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すーっと全身から血の気が引くような恐怖に襲われる。果たして自分が正常な意識を保っているのか、それとも感情が麻痺しているだけなのかよくわからなかった。意識していないと、叫び出しそうになる。
雨粒が窓ガラスに当たった。いつの間にか、窓の外は暗く重たい雲が垂れ下がり、空一面を厚く覆っている。
「どうしよう……」
徹に何かあったらどうしよう。
表情をなくした顔で呟いた日下の言葉に、運転手が「え、何ですか?」と顔を向けた。
――衛さん。
聡明さの滲む、徹の瞳が好きだった。話をするときに、少しも躊躇うことなく相手の顔をまっすぐに見るところも。他人と自分を比べることなく、たとえ自分とは異なる相手でも、決して貶めたりしないことも。
いつだって自分が本気で徹を拒否しようと思えばできたのに、それをしなかったのはなぜだ? それは自分のためだ。僕が徹と一緒にいることを望んだからだ。
午前中までの快晴が嘘のように、突然降り出した大粒の雨は車のルーフに当たり、大きな音を立てた。バケツをひっくり返したような雨に、人々が蜘蛛の子を散らすように駆け出す。視界を保とうと、車のワイパーが左右に激しく振れた。だが、雨の勢いが激しすぎて、街はぼんやりと白く霞んで見える。
もっと早くに徹を追い出せばよかった。彼が自分のことを好きだと言ったとき、強く撥ねつければよかった。そしたらきっとこんなことにはなっていなかったという後悔が、日下の胸を苛む。
もし徹の気持ちに応えたらと、一度も考えたことがないといったら嘘になる。けれど、日下はどうしてもその勇気が持てなかった。
いまはいい。しばらくは持つかもしれない。でもそれはいつまで続く? 一年後? 二年後? ひょっとしたら五年は持つかもしれない。でもその先は?
いつか徹はきっと気づく。あのときの選択は間違っていたのだと。そのとき、自分はどうしたらいい? 心を許してしまったら、いったいどうやって生きていける?
徹に離れてほしかった。口ではいくら好き勝手なことを言ったって、自分からは本気であいつを突き放すことなんかできなかった。自分を好きでいてくれるうちに、あいつのほうから離れてほしかった。徹が変わっていくところなんか見たくない。自分は何て勝手だったのだろう……。
日下はきつく瞼を閉じると、膝の上で両手を握りしめた。どうか無事でいてほしいと、祈るような気持ちで願う。
病院のエントランスにタクシーが止まると、日下は運転手に金を払い、ドアから飛び出した。そのまま窓口に詰め寄る。
「すみません、佐野徹は……っ、甥が事故に遭ってこちらに運ばれたと連絡をいただいたのですが……っ」
「佐野徹さんですね。お調べいたします。少々お待ちください」
事務員がパソコンを検索するわずかな時間さえももどかしかった。
「お待たせいたしました。佐野さんは現在病室にいらっしゃいますね」
「あの、彼は無事なんですか? 怪我の具合はひどいんですか? 入院が必要だと聞いたのですが……?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる日下に、事務員が困惑した表情を浮かべる。
「あの、私からは詳しいことは言えないので……」
「だったら、早くわかる人を呼んでください」
彼女を責めても仕方がない、それが仕事なのだと理解していても、感情がついていかない。ぐずぐずしていないで早く徹の容態を教えろと、関係のない事務員を怒鳴りつけたくなる。事務員がさっと顔色を変えたのを目にして、日下はいけない、と自分を叱咤した。
「……失礼しました。すみませんが、佐野徹の病室を教えていただけますか?」
「佐野さんは東棟の204号室にいます。東棟へは、あちらの通路をまっすぐにいってください」
「ありがとうございます」
雨粒が窓ガラスに当たった。いつの間にか、窓の外は暗く重たい雲が垂れ下がり、空一面を厚く覆っている。
「どうしよう……」
徹に何かあったらどうしよう。
表情をなくした顔で呟いた日下の言葉に、運転手が「え、何ですか?」と顔を向けた。
――衛さん。
聡明さの滲む、徹の瞳が好きだった。話をするときに、少しも躊躇うことなく相手の顔をまっすぐに見るところも。他人と自分を比べることなく、たとえ自分とは異なる相手でも、決して貶めたりしないことも。
いつだって自分が本気で徹を拒否しようと思えばできたのに、それをしなかったのはなぜだ? それは自分のためだ。僕が徹と一緒にいることを望んだからだ。
午前中までの快晴が嘘のように、突然降り出した大粒の雨は車のルーフに当たり、大きな音を立てた。バケツをひっくり返したような雨に、人々が蜘蛛の子を散らすように駆け出す。視界を保とうと、車のワイパーが左右に激しく振れた。だが、雨の勢いが激しすぎて、街はぼんやりと白く霞んで見える。
もっと早くに徹を追い出せばよかった。彼が自分のことを好きだと言ったとき、強く撥ねつければよかった。そしたらきっとこんなことにはなっていなかったという後悔が、日下の胸を苛む。
もし徹の気持ちに応えたらと、一度も考えたことがないといったら嘘になる。けれど、日下はどうしてもその勇気が持てなかった。
いまはいい。しばらくは持つかもしれない。でもそれはいつまで続く? 一年後? 二年後? ひょっとしたら五年は持つかもしれない。でもその先は?
いつか徹はきっと気づく。あのときの選択は間違っていたのだと。そのとき、自分はどうしたらいい? 心を許してしまったら、いったいどうやって生きていける?
徹に離れてほしかった。口ではいくら好き勝手なことを言ったって、自分からは本気であいつを突き放すことなんかできなかった。自分を好きでいてくれるうちに、あいつのほうから離れてほしかった。徹が変わっていくところなんか見たくない。自分は何て勝手だったのだろう……。
日下はきつく瞼を閉じると、膝の上で両手を握りしめた。どうか無事でいてほしいと、祈るような気持ちで願う。
病院のエントランスにタクシーが止まると、日下は運転手に金を払い、ドアから飛び出した。そのまま窓口に詰め寄る。
「すみません、佐野徹は……っ、甥が事故に遭ってこちらに運ばれたと連絡をいただいたのですが……っ」
「佐野徹さんですね。お調べいたします。少々お待ちください」
事務員がパソコンを検索するわずかな時間さえももどかしかった。
「お待たせいたしました。佐野さんは現在病室にいらっしゃいますね」
「あの、彼は無事なんですか? 怪我の具合はひどいんですか? 入院が必要だと聞いたのですが……?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる日下に、事務員が困惑した表情を浮かべる。
「あの、私からは詳しいことは言えないので……」
「だったら、早くわかる人を呼んでください」
彼女を責めても仕方がない、それが仕事なのだと理解していても、感情がついていかない。ぐずぐずしていないで早く徹の容態を教えろと、関係のない事務員を怒鳴りつけたくなる。事務員がさっと顔色を変えたのを目にして、日下はいけない、と自分を叱咤した。
「……失礼しました。すみませんが、佐野徹の病室を教えていただけますか?」
「佐野さんは東棟の204号室にいます。東棟へは、あちらの通路をまっすぐにいってください」
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