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後編

少年たち -その1-

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(大丈夫……)

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。

 心臓が壊れそうな激しさで鼓動を打っている。

 両手を後ろ手に縛られ床に転がったまま、少年は少し離れた所で彼のカバンを引っくり返し、中身を物色している男達を見ていた。

(大丈夫、大丈夫……)

 財布や携帯電話など、身元の特定に結びつきそうなものは持ってきていない。自分がどうなろうと自業自得だが、これまで散々心配をかけてきた家族に迷惑をかけることだけは、絶対にしたくなかった。

 気の狂った連中にいいように弄ばれたせいで全身が熱を持ち、激痛に何度も意識が飛びそうになる。

 特にひどいのは右足だ。鉄パイプを振り上げられた瞬間、折れたなとは思ったが、動かせない肉塊に成り果てても、燃えるような痛みは容赦なく伝わってくる。それ以外はもう、どこがどうなっているのかもよくわからない。

(もう、逃げらんねぇな……)

 二人には、現場には絶対行くなと釘を刺されていた。

 言いつけを破って出しゃばった結果が、これだ。

 浮かれていたのだ。

 そう、どうしようもなく浮かれていた。

 これまでコソコソと燻らせているしかなかった自分の能力が、自分とは異なる才能を持った仲間と出会い、少年では考えもつかないような大胆かつ緻密な戦略の元、鮮やかに活かされるのを目の当たりにして。

 物心ついて初めて、生きていると、命を燃やしていると感じた。

 それがどれほどの喜びなのかを、きっと誰も知らない。

 親も、兄弟も、あの二人も。

 だから。

 ――所詮この世は弱肉強食。

 大人が子どもを。自国の人間ネイティブが他国の人間フォーリナーを。頭のいい奴が頭の弱い奴を――強い奴が弱い奴を食い物にして成り立っている。法律は心まで規制できないし、警察は偏見まで取り締まれない。

 バイで、引きこもりの劣等生で、社会不適合で、子どもの自分は、弱者としての要素の塊だ。だが、あの二人は間違いなく生まれついての強者で、もし自分が後日死体となって発見されても、第三者が自分と二人の間に接点を見つけるのは難しいだろう。

 そして、きっと二人は自分を捨て置く。

 トカゲのシッポのように。

 だが、それでもいい。

 それでいいのだ。

 食い物にされた、なんて思わない。

 口の中に溢れた血が、切れた唇の端からこぼれる。

 ただでさえ薄暗い部屋の中で、視界がどんどん霞んでいく。

 男達が何か言いながら近付いてくる。何を言っているのかはよく聞き取れないが、少年の腕を縛っていたロープを解くと、うつ伏せにして押さえつけた。

「ぐぉっ、ぁ……」

 自分のものとも思えない呻き声が上がる。

 床の上でバンザイをするように、両手を上げさせられる。

 男の一人が、転がっていた鉄パイプを拾って少年の両指の上に乗せ、位置を調整するように足でゴロゴロと転がす。それ自体拷問のようだが、そうではなく、彼らはもう、苦痛で自分を従わせることを諦めたのだと少年は悟った。

 味方にならないから無力化する――ということは、殺すつもりはないのだ。

 だが指を失うことは、才能を失うことと同義。

 この才能を失くせば、もう二度と、あの二人と命を燃やす感覚を味わうことはできない。いや、もしかしたら逆に、この才能を失くすことで、くだらないことでも命を燃やしていると感じられるようになるのかもしれない。

(ああ、終わった……でも……)

 男が足を振り上げる。

 目を閉じる。

(すげぇ楽しかった……)

 バンッ。

 少年が聞いたのは己の指の骨が砕ける音でもなく、鉄パイプが打ち付けられる音でもなく、この閉ざされた空間がこじ開けられた音だった。

 目を開き、部屋の入り口を見る。

 少年が一人、いた。

 殺気を帯びた灰色の眼光を見た瞬間、安堵して気を失った。







 フッと意識が浮上して、男は目を覚ます。

(寝てたのか……)

