恋の実、たべた?

午後野つばな

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 翌日、日下は半休をもらって病院まで徹を迎えにいった。事故のとき、加害者は徹が急に道に飛び出してきたと言っていたらしい。その後目撃者が現れたことにより、証言自体が虚偽であることがわかった。徹の怪我が大したことがなかったからいいものの、被害者側に責任を被せようとした行為自体悪質だった。徹の性格なら加害者側にも同情を寄せるのではないかと日下は内心で心配したが、彼がはっきりと争う構えを見せたことが正直意外だった。
「たった一日離れていただけなのに、なんだか懐かしく感じる」
 玄関の鍵を開ける日下の隣で、徹が懐かしそうに周囲を見渡す。
「あとでトロントにも連絡しろ。事情は先に僕のほうから話しておいたが、徹のほうからもちゃんと話したほうがいい」
「わかった」
 衛さん、という声に振り向くと、身を屈めた徹が日下にキスをした。驚いてその場に固まる日下を残して、徹が家の中に入る。な、何だ?
 動揺を抱えつつも、わずかに赤くなった頬を素早く隠して、日下も慌てて後に続くと、徹が廊下に荷物を下ろしていた。徹が帰ってくるからと、家を出るときにエアコンはつけたままにしておいた。いろいろあった後だし、ゆっくり休みたいだろう。
「お前の部屋も掃除をしておいた。慣れないベッドで、夕べはよく眠れなかったんじゃないか? もし横になりたいなら少し休んでから……」
「衛さん」
 徹のまわりで甲斐甲斐しく世話をやこうとする日下の手を徹はつかむと、リビングのソファに導いた。
「その前に話がしたい。いい?」
「……ああ、もちろんだ」
 リビングのソファに徹と並んで腰を下ろすと、日下はすぐに落ち着かないようすで立ち上がった。
「そうだ、先に風呂を沸かしておこう。汗を流してさっぱりしたいんじゃないか」
「衛さん。本当に大丈夫だから、落ち着いて。ここに座って」
 諭すように言われ、日下は仕方なくソファに腰を下ろす。この家で最後に徹と話をしたとき、日下は徹にひどい言葉を言った。本当は思ってもいない、ひどい言葉だ。そのことはまだ一度もちゃんと話をしていない。本来なら一番に話さなければならないことだった。
「……前に僕がお前に言ったことは本気じゃない。子どものお守りをしているなんて思っていない。お前が進んでいろいろしてくれることも、ご機嫌取りだなんて思ったことはない。ひどいことを言った……。本当にすまなかった」
 口先だけならいくらでも言えるが、日下は本気で謝ることには慣れていない。じっとこちらを見る徹の視線を感じた。徹がどんな顔をしているのかわからず、日下は顔を上げることができない。きょうはまだ一度も徹の顔をまともに見ていなかった。どんな顔をして徹の前にいたらいいのかわからない。
「事故に遭ったとき、真っ先に衛さんのことを考えた。自分が死ぬかもしれないと思ったら、すごく怖くなった。同時に、なぜだか父が亡くなったときのことを思い出した。俺がもしこのまま死んだら、あのときと同じ思いを衛さんにさせてしまうかもしれないって」
「お前、あのときのことを覚えているのか?」
 徹の言葉に、日下は気まずさも忘れて驚いた。裕介さんが亡くなったのは徹が五歳のときだ。当然、そのときの記憶があってもおかしくはない。けれど、再会してからも、この家で一緒に暮らすようになってからも、徹は一度もそのときの話はしなかった。だからてっきり覚えていないのだろうと思っていた。
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