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第145話 彼らが目指す場所
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サウジアラビア最大の石油会社が発表した、第五のグランドスラム、仮称パシフィス・オープン。この大会に関するニュースは、瞬く間に世界中で話題となった。スポーツ興行としてみたとき、個人競技であるテニスは経済効果の面では国を挙げて戦う団体競技の野球やサッカー、ラグビーに及ばない。しかし、個人が最も稼げるスポーツという観点で順位付けをするなら、テニスはゴルフに続いて二番目に位置している。
そしてそのテニスには、エンターテイメントとしてのスポーツ観戦の他に、ある重要な役割を果たしているという見解がある。団体競技が世界中を巻き込んだ、ある種の『お祭り騒ぎ』という側面を持っているのだとするならば、テニスやゴルフといった個人競技が持つのは『社交場』といえるだろう。それも、世界人口のうち1%に満たない、極々限られた層の人間たちが集う、最も高貴な『社交場』だ。それはもはや、既にテニスやスポーツが本来持っている価値の枠を、大きく超えているといえよう。
――だからテニスに、ましてや自分にそれだけの価値がある、なンて勘違いすンなよ
聖のなかに居座っていた、口の悪いかつての同居人は、まだテニスに関する知識の浅かった頃、そう釘を刺した。言われるまでもなく、その頃の聖には話の規模が大き過ぎて、勘違いをすることすらできなかった。ただスポーツをするだけで、目もくらむような大金を得、多くの人々から賞賛と羨望を一身に受ける。そういう世界があるのだということは知っていても、そこへ自分が入っていったときのことなど、想像できなかった。凄いことだというのは分かる。しかしどうしてスポーツで勝つと、そこまでの見返りが用意されているのか。世間知らずといわれればそれまでかもしれないが、その時の聖は世界の仕組みはおろか、テニスのことすら把握し切れていなかったのだ。そういったことを正確に理解できている高校生が、果たしてどれほどいるだろうか。
(今だって、正直まだよく分かっちゃいない)
自らテニスの世界へと足を踏み入れ、超常的な力を借りながらではあるが、実際に頂点へと繋がり得るプロ選手という道を歩み始めた今でも、聖はテニスというスポーツがもたらす社会的な影響に実感が湧かない。確かに面白いスポーツだと思うし、魅力のある競技だ。しかし、どうしてそれほどの価値を生み出しているのか、と問われたら、答えることはできない。なぜ、テニスにはそれほどの経済効果を生み出すのか。
――それは、テニスをブランディングしてきた、無名の人々の努力の賜物ですよ
アゼルバイジャンで知り合ったスポーツ記者、百年にその疑問を尋ねると、彼女はそう答えた。テニスというスポーツが生まれた背景、それが世界へ伝播していった流れ、他のスポーツが持っていなかった要素、そこに商機を見出した者の経営的戦略。文化が、時流が、思惑が。多くのものが複雑に絡み合い、やがてはひとつの形を成し、今の状況が在る。どうやらそういうことらしい。そこまで知ってもなお、聖には全体像をぼんやりと把握するのが精一杯だ。確信をもってスポーツやテニスの価値を己の言葉で語ることなど、できそうにない。しかし一つだけ、気付いたことがあった。百年記者が教えてくれたその大きな流れの中において、選手というのは決して主役ではなく、いち要素でしかない、ということだ。一見すると、その考えは卑屈めいているようだが、聖はそう感じず「むしろその方が良い」とさえ思っていた。
(演出された価値観を基準に考えなくて済む)