 すぐに感じたのは目の不快感だった。コンタクトレンズを装着したままデスクに突っ伏していたから、眼球にレンズが張り付いている。

 男は時計を確認し、ついでにデスクに放り出してあった目薬を取って、エメラルドの宝石をはめこんだような瞳に、刺激の強い水滴を落とした。

「っあー、目が覚める……」

 そう声に出したのは、半分自己暗示だ。

 秋に入って、男の仕事は急に立て込み出した。

 男が張り切って受注案件を増やしたわけではない。やる気を見せ出したのは依頼主の方だ。

 依頼主は、表向きは大層優雅に仕事をしているが、その実裏では自身の計画に微細な狂いも生じないよう、綿密な調査と手回しを必要としている。恐ろしいほどの確実性を求めるのは、それだけリスクの大きなことをしている自覚があるからだ。

 十年来のゲームの、おそらくは中盤。

 全容は知らされていないが、おそらくは正念場。

 なのに、どういうことだかワクワクしてこない。

 だが余計なことを考えている暇はなかった。男の意識を浮上させたのは、依頼主からのコンタクトを知らせる電子音だ。

(まったく、容赦なく使ってくれるぜ……)

 男の前には大小五つのモニターが並ぶが、メインで使っている一番大きなモニターには今、自作のメーラーが立ち上がっている。

 依頼主から届いたばかりのメールを開いて、男は首を傾げた。

『調査と監視、よろしく』

 簡潔な指示と、その後に続く女性の名前。

 探偵まがいの調査は男の本職ではないのだが。

(なんで、こんな女……)

 記憶力には自信がある。男の脳内データベースには、彼女の名前と、依頼主にとっての立ち位置がしっかり登録されている。

 依頼主の祖父の仕事関係者の家族。かなり遠い存在だ。

 過去に顔を合わせる機会はあったかもしれないが、接点があるとは聞いていない。彼女個人に利用価値があるとも思えないが――

 そこまで考えてハッとする。

「まさか、な……」

 嫌な予感がした。







 四月。都内某所。

 数年前に世間を騒がせていたITベンチャー企業ウィル・パートナーズの本社会議室には、創業社長の武内をはじめ、数人の重役がそろっていた。彼らが神妙な面持ちで見つめる先には三人の男。

 RATラットソリューションズ社長の海神一帆わだつみ かずほ、その秘書の榛名明はるな あきら、副社長の支倉玲一はせくられ いいち

 両者は今冬のM&A締結を目指し、会談を終えたところだった。

 今日の会談が実質一時間弱、RATソリューションズ側からの打診から最終譲渡まで三ヶ月を予定するという、恐ろしいスピードで進められているのは、ひとえにRATソリューションズの手回しのよさによるものだ。

「では、ご質問などなければ、本日は終了とさせていただきます。詳細な条件交渉、売却価格の決定については、今週中にお打ち合わせの日程を調整しご連絡させていただきますので、しばらくお待ちください」

 M&Aの仲介会社から来た男が幕を引くと、彼らはぞろぞろと会議室を出てエレベーターホールへ向かった。

 まだ真新しい社屋。廊下からは、仕切りのないフロアで歳若い社員が生き生きと働いているのが見渡せる。

 社員の方も、武内が率いる物々しい一団に興味津々の様子で、特に女性陣は、玲一の姿に気付くと色めき立ち、仕事の手を止めて食い入るように見つめた。

「なんつーか、お前の顔面って凶器レベルだよな」

 武内が玲一を小突いて茶化すと、彼は呆れたように言った。

「国宝級とか、極上品とか、芸術的美しさだとか、もっと他に語彙はないのか?」

 その言葉を自惚れだとからかう気にもならないのは、実際彼の容姿が素晴らしく美しいからだ。

 百八十を優に超えるすらりとした長身。フランスの血を引いた彫りが深く精悍な顔立ちに、言葉通り異彩を放つアイスグレーの髪と瞳とくれば、どうしたって人目を引く。長く付き合いのある同性の武内でさえ、会う度にドキッとさせられるほどだ。

