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後編
天使と南へ
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「うう、寒っ」
校舎を出たラファエルは、体を縮こまらせた。
サマータイムもそろそろ終わる十月後半。
バカンス前最後の授業を終えた美術大学進学予備校プレパの生徒達は、それぞれ大荷物を抱えて、足早にパリの街へ散っていく。
そんな中に一人、儚さに人型を取らせたような青年がいた。
神秘的な黒い髪に黒い瞳。全てのラインを削りたての鉛筆で描いたように繊細な顔立ちをした彼は、ラファエルと同じアトリエで学んでいる日本からの留学生――緒月綺。
そして彼の後を追うように、やはり同じアトリエの生徒が一人。
テオ・マルティネスだ。
(……あいつ、懲りないなぁ)
ラファエルはジャケットの前を搔き合せながら、それとなく近付いて耳をすませる。特段おもしろい会話が聞けるとも思わないが、予想通りなら、自分の名前が出てくるかもしれない。
「毎回毎回、せっかく誘ってやってんのに、なんで来ないんだよ? 今日来る女子の中にも、お前と話してみたいって子は何人かいるんだぞ?」
(あー、やっぱりなぁ)
社交家のテオは、自身は予備校からすぐの所にあるステュディオに住んでいるものの、パリ市内にある実家を借りてしょっちゅうフェットを開いていた。フェットは、参加者が食べ物や飲み物を持ち寄って行うカジュアルなホームパーティーだ。確かバカンス前日の今日も、テオはフェットを企画していたはずだ。
招待する相手は、予備校や地元の友人を中心に幅広く、アトリエが同じというだけで個人的な付き合いのないラファエルも誘われたことがある。面倒見のいい性格だから、留学生のことも気にかけて毎回誘っていたのだろう。その度、断られていたようだが。
「ごめん、大勢で集まるのが得意じゃないんだ」
「でも、マティスんとこであったフェットには来てたじゃないか。ああ、あのときはラファエルも来てたっけ。やっぱ本命が来ないと参加する気になんないわけ?」
「本命って、何言って……」
「あのなぁ、あれだけ熱心に見つめられたら、オレだってさすがに気付くぜ? でもって、アヤが特にご執心なのはラファエルなんだろ? アトリエでも、あいつに対してだけは、目が合うのも近付くのも避けてるもんな。あれって要は興味の裏返しなんだろう?」
「…………」
「ここだけの話、今日のフェットには、ゲイの叔父も呼んでるんだ。現代美術の世界じゃ、そこそこ有名なコレクターでさ。フランスでアーティストとしてやってくつもりなら、いいパトロンになってくれると思うんだけど?」
テオが綺の肩を抱き寄せ、意味ありげに声をひそめて囁く。
綺はビクッとして彼を振り払ったが、テオは彼の反応をおもしろがるように笑みを深くした。
「なぁ、このままオレん家来いよ。大勢が苦手なら、叔父だけ先に呼び出したっていいんだし。たぶん喜んで来てくれるぜ。東洋人なんて珍しいから」
まるでカフェに誘うような気軽さで声をかけているが、内容は売春の斡旋のようなものだ。ほらほらさっさと逃げないと、と内心呆れていると、綺がピタッと立ち止まった。
「ふざけるな!」
短く言い放ち、伏せていた目を上げる。
その存外に鋭い眼光に、テオが気圧されたように黙り込む。
遠目に眺めていただけのラファエルでさえ、小さく息を飲んだ。
「絵を見もせずに支援を申し出てくるようなパトロン、願い下げだ! そもそも僕の絵はまだ未熟で、僕はマダム・ルフェーブルに言われたことで頭がいっぱいなのにっ……」
(えっ、着地点そこ!?)
ラファエルは思わず吹き出しそうになって、キュッと唇に力を込めた。
確かに、今日はアトリエに講師のマダム・ルフェーブルが現れた。
いつもなら生徒の制作途中の絵をザッと見て回って「いいんじゃない? じゃ、その調子で頑張ってね」と、何の参考にもならない台詞を残して立ち去るだけの彼女が、今日は珍しくきちんと作品に目を通してくれた。
使い込まれてすっかり薄汚れたスツールに腰掛けて。彼女は次々クロッキー帳をめくり、イーゼルのキャンバスを覗き込み、描いた生徒に丁寧なアドバイスを送った。
その途中「あら綺麗……」と呟いたきり黙り込んでしまったのが、綺の作品を見ているときだった。
「……マダム・ルフェーブル?」
「アヤってあなたの内面を投影した心象風景を描いているけど、この一ヶ月話した感じだと、絵を通して自己表現したいタイプではないわよね? だとすると、アヤは絵をどういうつもりで描いているのかしら?」
「どういうつもり、って……」
「この綺麗な心象風景を、風景画や花や宝石のように飾って愛でられるものにするのか、いかにも現代美術らしい読み解かせるものにするのか。それを、見る人に百パーセント委ねてしまってない?」
「後者としてはメッセージ性が弱い、ということですか?」
「絵のお上手さが裏目に出て、伝わりにくくなってるわね」
「…………」
「感じ方を百パーセント委ねるっていうのも、それはそれで有りなのよ? ただ、わたし、あなたは何か言いたいことがあるんだと思ってたの。どちらにしろ、ポートフォリオに載せる絵画作品に取り掛かる前に、スタンスをはっきりさせておいた方がいいわね。受験のとき、自分の作品の解説がブレると、合格は厳しいわ」
二十人ほどの生徒が見守る中、マダム・ルフェーブルの指摘にじっと耳を傾けていた綺は、明らかに意気消沈した様子で「はい」と頷いた。
そんな彼をヘーゼルの瞳でじっと見つめていたマダム・ルフェーブルは、困ったように微笑んで、閉じたクロッキー帳で彼の胸をトンと突いた。
「そんな深刻にならないで。スタンスさえ決まれば、あなたきっと化けるわよ。楽しんで」
みんなの前であれだけ言われれば落ち込むのはわかるが、飛躍する可能性も示されたのだ。喜べばいいのに、とラファエルなどは思う。
テオが今みたいに絡んでいるのだって、留学生への親切心や興味からだけでなく、同じ画家の卵としての妬みがあるからに決まっている。生徒の間では、綺の絵、特にデッサンは群を抜いていると評判だし、彼が呆れるほど勉強熱心なのもよく知られていた。
「なっ、なんだよ! アヤだって、まじめに勉強してるフリしながら男物色してるくせに。そうやって普段から人畜無害な優等生を装ってるから、絵でも個性が埋没して、メッセージ性が弱まるんじゃないのか?」
一瞬飲まれたのを誤魔化すように、テオが噛み付いた。
綺の顔色が青褪めたのを見て、意を得たように捲し立てる。
「そうだ、ベッドで理性捨てて、本性曝け出す練習でもしたらいいんじゃねーの? そうしたら今度からアヤの絵は、見るのに年齢制限が必要になるかもしれないけどな!」
(やれやれ、子どものケンカじゃあるまいし……)
下卑た挑発に溜息をついて、ラファエルは声をかけた。
「じゃあさ、その手伝い、オレにやらせてくれない?」
「うわっ、ラファエル! なんだ、聞いてたのかよ……」
「聞いてた聞いてた。オレの名前が出てたから何の話かと思って。それにしてもお前、サイテーだな。アヤがお前やオレにあつーい視線を送ってくるからって、アヤがゲイとは限らないし、ゲイだとしても、男なら誰でもウェルカムってわけじゃないんだよ。無理矢理お前んとこの叔父さん押し付けられてもさー」
ラファエルはゲイだ。
そして自分がゲイであることを隠していない。
入学早々、ラファエルが年上の男性と腕を組んで歩いていた、という噂がどこからともなく学内に広まったときも、特に誤魔化しも否定もしなかった。
以来、アトリエのメンバーからはさりげなく敬遠されているのを感じているが、テオは変わらず自然体で、いい奴だと思っていたのに。さすがにさっきのやり取りはいただけない。
「あと、テオは酒弱い上に、酔うと誰彼構わず引き合わせようとするの、みんな知ってんだよ。アヤがお前のフェットに参加しないのも、そういう噂を聞いて警戒しちゃってるからなんじゃないの?」
「えっ、そ、そうなのか?」
綺が気まずそうに目を逸らす。
その様子に、テオはバツが悪そうに「うわぁ」と呻いた。
「で。もしテオがアヤに興味あるんなら遠慮するけど、おっさんにあげようってんならオレに譲ってよ」