もし聖が、普通の新人プロだったなら、新設されるグランドスラム出場に向け、素直にその野心を燃やし、試合やトレーニングに取り組めば良かっただろう。だが、聖には他の選手と違う、虚空の記憶との関わりがある。そのことを忘れ、同じような態度で挑むわけにはいかない。グランドスラムに辿り着けるかどうかは、自分次第であることに変わりはない。しかし恐らく、聖は自分が何らかの形で深く関わる事になるだろうと予想している。その時、自分がなぜその場にいられるのかを忘れれば、アドが言っていたような勘違いをしてしまいかねない。自分は主役ではない、という考え方は、テニスと聖との間に一定の距離を保たせるのに、都合が良いように思えた。
未来の可能性の撹拌。
いまだにその本当の意味は分からないままだが、輪郭はおぼろげながら捉えている。当初、それは願いを叶えるために力を得たことに対する、ある種の支払いのようなものだと考えていた。しかし今は、自分の果たすべき役割だと聖は認識している。最初から自分は、勝利と敗北が支配するスポーツという世界の外にいるのだ。これまで幾千の選手たちが人生と情熱を捧げ、幾万の人々が築き上げてきた、営みの結晶ともいうべき舞台。主役は当然、純粋に頂点を目指す選手たち。ならば自分は、臨時役といったところ。ならばせいぜい、舞台を盛り上げるのに、ひと役買うとしよう。
出番を終える、そのときまで。
★
先輩の透流が放った一打が、蓮司の立つベースラインへと突き刺さる。打った人間の性格がそのまま現れるかのような、容赦ない一打。その鋭く落ちる軌道のボールに対し、蓮司は臆することなく前へ踏み込み、身を屈めて低い姿勢で迎え打つ。
跳ねた直後の迎撃
「!」
己の力は最小限に。しかしタイミングは最速。捉えられたボールは、トトン、という軽快なリズムで跳ね返る。球速ではなく、間を狭めるその一打は、先にボールを打った透流の準備時間を奪う。蓮司が守勢に転じるだろうという読みが外れ、綺麗に反撃を食らう形となり、ボールは脇を抜けて通過していった。
「カモンッ!」
蓮司が大きく短く吼える。
透流は恨めしそうな表情を浮かべると、先にネットへ歩み寄る。
遅れて蓮司が近づくと、ネット越しに握手を交わした。
「蓮司てめぇこの野郎、いっちょ前に煽りやがって」
握手した手を放さず、力を込めて透流が恨み言を口にする。
「いや、あれは別に煽ったとかじゃ」
「うるっせぇコラ。カノジョできたからってチョーシくれやがって」
透流は腕力にモノをいわせ、強引に蓮司の首に左腕を回して抑え込む。油断していた蓮司は、あっさり拘束されてしまう。透流がラケットのグリップを遠慮なく蓮司のつむじに押し当て「あでででで! ハゲる!」と抗議するのを無視してグリグリし続けた。
お互いにシャワーを浴びて着替えを済ませると、二人はATCの敷地内にあるカフェ・レストラン『ジュ・ド・ポーム』へ入った。練習試合ではあったが夕食代を賭けていたので、蓮司は遠慮なく一番高いステーキを注文する。実をいえば肉はそれほど好みではないのだが、今は身体づくりの真っ最中。食べられるときに高タンパク高カロリーのものを摂取すると心掛けていた。
「ほんで? ミヤビとはどうよ? いい加減ヤったか?」
透流はニヤニヤと悪い顔を浮かべ、下世話な質問を投げかける。
それに対し、蓮司は露骨にウンザリした表情で溜息を吐いて見せた。
「だ~か~ら~、別にオレとミヤは、そういうんじゃないんだって」
今年に入ってから何度目になるか。顔を合わせる度に、蓮司とミヤビのことを知っている人間、特に先輩連中はこの話題で蓮司をいじってくる。確かに蓮司とミヤビは今、知り合いが所有する戸建て賃貸で一緒に暮らしているが、恋人関係にあるわけではない。本当なら自分ひとりで生活するはずだったのに、ミヤビの方が押しかけてきたのだ。ミヤビが蓮司を気にかけてくれている、というのはもちろん知っている。ただそれは、蓮司がATCにいられなくなったのが、自分のせいだと勝手に責任を感じているからだ。他人が期待するような、甘酸っぱいなにそれがあるわけではない。少なくとも蓮司はそう思っている。だが周囲に何度そう説明しても、誰もそのことを信じたり認めたりしてくれない。どうにも、二人が恋愛関係にあるという事実を、認めさせたいらしい。
