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第140話 表と裏に別たれて
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金俣との試合後、聖は自分がどんな風にしてホテルの部屋へ戻ってきたのか、覚えていなかった。無意識だったのか、忘れてしまったのか、あるいは考えないようにしているのか。いずれにせよ思い出せるのは、酷く惨めな気分で戻ってきて、不貞腐れるようにベッドへ倒れ込んだこと。それとほぼ同時に能力を使った代償が始まり、まるで追い打ちをかけるかのように激しい苦痛に苛まれた。
(クソ……畜生……)
金俣の薄ら笑いが脳裏に蘇る。悔しさ、惨めさといったネガティブな感情が渦を巻く。疲労がピークに達しているせいか、それとも代償による苦痛のせいか、すんなりと意識を手放すことができない。最悪の気分を感じる現実から逃れようにも、きっとそのまま眠れば悪夢を見そうな予感がしてしまう。逃げ場のない意識が、夢と現の狭間を行き来する。理性的な思考はできず、聖はただぐずぐずと、頭の表層を覆い尽くす暗い感情と向き合わなければならなかった。知らぬ間に涙が出て、枕に小さな染みができる。
(アド、僕のやり方は正しいのか?)
やるせなさと孤独感に耐えきれず、聖は友人に助けを求める。
またぞろあれこれと煽られるだろうが、静寂よりはマシだと思った。
(なんであんなヤツが、プロとしてのうのうと表舞台にいるんだ。人に毒を盛って、あまつさえドーピングまで。真っ当に努力してる選手みんな、それどころかテニスに、スポーツに対する侮辱じゃないか……)
胃の腑が焼けるように熱い。腹の底で激しい怒りと憎しみが煮え滾り、黒いマグマが込み上げてくるんじゃないかと思えるほどだ。そう感じる一方、他人に対してここまで強い感情を覚えたのは初めてかもしれないと、頭のどこか冷めたところでぼんやり他人事のように思う。
(そうまでして勝ちたいか。他人の努力を踏みにじるような真似をして、真剣勝負を愚弄してまで。それで勝って、何になるっていうんだ。お金? 名声? ふざけんなよ、汚い手を使って他人を出し抜いて、そんなの許されるわけないじゃないか。バレなきゃなにしてもいいとでも思ってるのか、あの卑怯者め)
怒りの中に憎しみが混じり、代償の苦痛さえ上回ろうとした、その時だった。
『オマエはどうなんだよ』
誰のものとも分からない声が、燃え盛る憎悪に冷や水を浴びせる。
いや、その声が誰のものかは、考えるまでもなく分かり切っていた。
それは、まぎれもなく、聖自身の声だ。
『自分だけ特別な力を使ってのし上がってきて、オマエは卑怯じゃないのか』
喉が干上がる。唾を飲み込もうにも、乾いた喉が動いて痛むだけ。
『春菜の為だとかなんだとか。虚空の記憶がどうとか、随分ともっともらしい言い訳だな』
耳を塞ごうにも、腕はピクリとも動かない。
指先を動かしただけで、激しい苦痛が全身を駆け巡る。
『春菜に相応しいペアだと? 笑わせる。オマエは仕返しがしたかったんだ』
せめてもの抵抗に、固く目を瞑る。
しかし、瞼の裏で苦い記憶が蘇った。
――いい気になるなよ、素襖のペットのクセに
そのときは、殴られたショックで気付かないフリをしていた。本当はすぐに気付いていたのだ。尻もちをついて、次第に大きくなっていく頬の痛みを感じながら。自分を殴った相手の目に浮かぶ、怒りの色。そして、それとは異なる無数の視線。そこにあったのは、聖を見下し、蔑む、嘲笑を含んだ侮辱の色。そんな多くの人の視線が、聖に集まっていた。
