恋の実、たべた?

午後野つばな

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 ほっとした顔の事務員に礼を言い、案内された病室へ急ぐ。明るい廊下を進んでいるのに、なぜだかどんどん暗い穴蔵の中へ入っていくような気がした。この場にいるのにまるで現実感がない、意識がどろりと沈んでゆく。それなのに、鼓動だけは他人事のように耳の外で鳴っていた。徹は無事だ。こんなことぐらいで死ぬはずがないと自分に言い聞かせても、恐怖や不安に押し潰されそうになる。
 案内された病室は四人部屋だった。一番奥の窓際のベッドで、担当の医師と話をしている徹の姿を目にしたとき、日下の胸からひしゃげたようなおかしな音が出た。その声に徹が気がつく。
「衛さん?」
 突然、すべてのものがクリアになったように、徹の声が耳に入ってきた。
 口を開いたら泣いてしまいそうだった。だから日下は口を引き結んだまま、ばかみたいに病室の入口に立ち竦む。
 日下が動こうとしないので、徹がベッドから足を下ろした。こちらのほうへこようとしているのだと気がついて、日下は慌てて徹の元へと近寄った。
「怪我は大丈夫なのか? 検査の結果は? いったい何があった? なぜ事故になんか……」
「衛さん……?」
 違う、こんなことを言いたいんじゃないと思っても、気持ちが急くように言葉がまとまらない。頭に巻いた包帯が痛々しかった。頬にもガーゼが貼られている。鼓動が壊れたようにどくどくと鳴っていた。自分がバカになったように、冷静に考えることができない。
「衛さん」
 徹の手が、日下の手に触れた。温かな体温に、胸の奥が詰まった。その瞬間、自分でも制御できない思いがあふれ出した。
「事故に遭ったと聞いて、人がどんな気持ちになったか……っ! 徹のくせに……っ、僕のことが好きだと言ったくせに、事故になんか遭いやがって……っ!」
 引き抜いた手でこぶしをつくると、その手を振り上げ、徹の胸を叩く。
 怖かった。徹に何かあったらと考えると、自分でもどうにかなってしまうと思うくらい、怖くてたまらなかった。
「ばかやろうっ、……ってに、死んだら許さない……っ!」
 何度も徹の胸を叩きながら、日下は泣いていた。いつの間にか叩いていたこぶしをほどき、彼の胸に縋り付く。
 どうして徹なしでも大丈夫だなんて思えたのだろう。そんなこと、始めから無理だと、心のどこかではわかっていたのに。
 まるで自分の身体が自分のものではなくなったみたいに、感情のコントロールができない。徹が無事でいてくれてうれしいのに、事故に遭ったと知ったときのショックと不安が、安堵になって日下の胸を襲う。
 ふわりと包み込むように、徹の腕の中に抱きしめられた。とっさに逃げようとした身体を、徹が宥めるようにやさしく触れた。
「心配をかけてごめん。俺は大丈夫だよ。衛さんを残して死んだりしない。衛さんの前から黙って消えたりしない」
 まるで小さな子どもに話しかけるように、頭上から聞こえてくる言葉に、ささくれ立っていた日下の神経が少しずつ落ち着いてゆく。その手を振り払うこともできたのに、日下はしなかった。ただ自分を包み込む温もりを感じていた。
「佐野さんは事故に遭ったとき、頭を強く打ったようで、一時的に意識を失いました。頭部CT検査には異常は見られませんでしたが、念のため一晩入院してようすを見たいと思います。足の怪我はすぐに治るでしょう。それから事故のことで警察が話を聞きたいそうですが、……もう少し後でも問題ないでしょう」
 担当の医師が手元のファイルを見ながら状況を説明する。日下はようやくこの場にいるのが自分たちだけでないことに気がついた。同室の入院患者やその見舞い客が日下たちを気遣うように、微笑ましそうな、そして何とも気まずそうな顔でこちらを見ないようにしてくれているのがわかる。とたんにぶわりと羞恥が戻り、いまのこの状況が耐え難いものになった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 病室を出ていく医師に、徹が頭を下げる。
「衛さん?」
 徹の腕をどかし、何事もなかった振りをして離れる日下に、徹が不思議そうな顔をする。先ほどまでの自分の取り乱しぶりが恥ずかしくて、できることならばすべてを忘れてこの場から消えてしまいたい。衛さん、どうかした? という徹の問いにも、日下は答えることができなかった。
「あのお兄さん、泣いていたね。お顔真っ赤だよ。恥ずかしいの?」
 幼い女の子が母親らしき女性に訊ねる声が聞こえてきた。しっ、と母親が窘める声も。
 日下はつんと澄ました顔で表情を取り繕うと、いったい何のことを言われているのかわからないといった振りをした。
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