「はーん? なら、オレがまたミヤビ口説いてもいいんだな?」
「っ」
透流の発言に、蓮司は思わず言葉を詰まらせる。これまでは、頑なにミヤビとの恋愛関係を認めない蓮司に「いい加減認めろ」、「ホントは好きなんだろ」、「実はいくとこまでいってるんだろ」というような、真正面からの説得や茶化しがほとんどだった透流だが、さすがにそれも飽きたのか、アプローチの仕方を変えてきた。彼が以前からミヤビに対して先輩と後輩以上の関係を望んでいるのは、本人が公言している周知の事実で蓮司も知っている。知りたくもない噂によれば、数回ほど、デートはしているらしい。
「……べ、つ、に。ミ、ミヤが、嫌がって、なきゃ、良、ンじゃ」
透流から目を逸らし、抵抗の言葉を絞り出す蓮司。
そんな蓮司に、汚物でも見るような視線を寄越す透流。
透流はATC時代から、どちらかといえば後輩の面倒を見ることが多かった。急遽コーチがいなくなったときに練習の仕切りを代行し、監督役を務めるのだ。コーチ受けがよく、要領もよく、容姿も優れていて世渡り上手。反面、透流が練習を仕切るときはコーチ以上に練習強度を上げ、後輩たちが悲鳴をあげるその様子を楽しむサディスティックな一面を持っていた。それにも関わらず、彼が後輩から慕われているのは、なんだかんだ本当に面倒見が良く、伸び悩む選手に粘り強く付き合ってくれる人物だからだろう。これでもう少し女好きなところを弁えてくれていたら、男女問わず人気だったに違いない。そしてそんな彼が、ことミヤビに関しては、ひょっとすると本気なのでは? と目されている噂を、蓮司も聞いたことがある。
(でもそんなの、今のオレにはカンケーない)
昨年、蓮司は自らの意志でATCを退所した。そして年が明けた二月にプロテストを受け、合格。一応は目指していたプロ選手としての資格を得ることができた。しかし、プロになるのは通過点でしかなく、それどころかスタートでしかない。蓮司のテニス選手としてのキャリアは、ようやく始まったばかりなのだ。
蓮司とて、自分がミヤビに対して普通以上の感情を抱いていることに、自覚がないわけではない。むしろ、そんなことは他の誰よりもよく知っている。しかしだからこそ、その感情と向き合うのは、今ではないのだ。ミヤビが自分を気遣ってくれるのは、あくまで彼女の人柄からくる善意。そう考えるのは、蓮司の理性が打ち立てた最後の防波堤だ。自分のように才能に劣る人間がプロ選手となって成功するには、生活の全てをテニスに捧げなければ到底足りない。恋愛にかまけている時間も余裕も、あるがずが無いのだから。
「オレは、早くプロとしてちゃんと自立してぇんすよ」
そっぽを向きながら、うそぶく蓮司。
「アイツもオレも、今は自分のプロ活動に集中してぇんすよ。ミヤに至っては、もうスポンサーついてるし、海外の大会にもちょいちょい出始めてる大事な時期だし。住んでる場所が一緒ってだけで、なんかそういう関係扱いされんのは、正直迷惑なんすよ」
ミヤビと自分の関係が他人からどう見られているのか、そのことに意識が向かないわけではない。しかしそれよりも、今は自分が選手として立派に独り立ちするために研鑽を積まねばならない時期なのだ。他人にどう思われようが、本音で自分がどう思っていようが、最優先は選手としての実績である。自分が心から正しいと信じる理屈で、蓮司は感情的な問題に蓋をした。
「ったく、オメェはよぉ~」
ひどく深い溜息を、透流が露骨に長く吐き出す。しかし、食事中にあまり突っ込んで空気が悪くなるのもどうかと思ったのか、とりあえずその話はそこで終えることにした。ただ、ブスっとした顔でステーキを頬張る蓮司をちらっと盗み見て、
(相手の気持ちも考えねぇ、でこのアホが)と、胸中で毒づいた。
「お疲れっした。またオゴってください」
「は? 次はオメェにオゴらせてやるっての」
食事を終えると、蓮司は透流のバイクで自宅前まで送ってもらった。軽口を叩きながら、借りたヘルメットを渡す。するとシート下収納を閉めたタイミングで、透流が唐突に言った。