 加えて、日本を代表する大企業の御曹司。親の七光りかと思えば、折に触れ明かされる経歴は実力を裏付ける。

 全く。天は二物を与えず、なんて誰が言い出したのだか。

「まぁ、普段は経営も実務も海神さんに丸投げしてしまっていますし、こういうときくらい、凶器だろうと国宝だろうと少しでもRATラットの役に立てているなら何でもいいんですけどね」

「謙遜を。ここ半年のM&Aの成功は、支倉君の戦略や根回しなしにはありえなかった。ウィル・パートナーズさんのような素晴らしい会社と提携できたのだって、君の人脈があったからこそだ。それに、顔一つで社員のモチベーションが上がるなんて素晴らしいことじゃないか」

「ウインクなんかされた日には、卒倒する社員が現れて、パフォーマンスがガタ落ちしそうですけどね」

 海神のフォローに、武内は茶々を入れる。

「だけど、まさかお前、こうなること見越してオレと付き合ってたんじゃないだろうな?」

「そんな面倒なことするわけないだろう。だいたい、お前と初めて会ったのは、お前が取引先に訴えられて散々だったときだぞ」

 起業してすぐの頃は『IT業界の風雲児』などと持て囃しておきながら、ちょっと不祥事を起こした途端、世間は手の平を返したように槍玉に挙げてきた。嫌気がさして燻っていたのを見かねた側近が、気晴らしにと連れ出してくれた店で悪酔いし、他の客に絡んでいたのを、たまたま居合わせた玲一に仲裁されたのが出会いのきっかけだ。

 当時のことを思い出して、武内は笑った。

「そういえばそうか。まぁ、あの頃は野心の塊で、無茶ばっかやってたからなぁ。いやー、若かった」

「野心の塊なのは今だって変わらないだろう? これから老け込む暇なんかないくらいこき使ってやるから、覚悟して待ってろ」

「ははっ、こっわ」

 エレベーターを降り、車寄せでかんたんな挨拶を済ませる。

 海神と榛名がタクシーで帰社するのを武内達と一緒に見送って、玲一は後からやってきた別の車に乗り込んだ。

「なんだ、帰るんじゃないのか?」

「本業に戻る」

「お前って、ほんと……信じられないやつだな」

「感心してる暇があったらお前も仕事してくれ」

「りょーかい。じゃあな」

 手を振って見送る。

「武内さんのお友達だっていうからどんな方かと思いましたけど、まともそうな方で安心しました」

 後ろに控えていた気心知れた重役の一人が、異様な緊張から解かれ、ホッとした表情で茶化してくる。

 武内は「生意気言ってんな」と笑うが、胸の内で独り言ちる。

(まとも、かねぇ……)

 今回のM&Aは、もちろんRATソリューションズにも利はある。だが実質は、ウィル・パートナーズ内で武内の破天荒な経営方針に対して離反が起こり、一部の役員に経営権を乗っ取られかけたところを救われたようなものだ。

 離反が明るみに出てすぐの頃、武内は玲一を飲みに誘った。

 ITベンチャー企業経営者の武内と、本業は商社マンでありながら副業としていくつか事業を手がけていた玲一は、同年代の実業家として時々会って話す間柄だった。

 反省するつもりはさらさらないが、会社が大きくなると、社員に対し自分のやり方に理解を求めることも、熱意やヴィジョンを行き渡らせることも難しい。起業は楽しいが経営は向いていないのかも知れないと、愚痴をこぼした。

 玲一が、RATソリューションズの社員として内々にM&Aを打診してきたのは、その翌日のことだった。

 あまりの仕事の速さに、武内は背筋が震えた。

 そして強く疑問に思った。

 この打診を可能にするだけの経営者としての決断の速さや、社内をあっさり説得できるほどの影響力の強さを持っていながら、そしてRATソリューションズの創業者でありながら、なぜ彼はRATソリューションズでの仕事を副業のままにしているのか。

 武内が肌で感じる玲一の気質を考えれば、たとえエリートと言われようがあくまで一会社員でしかない商社マンとしてよりも、プレッシャーやリスクを被る可能性を負いながらも一経営者として生きる方が、よほど楽しいだろうに。