「いや、お前、たった今自分で、男なら誰でもウェルカムってわけじゃないって言ったところだよな!?」
「それはそうだけど、オレはアヤのこと気になってたし、オレくらいの美少年なら誰だってウェルカムだろ?」
「はぁ? まぁ、さすがにもうフェットに誘うつもりはないから、好きにすればいいけど……」
「ありがと」
ラファエルはにっこり笑って、綺の腕を引く。
「えっ!? いや、ちょっと!」
テオにヒラッと手を振って、タクシー乗り場に直行し、停まっていたタクシーの後部座席に綺を押し込んだ。自分もその隣に乗り込んで運転手に行き先を告げ、「さて」と綺を見つめる。
「そういうことで、オレの家でいい?」
「えっ、助けてくれたんじゃ!?」
「そんなこと一言でも言った?」
「いや、でも、僕そんなつもりは……」
「ない? 本当に?」
綺に詰め寄りじっと見つめる。
すぐに耐えかねるように目を逸らされた。
「その反応、気になるんだよねー」
「…………」
「テオの言ってた件も含めて、いろいろ聞かせてほしいんだけど?」
耳元に口を寄せ、声をひそめて「よかったらベッドの中で」と付け足す。
綺は耳を庇うように押さえて、何かに苦悩するように眉を寄せ目を伏せた。
ラファエルの住処は、華やかな三区にあるアパルトマンだった。
よくある家具付きのワンルームだが、二人での入居が想定されているから、部屋の広さはそこそこあるし、ベッドの大きさもそれなりにある。
部屋に入ってすぐ、どうしたって目に入ってしまうそれを、どう捕らえたのか。綺は抵抗なくついてきたくせにまだ割り切れてもいない様子で、入口に立ったまま中に入って来ようとしなかった。
「コーヒー飲む? シャワー浴びる?」
「コーヒーをもらえると……」
「OK。ソファで待ってて。ベッドでもいいけど」
笑って言うと、ぎこちなく頷いてソファに座った。
早く抱き合いたいなんて思っていないのは明らかだが、逃げ出す隙を窺っている感じでもない。
「どうぞ」とコーヒーカップを差し出すと「ありがとう」と微笑んで受け取るが、隣に座るとその顔を強張らせる。
(まぁ、緊張してるだけなら、遠慮はしないんだけどさ……)
「まともに話すのはこれが初めてだね。オレはラファエル・ローラン。名前くらいは覚えてくれてる?」
「それは、もちろん」
「だよね。オレのこと避けてるくせに、時々すごい見てたもんね。嫌われてるって感じもないし、なんだろうなって思ってた」
「それは……不快な思いをさせてごめん。テオにも誤解させて悪かったと思ってる。でも、その、二人に気があったとか、相手を物色してたとかじゃなくて……」
「ふーん。でも――」
綺のコーヒーカップを取り上げてテーブルに置く。
トン、と薄い肩をソファの背もたれに押し付ける。
「成り行きとはいえ、ここまでひょこひょこ付いて来ちゃったってことは、このまま進めていいんだよね?」
じっと綺を見つめる。
やっぱり綺は目を逸らす。
ふと、彼は自分を避けていたんじゃなくて、自分と目が合うのを避けていたんじゃないかと思いつく。そうすれば、自分とテオとの共通点にも、どうしたって気付かされた。
(ふーん、そういうこと……)
「……て」
消え入りそうな声が聞こえた。
「ん? なに?」
「……シャワー、貸して」
白い耳の縁がうっすら赤く染まっている。
ラファエルはフッと微笑んだ。
「どうぞ」
綺と入れ替わりに自分もサッとシャワーを浴びたラファエルは、腰にタオルを巻きつけてバスルームを出た。自分のベッドに綺がいるのを目に留め、思わずニンマリする。
マダム・ルフェーブルのアトリエに入って、初めて綺を見たときからなんとなく気にはなっていたが、まさかこんなことになるとは。
何しろ素行不良のラファエルと逆に、彼は優等生。どの講義に顔を出しても必ず彼の姿があったし、アトリエの仲間が週末遊びに誘っても、美術館や展示会に行きたいからと断っているのをよく見かけた。
有名な美術大学進学予備校だから、勉強熱心なのはみんな一緒だが、綺ほどストイックな生徒はそういない。
「緊張してるの? 慣れてはなさそうだね」
声をかけると、綺はシーツの中に横たわったまま、困ったように微笑んだ。
「男との経験はあるんでしょ? ボトム?」
「えっ、ボトム?」
「抱くほうか、抱かれる方かってこと」
「あっ、ああ……抱かれる方」
「まぁ、そんな感じだよね」
笑いながら、自分もベッドに潜りこもうとシーツをめくったラファエルは、思わず言葉を失った。
(うわ、これは……)
綺は生まれたままの姿でそこにいた。
男にしては華奢な体だ。上等な陶器のように滑らかな白い肌。首筋にかかるほど伸びた、烏の濡れ羽色をした髪。一度シャワーで温まったからか、小さな胸の粒と、柔らかく項垂れている性器は、愛らしいバラ色をしている。
その色の取り合わせが、ラファエルには新鮮で、ひどく艶っぽく見えた。恥じらうような綺の表情がまた、エロスとサディズムを煽る。
心行くまで鑑賞したいという気持ちと、できるだけ淫らに散らしてみたいという気持ちが、同時にこみ上げてくる。その不思議な感覚をしばらく堪能した後、ラファエルはヘラっと笑った。
「なんか緊張してきた」
相手の雰囲気に飲まれたって、肌を重ねてしまえば気にならなくなる。
えいっと綺の体に被さると、綺はそっとラファエルの腕に触れた。その指先があんまり冷たくてドキッとする。
「寒い? 大丈夫?」
訊ねると「大丈夫」と小さく頷く。
「ならいいけど……」
頰に触れる。やはりひんやりしている。
下唇を優しく食んで、うっすら開いた唇の中に舌を滑り込ませる。微かにコーヒーの香りが残る口内をゆっくりと味わうが、綺の舌は奥で縮こまっているばかりだ。
「アーヤ、応えてよ」
「んっ……」
脇腹をスッと撫で上げて、胸の粒に触れる。指先でかすめた程度だったのに、綺は声を漏らし、体を震わせた。
気をよくして、今度は口に含んで舌で転がしてみる。
「んっ、はっ、ぅ、ぁっ……」
ひっきりなしに漏れる切なげな吐息が、これから凄艶な喘ぎ声に変わるのを予感して、ラファエルは硬く膨らんだ粒をギュッと吸った。
「ぁあっ! ぁ……ぅっ……」
「ずいぶん甘い声で啼くんだね……あ、そうだ」
頰を両手に包んで、間近に覗き込む。
綺がビクッとしたように体を強張らせるが、逃がさない。
「オレ、気付いちゃったんだけど。アヤってさ……」
額をコツンと触れ合わせる。
「灰色の瞳が好きなんだろう?」
そう言ってニッと微笑んだ瞬間。
「ッ……!」
綺がドンとラファエルを押しどけて、ベッドを飛び出した。
そのまま口元を抑えてバスルームに駆け込む。
「おい、アヤっ!?」
何が起きたのかわからない。一瞬呆気にとられ、慌てて後を追うと、綺はトイレの便器の前に座り込んでいた。
饐えた匂い。激しい呼吸に肩を上下させる様子に、タオルを渡してやると、彼はそれで口元を抑えた。しばらくすると嗚咽が聞こえ始め、もうしばらくするとそれは号泣に変わった。
「いやー、いろんな奴とセックスしてきたけど、抱く前に吐かれるなんて初めての経験だわ」
ラファエルはベッドヘッドに立てかけたクッションに体を預けながら、ケラケラと笑った。
隣で横になり、顎先までシーツを引き上げた綺は、もうとにかく申し訳なくて「ごめん」と謝るしかない。
「ほんともう、欲求不満と笑いすぎで死にそう。アヤすっげぇ色っぽくて、めちゃくちゃ期待したのに、こんな結末ってない!」
「だから、ごめんって……」
「んで、要は、好きになった男がフランス人と日本人のハーフで、灰色の目をしてたわけね? それでオレやテオの目を見る度に、そいつのこと思い出してキュンキュンしてたと。そりゃあ、テオが勘違いするのも仕方ないかー」
ケラケラケラ。
さっきからラファエルは笑ってばかりだ。
セックスを中断したことを怒られるかと思ったのだが、綺の懸念に反して、ラファエルはケロリとしていた。
綺の吐き気と嗚咽が治まるのを待って、冷たい水を渡してくれ、目をキラキラさせて「聞かせて」と事情を聞きたがった。
何も話さずこの場をやりすごせるとは思わなかったし、セックスのやり直しを求められても応えられそうにないので、綺は迷惑料の代わりに、彼の好奇心に応えることにした。
「で、その男との恋はどういう状況なの?」
「実らずに終わったよ」
「自然消滅? それとも告ってフラれたの?」
