恋の実、たべた?

午後野つばな

文字の大きさ
29 / 37

29

しおりを挟む
 すーっと全身から血の気が引くような恐怖に襲われる。果たして自分が正常な意識を保っているのか、それとも感情が麻痺しているだけなのかよくわからなかった。意識していないと、叫び出しそうになる。
 雨粒が窓ガラスに当たった。いつの間にか、窓の外は暗く重たい雲が垂れ下がり、空一面を厚く覆っている。
「どうしよう……」
 徹に何かあったらどうしよう。
 表情をなくした顔で呟いた日下の言葉に、運転手が「え、何ですか?」と顔を向けた。
 ――衛さん。
 聡明さの滲む、徹の瞳が好きだった。話をするときに、少しも躊躇うことなく相手の顔をまっすぐに見るところも。他人と自分を比べることなく、たとえ自分とは異なる相手でも、決して貶めたりしないことも。
 いつだって自分が本気で徹を拒否しようと思えばできたのに、それをしなかったのはなぜだ? それは自分のためだ。僕が徹と一緒にいることを望んだからだ。
 午前中までの快晴が嘘のように、突然降り出した大粒の雨は車のルーフに当たり、大きな音を立てた。バケツをひっくり返したような雨に、人々が蜘蛛の子を散らすように駆け出す。視界を保とうと、車のワイパーが左右に激しく振れた。だが、雨の勢いが激しすぎて、街はぼんやりと白く霞んで見える。
 もっと早くに徹を追い出せばよかった。彼が自分のことを好きだと言ったとき、強く撥ねつければよかった。そしたらきっとこんなことにはなっていなかったという後悔が、日下の胸を苛む。
 もし徹の気持ちに応えたらと、一度も考えたことがないといったら嘘になる。けれど、日下はどうしてもその勇気が持てなかった。
 いまはいい。しばらくは持つかもしれない。でもそれはいつまで続く? 一年後? 二年後? ひょっとしたら五年は持つかもしれない。でもその先は?
 いつか徹はきっと気づく。あのときの選択は間違っていたのだと。そのとき、自分はどうしたらいい? 心を許してしまったら、いったいどうやって生きていける?
 徹に離れてほしかった。口ではいくら好き勝手なことを言ったって、自分からは本気であいつを突き放すことなんかできなかった。自分を好きでいてくれるうちに、あいつのほうから離れてほしかった。徹が変わっていくところなんか見たくない。自分は何て勝手だったのだろう……。
 日下はきつく瞼を閉じると、膝の上で両手を握りしめた。どうか無事でいてほしいと、祈るような気持ちで願う。
 病院のエントランスにタクシーが止まると、日下は運転手に金を払い、ドアから飛び出した。そのまま窓口に詰め寄る。
「すみません、佐野徹は……っ、甥が事故に遭ってこちらに運ばれたと連絡をいただいたのですが……っ」
「佐野徹さんですね。お調べいたします。少々お待ちください」
 事務員がパソコンを検索するわずかな時間さえももどかしかった。
「お待たせいたしました。佐野さんは現在病室にいらっしゃいますね」
「あの、彼は無事なんですか? 怪我の具合はひどいんですか? 入院が必要だと聞いたのですが……?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせる日下に、事務員が困惑した表情を浮かべる。
「あの、私からは詳しいことは言えないので……」
「だったら、早くわかる人を呼んでください」
 彼女を責めても仕方がない、それが仕事なのだと理解していても、感情がついていかない。ぐずぐずしていないで早く徹の容態を教えろと、関係のない事務員を怒鳴りつけたくなる。事務員がさっと顔色を変えたのを目にして、日下はいけない、と自分を叱咤した。
「……失礼しました。すみませんが、佐野徹の病室を教えていただけますか?」
「佐野さんは東棟の204号室にいます。東棟へは、あちらの通路をまっすぐにいってください」
「ありがとうございます」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話

タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。 瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。 笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。

ヤンキーDKの献身

ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。 ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。 性描写があるものには、タイトルに★をつけています。 行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

菜の花は五分咲き

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
BL
28歳の大学講師・桜庭 茂(さくらば しげる)。 ある日、駅で突然突撃してきた男子高校生に告白されてしまう。 空条 菜月(くうじょう なつき)と名乗った彼は、茂を電車で見ていたのだという。 高校生なんてとその場で断った茂だが水曜日、一緒に過ごす約束を強引にさせられてしまう。 半ば流されるように菜月との時間を過ごすようになったが、茂には菜月に話すのがためらわれる秘密があって……。 想う気持ちと家族の間で揺れる、ちょっと切ない歳の差BL。 ※全年齢です

【完結】トワイライト

古都まとい
BL
競泳のスポーツ推薦で大学へ入学したばかりの十束旭陽(とつかあさひ)は、入学前のある出来事をきっかけに自身の才能のなさを実感し、競泳の世界から身を引きたいと考えていた。 しかし進学のために一人暮らしをはじめたアパートで、旭陽は夜中に突然叫び出す奇妙な隣人、小野碧(おのみどり)と出会う。碧は旭陽の通う大学の三年生で、在学中に小説家としてデビューするも、二作目のオファーがない「売れない作家」だった。 「勝負をしよう、十束くん。僕が二作目を出すのが先か、君が競泳の大会で入賞するのが先か」 碧から気の乗らない勝負を持ちかけられた旭陽は、六月の大会に出た時点で部活を辞めようとするが――。 才能を呪い、すべてを諦めようとしている旭陽。天才の背中を追い続け、這いずり回る碧。 二人の青年が、夢と恋の先でなにかを見つける青春BL。 ※この作品はフィクションです。実在の人物・団体は関係ありません。

処理中です...