恋の実、たべた?

午後野つばな

文字の大きさ
30 / 37

30

しおりを挟む
 ほっとした顔の事務員に礼を言い、案内された病室へ急ぐ。明るい廊下を進んでいるのに、なぜだかどんどん暗い穴蔵の中へ入っていくような気がした。この場にいるのにまるで現実感がない、意識がどろりと沈んでゆく。それなのに、鼓動だけは他人事のように耳の外で鳴っていた。徹は無事だ。こんなことぐらいで死ぬはずがないと自分に言い聞かせても、恐怖や不安に押し潰されそうになる。
 案内された病室は四人部屋だった。一番奥の窓際のベッドで、担当の医師と話をしている徹の姿を目にしたとき、日下の胸からひしゃげたようなおかしな音が出た。その声に徹が気がつく。
「衛さん?」
 突然、すべてのものがクリアになったように、徹の声が耳に入ってきた。
 口を開いたら泣いてしまいそうだった。だから日下は口を引き結んだまま、ばかみたいに病室の入口に立ち竦む。
 日下が動こうとしないので、徹がベッドから足を下ろした。こちらのほうへこようとしているのだと気がついて、日下は慌てて徹の元へと近寄った。
「怪我は大丈夫なのか? 検査の結果は? いったい何があった? なぜ事故になんか……」
「衛さん……?」
 違う、こんなことを言いたいんじゃないと思っても、気持ちが急くように言葉がまとまらない。頭に巻いた包帯が痛々しかった。頬にもガーゼが貼られている。鼓動が壊れたようにどくどくと鳴っていた。自分がバカになったように、冷静に考えることができない。
「衛さん」
 徹の手が、日下の手に触れた。温かな体温に、胸の奥が詰まった。その瞬間、自分でも制御できない思いがあふれ出した。
「事故に遭ったと聞いて、人がどんな気持ちになったか……っ! 徹のくせに……っ、僕のことが好きだと言ったくせに、事故になんか遭いやがって……っ!」
 引き抜いた手でこぶしをつくると、その手を振り上げ、徹の胸を叩く。
 怖かった。徹に何かあったらと考えると、自分でもどうにかなってしまうと思うくらい、怖くてたまらなかった。
「ばかやろうっ、……ってに、死んだら許さない……っ!」
 何度も徹の胸を叩きながら、日下は泣いていた。いつの間にか叩いていたこぶしをほどき、彼の胸に縋り付く。
 どうして徹なしでも大丈夫だなんて思えたのだろう。そんなこと、始めから無理だと、心のどこかではわかっていたのに。
 まるで自分の身体が自分のものではなくなったみたいに、感情のコントロールができない。徹が無事でいてくれてうれしいのに、事故に遭ったと知ったときのショックと不安が、安堵になって日下の胸を襲う。
 ふわりと包み込むように、徹の腕の中に抱きしめられた。とっさに逃げようとした身体を、徹が宥めるようにやさしく触れた。
「心配をかけてごめん。俺は大丈夫だよ。衛さんを残して死んだりしない。衛さんの前から黙って消えたりしない」
 まるで小さな子どもに話しかけるように、頭上から聞こえてくる言葉に、ささくれ立っていた日下の神経が少しずつ落ち着いてゆく。その手を振り払うこともできたのに、日下はしなかった。ただ自分を包み込む温もりを感じていた。
「佐野さんは事故に遭ったとき、頭を強く打ったようで、一時的に意識を失いました。頭部CT検査には異常は見られませんでしたが、念のため一晩入院してようすを見たいと思います。足の怪我はすぐに治るでしょう。それから事故のことで警察が話を聞きたいそうですが、……もう少し後でも問題ないでしょう」
 担当の医師が手元のファイルを見ながら状況を説明する。日下はようやくこの場にいるのが自分たちだけでないことに気がついた。同室の入院患者やその見舞い客が日下たちを気遣うように、微笑ましそうな、そして何とも気まずそうな顔でこちらを見ないようにしてくれているのがわかる。とたんにぶわりと羞恥が戻り、いまのこの状況が耐え難いものになった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 病室を出ていく医師に、徹が頭を下げる。
「衛さん?」
 徹の腕をどかし、何事もなかった振りをして離れる日下に、徹が不思議そうな顔をする。先ほどまでの自分の取り乱しぶりが恥ずかしくて、できることならばすべてを忘れてこの場から消えてしまいたい。衛さん、どうかした? という徹の問いにも、日下は答えることができなかった。
「あのお兄さん、泣いていたね。お顔真っ赤だよ。恥ずかしいの?」
 幼い女の子が母親らしき女性に訊ねる声が聞こえてきた。しっ、と母親が窘める声も。
 日下はつんと澄ました顔で表情を取り繕うと、いったい何のことを言われているのかわからないといった振りをした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話

タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。 瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。 笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。

ヤンキーDKの献身

ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。 ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。 性描写があるものには、タイトルに★をつけています。 行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

菜の花は五分咲き

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
BL
28歳の大学講師・桜庭 茂(さくらば しげる)。 ある日、駅で突然突撃してきた男子高校生に告白されてしまう。 空条 菜月(くうじょう なつき)と名乗った彼は、茂を電車で見ていたのだという。 高校生なんてとその場で断った茂だが水曜日、一緒に過ごす約束を強引にさせられてしまう。 半ば流されるように菜月との時間を過ごすようになったが、茂には菜月に話すのがためらわれる秘密があって……。 想う気持ちと家族の間で揺れる、ちょっと切ない歳の差BL。 ※全年齢です

【完結】トワイライト

古都まとい
BL
競泳のスポーツ推薦で大学へ入学したばかりの十束旭陽(とつかあさひ)は、入学前のある出来事をきっかけに自身の才能のなさを実感し、競泳の世界から身を引きたいと考えていた。 しかし進学のために一人暮らしをはじめたアパートで、旭陽は夜中に突然叫び出す奇妙な隣人、小野碧(おのみどり)と出会う。碧は旭陽の通う大学の三年生で、在学中に小説家としてデビューするも、二作目のオファーがない「売れない作家」だった。 「勝負をしよう、十束くん。僕が二作目を出すのが先か、君が競泳の大会で入賞するのが先か」 碧から気の乗らない勝負を持ちかけられた旭陽は、六月の大会に出た時点で部活を辞めようとするが――。 才能を呪い、すべてを諦めようとしている旭陽。天才の背中を追い続け、這いずり回る碧。 二人の青年が、夢と恋の先でなにかを見つける青春BL。 ※この作品はフィクションです。実在の人物・団体は関係ありません。

処理中です...