「……告られて、怖くなって、ここまで逃げてきたんだ」
「は? ここまでって、フランスまで!? 何がそんなに怖かったんだよ? てか、それ、相手は相当ショック受けたんじゃない? アヤってひっどい男!」
ラファエルが軽い口調で傷口に塩を撒く。
「そうだね。本当に……」
痛みに耐えきれずギュッと目を閉じる。
「まぁでも、恋愛ってのは二人でするものだからね。その結末の責任がアヤだけにある、ってことはないはずだよ」
「あの人は何も悪くないよ」
「もう、慰めてやってんだから、そこは素直に頷いとけよ。そんな未練タラタラで、よくオレに抱かれようと思ったね。バカンスの内に帰国して、ごめんなさいして、ヨリ戻してきたら?」
「それはできないよ。それに、フランス留学のきっかけは彼からの逃避だけど、画家になるって目標はそれ以前からのものなんだ。美術学校に編入して、もっと力を付けたいと思ってる。でも……」
去年の夏、絵を描くことが好きだと自覚した。
あれからすぐに渡仏。今年の夏までは語学学校に通いながら絵を描いていたが、先月、美術学校を受験するための予備校に入った。
芹澤芸術大学では油画専攻だったが、今受験を考えている美術学校は専攻という枠が希薄で「美術学校は油画の勉強ではなく、美術の勉強をする場所である」というスタンスだ。
だから予備校では、美術学校受験を見据えて、絵画に限らず、写真や立体、デジタル作品など、様々な講座を積極的に受講している。
休日には美術館や展示会を周り、現代美術関連の知識や情報を収集。他にも美術史、哲学、フランス語の勉強と、やるべきことは山のようにある。
毎日、頭がパンクしそうだ。
精神的にもいっぱいいっぱい。
体力にも時間にも一切余裕がない。
辛くないわけではないが、その先の未来がイメージできるからなんとか頑張れていた。
だが最近、一番好きなはずの絵画の制作が上手くいっていなくて、そのイメージもぼやけてきている。
今日マダム・ルフェーブルの指摘を受けて、その原因が少し見えた気はするのだが。
「正直、行き詰まってる……」
「それでテオの言うことにも一理あるかも、なーんて思ったの? 灰色の瞳の男とならセックスしてもいいなと思って、オレに付いてきたわけ?」
「いや、そこまで短絡的に考えてたわけじゃないけど。でもまぁ……そんな考えもなくはなかった、かな」
「深刻に考えすぎ! 危なっかしいなぁ。ああ、でも、アヤとセックスしてみたかったなぁ」
ラファエルがズルズルズル~と体を滑らせて、綺の隣に潜り込んでくる。「吐かないでね」と笑いながら、まだ裸のままだった綺の体を緩く抱きしめた。
「ね。オレの目ちゃんと見てみて?」
ラファエルの目が、綺の目を覗き込んでくる。
ラファエルの瞳は、綺の知るアイスグレーの瞳と違い、鳩の羽のように温かみのあるグレーだった。光の加減や映すものによって金色がかっても見える、不思議な色だ。
「どう、アヤの好きな人に似てる?」
「……似てる。すごく綺麗だ」
「ありがと。でもさ、似てるってことは、違うってことだよ」
「……うん、わかってたんだ。代わりにしようと思ったわけじゃないんだけど、気持ちが弱ってるとつい目が行っちゃって……ごめん」
学ぶことだらけの環境に忙殺され、制作も上手くいかず、少し自暴自棄になっていた部分もあったのかもしれない。
「でも、きっかけはどうあれ、ラファエルがいい奴だってわかって嬉しいよ。そうじゃないかなって想像はしてたんだけど」
「へぇ、なんで?」
「だってラファエルの絵って優しいからさ。色使いも画風も安定してなくて、都会的だったり野生的だったりするけど、いつも真ん中に一本線が引かれてるだろう? あの線一つで、なんだかラファエルの描いた世界に迎え入れられて、つなぎ止めてもらえてるような気持ちなるんだ。港に係留する船が、杭につなぐロープみたいなイメージ」
「つまりオレの絵が海で、アヤが船ってこと? すごくおもしろい解釈だね。島国出身の人間らしい」
「島国って言っても、海に縁のある暮らしをしていたわけじゃないんだけどね」
「そうなの? じゃ、アヤ自身にロープでつながれたいって願望があるのかなぁ……ああっ! もしかしてSMプレイで縛られるのが好きとか!?」
「はぁ!?」
乱れてボサボサになった金髪が愛らしい。なんだか子どもみたいだなと思って見つめていた矢先、とんでもないことを言い出す。
「いいよ、やろう! 未知の世界だけどオレ頑張るから!」
「何言ってるんだよ!? 吐くよ! 離して!」
迫ってくるラファエルの胸を全力で突っぱねる。
勢いでベッドから転がり落ちた。
「いった……!」
「わ、ごめんっ! 大丈夫!?」
ラファエルがベッドの上から身を乗り出して、床に転がった綺を覗き込んでくる。綺は起き上がりながらも、目の前にあるものに気を取られていた。
「……ラファエルは帰省するの?」
「ん?」
ベッドの脇に置かれていたのは、まだ荷造りの途中らしいリュックサックだった。大きなスケッチブックが立てかけてあって、実家に持って帰って絵を描くのだと思ったのだが。
「ああ、違う違う。ヒッチハイク」
「ヒッチハイク!?」
「たまにやるんだよね。今回の行き先は決めてないけど、寒いから南かなぁ」
「それ……一緒に行きたい!」
綺は目を輝かせ、ラファエルの手をギュッとつかんだ。
一応の目的地はパリからおよそ七七五キロ先、港町マルセイユ。
TGV(高速鉄道)なら約四時間。
車をノンストップで飛ばせば約七時間。
「ヒッチハイクだと、最悪今日中に着いちゃうかな」
「最悪? 運よくじゃなく?」
「一台、二台の車で直行しちゃったら、ドラマが生まれないだろう?」
今朝、待ち合わせ場所である高速道路の入口に現れたラファエルは、旅の前日に夜更かしでもしたのか、ドラマチックとは程遠い大きな欠伸をしながら言った。
そんな彼の背中には、街中を歩いている人とほとんど変わらないサイズのリュックサック、手には――
「それ、バイオリン?」
少し驚いて聞いたが、ラファエルは「うん」と眠そうに目をこするだけ。
綺のリュックサックもラファエルと変わらないサイズだったが、手にしているのはスケッチブックだ。元々持っていくつもりだったが、ラファエルに絶対持ってこいと念を押されたのだ。
ラファエルは綺のスケッチブックに、黒のマーカーで、最終目的地であるマルセイユではなく、あえてだろう『リヨン』と中間地点となる街の名前を書いた。
「はい、じゃあ、これ持って立って。ドライバーと目を合わせるの意識して、笑顔も忘れずに!」
「えっ、わっ、わかった!」
大役を与えられ、意気込みたっぷりに頷く。スケッチブックを掲げ、車道に向かってグッと親指を立てて突き出した。
緊張で強張った作り笑顔がおかしかったのか、ラファエルは「いいね!」とケラケラ笑いながら携帯を取り出し、写真を撮った。
「なんだ、ゲイカップルの駆け落ちかと思った」
綺にとって記念すべき一人目のドライバーは、パリでの仕事を終え、自宅のあるフォンテーヌブローに帰るという男性だった。
「あ、おじさんゲイに寛容な人? そうそう、オレは付き合ってもいいと思ってるんですけど、アヤはガードが硬くて」
「ちょ、ちょっと、ラフ!」
「なんだ、君の片思いか」
男性が大らかに笑うのを見て、綺は二重の意味でホッとした。
同性愛に寛容であるからといって、全く不快に思わないとは限らない。気持ち悪がられて放り出されでもしたら、幸先が悪すぎる。
それに、犯罪に巻き込まれるのも心配だった。自分で止めて乗せてもらっておきながら失礼な話だとはわかっているが、全然違う場所に連れて行かれたり、お金を巻き上げられたりしないかと、緊張と警戒心で内心ピリピリしていたのだ。
「見た目が麗しいとはいえ、男二人組なのに、よく乗せてくれましたね?」
ラファエルが、さらりと自画自賛を交えて尋ねる。
男性の寛容さは、同性愛に対してだけのものではないらしく、ハッハッハと大らかに笑った。
「私も若い頃、君達みたいにヒッチハイクしたことがあってね。そのとき、いろんな人に助けてもらったから、今度は私の番かなと」
「その時はどこに行ったんですか?」
「パリからモナコまで」
「モナコ!? いいなぁ、カジノ行きました?」
地中海の宝石とも称されるモナコ公国。