『自分を蔑ろにした連中をまとめて見返す為に、オマエはハル姉をダシにしてチカラを手に入れたんだ。使わないという選択肢もあったのに。本当の意味で胸を張ってハル姉のペアになりたいなら、得体の知れないラケットの口車になんかのるべきじゃなかったはず。なのにオマエはそうしなかった。選ばれたとかなんとか、自分に都合よくあれこれ解釈して、ラクで手っ取り早い方法を、他の誰でもないオマエが自らの意志で選んだ。誰にもバレない秘密のチカラを扱えるオマエと、勝つためなら自分に出来ることをすべてやってのける金俣、何がどう違う?』
(ぼく、は)
反論の言葉は出てこない。それはずっと、チカラを手にした時から気付いていたこと。
今は考えなくていいと、アドの言葉に聖は便乗した。疑問を棚上げにしたのだ。
あまつさえ、相手の為になるのだと確証も無い仮説を拠り所に正当化した。
(でも、ぼくは……だってアドが)
自分でも悲しくなるほどの稚気がわき上がり、情けなさで涙が流れる。
もう一人の自分が呆れたように冷たく笑い、亡霊のように消えていく。
「アド、アド……!」
叫ぶつもりで名を呼ぶが、実際にはうわ言のような小さな声が漏れるだけ。必死に呼び掛けるが、アドは応えない。リンクが切れたままなのか、アドの気配すら感じない。自身に向けた自身の言葉が、頭の中で反響する。そのどれ一つに対しても、聖は理性的に反論できない。
「アド……っ!」
暗い部屋のなか、すすり泣く声が小さく響き渡る。
やがて、遠ざかる意識と共に、寝息へと変わっていった。
★
自分以外には人の気配のない夜の公園で、青年は缶ビールを買った。カシュっという小気味よい音がして、プルタブが開く。小さな穴から細かい泡が噴き出て指先を濡らす。封を開けて親指をひと舐めし、青年はごくごくと咽喉を鳴らしながら一気に缶ビールをあおった。
「っかァー! まっず! うぉっえ! 味覚バグってンのかァ?」
悪態とともに口に含んだビールを吐き出し、あまりの苦味に渋面をつくる。とはいえ、いまだ表情筋は鈍いままで、本人の感覚とは裏腹に少しばかり眉間に皺が寄るだけ。冷たい液体で多少は咽喉の渇きが癒えたものの、とても満足できない。しかしその一方、青年は自身の身体に感じる生理的欲求にどこか懐かしさを覚えていた。身に着けている消毒液臭い検査着にさえ、一種の愛おしさみたいなものを感じてしまう。
「肉体的制約が生を実感させる、ってか? 感傷だな」
手のひらに感じる、冷たい缶ビールの温度。いまだ口の中に残る不愉快な苦味と、安っぽいラガーの香り。見上げた夜空に星はなく、遠くの方からサイレンの音がけたたましく風に乗って聞こえてくる。感傷だと言い捨てる一方で、肉体を通して久しぶりに感じる五つの感覚は、しかし青年に確かな生の感触を与えていた。
「さて、どうしたモンかな」
そう独り言ちて、まだ中身のある缶を握りつぶすと、ぶしゅぶしゅと音を立てながらビールが溢れる。手を伝って流れ落ち、炭酸が皮膚をぷちぷちと刺激する。自分のものではない、だが今は確かに自分の意識と連動しているその身体。おおよそ何が起きているのかは予想しつつも、青年は結論を急がずのんびり構えてベンチに踏ん反り返った。
「こいつは異世界、いや、現世転生か? まァどっちでも良いが」
以前好んで視聴していたティーン向けのアニメと、今の自分の現状はそっくりに思えた。目を覚ますと自分の意識はそのままに、肉体だけが別の誰かのものとなっている。目覚めてすぐ、自分をまるで実験動物か何かのように扱っていた施設からは、隙を見て抜け出してきた。正確な距離は不明だが、およそ十数キロは離れているだろう。
「あンま油断はできねェンだよな。これあるし。ま、いいケド」
