羅針盤の向こう

一条 しいな

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 真澄ちゃんと梨田さんと夜道を歩く。夜の月は見えない。街灯の灯りが白く光っている。僕はそれを見て、ひとまず帰るんだと思った。静かに歩いている。
「おまえ、冷やかしって言われたのか」
 いきなり梨田さんが問いかける。僕は、はいと言った。それに対して梨田さんは何かのどを詰まらせたような顔をしていた。それが僕を笑わせる。
「それって悲しいよな」
「悲しいですか」
「まあ。そうだ」
「そうかな」
 真澄ちゃんは静かに僕達の会話を聞いている。それがどうしたのと言いたげである。真澄ちゃんの長い髪が揺れた。金髪に染めた派手な髪が光る。安い光だ。僕は穏やかな気持ちで歩いていた。
「どうしてそう思いますか」
「えっ。そりゃあな。まあ。好きなものに冷やかしなんて傷つくだろう」
「だって本当じゃないですか。音楽が好きじゃなくて、声が好き。あんこが好きで皮はきらいに似ている」
「例えられてもさっぱり」
「いいじゃないの。あんたは夜がキライ。拓磨ちゃんは好き。それだけの違いよ」
 そうかと梨田さんは考えている。真澄ちゃんはちらりと梨田さんを見つめていた。梨田さんはしばらく真澄ちゃんを見た。
「なんというか。真澄ちゃんはあれだな」
「何よ」
「あっさりしすぎ」
 真澄ちゃんは心外そうに顔をしかめた。明らかに作っている顔だとわかる。梨田さんは笑った。何がおかしいのかわからない。僕はそれをぼんやりと見ていた。夜道を歩きながら、それぞれの別れ道になると、お休みと言って帰る。夜とは話ができなかった後悔があった。夜のバンドを組まないかとかいろいろ聞きたいことがたくさんあったというのに。そんなことを聞いて意味がないと僕はようやく気がついた。意味がないなと僕の一人つぶやいた。か細い声が暗闇の中、沈むように聞こえていた。


 階段を上る。疲れているからつらい。玉部さんを見かけた。玉部さんはコンビニから帰りだろうか。白い袋を持って、階段を上っている。スタスタと軽快な足取りである。僕は情けない、ひ弱な声で「玉部さん」と呼んだ。四回目で気がついた玉部さんの顔は明らかに意外そうな、驚いた顔だった。
「真澄ちゃんって知っています」
「真澄ちゃん。今年入ったLGBTQ」
「詳しいんですね。じゃあ。梨田圭介さんは」
「知らねえな」
 ですよねと僕は言った。階段をようやく登りきり、僕が息切れをしている間玉部さんが部屋の鍵を開ける。
「入れよ。暇しているんだ」
「ありがとうございます」
 困ったように玉部さんは顔をくしゃくしゃにしていた。玉部さんの部屋はきれいだ。授業に使うテキストやレポートに使う本が整理されている。床に座ると麦茶を出してくれた。それをちびちびと僕は飲んだ。
「今日その二人と仲良くなったんです」
「ふーん」
「でも何を考えているのかさっぱりで」
「難しく考えていたのか」
 はいと僕は玉部さんに答えた。玉部さんは焼き肉弁当を食べながら、何か考えているようだった。
「きっかけは」
「夜野トキというアーティストの卵をきっかけに」
「なるほどな」
「何か」
「夜野トキは知らないが、ちょっとだけかっこいいアーティストに似ている奴がいると噂で聞いた」
「ああ。多分その人かも」
 うんうんと僕は勝手に納得した。僕が納得していると玉部さんはため息をついた。冬の冷たい空気が部屋に立ち込める。暖房がついている部屋はゆっくりと温まる。
「何が不安なんだ」
「夜が面倒くさいことに巻き込まれないか」
「夜はなんだって」
「連絡先も知らないんですが、友達です」
「友達か」
「相手は違うと思います」
 僕は梨田さんが言ったことを思い出そうとした。冷やかしと言われて悲しくないのかと。冷やかしには変わらないから悲しくないと言ったが、やっぱり悲しかった。僕が思ったのはもっと違う形で、こんな形ではないだよなと思っていた。
「冷やかしかと言われたから」と僕は言った。
「それならやめちまえ。相手に失礼だ。自分にも」
「えっ」
「冷やかしならば会うな。それとも他の目的があるのか」
「ないです。声が好きなだけです」
「下心はよくないぞ。期待したい気持ちはわかるが」
 玉部さんは麦茶を飲んだ。少しだけ気の毒そうに僕を見た。またもぐもぐを食べている。玉部さんが言っていることは確かである。しかし、もう僕は離れることができないでいる。不毛な関係と玉部さんがわかったのか、それ以上のことは話さなかった。
 玉部さんはレポートを書き始める。玉部さんが買った漫画を僕は読み始めた。以前も同じ箇所を読んだ。人はいつか幸せになれるというセリフがある場所だ。そんな気休めかもしれないが、そう願いたい。
 僕はしばらくじっとしていた。何もすることがないからスマホを見ている。漫画などを見ている。そうして少しだけ玉部さんのやめちまえを再生させる。やめちまえというのは僕を思ってくれたからだ。それがわかるから、僕は何も言えなかった。
 傷つくのだろうか。それはいやだなとなんとなく思う。玉部さんは真剣な顔つきで資料を読んでいる。僕はそっと立った。
「帰ります。聞いてくれてありがとうございます」
「気にするな。拓磨」
「はい」
「無理するなよ」
「はい」
 それが僕に言える精一杯の言葉だ。僕は隣の自分の部屋に戻った。スマホではなく、パソコンを立ち上げていた。夜のことを検索するがまったくヒットしなかった。ただ、パソコンの画面を見て「SNSくらいしろよ」と悪態をついた。