南フランスの、イタリアとの国境近くにある、世界で二番目に小さな国だ。治安がよく、税金が安く、世界中からセレブが集まる華やかな社交場として知られている。
「それが、当時は事業に失敗してスッカラカンどころか、恐ろしいほどの借金があってね。じっとしていると怖気付いて二度と再起できなくなりそうで、衝動的にパリを飛び出したんだ。でもヒッチハイクでモナコにたどり着いた時、自分が本気になって動けば手を貸してくれる人はいるんだなぁって感じて。そうしたら、やり直すことを怖いとは感じなくなってた」
男性は当時を思い出したのか、懐かしそうに目を細めた。
微笑みを浮かべた口で、若かりし日の冒険譚を語り出すのに、綺はワクワクしながら耳を傾けた。
高速道路A6を一時間ほど南下し、フォンテーヌブローで男性とは別れた。
「あんな話してたけどさ、今こんなブルジョアな街に住んでるってことは、あの人、ヒッチハイクの後、相当頑張ったんだろうなぁ」
男性の車を見送った後、ラファエルは下ろしていたリュックサックを背負って、歩き出しながら言った。
彼が『ブルジョアな街』と称したように、パリとは違って静けさのある街には、邸宅と呼んで差し支えない大きな家もちらほら建ち並んでいる。
「そういえば、有名な宮殿があるって言ってたし、昔から裕福な人が集まっていた街なのかな?」
「その通り。この街は昔の王族の狩猟地で、街の中にいるとわかんないけど、周りは広ーい森に囲まれてる。王族が泊まるための城館を、王様が変わる度に自分好みに増改築して、最終的にフランス最大の宮殿になったのがフォンテーヌブロー宮殿」
「詳しいんだね」
「パリっ子の週末の休養地なんだよ」
「じゃあ、来たことあるんだ?」
「飽きるほどね」
「そっか……」
黙り込んだ綺を見て、ラファエルは肩を竦めた。
「宮殿観光してくる?」
「いいの!?」
「世界遺産だし、見たことないなら一度見てくればいいよ。オレは疲れるから行かないけど。宮殿を出たら携帯で連絡して」
ラファエルと別れて意気揚々とフォンテーヌブロー宮殿へ向かい、三時間ほどで観光を終えた綺は、ラファエルが「疲れるから」と言った意味を身をもって理解していた。
(フランス最大、舐めてた……)
絢爛豪華な寝室。優美な大広間。厳粛な礼拝堂。重厚な回廊。どこもかしこも贅を凝らした装飾、家具、調度品、そして素晴らしい絵画コレクションがいっぱいで圧倒されるばかり。しかも部屋数だけで千五百室を超える広さ。まだ庭園が残っているが、もうそこまで見る気力が残っていない。
きちんと見ようとすれば一日あっても足りないと早々に悟って、後半などサッと眺めるだけにして回ったが、視覚テロにあった気分だ。そこかしこに表現された権威、道徳、宗教、神話、歴史の重みに触れ、頭がすっかり湧いてしまっている。
(とりあえず、ラファエルに連絡……)
フラフラと街に向かって歩き出しながら、携帯で電話をかける。
だが、友人は一向に出ない。
おかしいなと首を傾げていると、宮殿の敷地を出た辺りに小さな人だかりができているのが見えた。そこからほんの微かに聞こえてくる弦楽器の音色。
(まさか……!)
恐る恐る近付いていく。
予感した通り、バイオリンを弾いていたのはラファエルだった。
だが、衆目を集める青年の姿は、普段ケラケラ笑ってばかりいるおしゃべりな友人とは、まるで別人だった。
何かを憂うように伏せた目。キュッと結ばれた薄い唇。フォンテーヌブロー宮殿の中庭を背景に、柔らかな金の髪を風に揺らしながら切なげな旋律を奏でる様子は、まるで一枚の絵のように美しい。
しばらく息を飲んで見入っていた綺は、慌ててスケッチブックを開いた。
「素晴らしかった! バイオリン上手いんだね、感動したよ!」
「ははっ、そうだろう? 世界遺産を背景に美少年が奏でる名演奏とくれば、観光客も財布の紐が緩むってもんだよ」
「うん、本当に。観光の後、静かに余韻に浸らせてくれるような名演奏だったよ! ラフがバイオリンを構える姿も、なんだか天使の彫像みたいに美しかった!」
「天使!? う、うん、まぁ、そうかな!? 写真はよく撮られるしね。スケッチされたのは初めてだけど」
「絵だけでなくバイオリンの才能まであるなんて素敵だね。あの演奏を、この旅の間に何回聞けるんだろうと思うと、今からドキドキする――」
「うわー! ごめん、アヤ、頼むからもうやめて! 現実を見て! ほら、オレただ小遣い稼ぎしてただけだから! 天使じゃなくて、金の亡者だから!」
ラファエルは叫びながら、手にしていた財布を綺に突き出した。黒いレザーの二つ折りの財布は、さっき彼の足元に置かれていたヴァイオリンケースに投げ込まれた小銭でパンパンに膨らんでいる。
「それは、君が多くの人を楽しい気持ちにしてあげられたから得られた対価だろう? 金の亡者だなんてとんでもない」
「アヤ……頼む、それ以上言われたら恥ずかしすぎて死ぬ」
観光バスの並ぶ通りを歩きながら、ラファエルが真っ赤な顔を手で覆って呻く。
しばらくすると「ちょっと待ってて」と、少し先にあった店に駆け込んでいった。
「パティスリー……?」
大きな店だ。ショーウィンドウには、愛らしくデコレーションされたホールケーキが飾られていて、店内にはカットケーキ、マカロン、チョコレートなどのお菓子だけでなく、パンまで並んでいる。
有名なお店なんだろうか。
そう思って、何気なく店名を確認して。
綺はドキッとし、縋るように、スケッチブックを持つ手に力を込めた。
「お待たせ。この街に来ると、ここのチョコレートを買うのが、もう習慣みたいになっててさ」
買う物の目星がついていたからか、ラファエルはすぐに出てきた。手にした包みを嬉しそうに掲げて、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
「……甘いものが好きなんだね」
「実はね。もしかして、アヤは苦手?」
わずかな表情の強張りを勘違いしたラファエルの言葉に、綺はかぶりを振り、なんとか微笑みを返した。
「特に好きでも苦手でもないけど、ここのチョコレートにはちょっと、思い入れがあって……」
「あ、知ってるの? そういえばここ、日本にも出店してたっけか。美味しいよね」
「そうだね。でも……僕には少し甘すぎるかな」
校舎を出たラファエルは、体を縮こまらせた。
サマータイムもそろそろ終わる十月後半。
バカンス前最後の授業を終えた美術大学進学予備校プレパの生徒達は、それぞれ大荷物を抱えて、足早にパリの街へ散っていく。
そんな中に一人、儚さに人型を取らせたような青年がいた。
神秘的な黒い髪に黒い瞳。全てのラインを削りたての鉛筆で描いたように繊細な顔立ちをした彼は、ラファエルと同じアトリエで学んでいる日本からの留学生――緒月綺。
そして彼の後を追うように、やはり同じアトリエの生徒が一人。
テオ・マルティネスだ。
(……あいつ、懲りないなぁ)
ラファエルはジャケットの前を搔き合せながら、それとなく近付いて耳をすませる。特段おもしろい会話が聞けるとも思わないが、予想通りなら、自分の名前が出てくるかもしれない。
「毎回毎回、せっかく誘ってやってんのに、なんで来ないんだよ? 今日来る女子の中にも、お前と話してみたいって子は何人かいるんだぞ?」
(あー、やっぱりなぁ)
社交家のテオは、自身は予備校からすぐの所にあるステュディオに住んでいるものの、パリ市内にある実家を借りてしょっちゅうフェットを開いていた。フェットは、参加者が食べ物や飲み物を持ち寄って行うカジュアルなホームパーティーだ。確かバカンス前日の今日も、テオはフェットを企画していたはずだ。
招待する相手は、予備校や地元の友人を中心に幅広く、アトリエが同じというだけで個人的な付き合いのないラファエルも誘われたことがある。面倒見のいい性格だから、留学生のことも気にかけて毎回誘っていたのだろう。その度、断られていたようだが。
「ごめん、大勢で集まるのが得意じゃないんだ」
「でも、マティスんとこであったフェットには来てたじゃないか。ああ、あのときはラファエルも来てたっけ。やっぱ本命が来ないと参加する気になんないわけ?」
「本命って、何言って……」
「あのなぁ、あれだけ熱心に見つめられたら、オレだってさすがに気付くぜ? でもって、アヤが特にご執心なのはラファエルなんだろ? アトリエでも、あいつに対してだけは、目が合うのも近付くのも避けてるもんな。あれって要は興味の裏返しなんだろう?」