手首にピッタリと嵌められた、金属製の輪。光沢のある太いリングで、スイッチも液晶もなにもない。外す手段は見当たらず、もしこれが発信機の類であれば、この逃走劇も無意味だろう。ただ今のところ、自分を追いかけてくる者は現れない。施設の連中がどういう種類の人間なのかにもよるが、あれほど大きな施設ならば、自分を追跡してくるときは大勢でくるだろう。その場合、捕まるのは時間の問題だ。逃げられるならヨシ、捕まるならそれもまたヨシと、青年はかなりいい加減に、楽観的に捉えていた。
「さて、取り合えず散歩しながら状況整理すっか」
そうつぶやいて、青年はベンチから立ち上がった。公園を出ると、ひと気の無さそうな方へ向かう。下手に人の多い場所をうろついて、警察やらギャングやらにでも見つかったら厄介だ。検査着を身に着けたまま深夜徘徊している青年など、問答無用で撃ち殺されるか、興味本位でタコ殴りにされるかだろう。
「あーと? ブリッケル・アベニュー、フラッグラー・ストリート、ノース・セカンドアベニュー、コーラル・サウスウェイ、それから、あぁ、マイアミ・ストリート、ね」
青年は歩きながら、道を示す看板を読み上げる。現在地の確認が主な理由だが、本音は自分の発する声に違和感を持つため。言い方を変えてしっくりくるトーンを探してみるものの、生憎と元の声と違い過ぎる。
「慣れるしかねェな、こりゃ」
忌々しく思い無意識にしかめ面を作ろうとして、やはり顔が動きづらい。なんでこの身体の元の持ち主は、こうも表情に乏しいのかと不満に思う。今はどうやら奥に引っ込んでいるようで、生憎とコンタクトが取れない。自分が主導となって身体を動かす手前、持ち主がいるなら意思疎通はしておきたいところだ。しかし状況的にその暇が無さそうだったので、一旦保留にして先に行動を起こすことにした。
「とはいえ、まさかコイツとはね」
通りがかったショーウインドウに、青年の姿が映る。薄いグリーンの検査着を身に着け、背は高いが全体的に細く、華奢な身体つき。暗くて分かり辛いが、肌の色は西洋人と東洋人の中間といったところ。髪は伸びるに任せているせいで、前髪が鬱陶しい。かき上げると、それなりに整った、しかしどこか厭世的な表情の染みついた青年の顔が露わになった。その顔に、今現在身体の主導権を握る者は、見覚えがあった。
弖虎・モノストーン
「クソ陰キャ、か」
数か月前。自分の意識が、まだ日本人の高校生に宿っていた頃に見た顔だ。そういえば、目を覚ました時、白衣の連中が自分をそう呼んでいたなと思い出す。そして自分が今、誰なのかをハッキリと知り、彼は自分の置かれた状況をおおよそ掴むことができた。
「ってことは? 時間軸がズレてなきゃ、あの真面目コゾーもどっかにいるか」
自分とはまるで正反対の、ひどく真面目で優しい性格をしたその人物を思い描く。一緒に過ごした時間は1年程度だが、充分過ぎるほどに相手の性格は理解しているつもりだ。もし仮に、自分の意識が彼から今の身体へ移ったのが最近のことだとしたら。超がつくほどのお人好しである彼のことだ、混乱して戸惑っているかもしれない。その様子を想像し、つい笑みがこぼれてしまう。不思議なことに、しかめっ面よりは自然と口角が上がった。
「男に未練がましく慕われるなンざ、冗談じゃねェや」
笑みが浮かぶのは、情けない彼の顔がおかしいから。
決して、彼の気持ちが嬉しいとか、そういうものではない。
そんな風に、自分の気持ちに封をする。
「時間もそんな無ェだろうし、まずは情報収集だな」