「おっとそうだ、ひとつイイ話があるんだった」
「イイ話?」
「ウィンブルドン、行きたいだろ?」
「え」
イギリスの中心都市ロンドンにある、テニスの聖地、ウィンブルドン。四つあるグランドスラムのなかでも最も歴史があり格式高い、最高峰の舞台。選手としても、ファンとしても、そこに憧れを抱かない者はいないだろう。
「金俣サンが手頃な練習相手を探してるんだと。球足の速いコートで、カウンターの上手いヤツをご希望だってさ。ご指名ってワケじゃないけど、お前のこと知ってたぞ。あと太っ腹なことに、旅費は出してくれるらしい。あーあ、オレが行きたかったんだけどな」
「マジすか! 行きます!」
蓮司は以前から、金俣のテニスに対する姿勢を尊敬していた。ストイックで他人にも自分にも厳しく、なにかと角の立つ物言いをする人物ではあるが、言ってることは常に正論だ。他人と衝突することを恐れて、変に馴れ合いみたいな環境になることを嫌う蓮司は、金俣のような態度は見本だった。
「んじゃ、お前の連絡先教えとくわ」
透流がバイクで走り去ったあと、蓮司は嬉しさのあまり自宅の前でガッツポーズをとる。実は中学の頃、ジュニア・ウィンブルドンでイギリスに訪れるチャンスが二度ほどあった。しかし二度とも、体調不良でその機会をふいにしてしまった。以降、蓮司にとってウィンブルドンという場所は、特に一度は行っておきたい場所だった。
「あ、そういえば、若槻も予選に出るんだったか?」
どういう経緯であれ、憧れの場所へ行けるんだと舞い上がっていた蓮司だが、唐突にそのことを思い出した。若槻聖は自分と同い年で、自分よりも早くプロとして活動を始め、既にグランドスラムの予選へ挑めるほどの位置にいる。同じATC所属だったが、お互いにそこを離れ今では商売敵。選手としてのキャリアにはかなり水をあけられている状況だが、そんなのは今だけの話だと、蓮司は人知れず対抗心を燃やしている。
「見てろよ、差をあけられてばかりじゃねぇからな」
そう呟いて、蓮司は玄関の脇に荷物を置く。
無性に湧き上がる興奮を堪え切れず、そのままランニングに駆け出していった。
続く
そしてそのテニスには、エンターテイメントとしてのスポーツ観戦の他に、ある重要な役割を果たしているという見解がある。団体競技が世界中を巻き込んだ、ある種の『お祭り騒ぎ』という側面を持っているのだとするならば、テニスやゴルフといった個人競技が持つのは『社交場』といえるだろう。それも、世界人口のうち1%に満たない、極々限られた層の人間たちが集う、最も高貴な『社交場』だ。それはもはや、既にテニスやスポーツが本来持っている価値の枠を、大きく超えているといえよう。
――だからテニスに、ましてや自分にそれだけの価値がある、なンて勘違いすンなよ
聖のなかに居座っていた、口の悪いかつての同居人は、まだテニスに関する知識の浅かった頃、そう釘を刺した。言われるまでもなく、その頃の聖には話の規模が大き過ぎて、勘違いをすることすらできなかった。ただスポーツをするだけで、目もくらむような大金を得、多くの人々から賞賛と羨望を一身に受ける。そういう世界があるのだということは知っていても、そこへ自分が入っていったときのことなど、想像できなかった。凄いことだというのは分かる。しかしどうしてスポーツで勝つと、そこまでの見返りが用意されているのか。世間知らずといわれればそれまでかもしれないが、その時の聖は世界の仕組みはおろか、テニスのことすら把握し切れていなかったのだ。そういったことを正確に理解できている高校生が、果たしてどれほどいるだろうか。
(今だって、正直まだよく分かっちゃいない)
自らテニスの世界へと足を踏み入れ、超常的な力を借りながらではあるが、実際に頂点へと繋がり得るプロ選手という道を歩み始めた今でも、聖はテニスというスポーツがもたらす社会的な影響に実感が湧かない。確かに面白いスポーツだと思うし、魅力のある競技だ。しかし、どうしてそれほどの価値を生み出しているのか、と問われたら、答えることはできない。なぜ、テニスにはそれほどの経済効果を生み出すのか。