「…………」
「ここだけの話、今日のフェットには、ゲイの叔父も呼んでるんだ。現代美術の世界じゃ、そこそこ有名なコレクターでさ。フランスでアーティストとしてやってくつもりなら、いいパトロンになってくれると思うんだけど?」
テオが綺の肩を抱き寄せ、意味ありげに声をひそめて囁く。
綺はビクッとして彼を振り払ったが、テオは彼の反応をおもしろがるように笑みを深くした。
「なぁ、このままオレん家来いよ。大勢が苦手なら、叔父だけ先に呼び出したっていいんだし。たぶん喜んで来てくれるぜ。東洋人なんて珍しいから」
まるでカフェに誘うような気軽さで声をかけているが、内容は売春の斡旋のようなものだ。ほらほらさっさと逃げないと、と内心呆れていると、綺がピタッと立ち止まった。
「ふざけるな!」
短く言い放ち、伏せていた目を上げる。
その存外に鋭い眼光に、テオが気圧されたように黙り込む。
遠目に眺めていただけのラファエルでさえ、小さく息を飲んだ。
「絵を見もせずに支援を申し出てくるようなパトロン、願い下げだ! そもそも僕の絵はまだ未熟で、僕はマダム・ルフェーブルに言われたことで頭がいっぱいなのにっ……」
(えっ、着地点そこ!?)
ラファエルは思わず吹き出しそうになって、キュッと唇に力を込めた。
確かに、今日はアトリエに講師のマダム・ルフェーブルが現れた。
いつもなら生徒の制作途中の絵をザッと見て回って「いいんじゃない? じゃ、その調子で頑張ってね」と、何の参考にもならない台詞を残して立ち去るだけの彼女が、今日は珍しくきちんと作品に目を通してくれた。
使い込まれてすっかり薄汚れたスツールに腰掛けて。彼女は次々クロッキー帳をめくり、イーゼルのキャンバスを覗き込み、描いた生徒に丁寧なアドバイスを送った。
その途中「あら綺麗……」と呟いたきり黙り込んでしまったのが、綺の作品を見ているときだった。
「……マダム・ルフェーブル?」
「アヤってあなたの内面を投影した心象風景を描いているけど、この一ヶ月話した感じだと、絵を通して自己表現したいタイプではないわよね? だとすると、アヤは絵をどういうつもりで描いているのかしら?」
「どういうつもり、って……」
「この綺麗な心象風景を、風景画や花や宝石のように飾って愛でられるものにするのか、いかにも現代美術らしい読み解かせるものにするのか。それを、見る人に百パーセント委ねてしまってない?」
「後者としてはメッセージ性が弱い、ということですか?」
「絵のお上手さが裏目に出て、伝わりにくくなってるわね」
「…………」
「感じ方を百パーセント委ねるっていうのも、それはそれで有りなのよ? ただ、わたし、あなたは何か言いたいことがあるんだと思ってたの。どちらにしろ、ポートフォリオに載せる絵画作品に取り掛かる前に、スタンスをはっきりさせておいた方がいいわね。受験のとき、自分の作品の解説がブレると、合格は厳しいわ」
二十人ほどの生徒が見守る中、マダム・ルフェーブルの指摘にじっと耳を傾けていた綺は、明らかに意気消沈した様子で「はい」と頷いた。
そんな彼をヘーゼルの瞳でじっと見つめていたマダム・ルフェーブルは、困ったように微笑んで、閉じたクロッキー帳で彼の胸をトンと突いた。
「そんな深刻にならないで。スタンスさえ決まれば、あなたきっと化けるわよ。楽しんで」
みんなの前であれだけ言われれば落ち込むのはわかるが、飛躍する可能性も示されたのだ。喜べばいいのに、とラファエルなどは思う。
テオが今みたいに絡んでいるのだって、留学生への親切心や興味からだけでなく、同じ画家の卵としての妬みがあるからに決まっている。生徒の間では、綺の絵、特にデッサンは群を抜いていると評判だし、彼が呆れるほど勉強熱心なのもよく知られていた。
「なっ、なんだよ! アヤだって、まじめに勉強してるフリしながら男物色してるくせに。そうやって普段から人畜無害な優等生を装ってるから、絵でも個性が埋没して、メッセージ性が弱まるんじゃないのか?」
一瞬飲まれたのを誤魔化すように、テオが噛み付いた。
綺の顔色が青褪めたのを見て、意を得たように捲し立てる。
「そうだ、ベッドで理性捨てて、本性曝け出す練習でもしたらいいんじゃねーの? そうしたら今度からアヤの絵は、見るのに年齢制限が必要になるかもしれないけどな!」
(やれやれ、子どものケンカじゃあるまいし……)
下卑た挑発に溜息をついて、ラファエルは声をかけた。
「じゃあさ、その手伝い、オレにやらせてくれない?」
「うわっ、ラファエル! なんだ、聞いてたのかよ……」
「聞いてた聞いてた。オレの名前が出てたから何の話かと思って。それにしてもお前、サイテーだな。アヤがお前やオレにあつーい視線を送ってくるからって、アヤがゲイとは限らないし、ゲイだとしても、男なら誰でもウェルカムってわけじゃないんだよ。無理矢理お前んとこの叔父さん押し付けられてもさー」
ラファエルはゲイだ。
そして自分がゲイであることを隠していない。
入学早々、ラファエルが年上の男性と腕を組んで歩いていた、という噂がどこからともなく学内に広まったときも、特に誤魔化しも否定もしなかった。
以来、アトリエのメンバーからはさりげなく敬遠されているのを感じているが、テオは変わらず自然体で、いい奴だと思っていたのに。さすがにさっきのやり取りはいただけない。
「あと、テオは酒弱い上に、酔うと誰彼構わず引き合わせようとするの、みんな知ってんだよ。アヤがお前のフェットに参加しないのも、そういう噂を聞いて警戒しちゃってるからなんじゃないの?」
「えっ、そ、そうなのか?」
綺が気まずそうに目を逸らす。
その様子に、テオはバツが悪そうに「うわぁ」と呻いた。
「で。もしテオがアヤに興味あるんなら遠慮するけど、おっさんにあげようってんならオレに譲ってよ」
「いや、お前、たった今自分で、男なら誰でもウェルカムってわけじゃないって言ったところだよな!?」
「それはそうだけど、オレはアヤのこと気になってたし、オレくらいの美少年なら誰だってウェルカムだろ?」
「はぁ? まぁ、さすがにもうフェットに誘うつもりはないから、好きにすればいいけど……」
「ありがと」
ラファエルはにっこり笑って、綺の腕を引く。
「えっ!? いや、ちょっと!」
テオにヒラッと手を振って、タクシー乗り場に直行し、停まっていたタクシーの後部座席に綺を押し込んだ。自分もその隣に乗り込んで運転手に行き先を告げ、「さて」と綺を見つめる。
「そういうことで、オレの家でいい?」
「えっ、助けてくれたんじゃ!?」
「そんなこと一言でも言った?」
「いや、でも、僕そんなつもりは……」
「ない? 本当に?」
綺に詰め寄りじっと見つめる。
すぐに耐えかねるように目を逸らされた。
「その反応、気になるんだよねー」
「…………」
「テオの言ってた件も含めて、いろいろ聞かせてほしいんだけど?」
耳元に口を寄せ、声をひそめて「よかったらベッドの中で」と付け足す。
綺は耳を庇うように押さえて、何かに苦悩するように眉を寄せ目を伏せた。
ラファエルの住処は、華やかな三区にあるアパルトマンだった。
よくある家具付きのワンルームだが、二人での入居が想定されているから、部屋の広さはそこそこあるし、ベッドの大きさもそれなりにある。
部屋に入ってすぐ、どうしたって目に入ってしまうそれを、どう捕らえたのか。綺は抵抗なくついてきたくせにまだ割り切れてもいない様子で、入口に立ったまま中に入って来ようとしなかった。
「コーヒー飲む? シャワー浴びる?」
「コーヒーをもらえると……」
「OK。ソファで待ってて。ベッドでもいいけど」
笑って言うと、ぎこちなく頷いてソファに座った。
早く抱き合いたいなんて思っていないのは明らかだが、逃げ出す隙を窺っている感じでもない。
「どうぞ」とコーヒーカップを差し出すと「ありがとう」と微笑んで受け取るが、隣に座るとその顔を強張らせる。
(まぁ、緊張してるだけなら、遠慮はしないんだけどさ……)
「まともに話すのはこれが初めてだね。オレはラファエル・ローラン。名前くらいは覚えてくれてる?」
「それは、もちろん」
「だよね。オレのこと避けてるくせに、時々すごい見てたもんね。嫌われてるって感じもないし、なんだろうなって思ってた」