そうぼやいて歩き出すと、青年はすぐにおあつらえ向きの場所を見つけた。特に知っていたわけでも、何か目印があったわけでもない。ただなんとなく、そっちの方向に足が向いただけ。彼の認識としてはそういうものだが、ひょっとすると、今の身体の持ち主が持っている元々の記憶が、なにか関連しているのかもしれないとも思った。そこで何が行われているのか、恐らく自分ではなく、持ち主の方が知っているに違いなかった。
「なんだオマエ、もう賭けは締め切ったぞ」
近付く青年に気付いた男が、迷惑そうに言った。
「別に構わねェよ、見学は無料だろ?」
入口にいたガラの悪そうな男に呼び止められたが、青年は臆することなく応対する。見張り役らしい男はしげしげと眺めて青年の姿を訝しんだが、結局はなにも言わずに通してくれた。通路を進むと、次第に喧騒が耳に届いてくる。
「やってンねェ、雰囲気も悪くねェな」
いずれにせよ、今の彼が行動を起こすために必要な情報を得るには、そこはうってつけの場所に思えた。深夜だというのに、かなりの人が集まり、そしてどこか剣呑とした雰囲気に包まれている、その場所。
「オイ、今のはインだろうが!」
「ざけんなバカ死ね! アウトだっての!」
「うるせぇ、ジャッジに口挟むなっ!」
「審判、買われてんじゃねぇか?!」
「どう見てもアウトだ、疲れたからって時間稼ぐんじゃねぇよ!」
青年の目の前には、テニスコートを中心としたスタジアムがあった。インドアで観客席もある立派な施設だが、よくみればそこかしこに落書きがされ、壁にはヒビが入るなどの荒れた様子が窺える。照明も基本的にコートの上だけを照らし、コートから遠ざかるに連れて一気に暗くなっている。設備としてはテニスコートだが、かもし出している雰囲気はさながら地下格闘技かなにかのリングのようだった。
「オイ、今ストレートいけたぞ!」
「チョリチョリうぜぇなぁ、スライスで逃げんなよ!」
「前でりゃいいだろ前によぉ!」
コートの上では、二人の男が試合をしている。どちらも荒っぽいプレーだが、腕前はかなりのものに思えた。通常なら、インプレー中は大人しくしているのがテニスにおけるマナーだが、そんなものはとっくの昔に滅びたと言わんばかりに、観客はおかまいなしに好き放題野次を飛ばしている。片方の選手がポイントを奪われると、怒りに任せてラケットを投げつけた。その様子に、ブーイングと囃すような歓声の入り混じった騒めきが起こる。
「はン、アイツのいた場所とは随分違うねェ。まるでド底辺だな」
喜びとも、侮蔑ともつかない、なんとも言い難い感情が胸に湧く。
ふと、それが郷愁の念だと気付いたとき、遮るように声をかけられた。
「なに、アンタ新顔?」
頬や首筋にタトゥーを入れた、若い女だった。化粧をして大人びた雰囲気だが、恐らく十代半ばといったところだろう。前髪が金髪で、あとは黒髪というヘアスタイルで、その表情はいかにも「なにか面白いことがないか」と探し回っている犬みたいだ。青年と若い女はお互い品定めするような視線をぶつけ合い、相手の出方を窺う。先手を取ることにした青年が、鼻を鳴らしながら答えた。
「いいや? 割かし古参だぜ。多分、な」
続く
(クソ……畜生……)
金俣の薄ら笑いが脳裏に蘇る。悔しさ、惨めさといったネガティブな感情が渦を巻く。疲労がピークに達しているせいか、それとも代償による苦痛のせいか、すんなりと意識を手放すことができない。最悪の気分を感じる現実から逃れようにも、きっとそのまま眠れば悪夢を見そうな予感がしてしまう。逃げ場のない意識が、夢と現の狭間を行き来する。理性的な思考はできず、聖はただぐずぐずと、頭の表層を覆い尽くす暗い感情と向き合わなければならなかった。知らぬ間に涙が出て、枕に小さな染みができる。
(アド、僕のやり方は正しいのか?)