――それは、テニスをブランディングしてきた、無名の人々の努力の賜物ですよ
アゼルバイジャンで知り合ったスポーツ記者、百年にその疑問を尋ねると、彼女はそう答えた。テニスというスポーツが生まれた背景、それが世界へ伝播していった流れ、他のスポーツが持っていなかった要素、そこに商機を見出した者の経営的戦略。文化が、時流が、思惑が。多くのものが複雑に絡み合い、やがてはひとつの形を成し、今の状況が在る。どうやらそういうことらしい。そこまで知ってもなお、聖には全体像をぼんやりと把握するのが精一杯だ。確信をもってスポーツやテニスの価値を己の言葉で語ることなど、できそうにない。しかし一つだけ、気付いたことがあった。百年記者が教えてくれたその大きな流れの中において、選手というのは決して主役ではなく、いち要素でしかない、ということだ。一見すると、その考えは卑屈めいているようだが、聖はそう感じず「むしろその方が良い」とさえ思っていた。
(演出された価値観を基準に考えなくて済む)
もし聖が、普通の新人プロだったなら、新設されるグランドスラム出場に向け、素直にその野心を燃やし、試合やトレーニングに取り組めば良かっただろう。だが、聖には他の選手と違う、虚空の記憶との関わりがある。そのことを忘れ、同じような態度で挑むわけにはいかない。グランドスラムに辿り着けるかどうかは、自分次第であることに変わりはない。しかし恐らく、聖は自分が何らかの形で深く関わる事になるだろうと予想している。その時、自分がなぜその場にいられるのかを忘れれば、アドが言っていたような勘違いをしてしまいかねない。自分は主役ではない、という考え方は、テニスと聖との間に一定の距離を保たせるのに、都合が良いように思えた。
未来の可能性の撹拌。
いまだにその本当の意味は分からないままだが、輪郭はおぼろげながら捉えている。当初、それは願いを叶えるために力を得たことに対する、ある種の支払いのようなものだと考えていた。しかし今は、自分の果たすべき役割だと聖は認識している。最初から自分は、勝利と敗北が支配するスポーツという世界の外にいるのだ。これまで幾千の選手たちが人生と情熱を捧げ、幾万の人々が築き上げてきた、営みの結晶ともいうべき舞台。主役は当然、純粋に頂点を目指す選手たち。ならば自分は、臨時役といったところ。ならばせいぜい、舞台を盛り上げるのに、ひと役買うとしよう。
出番を終える、そのときまで。
★
先輩の透流が放った一打が、蓮司の立つベースラインへと突き刺さる。打った人間の性格がそのまま現れるかのような、容赦ない一打。その鋭く落ちる軌道のボールに対し、蓮司は臆することなく前へ踏み込み、身を屈めて低い姿勢で迎え打つ。
跳ねた直後の迎撃
「!」
己の力は最小限に。しかしタイミングは最速。捉えられたボールは、トトン、という軽快なリズムで跳ね返る。球速ではなく、間を狭めるその一打は、先にボールを打った透流の準備時間を奪う。蓮司が守勢に転じるだろうという読みが外れ、綺麗に反撃を食らう形となり、ボールは脇を抜けて通過していった。
「カモンッ!」
蓮司が大きく短く吼える。
透流は恨めしそうな表情を浮かべると、先にネットへ歩み寄る。
遅れて蓮司が近づくと、ネット越しに握手を交わした。
「蓮司てめぇこの野郎、いっちょ前に煽りやがって」
握手した手を放さず、力を込めて透流が恨み言を口にする。
「いや、あれは別に煽ったとかじゃ」
「うるっせぇコラ。カノジョできたからってチョーシくれやがって」
透流は腕力にモノをいわせ、強引に蓮司の首に左腕を回して抑え込む。油断していた蓮司は、あっさり拘束されてしまう。透流がラケットのグリップを遠慮なく蓮司のつむじに押し当て「あでででで! ハゲる!」と抗議するのを無視してグリグリし続けた。