(わからないな……)

 玲一の実家はとんでもない名家。

 何かままならない事情があるのだろうか。

 それとも、何か戦略があってのことなのだろうか。

 彼の語る戦略はいつだって武内の想像をポンと超える。

 もしかするとウィル・パートナーズ内での離反さえ――

 そう考えかけて、武内はかぶりを振った。

(なんにしろ、まとも、ではありえないよな……)

 あの男はまだ何か、周囲をあっと言わせるようなことをしでかすに違いない。







「お疲れ様です」

 玲一が後部座席に乗り込んで「ああ」と頷く。彼は息をつく間もなく、黒崎が用意しておいた資料を手に取り、目を通し始めた。

「いかがでしたか?」

「問題なく進みました」

「そうですか。少しお休みになられては?」

「いえ、時間が惜しいので」

 言外に余計な気は回すなと咎められているような気がして、黒崎は口を閉ざした。

 十年前、彼の祖父――支倉燿隆の命で、燿隆の秘書と、当時高校生だった玲一の世話係を兼務することになった。

 燿隆に指示されたのは主に送迎と生活管理だったが、燿隆の後継とみなされている少年に、彼の秘書である自分が充てがわれたことの意味を、黒崎は自分なりに解釈していた。

 だから玲一のアメリカ留学中もこまめに連絡を取り、卒業後も定期的に顔を合わせる機会を作った。コツコツと信頼を築いてきた甲斐あってか、ビジネスにおいては黒崎が経験豊富な先輩であることをよくわかっている玲一は、やがて自分の手がける仕事について相談してくるようになった。

 玲一は黒崎の助言から多くを学び、彼の才能を目の当たりにするその時間は、黒崎にとっても静かな興奮を覚えるものとなった。いつしか時間を忘れて白熱した議論を交わし、一緒に戦略を練り、その流れで、彼の秘書のように立ち回り協力することもあったが――

(今の状況をどう捉えるべきか……)

 去年の夏以降、白石商事での仕事が落ち着いているからと、玲一はこれまで手付かずだった他の会社の仕事に精を出し始め、そのために黒崎が駆り出されるようになった。

 燿隆には玲一への対応を優先するように言われているし、秘書業務については榊がいるから心配はしていないが、問題は玲一の進めている仕事の内容だ。

『二年後を目処に、祖父の元へ行きます』

 半年前、玲一はそう宣言した。

 ただ転職するだけなら、そんなことをわざわざ黒崎に言う必要はない。そして転職するにしては、玲一の仕事の進め方は明らかに不自然。

 白石商事の仕事は辞めれば済むだろうが、RATソリューションズの方はそうはいかない。玲一がM&Aを繰り返すよう画策しているおかげで、連日組織体制の見直しと対応に追われていて、たとえ一年半後であっても、司令塔となっている彼を失うなど考えられない状況だ。

(わからない……)

 RATソリューションズの規模が大きくなればなるほど、黒崎は言いようのない不安に駆られた。

 以前はどんな無茶をしていても、玲一が目を輝かせて笑っていさえすれば、この人がすることなら大丈夫だと安心できたのに。

(笑顔か……)

 記憶にある限り、最後に玲一が笑うのを見たのは去年の夏だ。

「そうだ。白石の前に、銀座二丁目辺りに寄ってもらえますか?」

「午後の始業に間に合いませんが」

「あやめさんへの贈り物を買うだけです。五分で済みます」

 資料から目も上げずに、玲一は言う。

(五分……)

 あの街の高級宝飾店であれば、会計を済ませラッピングを待つだけでも、それくらいの時間はかかるだろうに。入店して最初に目についたものを指差すような無粋な買い物も、高価な贈り物で女性の心を懐柔しようとするやり方も、彼らしくない。

「かしこまりました」

 いろいろ考えはしても、凍てついたアイスグレーの目を前にすると、結局踏み込めない。黒崎にできるのは、玲一の指示にただ粛々と従うことだけだ。

 己に歯がゆさを覚える度に思い出すのは、一人の青年。

 そして、彼と交わした、一つの約束。
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