 学校は必修化の授業があるから朝から出かけた。寒い風がぶおっと体に当たる。強風。だからか、叫び声をあげるように風かぴゅうぴゅう鳴る。しばらく、寒さに耐えるように教室に入る。さっそく暖房がついていた。授業のレポートを提出する。
「おはよう」
 戸井田に言う。戸井田は机を伏せたまま「うーん」とつぶやいた。
「朝早かったのかよ」
「そりゃあ。学校の近くで暮らしている奴よりかは早いよ」
 寝かせろーと戸井田は言った。戸井田は寒そうに伏せて顔に防壁のように腕を囲う、恨めしげにこちらを見ている。教室はまだ閑散して人がいない。黒板を見ながら「大丈夫か」と尋ねられた。
「顔色、悪いぞ」
「寒いから」
「バイト?」
「違う」
 そうつぶやいた。意外と僕は、神経質なのかもしれない。梨田さんの顔が浮かぶ。夜の顔が浮かんだ。結局何もできないでいる。体を伸ばして。あーあーとつぶやく。戸井田の真似して机に伏せる。戸井田は眠っているが、僕はなかなか寝付けない。くだらない。夜ならそういうだろうか。今ある罪悪感を。夜ならば蹴散らすかなと僕は考えていた。
「おまえ、意外と繊細だもんな」
「失礼な」
「授業寝たら起こして」
「オタクの彼女と寝たの」
「言えないな。どうだ、童貞」
「童貞ねえ」
 好きな相手はいるが、脱童貞まではなっていない。処女でもあるが。気持ち悪い表現である。僕はぼんやりとそんなことを考えていた。ゲイなんて、海外では普通なのにここ日本では非常に理解されない。昔の、遠い、時代の人くらいしか理解がない。西洋文化が入ったからとかなんとか言い出したらキリなんてない。実際に海外でも差別は根強く残っている。
 人による。
 戸井田がどうしようが勝手だ。オタクの彼女だろうが。戸井田がオタクの彼女を見せた。かわいいような、普通の顔。不細工ではない。それだけはやりの服、はやりの化粧とはやりの髪型をすれば、没個性のできあがりと思う。そうじゃないの、似合う服を選ぶのが大変なのよと姉に言われた。没個性ならば男性よとちくりと返されたのが懐かしい。
「かわいいんじゃない」
 ペットボトルのお茶を飲みながら僕は言った。単純にかわいいと思ったから。
「おまえ、適当なことを言い出すな」
「他人事だし」
「オタクだからもっと暗い子だと思ったとかないのかよ」
「暗いの?」
「反対よくしゃべる」
「だろうね」
「漫画を書いている」
「オタクだね」
 はあと戸井田がため息をついた。戸井田はまじまじと彼女の写真を見ていた。なんとも言えず幸せそうな顔つきてある。唇は緩むような、そんな暖かな空気。僕にはごちそうさまでしたというしかない。
「おまえ、幸せだな」
「幸せッスよ」
 戸井田が答えた。イラついたので小突いてやった。そうしたら戸井田は笑っていた。
「本気で幸せだと思っているの」
 後ろから声が聞こえた。机の後ろにいたのは真澄ちゃんだ。爪をきれいコーティングして、派手なメイクをしている。おわっと戸井田が言った。
「おはよう。真澄ちゃん」
「おはようじゃないわよ。にぶちん。今の話は何よ」
「ノロケ」
「ノロケなんかされて。朝から。悔しいじゃない」
「はあ」
「あんた、今は幸せだけど後で後悔するわよ」
「えっ」
 真澄ちゃんがびしっと指を差す。それに合わせて戸井田は逃げるように体をずらした。
「彼氏ができた。それで趣味から離れる女もいるけど、オタクは離れない女がいる。彼氏に飽きたら、趣味に走るわね。その女」
 ニヤリと真澄ちゃんが言い出す。
「縁起でもない」
 僕が言うと真澄ちゃんは顔を寄せてきた。髭が剃られている。青白くなっている。それを見ていたら「あんた、どこを見ているのよ」と注意されてしまった。
「飽きが一番恋愛の中で敵ね」
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