お互いにシャワーを浴びて着替えを済ませると、二人はATCの敷地内にあるカフェ・レストラン『ジュ・ド・ポーム』へ入った。練習試合ではあったが夕食代を賭けていたので、蓮司は遠慮なく一番高いステーキを注文する。実をいえば肉はそれほど好みではないのだが、今は身体づくりの真っ最中。食べられるときに高タンパク高カロリーのものを摂取すると心掛けていた。
「ほんで? ミヤビとはどうよ? いい加減ヤったか?」
透流はニヤニヤと悪い顔を浮かべ、下世話な質問を投げかける。
それに対し、蓮司は露骨にウンザリした表情で溜息を吐いて見せた。
「だ~か~ら~、別にオレとミヤは、そういうんじゃないんだって」
今年に入ってから何度目になるか。顔を合わせる度に、蓮司とミヤビのことを知っている人間、特に先輩連中はこの話題で蓮司をいじってくる。確かに蓮司とミヤビは今、知り合いが所有する戸建て賃貸で一緒に暮らしているが、恋人関係にあるわけではない。本当なら自分ひとりで生活するはずだったのに、ミヤビの方が押しかけてきたのだ。ミヤビが蓮司を気にかけてくれている、というのはもちろん知っている。ただそれは、蓮司がATCにいられなくなったのが、自分のせいだと勝手に責任を感じているからだ。他人が期待するような、甘酸っぱいなにそれがあるわけではない。少なくとも蓮司はそう思っている。だが周囲に何度そう説明しても、誰もそのことを信じたり認めたりしてくれない。どうにも、二人が恋愛関係にあるという事実を、認めさせたいらしい。
「はーん? なら、オレがまたミヤビ口説いてもいいんだな?」
「っ」
透流の発言に、蓮司は思わず言葉を詰まらせる。これまでは、頑なにミヤビとの恋愛関係を認めない蓮司に「いい加減認めろ」、「ホントは好きなんだろ」、「実はいくとこまでいってるんだろ」というような、真正面からの説得や茶化しがほとんどだった透流だが、さすがにそれも飽きたのか、アプローチの仕方を変えてきた。彼が以前からミヤビに対して先輩と後輩以上の関係を望んでいるのは、本人が公言している周知の事実で蓮司も知っている。知りたくもない噂によれば、数回ほど、デートはしているらしい。
「……べ、つ、に。ミ、ミヤが、嫌がって、なきゃ、良、ンじゃ」
透流から目を逸らし、抵抗の言葉を絞り出す蓮司。
そんな蓮司に、汚物でも見るような視線を寄越す透流。
透流はATC時代から、どちらかといえば後輩の面倒を見ることが多かった。急遽コーチがいなくなったときに練習の仕切りを代行し、監督役を務めるのだ。コーチ受けがよく、要領もよく、容姿も優れていて世渡り上手。反面、透流が練習を仕切るときはコーチ以上に練習強度を上げ、後輩たちが悲鳴をあげるその様子を楽しむサディスティックな一面を持っていた。それにも関わらず、彼が後輩から慕われているのは、なんだかんだ本当に面倒見が良く、伸び悩む選手に粘り強く付き合ってくれる人物だからだろう。これでもう少し女好きなところを弁えてくれていたら、男女問わず人気だったに違いない。そしてそんな彼が、ことミヤビに関しては、ひょっとすると本気なのでは? と目されている噂を、蓮司も聞いたことがある。
(でもそんなの、今のオレにはカンケーない)
昨年、蓮司は自らの意志でATCを退所した。そして年が明けた二月にプロテストを受け、合格。一応は目指していたプロ選手としての資格を得ることができた。しかし、プロになるのは通過点でしかなく、それどころかスタートでしかない。蓮司のテニス選手としてのキャリアは、ようやく始まったばかりなのだ。
蓮司とて、自分がミヤビに対して普通以上の感情を抱いていることに、自覚がないわけではない。むしろ、そんなことは他の誰よりもよく知っている。しかしだからこそ、その感情と向き合うのは、今ではないのだ。ミヤビが自分を気遣ってくれるのは、あくまで彼女の人柄からくる善意。そう考えるのは、蓮司の理性が打ち立てた最後の防波堤だ。自分のように才能に劣る人間がプロ選手となって成功するには、生活の全てをテニスに捧げなければ到底足りない。恋愛にかまけている時間も余裕も、あるがずが無いのだから。