やるせなさと孤独感に耐えきれず、聖は友人に助けを求める。
またぞろあれこれと煽られるだろうが、静寂よりはマシだと思った。
(なんであんなヤツが、プロとしてのうのうと表舞台にいるんだ。人に毒を盛って、あまつさえドーピングまで。真っ当に努力してる選手みんな、それどころかテニスに、スポーツに対する侮辱じゃないか……)
胃の腑が焼けるように熱い。腹の底で激しい怒りと憎しみが煮え滾り、黒いマグマが込み上げてくるんじゃないかと思えるほどだ。そう感じる一方、他人に対してここまで強い感情を覚えたのは初めてかもしれないと、頭のどこか冷めたところでぼんやり他人事のように思う。
(そうまでして勝ちたいか。他人の努力を踏みにじるような真似をして、真剣勝負を愚弄してまで。それで勝って、何になるっていうんだ。お金? 名声? ふざけんなよ、汚い手を使って他人を出し抜いて、そんなの許されるわけないじゃないか。バレなきゃなにしてもいいとでも思ってるのか、あの卑怯者め)
怒りの中に憎しみが混じり、代償の苦痛さえ上回ろうとした、その時だった。
『オマエはどうなんだよ』
誰のものとも分からない声が、燃え盛る憎悪に冷や水を浴びせる。
いや、その声が誰のものかは、考えるまでもなく分かり切っていた。
それは、まぎれもなく、聖自身の声だ。
『自分だけ特別な力を使ってのし上がってきて、オマエは卑怯じゃないのか』
喉が干上がる。唾を飲み込もうにも、乾いた喉が動いて痛むだけ。
『春菜の為だとかなんだとか。虚空の記憶がどうとか、随分ともっともらしい言い訳だな』
耳を塞ごうにも、腕はピクリとも動かない。
指先を動かしただけで、激しい苦痛が全身を駆け巡る。
『春菜に相応しいペアだと? 笑わせる。オマエは仕返しがしたかったんだ』
せめてもの抵抗に、固く目を瞑る。
しかし、瞼の裏で苦い記憶が蘇った。
――いい気になるなよ、素襖のペットのクセに
そのときは、殴られたショックで気付かないフリをしていた。本当はすぐに気付いていたのだ。尻もちをついて、次第に大きくなっていく頬の痛みを感じながら。自分を殴った相手の目に浮かぶ、怒りの色。そして、それとは異なる無数の視線。そこにあったのは、聖を見下し、蔑む、嘲笑を含んだ侮辱の色。そんな多くの人の視線が、聖に集まっていた。
『自分を蔑ろにした連中をまとめて見返す為に、オマエはハル姉をダシにしてチカラを手に入れたんだ。使わないという選択肢もあったのに。本当の意味で胸を張ってハル姉のペアになりたいなら、得体の知れないラケットの口車になんかのるべきじゃなかったはず。なのにオマエはそうしなかった。選ばれたとかなんとか、自分に都合よくあれこれ解釈して、ラクで手っ取り早い方法を、他の誰でもないオマエが自らの意志で選んだ。誰にもバレない秘密のチカラを扱えるオマエと、勝つためなら自分に出来ることをすべてやってのける金俣、何がどう違う?』
(ぼく、は)
反論の言葉は出てこない。それはずっと、チカラを手にした時から気付いていたこと。
今は考えなくていいと、アドの言葉に聖は便乗した。疑問を棚上げにしたのだ。
あまつさえ、相手の為になるのだと確証も無い仮説を拠り所に正当化した。
(でも、ぼくは……だってアドが)
自分でも悲しくなるほどの稚気がわき上がり、情けなさで涙が流れる。
もう一人の自分が呆れたように冷たく笑い、亡霊のように消えていく。
「アド、アド……!」
叫ぶつもりで名を呼ぶが、実際にはうわ言のような小さな声が漏れるだけ。必死に呼び掛けるが、アドは応えない。リンクが切れたままなのか、アドの気配すら感じない。自身に向けた自身の言葉が、頭の中で反響する。そのどれ一つに対しても、聖は理性的に反論できない。
「アド……っ!」
暗い部屋のなか、すすり泣く声が小さく響き渡る。
やがて、遠ざかる意識と共に、寝息へと変わっていった。
★
自分以外には人の気配のない夜の公園で、青年は缶ビールを買った。カシュっという小気味よい音がして、プルタブが開く。小さな穴から細かい泡が噴き出て指先を濡らす。封を開けて親指をひと舐めし、青年はごくごくと咽喉を鳴らしながら一気に缶ビールをあおった。
「っかァー! まっず! うぉっえ! 味覚バグってンのかァ?」