「それは……不快な思いをさせてごめん。テオにも誤解させて悪かったと思ってる。でも、その、二人に気があったとか、相手を物色してたとかじゃなくて……」
「ふーん。でも――」
綺のコーヒーカップを取り上げてテーブルに置く。
トン、と薄い肩をソファの背もたれに押し付ける。
「成り行きとはいえ、ここまでひょこひょこ付いて来ちゃったってことは、このまま進めていいんだよね?」
じっと綺を見つめる。
やっぱり綺は目を逸らす。
ふと、彼は自分を避けていたんじゃなくて、自分と目が合うのを避けていたんじゃないかと思いつく。そうすれば、自分とテオとの共通点にも、どうしたって気付かされた。
(ふーん、そういうこと……)
「……て」
消え入りそうな声が聞こえた。
「ん? なに?」
「……シャワー、貸して」
白い耳の縁がうっすら赤く染まっている。
ラファエルはフッと微笑んだ。
「どうぞ」
綺と入れ替わりに自分もサッとシャワーを浴びたラファエルは、腰にタオルを巻きつけてバスルームを出た。自分のベッドに綺がいるのを目に留め、思わずニンマリする。
マダム・ルフェーブルのアトリエに入って、初めて綺を見たときからなんとなく気にはなっていたが、まさかこんなことになるとは。
何しろ素行不良のラファエルと逆に、彼は優等生。どの講義に顔を出しても必ず彼の姿があったし、アトリエの仲間が週末遊びに誘っても、美術館や展示会に行きたいからと断っているのをよく見かけた。
有名な美術大学進学予備校だから、勉強熱心なのはみんな一緒だが、綺ほどストイックな生徒はそういない。
「緊張してるの? 慣れてはなさそうだね」
声をかけると、綺はシーツの中に横たわったまま、困ったように微笑んだ。
「男との経験はあるんでしょ? ボトム?」
「えっ、ボトム?」
「抱くほうか、抱かれる方かってこと」
「あっ、ああ……抱かれる方」
「まぁ、そんな感じだよね」
笑いながら、自分もベッドに潜りこもうとシーツをめくったラファエルは、思わず言葉を失った。
(うわ、これは……)
綺は生まれたままの姿でそこにいた。
男にしては華奢な体だ。上等な陶器のように滑らかな白い肌。首筋にかかるほど伸びた、烏の濡れ羽色をした髪。一度シャワーで温まったからか、小さな胸の粒と、柔らかく項垂れている性器は、愛らしいバラ色をしている。
その色の取り合わせが、ラファエルには新鮮で、ひどく艶っぽく見えた。恥じらうような綺の表情がまた、エロスとサディズムを煽る。
心行くまで鑑賞したいという気持ちと、できるだけ淫らに散らしてみたいという気持ちが、同時にこみ上げてくる。その不思議な感覚をしばらく堪能した後、ラファエルはヘラっと笑った。
「なんか緊張してきた」
相手の雰囲気に飲まれたって、肌を重ねてしまえば気にならなくなる。
えいっと綺の体に被さると、綺はそっとラファエルの腕に触れた。その指先があんまり冷たくてドキッとする。
「寒い? 大丈夫?」
訊ねると「大丈夫」と小さく頷く。
「ならいいけど……」
頰に触れる。やはりひんやりしている。
下唇を優しく食んで、うっすら開いた唇の中に舌を滑り込ませる。微かにコーヒーの香りが残る口内をゆっくりと味わうが、綺の舌は奥で縮こまっているばかりだ。
「アーヤ、応えてよ」
「んっ……」
脇腹をスッと撫で上げて、胸の粒に触れる。指先でかすめた程度だったのに、綺は声を漏らし、体を震わせた。
気をよくして、今度は口に含んで舌で転がしてみる。
「んっ、はっ、ぅ、ぁっ……」
ひっきりなしに漏れる切なげな吐息が、これから凄艶な喘ぎ声に変わるのを予感して、ラファエルは硬く膨らんだ粒をギュッと吸った。
「ぁあっ! ぁ……ぅっ……」
「ずいぶん甘い声で啼くんだね……あ、そうだ」
頰を両手に包んで、間近に覗き込む。
綺がビクッとしたように体を強張らせるが、逃がさない。
「オレ、気付いちゃったんだけど。アヤってさ……」
額をコツンと触れ合わせる。
「灰色の瞳が好きなんだろう?」
そう言ってニッと微笑んだ瞬間。
「ッ……!」
綺がドンとラファエルを押しどけて、ベッドを飛び出した。
そのまま口元を抑えてバスルームに駆け込む。
「おい、アヤっ!?」
何が起きたのかわからない。一瞬呆気にとられ、慌てて後を追うと、綺はトイレの便器の前に座り込んでいた。
饐えた匂い。激しい呼吸に肩を上下させる様子に、タオルを渡してやると、彼はそれで口元を抑えた。しばらくすると嗚咽が聞こえ始め、もうしばらくするとそれは号泣に変わった。
「いやー、いろんな奴とセックスしてきたけど、抱く前に吐かれるなんて初めての経験だわ」
ラファエルはベッドヘッドに立てかけたクッションに体を預けながら、ケラケラと笑った。
隣で横になり、顎先までシーツを引き上げた綺は、もうとにかく申し訳なくて「ごめん」と謝るしかない。
「ほんともう、欲求不満と笑いすぎで死にそう。アヤすっげぇ色っぽくて、めちゃくちゃ期待したのに、こんな結末ってない!」
「だから、ごめんって……」
「んで、要は、好きになった男がフランス人と日本人のハーフで、灰色の目をしてたわけね? それでオレやテオの目を見る度に、そいつのこと思い出してキュンキュンしてたと。そりゃあ、テオが勘違いするのも仕方ないかー」
ケラケラケラ。
さっきからラファエルは笑ってばかりだ。
セックスを中断したことを怒られるかと思ったのだが、綺の懸念に反して、ラファエルはケロリとしていた。
綺の吐き気と嗚咽が治まるのを待って、冷たい水を渡してくれ、目をキラキラさせて「聞かせて」と事情を聞きたがった。
何も話さずこの場をやりすごせるとは思わなかったし、セックスのやり直しを求められても応えられそうにないので、綺は迷惑料の代わりに、彼の好奇心に応えることにした。
「で、その男との恋はどういう状況なの?」
「実らずに終わったよ」
「自然消滅? それとも告ってフラれたの?」
「……告られて、怖くなって、ここまで逃げてきたんだ」
「は? ここまでって、フランスまで!? 何がそんなに怖かったんだよ? てか、それ、相手は相当ショック受けたんじゃない? アヤってひっどい男!」
ラファエルが軽い口調で傷口に塩を撒く。
「そうだね。本当に……」
痛みに耐えきれずギュッと目を閉じる。
「まぁでも、恋愛ってのは二人でするものだからね。その結末の責任がアヤだけにある、ってことはないはずだよ」
「あの人は何も悪くないよ」
「もう、慰めてやってんだから、そこは素直に頷いとけよ。そんな未練タラタラで、よくオレに抱かれようと思ったね。バカンスの内に帰国して、ごめんなさいして、ヨリ戻してきたら?」
「それはできないよ。それに、フランス留学のきっかけは彼からの逃避だけど、画家になるって目標はそれ以前からのものなんだ。美術学校に編入して、もっと力を付けたいと思ってる。でも……」
去年の夏、絵を描くことが好きだと自覚した。
あれからすぐに渡仏。今年の夏までは語学学校に通いながら絵を描いていたが、先月、美術学校を受験するための予備校に入った。
芹澤芸術大学では油画専攻だったが、今受験を考えている美術学校は専攻という枠が希薄で「美術学校は油画の勉強ではなく、美術の勉強をする場所である」というスタンスだ。
だから予備校では、美術学校受験を見据えて、絵画に限らず、写真や立体、デジタル作品など、様々な講座を積極的に受講している。
休日には美術館や展示会を周り、現代美術関連の知識や情報を収集。他にも美術史、哲学、フランス語の勉強と、やるべきことは山のようにある。
毎日、頭がパンクしそうだ。
精神的にもいっぱいいっぱい。
体力にも時間にも一切余裕がない。
辛くないわけではないが、その先の未来がイメージできるからなんとか頑張れていた。
だが最近、一番好きなはずの絵画の制作が上手くいっていなくて、そのイメージもぼやけてきている。
今日マダム・ルフェーブルの指摘を受けて、その原因が少し見えた気はするのだが。
「正直、行き詰まってる……」
「それでテオの言うことにも一理あるかも、なーんて思ったの? 灰色の瞳の男とならセックスしてもいいなと思って、オレに付いてきたわけ?」
「いや、そこまで短絡的に考えてたわけじゃないけど。でもまぁ……そんな考えもなくはなかった、かな」
「深刻に考えすぎ! 危なっかしいなぁ。ああ、でも、アヤとセックスしてみたかったなぁ」
