羅針盤の向こう

一条 しいな

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『よかったな』
 喜一さんのメールの返信はそれだけだった。僕はちょっとたけ拍子抜けした。そんな僕を喜一さんはあのぎらついた目で見るんだろうなと予想はできた。季節はハロウィンに向かっている。ハロウィンのために新しいパンを考えているんだろうと僕は自分に言い聞かせていた。喜一さんは疲れたのかもしれない。
 それ以上僕は返事を返さなかった。
 バイトに行く日になり、コルセットを作るまで悪化しなくてよかったなとしみじみに思った。おばちゃん達がこそこそと動いていた。僕はまた小麦粉を運ぶ。ああまた悪化するなと思った。分量を鈴さんが確認する。そうして狭いながらも作っていた。
 お惣菜パンを作るためにシチューが作られる。パンによって小麦粉の量やたまご、イーストの量も変わってくる。たくさんの量はさすがに作られない。
 喜一さんは機械でこねているパンの様子を見ていた。
 話しかけにくいので話しかけなかった。
 よく動いた。失敗もした。怒鳴られた。それでもへこたれる時間はなかった。体をいっぱいに動かす。たまごを間違えて割ったなどよくあることだった。お互いに黙って作業をする。静かだった。いつもはおしゃべりをするおばちゃんが黙っていた。それは喜一さんが険しい顔をしていたからだ。
 迫力のある顔でパンを作っていた。
 休憩時間になり、やれやれと外に出た。喜一さんは一人残っていた。僕はなんとなく気になった。
 外に出て、白い呼気が出てくる。暑かった厨房より冷えている。冷たいコーヒーを二つ買った。ぼとんという缶が落ちる音が、外にひびいた。
「なんか。疲れたわね」
「あの人、あれで彼女いるのかしら」
「怖いものね」
「拓磨ちゃん。その缶」
「喜一さんに。病院を教えてもらったので」
 あんた、具合悪いのと言われたが、重い荷物を運ぶことに対して話題に触れなかった。僕は笑って立ち去った。
「悪い子じゃないけど」
「ちょっと気が弱いわね」
「でも顔はかわいらしいじゃない」
「まあね。もうちょっとしっかりしてほしいわね」
 聞こえている。わざとかはわからない。僕は舌を出した。そうしたら気分が少しよくなった。
「喜一さん。休憩にしませんか」
 喜一さんは僕を見て、表情を変えずにうなずいた。疲れているのが体から伝わってくるようなよれよれとした動き方だった。缶コーヒーを渡す。
「カフェインは夜取りたくないな」
「すみません。水にします」
「いい。飲むから貸せ」
 お互いに沈黙を守っていた。僕はなにを言えばいいかわからない上、余計なことを言って怒らせたくなかったからだ。僕は静かにコーヒーを飲んだ。甘かった。
「ありがとうよ」
「えっ」
「コーヒー」
「いえ」
「まあいいけど。俺に気を遣わなくていいから。別に、おまえに気を遣われても嬉しくない」
 女の子だったら泣くようなことを言うなと思った。不快な気分に僕はなった。偉そうな口調で気を遣われたくないというなら、気を遣われないようにしてくれと言いたくなる。それだけじゃない。関わってほしくないと言われたのだ。
「すみません。じゃあ行きます」
 感情を表に出さないように気をつけて言う。そのまま立ち去ろうとした。
「おい。どこに行く」
「いや、気を遣われるのは不快なんでしょう。だから、去ります」
「なんだ。違うよ。こっち来い」
「はい」
 しぶしぶと言った体で僕は来た。そうして喜一さんは少し照れたように言った。
「また飲もう」
 それだけだった。なんだ、それと僕は言いたくなったが、なんだかおかしくなって笑っていた。自分でもわからない。喜一さんの素直な一言がかわいらしいと感じたからか。
「笑うな」
「すみません。訳わかんなくて」
「そうだな。俺が悪かった」
「そうですね」
 自然と僕は言えた。難しい人なのかもしれない。だけど、確かにかわいらしい人だと思えた。喜一さんの難しい顔をした。
「姉貴には言うなよ」
「なんで、ですか」
「叱られる」
 へえ、と僕は言った。喜一さんの耳が赤くなったのを僕は見逃さなかった。
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