悪態とともに口に含んだビールを吐き出し、あまりの苦味に渋面をつくる。とはいえ、いまだ表情筋は鈍いままで、本人の感覚とは裏腹に少しばかり眉間に皺が寄るだけ。冷たい液体で多少は咽喉の渇きが癒えたものの、とても満足できない。しかしその一方、青年は自身の身体に感じる生理的欲求にどこか懐かしさを覚えていた。身に着けている消毒液臭い検査着にさえ、一種の愛おしさみたいなものを感じてしまう。
「肉体的制約が生を実感させる、ってか? 感傷だな」
手のひらに感じる、冷たい缶ビールの温度。いまだ口の中に残る不愉快な苦味と、安っぽいラガーの香り。見上げた夜空に星はなく、遠くの方からサイレンの音がけたたましく風に乗って聞こえてくる。感傷だと言い捨てる一方で、肉体を通して久しぶりに感じる五つの感覚は、しかし青年に確かな生の感触を与えていた。
「さて、どうしたモンかな」
そう独り言ちて、まだ中身のある缶を握りつぶすと、ぶしゅぶしゅと音を立てながらビールが溢れる。手を伝って流れ落ち、炭酸が皮膚をぷちぷちと刺激する。自分のものではない、だが今は確かに自分の意識と連動しているその身体。おおよそ何が起きているのかは予想しつつも、青年は結論を急がずのんびり構えてベンチに踏ん反り返った。
「こいつは異世界、いや、現世転生か? まァどっちでも良いが」
以前好んで視聴していたティーン向けのアニメと、今の自分の現状はそっくりに思えた。目を覚ますと自分の意識はそのままに、肉体だけが別の誰かのものとなっている。目覚めてすぐ、自分をまるで実験動物か何かのように扱っていた施設からは、隙を見て抜け出してきた。正確な距離は不明だが、およそ十数キロは離れているだろう。
「あンま油断はできねェンだよな。これあるし。ま、いいケド」
手首にピッタリと嵌められた、金属製の輪。光沢のある太いリングで、スイッチも液晶もなにもない。外す手段は見当たらず、もしこれが発信機の類であれば、この逃走劇も無意味だろう。ただ今のところ、自分を追いかけてくる者は現れない。施設の連中がどういう種類の人間なのかにもよるが、あれほど大きな施設ならば、自分を追跡してくるときは大勢でくるだろう。その場合、捕まるのは時間の問題だ。逃げられるならヨシ、捕まるならそれもまたヨシと、青年はかなりいい加減に、楽観的に捉えていた。
「さて、取り合えず散歩しながら状況整理すっか」
そうつぶやいて、青年はベンチから立ち上がった。公園を出ると、ひと気の無さそうな方へ向かう。下手に人の多い場所をうろついて、警察やらギャングやらにでも見つかったら厄介だ。検査着を身に着けたまま深夜徘徊している青年など、問答無用で撃ち殺されるか、興味本位でタコ殴りにされるかだろう。
「あーと? ブリッケル・アベニュー、フラッグラー・ストリート、ノース・セカンドアベニュー、コーラル・サウスウェイ、それから、あぁ、マイアミ・ストリート、ね」
青年は歩きながら、道を示す看板を読み上げる。現在地の確認が主な理由だが、本音は自分の発する声に違和感を持つため。言い方を変えてしっくりくるトーンを探してみるものの、生憎と元の声と違い過ぎる。
「慣れるしかねェな、こりゃ」
忌々しく思い無意識にしかめ面を作ろうとして、やはり顔が動きづらい。なんでこの身体の元の持ち主は、こうも表情に乏しいのかと不満に思う。今はどうやら奥に引っ込んでいるようで、生憎とコンタクトが取れない。自分が主導となって身体を動かす手前、持ち主がいるなら意思疎通はしておきたいところだ。しかし状況的にその暇が無さそうだったので、一旦保留にして先に行動を起こすことにした。
「とはいえ、まさかコイツとはね」
通りがかったショーウインドウに、青年の姿が映る。薄いグリーンの検査着を身に着け、背は高いが全体的に細く、華奢な身体つき。暗くて分かり辛いが、肌の色は西洋人と東洋人の中間といったところ。髪は伸びるに任せているせいで、前髪が鬱陶しい。かき上げると、それなりに整った、しかしどこか厭世的な表情の染みついた青年の顔が露わになった。その顔に、今現在身体の主導権を握る者は、見覚えがあった。
弖虎・モノストーン
「クソ陰キャ、か」
数か月前。自分の意識が、まだ日本人の高校生に宿っていた頃に見た顔だ。そういえば、目を覚ました時、白衣の連中が自分をそう呼んでいたなと思い出す。そして自分が今、誰なのかをハッキリと知り、彼は自分の置かれた状況をおおよそ掴むことができた。
「ってことは? 時間軸がズレてなきゃ、あの真面目コゾーもどっかにいるか」