「オレは、早くプロとしてちゃんと自立してぇんすよ」
そっぽを向きながら、うそぶく蓮司。
「アイツもオレも、今は自分のプロ活動に集中してぇんすよ。ミヤに至っては、もうスポンサーついてるし、海外の大会にもちょいちょい出始めてる大事な時期だし。住んでる場所が一緒ってだけで、なんかそういう関係扱いされんのは、正直迷惑なんすよ」
ミヤビと自分の関係が他人からどう見られているのか、そのことに意識が向かないわけではない。しかしそれよりも、今は自分が選手として立派に独り立ちするために研鑽を積まねばならない時期なのだ。他人にどう思われようが、本音で自分がどう思っていようが、最優先は選手としての実績である。自分が心から正しいと信じる理屈で、蓮司は感情的な問題に蓋をした。
「ったく、オメェはよぉ~」
ひどく深い溜息を、透流が露骨に長く吐き出す。しかし、食事中にあまり突っ込んで空気が悪くなるのもどうかと思ったのか、とりあえずその話はそこで終えることにした。ただ、ブスっとした顔でステーキを頬張る蓮司をちらっと盗み見て、
(相手の気持ちも考えねぇ、でこのアホが)と、胸中で毒づいた。
「お疲れっした。またオゴってください」
「は? 次はオメェにオゴらせてやるっての」
食事を終えると、蓮司は透流のバイクで自宅前まで送ってもらった。軽口を叩きながら、借りたヘルメットを渡す。するとシート下収納を閉めたタイミングで、透流が唐突に言った。
「おっとそうだ、ひとつイイ話があるんだった」
「イイ話?」
「ウィンブルドン、行きたいだろ?」
「え」
イギリスの中心都市ロンドンにある、テニスの聖地、ウィンブルドン。四つあるグランドスラムのなかでも最も歴史があり格式高い、最高峰の舞台。選手としても、ファンとしても、そこに憧れを抱かない者はいないだろう。
「金俣サンが手頃な練習相手を探してるんだと。球足の速いコートで、カウンターの上手いヤツをご希望だってさ。ご指名ってワケじゃないけど、お前のこと知ってたぞ。あと太っ腹なことに、旅費は出してくれるらしい。あーあ、オレが行きたかったんだけどな」
「マジすか! 行きます!」
蓮司は以前から、金俣のテニスに対する姿勢を尊敬していた。ストイックで他人にも自分にも厳しく、なにかと角の立つ物言いをする人物ではあるが、言ってることは常に正論だ。他人と衝突することを恐れて、変に馴れ合いみたいな環境になることを嫌う蓮司は、金俣のような態度は見本だった。
「んじゃ、お前の連絡先教えとくわ」
透流がバイクで走り去ったあと、蓮司は嬉しさのあまり自宅の前でガッツポーズをとる。実は中学の頃、ジュニア・ウィンブルドンでイギリスに訪れるチャンスが二度ほどあった。しかし二度とも、体調不良でその機会をふいにしてしまった。以降、蓮司にとってウィンブルドンという場所は、特に一度は行っておきたい場所だった。
「あ、そういえば、若槻も予選に出るんだったか?」
どういう経緯であれ、憧れの場所へ行けるんだと舞い上がっていた蓮司だが、唐突にそのことを思い出した。若槻聖は自分と同い年で、自分よりも早くプロとして活動を始め、既にグランドスラムの予選へ挑めるほどの位置にいる。同じATC所属だったが、お互いにそこを離れ今では商売敵。選手としてのキャリアにはかなり水をあけられている状況だが、そんなのは今だけの話だと、蓮司は人知れず対抗心を燃やしている。
「見てろよ、差をあけられてばかりじゃねぇからな」
そう呟いて、蓮司は玄関の脇に荷物を置く。
無性に湧き上がる興奮を堪え切れず、そのままランニングに駆け出していった。
続く
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◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
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