕だからこそ、出来ることがあるんじゃないか、とも、思った」
僕がそう言うと、ホタカ先生は目を丸くさせる。
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その時だった。
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僕たちは示し合わせたかのように、屋上の手すり部分から横並びになって身を乗り出し、校庭の方角を見下ろす。
「ホタカ先生、アレって……」
問いかけるも、彼女の返事はなかった。
そればかりか、彼女はフラッと脱力し、そのまま僕の肩に凭れかかってくる。
僕は今にも崩れ落ちそうな彼女の華奢な身体を両手で支え、呼び掛けるが、既に意識を手放した後だった。
ここまで来て、僕はようやく今何が起きたのかを悟る。
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