自分とはまるで正反対の、ひどく真面目で優しい性格をしたその人物を思い描く。一緒に過ごした時間は1年程度だが、充分過ぎるほどに相手の性格は理解しているつもりだ。もし仮に、自分の意識が彼から今の身体へ移ったのが最近のことだとしたら。超がつくほどのお人好しである彼のことだ、混乱して戸惑っているかもしれない。その様子を想像し、つい笑みがこぼれてしまう。不思議なことに、しかめっ面よりは自然と口角が上がった。
「男に未練がましく慕われるなンざ、冗談じゃねェや」
笑みが浮かぶのは、情けない彼の顔がおかしいから。
決して、彼の気持ちが嬉しいとか、そういうものではない。
そんな風に、自分の気持ちに封をする。
「時間もそんな無ェだろうし、まずは情報収集だな」
そうぼやいて歩き出すと、青年はすぐにおあつらえ向きの場所を見つけた。特に知っていたわけでも、何か目印があったわけでもない。ただなんとなく、そっちの方向に足が向いただけ。彼の認識としてはそういうものだが、ひょっとすると、今の身体の持ち主が持っている元々の記憶が、なにか関連しているのかもしれないとも思った。そこで何が行われているのか、恐らく自分ではなく、持ち主の方が知っているに違いなかった。
「なんだオマエ、もう賭けは締め切ったぞ」
近付く青年に気付いた男が、迷惑そうに言った。
「別に構わねェよ、見学は無料だろ?」
入口にいたガラの悪そうな男に呼び止められたが、青年は臆することなく応対する。見張り役らしい男はしげしげと眺めて青年の姿を訝しんだが、結局はなにも言わずに通してくれた。通路を進むと、次第に喧騒が耳に届いてくる。
「やってンねェ、雰囲気も悪くねェな」
いずれにせよ、今の彼が行動を起こすために必要な情報を得るには、そこはうってつけの場所に思えた。深夜だというのに、かなりの人が集まり、そしてどこか剣呑とした雰囲気に包まれている、その場所。
「オイ、今のはインだろうが!」
「ざけんなバカ死ね! アウトだっての!」
「うるせぇ、ジャッジに口挟むなっ!」
「審判、買われてんじゃねぇか?!」
「どう見てもアウトだ、疲れたからって時間稼ぐんじゃねぇよ!」
青年の目の前には、テニスコートを中心としたスタジアムがあった。インドアで観客席もある立派な施設だが、よくみればそこかしこに落書きがされ、壁にはヒビが入るなどの荒れた様子が窺える。照明も基本的にコートの上だけを照らし、コートから遠ざかるに連れて一気に暗くなっている。設備としてはテニスコートだが、かもし出している雰囲気はさながら地下格闘技かなにかのリングのようだった。
「オイ、今ストレートいけたぞ!」
「チョリチョリうぜぇなぁ、スライスで逃げんなよ!」
「前でりゃいいだろ前によぉ!」
コートの上では、二人の男が試合をしている。どちらも荒っぽいプレーだが、腕前はかなりのものに思えた。通常なら、インプレー中は大人しくしているのがテニスにおけるマナーだが、そんなものはとっくの昔に滅びたと言わんばかりに、観客はおかまいなしに好き放題野次を飛ばしている。片方の選手がポイントを奪われると、怒りに任せてラケットを投げつけた。その様子に、ブーイングと囃すような歓声の入り混じった騒めきが起こる。
「はン、アイツのいた場所とは随分違うねェ。まるでド底辺だな」
喜びとも、侮蔑ともつかない、なんとも言い難い感情が胸に湧く。
ふと、それが郷愁の念だと気付いたとき、遮るように声をかけられた。
「なに、アンタ新顔?」
頬や首筋にタトゥーを入れた、若い女だった。化粧をして大人びた雰囲気だが、恐らく十代半ばといったところだろう。前髪が金髪で、あとは黒髪というヘアスタイルで、その表情はいかにも「なにか面白いことがないか」と探し回っている犬みたいだ。青年と若い女はお互い品定めするような視線をぶつけ合い、相手の出方を窺う。先手を取ることにした青年が、鼻を鳴らしながら答えた。
「いいや? 割かし古参だぜ。多分、な」
続く
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しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
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