ラファエルがズルズルズル~と体を滑らせて、綺の隣に潜り込んでくる。「吐かないでね」と笑いながら、まだ裸のままだった綺の体を緩く抱きしめた。
「ね。オレの目ちゃんと見てみて?」
ラファエルの目が、綺の目を覗き込んでくる。
ラファエルの瞳は、綺の知るアイスグレーの瞳と違い、鳩の羽のように温かみのあるグレーだった。光の加減や映すものによって金色がかっても見える、不思議な色だ。
「どう、アヤの好きな人に似てる?」
「……似てる。すごく綺麗だ」
「ありがと。でもさ、似てるってことは、違うってことだよ」
「……うん、わかってたんだ。代わりにしようと思ったわけじゃないんだけど、気持ちが弱ってるとつい目が行っちゃって……ごめん」
学ぶことだらけの環境に忙殺され、制作も上手くいかず、少し自暴自棄になっていた部分もあったのかもしれない。
「でも、きっかけはどうあれ、ラファエルがいい奴だってわかって嬉しいよ。そうじゃないかなって想像はしてたんだけど」
「へぇ、なんで?」
「だってラファエルの絵って優しいからさ。色使いも画風も安定してなくて、都会的だったり野生的だったりするけど、いつも真ん中に一本線が引かれてるだろう? あの線一つで、なんだかラファエルの描いた世界に迎え入れられて、つなぎ止めてもらえてるような気持ちなるんだ。港に係留する船が、杭につなぐロープみたいなイメージ」
「つまりオレの絵が海で、アヤが船ってこと? すごくおもしろい解釈だね。島国出身の人間らしい」
「島国って言っても、海に縁のある暮らしをしていたわけじゃないんだけどね」
「そうなの? じゃ、アヤ自身にロープでつながれたいって願望があるのかなぁ……ああっ! もしかしてSMプレイで縛られるのが好きとか!?」
「はぁ!?」
乱れてボサボサになった金髪が愛らしい。なんだか子どもみたいだなと思って見つめていた矢先、とんでもないことを言い出す。
「いいよ、やろう! 未知の世界だけどオレ頑張るから!」
「何言ってるんだよ!? 吐くよ! 離して!」
迫ってくるラファエルの胸を全力で突っぱねる。
勢いでベッドから転がり落ちた。
「いった……!」
「わ、ごめんっ! 大丈夫!?」
ラファエルがベッドの上から身を乗り出して、床に転がった綺を覗き込んでくる。綺は起き上がりながらも、目の前にあるものに気を取られていた。
「……ラファエルは帰省するの?」
「ん?」
ベッドの脇に置かれていたのは、まだ荷造りの途中らしいリュックサックだった。大きなスケッチブックが立てかけてあって、実家に持って帰って絵を描くのだと思ったのだが。
「ああ、違う違う。ヒッチハイク」
「ヒッチハイク!?」
「たまにやるんだよね。今回の行き先は決めてないけど、寒いから南かなぁ」
「それ……一緒に行きたい!」
綺は目を輝かせ、ラファエルの手をギュッとつかんだ。
一応の目的地はパリからおよそ七七五キロ先、港町マルセイユ。
TGV(高速鉄道)なら約四時間。
車をノンストップで飛ばせば約七時間。
「ヒッチハイクだと、最悪今日中に着いちゃうかな」
「最悪? 運よくじゃなく?」
「一台、二台の車で直行しちゃったら、ドラマが生まれないだろう?」
今朝、待ち合わせ場所である高速道路の入口に現れたラファエルは、旅の前日に夜更かしでもしたのか、ドラマチックとは程遠い大きな欠伸をしながら言った。
そんな彼の背中には、街中を歩いている人とほとんど変わらないサイズのリュックサック、手には――
「それ、バイオリン?」
少し驚いて聞いたが、ラファエルは「うん」と眠そうに目をこするだけ。
綺のリュックサックもラファエルと変わらないサイズだったが、手にしているのはスケッチブックだ。元々持っていくつもりだったが、ラファエルに絶対持ってこいと念を押されたのだ。
ラファエルは綺のスケッチブックに、黒のマーカーで、最終目的地であるマルセイユではなく、あえてだろう『リヨン』と中間地点となる街の名前を書いた。
「はい、じゃあ、これ持って立って。ドライバーと目を合わせるの意識して、笑顔も忘れずに!」
「えっ、わっ、わかった!」
大役を与えられ、意気込みたっぷりに頷く。スケッチブックを掲げ、車道に向かってグッと親指を立てて突き出した。
緊張で強張った作り笑顔がおかしかったのか、ラファエルは「いいね!」とケラケラ笑いながら携帯を取り出し、写真を撮った。
「なんだ、ゲイカップルの駆け落ちかと思った」
綺にとって記念すべき一人目のドライバーは、パリでの仕事を終え、自宅のあるフォンテーヌブローに帰るという男性だった。
「あ、おじさんゲイに寛容な人? そうそう、オレは付き合ってもいいと思ってるんですけど、アヤはガードが硬くて」
「ちょ、ちょっと、ラフ!」
「なんだ、君の片思いか」
男性が大らかに笑うのを見て、綺は二重の意味でホッとした。
同性愛に寛容であるからといって、全く不快に思わないとは限らない。気持ち悪がられて放り出されでもしたら、幸先が悪すぎる。
それに、犯罪に巻き込まれるのも心配だった。自分で止めて乗せてもらっておきながら失礼な話だとはわかっているが、全然違う場所に連れて行かれたり、お金を巻き上げられたりしないかと、緊張と警戒心で内心ピリピリしていたのだ。
「見た目が麗しいとはいえ、男二人組なのに、よく乗せてくれましたね?」
ラファエルが、さらりと自画自賛を交えて尋ねる。
男性の寛容さは、同性愛に対してだけのものではないらしく、ハッハッハと大らかに笑った。
「私も若い頃、君達みたいにヒッチハイクしたことがあってね。そのとき、いろんな人に助けてもらったから、今度は私の番かなと」
「その時はどこに行ったんですか?」
「パリからモナコまで」
「モナコ!? いいなぁ、カジノ行きました?」
地中海の宝石とも称されるモナコ公国。
南フランスの、イタリアとの国境近くにある、世界で二番目に小さな国だ。治安がよく、税金が安く、世界中からセレブが集まる華やかな社交場として知られている。
「それが、当時は事業に失敗してスッカラカンどころか、恐ろしいほどの借金があってね。じっとしていると怖気付いて二度と再起できなくなりそうで、衝動的にパリを飛び出したんだ。でもヒッチハイクでモナコにたどり着いた時、自分が本気になって動けば手を貸してくれる人はいるんだなぁって感じて。そうしたら、やり直すことを怖いとは感じなくなってた」
男性は当時を思い出したのか、懐かしそうに目を細めた。
微笑みを浮かべた口で、若かりし日の冒険譚を語り出すのに、綺はワクワクしながら耳を傾けた。
高速道路A6を一時間ほど南下し、フォンテーヌブローで男性とは別れた。
「あんな話してたけどさ、今こんなブルジョアな街に住んでるってことは、あの人、ヒッチハイクの後、相当頑張ったんだろうなぁ」
男性の車を見送った後、ラファエルは下ろしていたリュックサックを背負って、歩き出しながら言った。
彼が『ブルジョアな街』と称したように、パリとは違って静けさのある街には、邸宅と呼んで差し支えない大きな家もちらほら建ち並んでいる。
「そういえば、有名な宮殿があるって言ってたし、昔から裕福な人が集まっていた街なのかな?」
「その通り。この街は昔の王族の狩猟地で、街の中にいるとわかんないけど、周りは広ーい森に囲まれてる。王族が泊まるための城館を、王様が変わる度に自分好みに増改築して、最終的にフランス最大の宮殿になったのがフォンテーヌブロー宮殿」
「詳しいんだね」
「パリっ子の週末の休養地なんだよ」
「じゃあ、来たことあるんだ?」
「飽きるほどね」
「そっか……」
黙り込んだ綺を見て、ラファエルは肩を竦めた。
「宮殿観光してくる?」
「いいの!?」
「世界遺産だし、見たことないなら一度見てくればいいよ。オレは疲れるから行かないけど。宮殿を出たら携帯で連絡して」
ラファエルと別れて意気揚々とフォンテーヌブロー宮殿へ向かい、三時間ほどで観光を終えた綺は、ラファエルが「疲れるから」と言った意味を身をもって理解していた。
(フランス最大、舐めてた……)
絢爛豪華な寝室。優美な大広間。厳粛な礼拝堂。重厚な回廊。どこもかしこも贅を凝らした装飾、家具、調度品、そして素晴らしい絵画コレクションがいっぱいで圧倒されるばかり。しかも部屋数だけで千五百室を超える広さ。まだ庭園が残っているが、もうそこまで見る気力が残っていない。
きちんと見ようとすれば一日あっても足りないと早々に悟って、後半などサッと眺めるだけにして回ったが、視覚テロにあった気分だ。そこかしこに表現された権威、道徳、宗教、神話、歴史の重みに触れ、頭がすっかり湧いてしまっている。
(とりあえず、ラファエルに連絡……)
フラフラと街に向かって歩き出しながら、携帯で電話をかける。
だが、友人は一向に出ない。
おかしいなと首を傾げていると、宮殿の敷地を出た辺りに小さな人だかりができているのが見えた。そこからほんの微かに聞こえてくる弦楽器の音色。
(まさか……!)
恐る恐る近付いていく。
予感した通り、バイオリンを弾いていたのはラファエルだった。
だが、衆目を集める青年の姿は、普段ケラケラ笑ってばかりいるおしゃべりな友人とは、まるで別人だった。
何かを憂うように伏せた目。キュッと結ばれた薄い唇。フォンテーヌブロー宮殿の中庭を背景に、柔らかな金の髪を風に揺らしながら切なげな旋律を奏でる様子は、まるで一枚の絵のように美しい。
しばらく息を飲んで見入っていた綺は、慌ててスケッチブックを開いた。
「素晴らしかった! バイオリン上手いんだね、感動したよ!」
「ははっ、そうだろう? 世界遺産を背景に美少年が奏でる名演奏とくれば、観光客も財布の紐が緩むってもんだよ」
「うん、本当に。観光の後、静かに余韻に浸らせてくれるような名演奏だったよ! ラフがバイオリンを構える姿も、なんだか天使の彫像みたいに美しかった!」
「天使!? う、うん、まぁ、そうかな!? 写真はよく撮られるしね。スケッチされたのは初めてだけど」
「絵だけでなくバイオリンの才能まであるなんて素敵だね。あの演奏を、この旅の間に何回聞けるんだろうと思うと、今からドキドキする――」
「うわー! ごめん、アヤ、頼むからもうやめて! 現実を見て! ほら、オレただ小遣い稼ぎしてただけだから! 天使じゃなくて、金の亡者だから!」
ラファエルは叫びながら、手にしていた財布を綺に突き出した。黒いレザーの二つ折りの財布は、さっき彼の足元に置かれていたヴァイオリンケースに投げ込まれた小銭でパンパンに膨らんでいる。
「それは、君が多くの人を楽しい気持ちにしてあげられたから得られた対価だろう? 金の亡者だなんてとんでもない」
「アヤ……頼む、それ以上言われたら恥ずかしすぎて死ぬ」
観光バスの並ぶ通りを歩きながら、ラファエルが真っ赤な顔を手で覆って呻く。
しばらくすると「ちょっと待ってて」と、少し先にあった店に駆け込んでいった。
「パティスリー……?」
大きな店だ。ショーウィンドウには、愛らしくデコレーションされたホールケーキが飾られていて、店内にはカットケーキ、マカロン、チョコレートなどのお菓子だけでなく、パンまで並んでいる。
有名なお店なんだろうか。
そう思って、何気なく店名を確認して。
綺はドキッとし、縋るように、スケッチブックを持つ手に力を込めた。
「お待たせ。この街に来ると、ここのチョコレートを買うのが、もう習慣みたいになっててさ」
買う物の目星がついていたからか、ラファエルはすぐに出てきた。手にした包みを嬉しそうに掲げて、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
「……甘いものが好きなんだね」
「実はね。もしかして、アヤは苦手?」
わずかな表情の強張りを勘違いしたラファエルの言葉に、綺はかぶりを振り、なんとか微笑みを返した。
「特に好きでも苦手でもないけど、ここのチョコレートにはちょっと、思い入れがあって……」
「あ、知ってるの? そういえばここ、日本にも出店してたっけか。美味しいよね」
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鳴真 のわか
BL
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黒髪穏やかイケメン×プライド高めな日独クォーター
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月島秋人はピアニストを目指している。
プロのピアニストである母がヨーロッパを拠点に活動しているためそれに付いて回る生活を送っていたが、中学進学を機に日本の音楽学校に入学させられて寮暮らしをスタートすることに。
ルームメイトになったのは、東城陽介。
国内外のピアノコンクールで優勝し続けていた秋人が一度だけ『二番』になった時に『一番』を掻っ攫っていった、物腰の柔らかい少年であった。
慣れない日本での生活を送るが、やけにスキンシップが過多な陽介に「好き」だと言われ…?
「おまえ、東城陽介?」
「好き、愛してる。……これ、ドイツ語だとなんて言うの?」
「大丈夫だよ、俺は絶対に月島のこと裏切らないから」
──難攻不落かと思われた孤高の天才は愛に飢えていた──
「俺は愛してるよ、……陽介のこと」
これは、二人の"天才"が世界の片隅で"家族"として幸せになるまでの物語である。
星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~
大波小波
BL
鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。
彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。
和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。
祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。
夕食も共にするほど、親しくなった二人。
しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。
それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。
浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。
そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。
彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。
運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー
白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿)
金持ち社長・溺愛&執着 α × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω
幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。
ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。
発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう
離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。
すれ違っていく2人は結ばれることができるのか……
思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいαの溺愛、身分差ストーリー
★ハッピーエンド作品です
※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏
※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m
※フィクション作品です
※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
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